
巡回の仕事は、扉を全部開けて回ることから始まる。
洗濯機の蓋を上げ、乾燥機の扉を引き、中に何も残っていないことを確かめる。
それだけの仕事だ。
私が回っていたのは、私鉄の各駅停車しか止まらない駅を四つぶん、線路沿いに散らばったセルフのコインランドリーだった。
夜の十時に営業所を出て、五軒を順に回り、明け方に鍵を返す。
清掃と、洗剤の補充と、機械の簡単な点検。
それを毎晩、同じ順番で繰り返す。
客はめったに来ない。
来ても、洗濯物を放り込んで、車の中でスマホを見て、乾いたら黙って帰っていく。
だから深夜のコインランドリーというのは、私にとって、明るくて、静かで、少しだけ暑い場所だった。
怖い場所だと思ったことは、一度もなかった。
杉ノ戸店に入るまでは。
※
杉ノ戸店は、ルートの四軒目だった。
線路の南側の、シャッターの下りた商店が並ぶ通りの、いちばん端にある。
自動ドアを抜けると、洗濯機が八台、乾燥機が五台。
壁際に、客が置いていった週刊誌が積んである。
入口の傘立ての横に、忘れ物カゴが置いてある。
天井の蛍光灯だけが妙に新しくて、店の中は昼間より明るい。
夏でも冬でも、床から膝のあたりまでが、いつもぬるい。
そういう、どこにでもある店だ。
他の四軒は、それぞれに癖があった。
一軒目は駅前で、終電のあとに酔った客が入ってくる。
二軒目は幹線道路沿いで、長距離の運転手が毛布を回していく。
三軒目は団地の下にあって、朝方に洗剤の粉が床に散らばっている。
五軒目は新しくて、機械が勝手に故障を知らせてくれる。
どの店にも、面倒はあっても、決まりはなかった。
決まりがあるのは杉ノ戸店だけだった。
このルートを私に渡したのは、滝口さんという先輩だった。
無口で、機械の話しかしない人だった。
洗剤の粉が固まる話や、ドラムのベルトが伸びる話なら、いくらでも喋る。
その滝口さんが、引き継ぎの日、杉ノ戸店の前でだけ、車を停めたまましばらく動かなかった。
それから、こちらを見ずに言った。
「奥の一台に紙が貼ってあったら、その台は開けるな」
「日付が変わる前に、この店を出るな」
「忘れ物カゴには手を突っ込むな」
私は理由を聞いた。
滝口さんは少し困った顔をして、
「決まりだから」
とだけ答えた。
その言い方は、就業規則の話をしている人の口調ではなかった。
奥の一台というのは、乾燥機の並びのいちばん右のことだ。
他の四台と同じ型で、同じ色で、同じだけ古い。
違うのは、月に一度、扉の把手のところに紙が貼られることだけだった。
コピー用紙を四つ折りにして、透明のテープで留めてある。
表に「予約済」とだけ書いてある。
筆ペンの字で、毎月わずかに違う。
貼られている間は、その台にコインが入らない。
投入口が、内側から塞がれているような手ごたえになる。
壊れているのだろうと、そのときの私は思っていた。
※
決まりのほうは、私はきちんと守っていた。
守っていたが、見ないという約束をしたわけではない。
床を拭いていれば、カゴの中身は自然と目に入る。
片方だけの手袋、子供用のフォーク、たたまれないままのハンドタオル。
そういうものは、たいてい三か月ほどで店の側が処分する。
ただ、あのカゴの底には、いつも子供用の靴下が片方だけ入っていた。
薄い黄色の、くるぶしの上で折り返す型のものだ。
私が入った月にもあったし、その次の月にもあった。
処分されないのか、処分しても同じものが戻ってくるのか、そこまでは知らない。
私は、それを見るたびに、少しだけ足を止めていた。
うちの会社は、巡回の記録をスマホのアプリで送る。
店ごとのページがあって、機械の番号を上から順にタップして、異常なしを押していく。
点検アプリのその店のページには、乾燥機が六台ぶん並んでいた。
店にある乾燥機は五台だ。
六台目には、機種名も、製造番号も入っていない。
私は登録ミスだと思って、毎晩、そこだけ空欄のままにして送信していた。
一度、事務の人に言ってみたことがある。
返ってきたのは、
「触らないでおいて」
という一言だった。
理由は言わない。
この会社は、あの店のことになると、みんな同じ喋り方になった。
一度だけ、その六台目の行をタップしたことがある。
指が滑っただけで、押すつもりはなかった。
画面が切り替わって、機種名の欄に、白い文字がしばらく出ていた。
文字は、機種名ではなかった。
人の名前のような形をしていた。
読もうとしたら、画面が戻った。
そのあと何度タップしても、行は開かなくなった。
私は誰にも言わなかった。
言うと、事務の人にまた同じ返事をされる気がした。
※
うちは機械の電力も見ている。
店ごとの日別の使用量が、月末にPDFで回ってくる。
経費の話だから、本当は現場の人間が見るものではない。
私は暇だったので、休憩のたびに眺めていた。
杉ノ戸店の数字は、他の四軒とだいたい同じ形をしていた。
金曜と土曜が跳ね上がって、火曜がへこむ。
ただ、毎月一日だけ、火曜でもないのに、深夜の使用量が上がる日があった。
その日付を、私は自分の勤務表と並べてみた。
札が貼り替えられる日と、きれいに重なっていた。
その夜、私は店にいた。
客は来ていない。
私は掃除しかしていない。
機械はどれも動いていなかった。
動いていなかったのに、電気は使われていた。
それを確かめてから、私はバックヤードに入った。
古いモニターがあって、防犯カメラの映像を巻き戻せる。
その時間帯を出してみた。
私が床を拭いている。
私がモップを絞る。
私がバックヤードのドアを開ける。
そこで、画面の右下の時刻が飛んだ。
一分半、記録がない。
映像が戻ると、私はさっきと同じ場所で、同じ手つきで床を拭いていた。
前の月も、その前の月も、同じ日の同じ時間帯だけが、同じ長さで抜けていた。
※
音を聞いたのは、その夜が初めてだった。
乾燥機の中で、金属のボタンがドラムに当たる音がある。
洗濯物を回している間ずっと続く、あの乾いた音だ。
それが、奥の一台から聞こえていた。
扉には紙が貼ってある。
覗き窓は黒い。
中は回っていない。
私は膝をついて、耳を近づけた。
音は、規則正しく続いていた。
速くも遅くもならない。
その規則正しさが、いちばん嫌だった。
機械の不調なら、いずれ乱れるはずだ。
乱れないということは、機械ではないということになる。
私はそこで立ち上がって、店の真ん中まで戻った。
戻ってから、時計を見た。
日付が変わるまで、まだ二十分あった。
私はその二十分を、雑誌の山を積み直して過ごした。
背表紙の日付を、意味もなく順番に並べた。
音は、日付が変わると同時に止まった。
乾いた匂いの中に、一瞬だけ、雨に濡れた土のような匂いが混じった。
窓は閉まっていて、外の匂いが入る隙間はなかった。
※
札を貼りに来る人を見たのは、その次の月だ。
日付が変わる少し前に、女の人が入ってきた。
洗濯物は持っていない。
私に軽く会釈をして、まっすぐ奥の乾燥機へ行った。
古い紙を剥がし、鞄から出した新しい紙を貼った。
剥がした紙は、たたんで鞄にしまった。
「今月はうちなので」
そう言って、店を出て行った。
私は、はい、としか言えなかった。
何がうちなのか、聞き返す間もなかった。
その人が出て行った窓の外を、私はしばらく見ていた。
それで、初めて気づいたことがある。
店の向かいの家の表札が、鹿沼だった。
その隣も鹿沼だった。
通りを挟んだ角の家も、少し離れたアパートの一階も、鹿沼だった。
同じ字の、同じ大きさの表札が、この一帯にいくつも並んでいる。
私は次の休みに、昼間の杉ノ戸を歩いてみた。
商店街はほとんど閉まっていて、開いているのは乾物屋と自転車屋だけだった。
乾物屋の軒には、干し椎茸と昆布が下がっていた。
店先に、背の低い白髪の主人が座っていた。
目が合ったので、私は昆布を一袋だけ買った。
主人は袋を渡しながら、店の並びのほうへ顎をしゃくった。
「あそこの掃除の人ですね」
「そうです」
「よく乾く店ですよ、あそこは」
それだけだった。
その言い方が、褒め言葉なのか、注意なのか、私にはわからなかった。
営業所に戻って、滝口さんに話した。
杉ノ戸の、あの通りの表札のことだ。
滝口さんは、洗剤の箱を数えながら聞いていた。
数え終わってから、こう言った。
「あそこには、順番を待ってる人がいるんだよ」
私は意味がわからなかった。
「順番って、なんの」
「まだ、こっちに出てくる番が来てないってこと」
それだけ言って、伝票を書きに行った。
私はそのとき、笑ってしまった。
悪気があったわけではない。
ただ、返す言葉が思いつかなかっただけだ。
笑ったことを、あとで何度も思い出すことになった。
※
戸倉が入ってきたのは、その年の秋だった。
学生のアルバイトで、二十歳になったばかりだという。
背が高くて、声が大きくて、何にでも触りたがる子だった。
悪い子ではない。
ただ、決まりというものを、理由とセットでしか覚えられない子だった。
私は例の三つを、そのまま伝えた。
理由は言えなかった。
私も知らなかったからだ。
「なんスかそれ、呪いっスか」
戸倉は笑った。
私も笑った。
そこで、もう少し強く言えばよかったと思う。
最初の一か月は、何も起きなかった。
戸倉は仕事を覚えるのが早くて、洗剤の補充なら私より速かった。
夜中の車の中で、二人でラーメン屋の話ばかりしていた。
どこの店の背脂がどうとか、営業所の近くの中華屋は昼だけうまいとか、そういう話だ。
私は、あの店の決まりのことを、少しずつ本気にしなくなっていた。
札の夜も、二人でいれば早く終わる。
早く終われば、日付が変わる前に出てしまえる。
出てしまえば、決まりを守ったことにはならない。
私は、そのあたりを都合よく忘れていた。
※
札のない月の夜に、一度だけ、酔った客が入ってきたことがある。
スーツの男の人で、上着を丸めて抱えていた。
その人は迷わず奥の一台を開けて、上着を放り込んで、コインを入れた。
私は止めようとして、止めなかった。
札が貼られていなかったからだ。
機械はふつうに回った。
男の人は椅子で船を漕いで、乾いた上着を持って帰った。
何も起きなかった。
私はそれを見て、少し安心した。
安心してから、もっと怖くなった。
札のある月とない月で、あの台の中身が違う、ということになる。
ない月は、あの台は空なのだ。
では、ある月は。
※
その月の札の夜は、雨だった。
線路の高架の下を抜けるとき、水しぶきが窓を叩いた。
杉ノ戸店に着いたのは、日付が変わる四十分ほど前だった。
私は床を拭き、戸倉は洗剤の棚を並べていた。
自動ドアの外は真っ暗で、店だけが明るかった。
雨の音が屋根で潰れて、店の中はかえって静かだった。
私が床の隅にモップを入れているとき、戸倉が乾燥機の並びの前に立った。
「これ、五台しかないのに、アプリだと六個あるじゃないスか」
私は顔を上げた。
戸倉は、奥の一台の紙を、指先でつまんでいた。
「開けるな」
自分の声が、思ったより小さかった。
テープの剥がれる音がした。
それから、扉が開く音がした。
中は空だった。
ドラムは乾いていて、糸くずも髪の毛もない。
使われていない機械の、あの匂いがした。
「なんもないっスよ」
戸倉が振り返って、そう言った。
言い終わってから、床に座り込んだ。
※
尻餅をついたような座り方だった。
私は、驚いて力が抜けたのだと思った。
「立てるか」
返事はない。
戸倉は開いた扉のほうを向いたまま、口を半分開けていた。
歯が細かく鳴っていた。
上と下の歯が、正確な間隔で当たる音だ。
私はその音を、さっき聞いたばかりだった。
乾燥機の中でボタンがドラムに当たる、あの音と同じだった。
私はスマホを出した。
番号を押そうとして、指が滑った。
そのとき、自動ドアが開いた。
入ってきたのは、乾物屋の主人だった。
傘も差さずに、肩を濡らしていた。
「紙は」
それが第一声だった。
私は、戸倉の手の中の紙を指した。
主人は私に鍵束を渡した。
「表を閉めてください」
「あの、救急車を」
「いりません」
断っている口調ではなかった。
順番の話をしている口調だった。
私は言われたとおりに鍵を閉めた。
閉めながら、自分の手がひどく遅いことに気づいていた。
※
主人は、乾燥機の扉を開けたまま、投入口にコインを入れた。
さっきまで受けつけなかったはずの投入口が、するりと呑んだ。
機械が回り始めた。
何も入っていないドラムが回る音が、店中に響いた。
主人は戸倉の背中に手を当てて、耳を近づけた。
「もう一度、あたためますから」
戸倉は返事をしない。
「もう一度、あたためますから」
同じ言葉を、同じ調子で繰り返す。
私は、その繰り返しをただ見ていた。
そのあいだに、バックヤードの固定電話が鳴った。
埃をかぶった、使われているのを見たことのない電話だ。
主人は顔も上げずに、
「出なくていいです」
と言った。
電話は十回ほど鳴って、止まった。
少ししてから、また鳴った。
私は、鳴らないでほしい、とだけ思っていた。
乾燥機が止まった。
主人は開いたドラムの中に手を入れて、温まった空気をすくうような仕草をした。
それから、持ってきた紙袋からタオルを出した。
乾いた、たたんだばかりのタオルだった。
それを戸倉の腕に抱かせた。
「もう一度、あたためますから」
戸倉の口が動いた。
「まだ」
低い声だった。
戸倉の声ではなかった。
声は、戸倉の喉から出ているのに、戸倉の高さではなかった。
子供のようでもあり、ずいぶん年をとった人のようでもあった。
どちらにも聞こえるということが、いちばん気味が悪かった。
店の蛍光灯が、そのとき一度だけ、明るさを落とした。
私は、足の裏の感覚がなくなった。
主人は驚かなかった。
「もう一度、あたためますから」
「まだ」
「順番は、来ています」
「……まだ」
主人はコインをもう一枚入れた。
ドラムがまた回り始めた。
主人は、タオルを抱えた戸倉の背中を、二度だけ強く叩いた。
戸倉の口から、長い息が出た。
それきり、静かになった。
「終わりました」
主人はそう言って、扉を閉めた。
鞄から新しい紙を出し、筆ペンで「予約済」と書いて貼り直した。
その字は、先月の女の人の字と少し似ていた。
「あなたは、触っていませんね」
「触っていません」
「じゃあ、大丈夫です」
主人は鍵束を私に返して、店を出て行った。
出て行くとき、一度だけ振り返って、
「日付が変わるまでは、ここにいてください」
と言った。
※
私は、日付が変わってからもそこにいた。
戸倉を椅子に座らせて、その横に立っていた。
自動ドアが風で反応するたびに、心臓が跳ねた。
外は雨で、遠くを電車が通る音がした。
私は椅子に座れなかった。
座ると、床の高さが戸倉と同じになる気がした。
壁の時計の秒針を、意味もなく数えていた。
数えているうちに、何度も数を見失った。
乾燥機は五台とも止まっていて、いちばん右の扉にだけ、新しい紙が白く光っていた。
明るくて、静かで、少し暑い。
いつもの深夜のコインランドリーだった。
明け方近くに、戸倉が伸びをした。
「うわ、俺、寝てました」
「寝てたよ」
「すんません、めちゃくちゃ気持ちよかったっス」
何も覚えていなかった。
座り込んだことも、タオルのことも、自分の口から出た声のことも。
覚えていないほうがいい、と私は思った。
思ったのに、少しだけ腹が立った。
滝口さんには、その日のうちに話した。
最後まで黙って聞いてから、
「戸倉を、あの店から外そう」
とだけ言った。
私は理由を聞かなかった。
もう、聞かない人間になっていた。
それから何度か、昼間の杉ノ戸を歩いた。
乾物屋のシャッターは下りていた。
干し椎茸も昆布も、軒から外されていた。
自転車屋の人に聞くと、しばらく閉めるらしい、とだけ言われた。
その月の札を貼りに来たのは、また別の人だった。
若い男の人で、店に入るなり私に会釈をして、
「今月はうちなので」
と言った。
言い方まで、前の人と同じだった。
翌月の巡回で、私はアプリを開いた。
点検アプリのその店のページは、乾燥機が五台になっていた。
六台目の空欄は、どこにもない。
事務に問い合わせると、そんな行は最初からないと言われた。
私は、そうですか、とだけ答えた。
それから、入口の忘れ物カゴを覗いた。
決まりは破っていない。
手は入れていない。
覗いただけだ。
薄い黄色の子供用の靴下が、両方そろって入っていた。
今も私は、扉を全部開けて回っている。
ただ、あの店の奥の一台だけは、開けない。