
仕事で千葉まで出ていた帰り、最寄りの駅に着いたのは夜の十時を過ぎたところでした。
当日は朝から打ち合わせが続き、得意先での会食まで入っていて、座って話を聞いているだけのつもりが、思いのほか神経を使う一日になっていました。
駅前のタクシー乗り場には、雨明けの湿気のせいか、いつもよりも長い列ができていました。
並んでいる人たちはみな疲れた顔をしていて、私はその列に加わる気には、どうしてもなれませんでした。
駅から自宅のマンションまでは、歩けば四十分ほどの距離です。
途中に湾岸のコンビナートを抜ける片側一車線の道があって、深夜でも外灯が等間隔に灯り、工場群の低い駆動音と、ときおりすれ違う大型トラックの走行音が絶えない、私にとっては何度も通った見慣れた道でした。
その夜は、風が止んでいました。
空気は湿っていて、夜の海のにおいが、いつもよりも薄い気がしたのを、はっきりと覚えています。
駅から十分ほど歩いて、住宅街を抜けると、視界の左右に大きな工場の塀と、その奥の銀色のタンク群が見えてきました。
歩道は私のほかに人影もなく、車道を走るトラックも、その夜はなぜか少なく感じました。
遠くの貨物船の汽笛が、ふだんなら五分に一度くらい届くはずなのに、その夜は一度も聞こえてきませんでした。
そのことに、その時点ではまだ、私は気づいていませんでした。
工業地帯に入って五分ほど歩いた頃でした。
最初に気づいたのは、道の左側に並んでいる自販機のうち、一台目が消えていたことでした。
ふだんなら青や白に光って、遠くからでも目印になるはずのその自販機が、ただの黒い箱として、外灯の下にぽつんと置かれていたのです。
故障かな、と思いました。
特に気にも留めず、私はそのまま歩き続けました。
しばらく行くと、二台目の自販機も、同じように消えていました。
二台目の自販機は二十四時間稼働している大手メーカーのもので、私の知るかぎり、一度も消えているのを見たことがありませんでした。
そこではじめて、私は立ち止まりました。
立ち止まって、はじめて気づいたのです。
工場群の低い駆動音が、聞こえなくなっていました。
※
それは、ふだんは意識すらしない、地面から響いてくるような音でした。
その音が消えると、夜の道に残るのは、自分の足音と、心臓の音だけになりました。
風は、やはり止んだままでした。
空気は湿ったままなのに、海のにおいだけが、どこかへ行ってしまっていました。
私は前を見ました。
数百メートル先に、コンビナートの煙突の頂上で点滅する赤い航空障害灯が見えました。
その光は、ふだんの夜と変わらないように見えました。
しかし、見ているうちに、私はあるおかしさに気づきました。
その赤い光は、点滅していなかったのです。
正確に言えば、ついたまま、消えませんでした。
赤い光が、つきっぱなしになっていたのです。
そう書くと、なんでもないことのように見えるかもしれません。
けれども、湾岸の道を夜歩く人間にとって、その赤い光は、規則正しい点滅で時間の経過を知らせる、ある種の時計のような存在でした。
それが、止まっていたのです。
私は思わず腕時計を見ました。
針は、駅を出たときから、八分しか進んでいませんでした。
私の体感では、もう三十分は歩いている気がしていました。
体感のほうがおかしいのだろうと、私は思おうとしました。
けれども、そう思おうとした瞬間、自分が大切な何かを見落としているような感覚が、背中のあたりにじっと残ったのを、覚えています。
私は、ふたたび歩き始めました。
歩きながら、煙突の赤い光のほうへ目をやりました。
光は、まったく近付いてきませんでした。
正確に言えば、光だけでなく、煙突そのものも、その先にあるはずの陸橋の影も、まるで貼り付けられた絵のように、距離が縮まりませんでした。
私の足元の白線だけが、後ろへ静かに流れていきました。
そのときの感覚を、いま思い返しても、うまく言葉にできません。
歩いているのに、進んでいない。
足の裏は確かにアスファルトを蹴っていて、息も少し上がっていたのに、目の前の景色だけが、止まっていたのです。
右側の塀の向こうには、ふだんなら稼働中の工場の窓から漏れる青白い蛍光灯の光が見えるはずでした。
その夜は、窓のかたちはわかるのに、なかの光だけが、ひとつも見えませんでした。
誰かが工場の窓の絵だけを残して、内側を消してしまったかのようでした。
私は立ち止まって、後ろを振り返りました。
振り返って、声を出しそうになりました。
いま自分が歩いてきたはずの道が、薄い霧のような白さの中に、途中から消えていました。
外灯も、自販機も、ガードレールも、ある一線から先は、ただ白く塗りつぶされたようになっていました。
霧が出ていたわけではありません。
湿気は確かにあったものの、視界をさえぎるほどのものではないはずでした。
そのときの白さは、霧というよりも、誰かが描き忘れたみたいな、平板な白さでした。
私はもう一度前を向きました。
前方も、よく見ると、ある一定の距離から先が、同じ平板な白さの中へ、ゆっくりと吸い込まれていくのが分かりました。
私が立っている数十メートルの円のなかだけが、ふだんの湾岸の道のままで、その外側のすべてが、白く塗り潰されていたのです。
※
その白さを見ていたら、不意に、私の右側から声がしました。
「ああ、こっちじゃないですよ」
声は男のもので、特に大きくも、低くもありませんでした。
顔を向けると、外灯の下に、防災服のような濃紺の作業着を着た、中年の男性が立っていました。
身長は私と同じくらいで、髪はきれいに整えられていました。
顔立ちはふつうの会社員のようにも、ふつうの警備員のようにも見えました。
左の胸には腕章のようなものが縫い付けられていて、白い糸で何か縫い取られていましたが、私はそれを正面から見ることができませんでした。
視線を合わせようとすると、その腕章の文字だけが、ふっとぼやけてしまうのです。
男性は、まったく息を切らしていませんでした。
私の数歩前で、まるで私が来るのを待っていたかのような、落ち着いた立ち方でした。
男性は、軽く微笑んで、もう一度言いました。
「こっちじゃないですよ」
そして、手に持っていた古い形の無線機のようなものを、腰の左側に挿しました。
無線機は、私が古いドラマでしか見たことがないような、四角くて重そうな形のものでした。
表面の塗装はところどころ剥げていて、長いあいだ使われているもののように見えました。
男性は私のほうへ二歩近寄り、私の右肩に、軽く手を置きました。
触れたか触れないか分からないくらいの、ほとんど重みのない手でした。
「もう、戻れますからね」
言葉を発したあいだ、男性の口元はほとんど動いていませんでした。
声だけが、すぐ後ろから聞こえているような不思議な響き方をしていたのを、いま振り返っても、説明する言葉が見つかりません。
その言葉と同時に、私のまわりで、音が戻りました。
工場群の低い駆動音、遠くを走るトラックのエンジン音、道路沿いの自販機が、小さな振動を立てて稼働を始める音が、ほぼ同時に重なりました。
赤い航空障害灯は、ふたたび、ゆっくりと点滅を始めていました。
海のにおいが、急に強く戻ってきたのを覚えています。
遠くの貨物船の汽笛が、二度、続けて鳴りました。
私は息を吐き、男性のほうを見ました。
男性は、もうそこにいませんでした。
立っていた場所には、外灯の薄い影だけがありました。
足音は、聞こえませんでした。
近くに横道もなく、塀の切れ目もなく、隠れられるような場所も、見当たりませんでした。
※
そこから自宅までの道のりを、私はほとんど覚えていません。
気がつくと、マンションの前にいました。
マンションの自動ドアの上には、いつもどおりに時計がありました。
時計の針は、私が駅を出てから、十二分しか進んでいませんでした。
歩けば四十分の距離を、十二分で歩いたことになります。
私はその数字を二度見て、それから携帯電話の時計で確かめて、最後に部屋に上がってからキッチンの時計でも、もう一度確かめました。
どの時計も、同じ時刻を示していました。
私は、家に帰ってからしばらく、玄関の床に座り込んでいました。
あの男性の顔も、声の質も、立っていた場所も、すぐに思い出せるのに、男性が腰に挿していた無線機の、ボタンの並びだけが、どうしても思い出せませんでした。
その前に、翌日の朝刊と、地元のニュースサイトを、一通り目を通してみました。
あの夜、湾岸の道で、何か事故や事件が起きていなかったかを、確かめたかったのだと思います。
けれども、深夜の湾岸でその夜に起きていた出来事として、私が見つけられる記事は、ひとつもありませんでした。
翌週、湾岸エリアを管轄している民間警備会社に、念のためと思って電話で問い合わせてみました。
夜十時過ぎに、コンビナート沿いの道を歩いて巡回している警備員はいないか、と尋ねたのです。
応対してくれた女性は、私の話を最後まで聞いてから、少し間を置いて、こう答えました。
「うちでは、その時間にあの道を回ることはありません」
「他社さんのことまではわかりかねますが、あの一帯は、夜の徒歩巡回はもう何十年も前に廃止されているはずです」
受話器の向こうの女性の声は、嘘をついているふうではありませんでした。
むしろ、いつもの問い合わせを、いつものように丁寧に処理している、というふうの声でした。
私はお礼を言って、電話を切りました。
あのとき、男性の胸に縫い付けられていた腕章の白い文字のことを、もう一度思い出そうとしました。
けれども、やはり、はっきりとは思い出せませんでした。
ただ、その文字が、四文字くらいの、私が一度も聞いたことのない組織の名前だったような気だけが、今も残っています。
湾岸の道は、その後も会社の同僚や知人と昼間に何度か通る機会がありました。
外灯の位置も、自販機の並びも、煙突の数も、あの夜とまったく変わりませんでした。
変わっていたのは、私のほうかもしれない、と思うことがあります。
私はあの夜以来、湾岸の道を夜にひとりで歩くことを、なるべく避けるようになりました。
タクシー乗り場の列がどれだけ長くても、最後まで並ぶようになりました。
あの夜の道に、もう一度足を踏み入れて、あの白さに、もう一度出会うのが、こわいというよりも、申し訳ない気がするからです。
あの男性は、誰かに連れていかれそうになっていた私を、本来の道に戻してくれたのかもしれません。
戻してくれた、と書いてしまうと、あの体験を勝手に物語に整えてしまうようで、本当は、もう少し違うものだったような気もしています。
あれが何だったのかは、今もわかりません。
守ってくれた人だったのか、私を見ていた何かが、たまたまその夜だけ、人のかたちを取ってくれただけだったのか、それすらも、私には判断がつきません。
けれども、ひとつだけ、確かなことがあります。
あの夜、私の腕時計の針は、駅を出てから、ちょうど十二分しか動いていませんでした。
私はあの十二分のあいだに、まったく知らない場所を、確かに歩いていたのです。