
私は今年で五十二歳になります。
東京の建設会社で技術部の課長を務めています。
仕事の関係で日本各地を回ることが多いのですが、年に二、三度は、広島県の北西部にある実家の集落に帰っています。
その集落は、三方を山に囲まれ、中央に一本の川が流れている、戸数三十ほどの小さな村です。
父が亡くなってからは母が一人で住んでおり、私が顔を出すと、いつも玄関先まで出てきて、しばらく無言で立っています。
言葉数の少ない人なので、それがあいさつのようなものなのだと、私は勝手にそう思っています。
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帰省したとき、私は必ず鎮守社の脇を通って、田んぼ道を歩いて実家まで戻るようにしています。
車で送ってもらえる距離なのですが、母にも妻にもそれは断っています。
少し遠回りになっても、この十分ほどの道を、自分の足で歩きたいのです。
これは、ある不思議な話に関わる、私の個人的な習慣のようなものです。
今から四十年以上前の、私が小学五年生だった夏の出来事です。
当時のことを思い出すたび、これが本当にあった話なのか、それとも子供の頃の記憶が膨らんだだけのものなのか、自分でもよくわかりません。
けれど、後年になって祖母から聞いた話と、翌朝に集落で起きていた出来事を考え合わせると、あれはやはり、ただの夢ではなかったのだと思うのです。
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その年の夏、集落では例年通り、鎮守社の境内で夏祭りが行われました。
夏祭りといっても、屋台が三つ四つ出るだけの、ささやかなものです。
盆踊りの櫓が立てられ、太鼓の音が日が落ちる頃から鳴りはじめ、夜の九時頃まで続きます。
集落の子供たちは、それを心待ちにしていました。
その年の祭りは、私にとって少し特別なものでした。
春に祖父が亡くなっていたからです。
祖父は祭りが好きで、毎年私を連れて鎮守社まで歩いていきました。
境内のベンチに腰掛けて、私が綿菓子を食べるのを、ただ眺めているような人でした。
その祖父がいない最初の祭りでした。
※
その夜、私は同級生たちと境内で遊んでいました。
九時を過ぎる頃、母から「そろそろ帰っておいで」と言われていたので、私は屋台で買った最後の駄菓子を握りしめて、ひとりで帰路につきました。
友達は近所の家にもう少し残ると言っていました。
私はそれを断り、ひとりで歩き始めました。
祖父と歩いた帰り道を、自分の足で確かめておきたかったのかもしれません。
境内を出て、鳥居をくぐると、急に音が遠のきました。
盆踊りの太鼓の音は、振り返ればまだ聞こえるのですが、前を向くと、ただ夜の空気と、虫の声と、自分の下駄の音だけが残されました。
鎮守社から実家までは、田んぼの中を貫く一本の畦道を通ります。
幅は一間ほど、両側には水を張った田んぼが広がっており、月明かりが水面に映って、足元はそれなりに見えました。
私の手には、母から持たされた小さな提灯がありました。
当時、まだ街灯のない畦道だったので、夜に歩くときには提灯を持つのが集落の習わしでした。
※
畦道の半ばまで来た頃、ふと、虫の声が止んだのに気がつきました。
夏の夜の田んぼでは、蛙と虫の声が絶え間なく続いているのが普通でした。
それが、何の前触れもなく、ぴたりと止んだのです。
残ったのは、遠くで響く太鼓の音だけでした。
その太鼓の音さえも、どこか膜の向こうから聞こえるような、くぐもった音に変わっていきました。
提灯の灯がふっと弱くなりました。
油が切れかけているような揺らぎ方でした。
私は足を止め、両手で提灯を支え直しました。
そのときでした。
後ろから、女の人の声で、こう呼びかけられました。
「気をつけて帰りなさいね」
※
振り返ると、畦道の少し後ろに、白っぽい着物を着た若い女性が立っていました。
私とは三、四メートルほどの距離があったと思います。
顔ははっきりとは見えませんでした。
月明かりは強かったのですが、提灯の灯が弱くなっていたうえ、女性の立っていた場所には、薄く靄のようなものがかかっていました。
髪を後ろで結わえ、目鼻立ちのととのった人のようでした。
知らない顔でした。
集落の戸数は三十ほどです。
子供でも、誰がどの家の人かはだいたい見分けがつきました。
けれど、その女性は、私の知っている誰でもありませんでした。
足元を見ると、草履を履いていないように見えました。
畦道の土に、白い足の指が確かに見えました。
言うまでもなく、夜の畦道を裸足で歩く人など、集落にはいませんでした。
※
私は声を出すこともできず、ただ立ち尽くしていました。
女性は、もう一度、静かに言いました。
「あんたの祖父さんに、よう似とるね」
祖父によく似ている、と。
その言葉だけは、いまもはっきりと耳に残っています。
祖父はその春に亡くなったばかりでした。
集落の人なら、祖父の葬式に出ていたはずです。
それなのに、この女性は、亡くなったことを知らない口ぶりでした。
あるいは、生前の祖父を、ずっと昔から知っているような言い方でした。
女性はさらに続けました。
「もう少しまっすぐ行きなさい。脇道に入ってはいけません」
畦道は、もう少し先で枝分かれをしていました。
右に折れると、集落の外れの小川沿いの道に出ます。
大人は使わない道でしたが、子供たちはそちらを近道として使っていました。
提灯の灯が頼りない夜には、いつもよりその近道に行きたい気持ちが強くなっていたのを、私は自覚していました。
私が脇道のほうに目をやったその瞬間に、女性はそれを言ったのでした。
あの夜、まっすぐ歩きなさいと言われなければ、私はあの脇道に入っていたと思います。
※
「はい」
とだけ、私は小さく答えました。
声になっていたかどうかは、わかりません。
もう一度、頭を下げてから、私は前を向きました。
畦道の先を見つめ、提灯を持つ手に力を入れて、ゆっくりと歩き始めました。
三歩か四歩ほど進んだあと、私はもう一度だけ振り返りました。
そこには、誰もいませんでした。
畦道はまっすぐで、隠れる場所など、どこにもありませんでした。
水を張った田んぼに、月明かりだけが映っていました。
白い着物の影も、白い足の指も、もうどこにも見当たりませんでした。
そのかわりに、止んでいた虫の声が、戻ってきていました。
太鼓の音も、もとの輪郭を取り戻していました。
※
家に戻ったのは九時半を少し過ぎた頃でした。
母は土間で何か仕事をしていて、私の顔を見て「遅かったね」と短く言いました。
私は何も言えませんでした。
畦道で見たことを、誰にどう話したらよいのか、わからなかったのです。
子供の話だと笑われるのが嫌だった、というのもあります。
けれども、それだけではなく、あの女性のことを軽々しく口にしてはならないような、そんな気もしていました。
その夜は、布団に入ってからも、なかなか眠れませんでした。
提灯の灯が弱くなったときの感覚、虫の声が止んだときの空気、白い指の見えた足元。
そういったものが、目を閉じても消えませんでした。
けれども、不思議と、怖いという感じはありませんでした。
背筋がぞくりとした覚えもありません。
むしろ、何か温かいような、申し訳ないような、説明のできない気持ちが、胸の奥に残っていました。
※
翌朝のことです。
朝の食卓で、母が、隣の家のおばさんから聞いたという話を、父にしているのを耳にしました。
集落の年下の男の子が、昨夜の祭りの帰り道、あの小川沿いの脇道で側溝に落ちたというのです。
頭を打って、しばらく意識がなかったところを、夜が明ける前にようやく通りがかった大人に発見されたとのことでした。
幸い命に別状はなかったそうですが、もう少し発見が遅れていたら、危なかったかもしれないと、母は声を低くして言いました。
私は箸を持ったまま、しばらく動けませんでした。
あの男の子は、私より一つ年下で、祭りの境内でも一緒に走り回っていた子でした。
友達のうちの誰かと一緒に、あの脇道を通って帰ろうとして、はぐれてしまったのだろうと、後から大人たちが話しているのを聞きました。
※
その日の夕方、私は祖母のいる隠居の部屋に行きました。
祖母は、祖父が亡くなってから、家の北側の小さな部屋に一人で寝起きしていました。
正座をして、私は前の晩のことを、ぽつりぽつりと話しました。
畦道で会った女の人のこと。
祖父さんによく似ている、と言われたこと。
脇道に入ってはいけません、と言われたこと。
振り返ったらいなかったこと。
祖母はしばらく黙って、それから一度だけ、深くうなずきました。
「ようけ気をつけて、おかげさまで、と思いなさい」
祖母はそれだけ言いました。
けれど、それから少し間を置いて、祖父の若い頃の話を、はじめてしてくれました。
祖父には、年の離れたお姉さんがいたのだそうです。
つまり私にとっての大叔母にあたります。
その人は集落で生まれ育ち、十八のときに、夏祭りの夜、川に落ちて亡くなったのだといいます。
祖母は名前は教えてくれませんでした。
写真も残っていないとのことでした。
「あの人は、子供をかわいがる人だったらしい。お祖父さんも、それで助けられたことがあるそうだ」
祖母はそれだけ言って、あとは何も話しませんでした。
※
この不思議な話を、私は長いあいだ誰にも話してきませんでした。
※
大叔母だったのかどうかは、いまもわかりません。
写真がなく、名前も知らないままなので、確かめようがないのです。
もしかすると、まったく別の、私の知らない誰かだったのかもしれません。
あるいは、子供だった私が、祖父を亡くしたばかりで、心のどこかでだれかに守ってほしかった、そのあらわれだったのかもしれません。
大人になってからは、そう自分に言い聞かせようとしたこともありました。
けれども、虫の声が止んだあの数分間と、足元の白い指と、戻ってきたときの太鼓の音だけは、いまも別のものとして、私の中に残っています。
あれを夢だったと整理してしまうには、感覚があまりにも鮮明すぎるのです。
※
大人になり、私は集落を離れて東京に出ました。
仕事を覚え、結婚をし、子供を二人育てました。
子供たちは独立し、いまは妻と二人の生活です。
帰省のたびに、私はあの畦道を歩きます。
田んぼは少し減り、舗装された場所も増えました。
けれども、鎮守社から実家までの十分の道のりは、いまもおおむね同じ風景です。
私はそこを歩くとき、無意識のうちに、後ろを一度振り返るようになりました。
何かを期待しているわけではないのです。
あれから四十年以上経ち、もうあの女性に会えることはないだろうとも思っています。
けれども、振り返る癖だけは、どうしても抜けません。
あの脇道で側溝に落ちた男の子は、いまも集落で暮らしています。
少し背の曲がったおじさんになり、年に一度くらい、街で偶然会うことがあります。
私たちは、あの夜の話を、お互い一度もしたことがありません。
彼が、誰かに「気をつけて帰りなさいね」と声をかけられたかどうかも、私は知りません。
それを聞いたところで、たぶん、確かめようがないのです。
不思議な話というのは、たぶん、こういうものなのだと思います。
説明をつけようとすると、するりと指の間から抜けていく。
けれども、確かにあった、と自分の体だけが覚えている。
そういう類の出来事が、田舎の小さな集落には、いまもいくつか残っているように思います。
※
母はもう八十を超えました。
今年の夏も、私は実家に帰り、鎮守社の脇を通って、あの畦道を歩く予定です。
祭りはずいぶん前に途絶え、いまは盆踊りも行われていません。
太鼓の音はもう聞こえません。
それでも、私はあの道を、毎年歩きます。
振り返って、誰もいない畦道を見るたび、私は心のなかで、ただ一言、「おかげさまで」とつぶやくようにしています。
祖母が私に教えてくれた、たった一つの言い方です。
あの夜、まっすぐ歩きなさいと言ってくれた人へ、それが届いているといいな、と思いながら歩いています。