順番を待っている奥の乾燥機

雨夜の灯るコインランドリー

巡回の仕事は、扉を全部開けて回ることから始まる。

洗濯機の蓋を上げ、乾燥機の扉を引き、中に何も残っていないことを確かめる。

それだけの仕事だ。

私が回っていたのは、私鉄の各駅停車しか止まらない駅を四つぶん、線路沿いに散らばったセルフのコインランドリーだった。

夜の十時に営業所を出て、五軒を順に回り、明け方に鍵を返す。

清掃と、洗剤の補充と、機械の簡単な点検。

それを毎晩、同じ順番で繰り返す。

客はめったに来ない。

来ても、洗濯物を放り込んで、車の中でスマホを見て、乾いたら黙って帰っていく。

だから深夜のコインランドリーというのは、私にとって、明るくて、静かで、少しだけ暑い場所だった。

怖い場所だと思ったことは、一度もなかった。

杉ノ戸店に入るまでは。

杉ノ戸店は、ルートの四軒目だった。

線路の南側の、シャッターの下りた商店が並ぶ通りの、いちばん端にある。

自動ドアを抜けると、洗濯機が八台、乾燥機が五台。

壁際に、客が置いていった週刊誌が積んである。

入口の傘立ての横に、忘れ物カゴが置いてある。

天井の蛍光灯だけが妙に新しくて、店の中は昼間より明るい。

夏でも冬でも、床から膝のあたりまでが、いつもぬるい。

そういう、どこにでもある店だ。

他の四軒は、それぞれに癖があった。

一軒目は駅前で、終電のあとに酔った客が入ってくる。

二軒目は幹線道路沿いで、長距離の運転手が毛布を回していく。

三軒目は団地の下にあって、朝方に洗剤の粉が床に散らばっている。

五軒目は新しくて、機械が勝手に故障を知らせてくれる。

どの店にも、面倒はあっても、決まりはなかった。

決まりがあるのは杉ノ戸店だけだった。

このルートを私に渡したのは、滝口さんという先輩だった。

無口で、機械の話しかしない人だった。

洗剤の粉が固まる話や、ドラムのベルトが伸びる話なら、いくらでも喋る。

その滝口さんが、引き継ぎの日、杉ノ戸店の前でだけ、車を停めたまましばらく動かなかった。

それから、こちらを見ずに言った。

「奥の一台に紙が貼ってあったら、その台は開けるな」

「日付が変わる前に、この店を出るな」

「忘れ物カゴには手を突っ込むな」

私は理由を聞いた。

滝口さんは少し困った顔をして、

「決まりだから」

とだけ答えた。

その言い方は、就業規則の話をしている人の口調ではなかった。

奥の一台というのは、乾燥機の並びのいちばん右のことだ。

他の四台と同じ型で、同じ色で、同じだけ古い。

違うのは、月に一度、扉の把手のところに紙が貼られることだけだった。

コピー用紙を四つ折りにして、透明のテープで留めてある。

表に「予約済」とだけ書いてある。

筆ペンの字で、毎月わずかに違う。

貼られている間は、その台にコインが入らない。

投入口が、内側から塞がれているような手ごたえになる。

壊れているのだろうと、そのときの私は思っていた。

決まりのほうは、私はきちんと守っていた。

守っていたが、見ないという約束をしたわけではない。

床を拭いていれば、カゴの中身は自然と目に入る。

片方だけの手袋、子供用のフォーク、たたまれないままのハンドタオル。

そういうものは、たいてい三か月ほどで店の側が処分する。

ただ、あのカゴの底には、いつも子供用の靴下が片方だけ入っていた。

薄い黄色の、くるぶしの上で折り返す型のものだ。

私が入った月にもあったし、その次の月にもあった。

処分されないのか、処分しても同じものが戻ってくるのか、そこまでは知らない。

私は、それを見るたびに、少しだけ足を止めていた。

うちの会社は、巡回の記録をスマホのアプリで送る。

店ごとのページがあって、機械の番号を上から順にタップして、異常なしを押していく。

点検アプリのその店のページには、乾燥機が六台ぶん並んでいた。

店にある乾燥機は五台だ。

六台目には、機種名も、製造番号も入っていない。

私は登録ミスだと思って、毎晩、そこだけ空欄のままにして送信していた。

一度、事務の人に言ってみたことがある。

返ってきたのは、

「触らないでおいて」

という一言だった。

理由は言わない。

この会社は、あの店のことになると、みんな同じ喋り方になった。

一度だけ、その六台目の行をタップしたことがある。

指が滑っただけで、押すつもりはなかった。

画面が切り替わって、機種名の欄に、白い文字がしばらく出ていた。

文字は、機種名ではなかった。

人の名前のような形をしていた。

読もうとしたら、画面が戻った。

そのあと何度タップしても、行は開かなくなった。

私は誰にも言わなかった。

言うと、事務の人にまた同じ返事をされる気がした。

うちは機械の電力も見ている。

店ごとの日別の使用量が、月末にPDFで回ってくる。

経費の話だから、本当は現場の人間が見るものではない。

私は暇だったので、休憩のたびに眺めていた。

杉ノ戸店の数字は、他の四軒とだいたい同じ形をしていた。

金曜と土曜が跳ね上がって、火曜がへこむ。

ただ、毎月一日だけ、火曜でもないのに、深夜の使用量が上がる日があった。

その日付を、私は自分の勤務表と並べてみた。

札が貼り替えられる日と、きれいに重なっていた。

その夜、私は店にいた。

客は来ていない。

私は掃除しかしていない。

機械はどれも動いていなかった。

動いていなかったのに、電気は使われていた。

それを確かめてから、私はバックヤードに入った。

古いモニターがあって、防犯カメラの映像を巻き戻せる。

その時間帯を出してみた。

私が床を拭いている。

私がモップを絞る。

私がバックヤードのドアを開ける。

そこで、画面の右下の時刻が飛んだ。

一分半、記録がない。

映像が戻ると、私はさっきと同じ場所で、同じ手つきで床を拭いていた。

前の月も、その前の月も、同じ日の同じ時間帯だけが、同じ長さで抜けていた。

音を聞いたのは、その夜が初めてだった。

乾燥機の中で、金属のボタンがドラムに当たる音がある。

洗濯物を回している間ずっと続く、あの乾いた音だ。

それが、奥の一台から聞こえていた。

扉には紙が貼ってある。

覗き窓は黒い。

中は回っていない。

私は膝をついて、耳を近づけた。

音は、規則正しく続いていた。

速くも遅くもならない。

その規則正しさが、いちばん嫌だった。

機械の不調なら、いずれ乱れるはずだ。

乱れないということは、機械ではないということになる。

私はそこで立ち上がって、店の真ん中まで戻った。

戻ってから、時計を見た。

日付が変わるまで、まだ二十分あった。

私はその二十分を、雑誌の山を積み直して過ごした。

背表紙の日付を、意味もなく順番に並べた。

音は、日付が変わると同時に止まった。

乾いた匂いの中に、一瞬だけ、雨に濡れた土のような匂いが混じった。

窓は閉まっていて、外の匂いが入る隙間はなかった。

札を貼りに来る人を見たのは、その次の月だ。

日付が変わる少し前に、女の人が入ってきた。

洗濯物は持っていない。

私に軽く会釈をして、まっすぐ奥の乾燥機へ行った。

古い紙を剥がし、鞄から出した新しい紙を貼った。

剥がした紙は、たたんで鞄にしまった。

「今月はうちなので」

そう言って、店を出て行った。

私は、はい、としか言えなかった。

何がうちなのか、聞き返す間もなかった。

その人が出て行った窓の外を、私はしばらく見ていた。

それで、初めて気づいたことがある。

店の向かいの家の表札が、鹿沼だった。

その隣も鹿沼だった。

通りを挟んだ角の家も、少し離れたアパートの一階も、鹿沼だった。

同じ字の、同じ大きさの表札が、この一帯にいくつも並んでいる。

私は次の休みに、昼間の杉ノ戸を歩いてみた。

商店街はほとんど閉まっていて、開いているのは乾物屋と自転車屋だけだった。

乾物屋の軒には、干し椎茸と昆布が下がっていた。

店先に、背の低い白髪の主人が座っていた。

目が合ったので、私は昆布を一袋だけ買った。

主人は袋を渡しながら、店の並びのほうへ顎をしゃくった。

「あそこの掃除の人ですね」

「そうです」

「よく乾く店ですよ、あそこは」

それだけだった。

その言い方が、褒め言葉なのか、注意なのか、私にはわからなかった。

営業所に戻って、滝口さんに話した。

杉ノ戸の、あの通りの表札のことだ。

滝口さんは、洗剤の箱を数えながら聞いていた。

数え終わってから、こう言った。

「あそこには、順番を待ってる人がいるんだよ」

私は意味がわからなかった。

「順番って、なんの」

「まだ、こっちに出てくる番が来てないってこと」

それだけ言って、伝票を書きに行った。

私はそのとき、笑ってしまった。

悪気があったわけではない。

ただ、返す言葉が思いつかなかっただけだ。

笑ったことを、あとで何度も思い出すことになった。

戸倉が入ってきたのは、その年の秋だった。

学生のアルバイトで、二十歳になったばかりだという。

背が高くて、声が大きくて、何にでも触りたがる子だった。

悪い子ではない。

ただ、決まりというものを、理由とセットでしか覚えられない子だった。

私は例の三つを、そのまま伝えた。

理由は言えなかった。

私も知らなかったからだ。

「なんスかそれ、呪いっスか」

戸倉は笑った。

私も笑った。

そこで、もう少し強く言えばよかったと思う。

最初の一か月は、何も起きなかった。

戸倉は仕事を覚えるのが早くて、洗剤の補充なら私より速かった。

夜中の車の中で、二人でラーメン屋の話ばかりしていた。

どこの店の背脂がどうとか、営業所の近くの中華屋は昼だけうまいとか、そういう話だ。

私は、あの店の決まりのことを、少しずつ本気にしなくなっていた。

札の夜も、二人でいれば早く終わる。

早く終われば、日付が変わる前に出てしまえる。

出てしまえば、決まりを守ったことにはならない。

私は、そのあたりを都合よく忘れていた。

札のない月の夜に、一度だけ、酔った客が入ってきたことがある。

スーツの男の人で、上着を丸めて抱えていた。

その人は迷わず奥の一台を開けて、上着を放り込んで、コインを入れた。

私は止めようとして、止めなかった。

札が貼られていなかったからだ。

機械はふつうに回った。

男の人は椅子で船を漕いで、乾いた上着を持って帰った。

何も起きなかった。

私はそれを見て、少し安心した。

安心してから、もっと怖くなった。

札のある月とない月で、あの台の中身が違う、ということになる。

ない月は、あの台は空なのだ。

では、ある月は。

その月の札の夜は、雨だった。

線路の高架の下を抜けるとき、水しぶきが窓を叩いた。

杉ノ戸店に着いたのは、日付が変わる四十分ほど前だった。

私は床を拭き、戸倉は洗剤の棚を並べていた。

自動ドアの外は真っ暗で、店だけが明るかった。

雨の音が屋根で潰れて、店の中はかえって静かだった。

私が床の隅にモップを入れているとき、戸倉が乾燥機の並びの前に立った。

「これ、五台しかないのに、アプリだと六個あるじゃないスか」

私は顔を上げた。

戸倉は、奥の一台の紙を、指先でつまんでいた。

「開けるな」

自分の声が、思ったより小さかった。

テープの剥がれる音がした。

それから、扉が開く音がした。

中は空だった。

ドラムは乾いていて、糸くずも髪の毛もない。

使われていない機械の、あの匂いがした。

「なんもないっスよ」

戸倉が振り返って、そう言った。

言い終わってから、床に座り込んだ。

尻餅をついたような座り方だった。

私は、驚いて力が抜けたのだと思った。

「立てるか」

返事はない。

戸倉は開いた扉のほうを向いたまま、口を半分開けていた。

歯が細かく鳴っていた。

上と下の歯が、正確な間隔で当たる音だ。

私はその音を、さっき聞いたばかりだった。

乾燥機の中でボタンがドラムに当たる、あの音と同じだった。

私はスマホを出した。

番号を押そうとして、指が滑った。

そのとき、自動ドアが開いた。

入ってきたのは、乾物屋の主人だった。

傘も差さずに、肩を濡らしていた。

「紙は」

それが第一声だった。

私は、戸倉の手の中の紙を指した。

主人は私に鍵束を渡した。

「表を閉めてください」

「あの、救急車を」

「いりません」

断っている口調ではなかった。

順番の話をしている口調だった。

私は言われたとおりに鍵を閉めた。

閉めながら、自分の手がひどく遅いことに気づいていた。

主人は、乾燥機の扉を開けたまま、投入口にコインを入れた。

さっきまで受けつけなかったはずの投入口が、するりと呑んだ。

機械が回り始めた。

何も入っていないドラムが回る音が、店中に響いた。

主人は戸倉の背中に手を当てて、耳を近づけた。

「もう一度、あたためますから」

戸倉は返事をしない。

「もう一度、あたためますから」

同じ言葉を、同じ調子で繰り返す。

私は、その繰り返しをただ見ていた。

そのあいだに、バックヤードの固定電話が鳴った。

埃をかぶった、使われているのを見たことのない電話だ。

主人は顔も上げずに、

「出なくていいです」

と言った。

電話は十回ほど鳴って、止まった。

少ししてから、また鳴った。

私は、鳴らないでほしい、とだけ思っていた。

乾燥機が止まった。

主人は開いたドラムの中に手を入れて、温まった空気をすくうような仕草をした。

それから、持ってきた紙袋からタオルを出した。

乾いた、たたんだばかりのタオルだった。

それを戸倉の腕に抱かせた。

「もう一度、あたためますから」

戸倉の口が動いた。

「まだ」

低い声だった。

戸倉の声ではなかった。

声は、戸倉の喉から出ているのに、戸倉の高さではなかった。

子供のようでもあり、ずいぶん年をとった人のようでもあった。

どちらにも聞こえるということが、いちばん気味が悪かった。

店の蛍光灯が、そのとき一度だけ、明るさを落とした。

私は、足の裏の感覚がなくなった。

主人は驚かなかった。

「もう一度、あたためますから」

「まだ」

「順番は、来ています」

「……まだ」

主人はコインをもう一枚入れた。

ドラムがまた回り始めた。

主人は、タオルを抱えた戸倉の背中を、二度だけ強く叩いた。

戸倉の口から、長い息が出た。

それきり、静かになった。

「終わりました」

主人はそう言って、扉を閉めた。

鞄から新しい紙を出し、筆ペンで「予約済」と書いて貼り直した。

その字は、先月の女の人の字と少し似ていた。

「あなたは、触っていませんね」

「触っていません」

「じゃあ、大丈夫です」

主人は鍵束を私に返して、店を出て行った。

出て行くとき、一度だけ振り返って、

「日付が変わるまでは、ここにいてください」

と言った。

私は、日付が変わってからもそこにいた。

戸倉を椅子に座らせて、その横に立っていた。

自動ドアが風で反応するたびに、心臓が跳ねた。

外は雨で、遠くを電車が通る音がした。

私は椅子に座れなかった。

座ると、床の高さが戸倉と同じになる気がした。

壁の時計の秒針を、意味もなく数えていた。

数えているうちに、何度も数を見失った。

乾燥機は五台とも止まっていて、いちばん右の扉にだけ、新しい紙が白く光っていた。

明るくて、静かで、少し暑い。

いつもの深夜のコインランドリーだった。

明け方近くに、戸倉が伸びをした。

「うわ、俺、寝てました」

「寝てたよ」

「すんません、めちゃくちゃ気持ちよかったっス」

何も覚えていなかった。

座り込んだことも、タオルのことも、自分の口から出た声のことも。

覚えていないほうがいい、と私は思った。

思ったのに、少しだけ腹が立った。

滝口さんには、その日のうちに話した。

最後まで黙って聞いてから、

「戸倉を、あの店から外そう」

とだけ言った。

私は理由を聞かなかった。

もう、聞かない人間になっていた。

それから何度か、昼間の杉ノ戸を歩いた。

乾物屋のシャッターは下りていた。

干し椎茸も昆布も、軒から外されていた。

自転車屋の人に聞くと、しばらく閉めるらしい、とだけ言われた。

その月の札を貼りに来たのは、また別の人だった。

若い男の人で、店に入るなり私に会釈をして、

「今月はうちなので」

と言った。

言い方まで、前の人と同じだった。

翌月の巡回で、私はアプリを開いた。

点検アプリのその店のページは、乾燥機が五台になっていた。

六台目の空欄は、どこにもない。

事務に問い合わせると、そんな行は最初からないと言われた。

私は、そうですか、とだけ答えた。

それから、入口の忘れ物カゴを覗いた。

決まりは破っていない。

手は入れていない。

覗いただけだ。

薄い黄色の子供用の靴下が、両方そろって入っていた。

今も私は、扉を全部開けて回っている。

ただ、あの店の奥の一台だけは、開けない。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

最後まで読んでくださって、ありがとうございます

この話が少しでも心に残ったなら、それだけで書いた甲斐がありました。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

¥240 の一度きりのお支払いで応援いただけます。
お礼として、以後ずっと広告を非表示にいたします(継続課金はありません)。

くわしく見る →

メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。