宿帳のひと

雨夜の宿の風景

その老婦人が来たのは、十月の終わりのことだった。

名前は宮本さんといって、予約票には「一名様・二泊」とあった。

八十代くらいだろうか。

小柄で白髪で、着物を着ていた。

うちの旅館は、山あいの温泉地にある古い湯治場だ。

明治の終わりに建てられたと聞いていて、廊下の板は踏むたびに軋んだ。

私は仲居として三年働いていたが、この建物の古さには慣れないでいた。

夜になると、どこかで音がする。

風のせいだと先輩には言われたが、無風の夜にも廊下の奥から足音のようなものが聞こえることがあった。

建物の古さはそれだけではなかった。

廊下の突き当たりにある奥座敷は、普段は使っていない。

「何かあった部屋なの?」と入社したときに先輩に聞いたら、「昔からそういう決まりになってる」とだけ言われた。

それ以上は聞かなかった。

宮本さんは、チェックインのとき私の顔をじっと見た。

「あなた、ここに来たのは初めてですか」と聞いた。

「はい、仲居として三年ほど働いていますが、お客様は初めてです」

「そうですか」と宮本さんは言って、もう一度私の顔を見た。

それだけだった。

翌朝、朝食の後で宮本さんに呼ばれた。

「少しだけ、よいですか」

廊下の突き当たりにある縁側に、宮本さんは座っていた。

庭の紅葉が窓から見えた。

「昨晩、眠れなかったのです」と宮本さんは言った。

「気になって」

「何かご不便が」

「いいえ、あなたのことが」

私は言葉に詰まった。

宮本さんは縁側の外を見ながら続けた。

「私の曾祖母がよく話していたのですよ。この旅館に昔、若い仲居がいたと」

「昔、といいますと」

「百年ほど前、大正のころだと思います」

私はとくに不思議には感じなかった。

古い旅館だから、過去の従業員の話が残っていても不思議ではない。

「その仲居は、若くして亡くなったそうです」と宮本さんは言った。

「名前はたつ、といいました」

「それが、私に何か」

宮本さんはゆっくりと私の方を向いた。

「あなたの顔が、曾祖母から聞いていたたつの顔に、よく似ているのです」

私は半信半疑だった。

百年前の人の顔を、どうやって知ることができるのか。

「曾祖母は絵が得意でしてね。あの人の顔を描き留めておいたのです」

宮本さんは古い巾着から、折り畳まれた和紙を取り出した。

広げると、墨で描かれた若い女の顔があった。

丸顔で、目が少し細く、口元がほんのわずか上がっている。

私は黙っていた。

似ていた。

自分の顔だと言われれば、そうかもしれないと思えるほど。

「たつは、好いた人がいたそうです」と宮本さんは続けた。

「旅の行商人で、季節になると必ずこの宿に泊まりに来た」

「その人のために、雨の夜は必ず奥の廊下の灯りを消さなかったのだと、曾祖母が言っていました」

「遠くから見えるように?」

「そうです。峠を越えてくる人が、灯りを目印に宿を見つけられるように」

私は聞きながら、なぜか喉の奥が締まるような感覚があった。

悲しいわけでもなく、怖いわけでもなく。

ただ、どこかで聞いたことがある話を聞いているような気がした。

「たつが亡くなってから、旅館の人たちは雨の夜に奥の廊下で誰かの足音を聞いたといいます」と宮本さんは言った。

「守り神になったのだと、曾祖母は言っていました」

「私はそれを信じていませんでした」

「でも、あなたの顔を見て、少し考えが変わりました」

宮本さんはそっと和紙を折り畳んで、巾着にしまった。

「変なことを言いましたね。忘れてください」

縁側から庭を見ると、紅葉が一枚、音もなく落ちた。

宮本さんはその日の昼過ぎにチェックアウトした。

玄関で見送ると、振り返らずに石畳を歩いていった。

あの話は、それきりだった。

その間、私はずっと宮本さんの話のことを考えていた。

百年前の仲居と自分が似ているなどということに、根拠はない。

老婦人の思い込みかもしれないし、似顔絵の精度も不明だ。

でも、廊下の奥から聞こえることのある足音のことを、私は思い出した。

先輩は「風のせい」と言った。

私もそう思うようにしていた。

翌週、旅館の裏手で排水管の工事があった。

作業員が古い壁をはがしていたとき、隙間から薄い木の板が出てきた。

板の表面に、ぼんやりとした輪郭で顔が描いてあった。

誰かが焼き付けたような、古い線だった。

旅館の主人は「古いものだ」とだけ言って、倉庫にしまった。

私はその顔を一瞬だけ見た。

それ以上、見ることができなかった。

工事の作業員はとくに気にした様子もなく、板をまた壁の奥にしまって作業を続けた。

私はしばらくその場に立っていた。

旅館に戻って、奥座敷の引き戸の前を通ったとき、廊下がほんのわずか暖かく感じた。

気のせいだと思う。

でも、気のせいだとも言い切れなかった。

あの日以来、私は雨の夜になると不思議と奥の廊下を歩きたくなる。

灯りを消さずに、端から端まで。

理由は、自分でもよくわからない。

ただ、その廊下の突き当たりにある窓から、灯りを外に向けておきたいと思う。

誰かが、峠を越えてくるような気がして。

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