当サイトでいちばん長く読まれている入口は、異世界に行った話です。
迷い込んだ人の口調は、どれも淡々としています。叫びもなく、種明かしもありません。ただ、戻ってから静かに困っている。
その困り方が、かえって背中を冷やします。向こう側は荒れても壊れてもおらず、ただ人の気配だけが抜けている。だから帰ったあとで気づく。
ここでは公開済みの記事から十七本を選びました。入口・夜の駅・無人の町並み・帰ってからの違和感、という四つに分けてあります。核心には触れず、読みどころだけを短く添えます。
異世界に行った話の入口
入口は、たいてい拍子抜けするほど地味です。鉄の扉、箪笥、岩の隙間、園舎の廊下。
特別な場所ではありません。毎日そばにあるものが、ある日だけ境目として働いています。
グラウンドの地面に、錆びた鉄の扉が埋まっていた。小学五年生が梯子を降り、別の梯子から地上へ戻る。
同じ場所に出たはずなのに、馴染みの雑貨店だけが消えている。表札の名字だけが、元のままだ。
祖母の家の箪笥をくぐると、値札のない売り場に出られた。菓子は好きに食べていいのに、土産にすると消える。
店員が一人もいない町で、子どもだけが友達になった。地名は日本語に聞こえるのに、どこにも存在しない。
畑のそばに積まれた岩の隙間が、五歳の秘密基地だった。這い出そうとした手に触れたのは、草ではなく砂だった。
三十年後、娘の何気ない仕草が、その日の光景と噛み合う。時間をまたいで答え合わせが起こる一本。
コの字の園舎を、端から端へ歩くだけだった。何度歩いても、出発点の遊戯室の前に戻ってしまう。
気配の消えた廊下で、背の高い女の子が手を引いてくれる。園を出ていないのに、四時間が消えていた。
乗り過ごした夜の駅
この型がいちばん多く集まっています。眠って、降り損ねて、知らないホームに立つ。
誰にでもある失敗が、そのまま入口になっている。だから読んでいるこちらも逃げ場がありません。
寝過ごして降りたのは、時刻表も電波もない無人駅だった。次の電車を尋ねると、老婆は「じきに来る」とだけ答える。
山の斜面に提灯のような灯りが並びはじめる。子どもが落としたお守りを拾った行為が、後でかたちを変えて返ってくる。
県内第二の都市から、たった一駅のはずだった。降り立った先は、街灯もない木造の駅舎だけの場所。
一時間待つあいだ、特急の通過音さえ一度も聞こえない。半年後に訪ねた同じ駅が、いちばん静かに怖い。
急行が停まるはずのない駅で、酔ったまま降りてしまう。次の電車までは、五分ほどの感覚だった。
改札の駅員が、なぜか驚いた顔で時間を訊いてくる。ロータリーの時計は、午前一時半を指していた。
着いたはずのターミナルに、他の乗客が一人もいない。自動ドアは反応せず、スマホの時刻は三時四十七分で止まる。
奥から来た作業服の男は、面倒そうに「また出た」と言う。境界を繕う仕事だと語る口調が、妙に事務的だ。
赤羽から乗ったタクシーで、客と運転手が同時に眠ってしまう。目を覚ますと、料金メーターも無線も動かない。
コンビニの店員に場所を尋ねた二人は、答えより先に日付を疑い始める。会社に残っていない記録が、いちばん薄気味悪い。
誰もいない町並み
向こう側の町は、廃墟ではありません。灯りはつき、道は整い、家は普通に建っています。
ただ人だけが抜けている。その整いぶりが、瓦礫よりも落ち着かない気持ちにさせます。
異世界に行った話の中でも、この型は音の描写が丁寧です。何も聞こえないという一行が効いてきます。
目を開けると、部屋はそのままで窓の外だけが別の町だった。家中の時計が、ばらばらの時刻を指している。
歩いても人に会えないのに、なぜか懐かしさが湧いてくる。無人の電車に乗った先で、ロングコートの男が振り返る。
怪談で盛り上がった帰り道、自転車の二人が道を失う。電柱の住所は、隣の隣の市を示していた。
西へ走れば線路に出るはずが、古い町並みがいつまでも続く。渡ろうとした橋の上で、音と灯りがまとめて消える。
家出をした六歳が、更地に建つ見慣れない店を見つける。赤と緑の看板が灯り、中に人の姿はない。
十数年後、同じ場所で肉まんを食べながら答え合わせをする。怖さより、縁の不思議さが残る一本。
風邪の寒気をこらえ、電車で目を閉じたところで記憶が途切れる。気づくと夕方で、服も髪の色も自分のものではない。
ラーメン屋で聞いた現在地は、乗った路線から遠く離れていた。ケータイのアドレス帳が、一文字の名前で埋まっている。
戻ってからのこと
異世界に行った話の本当の怖さは、たいてい帰還後に置かれています。
無事に戻ったはずなのに、こちら側の目盛りが少しずれている。そして誰も、そのずれに気づいてくれません。
通勤電車の車内から、人が消えていた。駅名の漢字が読めず、覚えようとしても頭に残らない。
ホームで会った紳士風の男の一言のあと、語り手は職場の鏡の前に立っている。平穏だが、元の世界ではないという。
団地の共用の手洗い場に、モンペ姿の見知らぬ女がいた。挨拶をしても、目を合わせようとしない。
開けっ放しのはずの玄関から、物音がひとつも聞こえてこない。「もどれ」という一言だけが、はっきり残る。
「すごい場所がある」と友人が指差したのは、芝生が枯れた一角だった。立ち尽くしただけで、十三時が十八時になっている。
その夜、布団の中であることに気づく。車道のすぐ横なのに、あの場所には音がまったくなかった。
森の奥の村へ行けるのは、暮らしが行き詰まった時期に限られていた。九歳、二十三歳、三十六歳の三度。
三度目に出会った少女の素性が分かる場面で、話の骨格がひっくり返る。帰りたくない側から書かれた、めずらしい一本。
迷ったら、駅の話から読むのがおすすめです。乗り過ごしという身近な失敗が、そのまま案内役になります。
読み終えたあと、終電でうとうとするのが少し怖くなるかもしれません。
帰り道でいつもの角を曲がる前に、一度だけ立ち止まってしまう。そういう後味の残る話を集めました。