先輩は倉庫で口をきかない

灯火に佇む蔵の石環

今でも、E通路だけは声を出さずに歩く。

会社の決まりではない。

誰かに叱られたわけでもない。

ただ、あの通路で口を開いた人間がどうなるのかを、私は一度だけ見ている。

私が働いているのは、湾岸の埋立地に建つ物流倉庫だ。

四階建てで、アパレルと日用品の在庫を預かっている。

元請けの名前は伏せるが、名前を出せば誰でも知っている会社だと思う。

私の担当は夜勤の在庫管理で、入荷した荷物の検品と、実棚と呼ばれる棚ごとの数合わせが主な仕事だった。

実棚というのは、システム上の在庫数と、実際に棚にある数を突き合わせる作業のことだ。

合わないときは、たいてい人のミスが原因になる。

誤出荷か、置き場所の間違いか、打ち忘れか。

そのどれかを探して、朝までに理由を書く。

それが夜勤の仕事の、いちばん地味な部分だった。

昼のパートさんたちが帰ったあとの倉庫は、驚くほど静かになる。

自動倉庫のクレーンが遠くで上下する音と、自分の靴音しか聞こえない。

天井の照明は人感センサーで、人がいる区画だけが点くようになっている。

歩くと、明かりが後ろから追いついてくるように順番に点いていく。

E通路の照明は、人が入る少し前に点く。

最初は、そこだけセンサーの感度がいいのだと思っていた。

先輩に聞いても、そういうもんだよ、としか言われなかった。

E通路というのは、四階のいちばん奥にある返品と保留品の区画のことだ。

出荷の動線から完全に外れているので、日中でもほとんど人が来ない。

壁際に空のパレットが積んであって、その先は行き止まりになっている。

その突き当たりに、床のコンクリートが四角く抜かれた場所がある。

一メートル四方くらいの、むき出しの土だ。

倉庫の四階に土が出ているというのが、まずおかしい。

その土の上に、丸い石が据えてある。

高さは膝の下くらいで、表面はつるつるとして、灰色をしている。

川から上げてきたような、角のない形をしていた。

この倉庫が建っているのは埋立地で、地面はすべて後から運ばれてきたものだ。

だから四階どころか一階にも、本来この土地の土などは無いはずだった。

石の下の土だけが、明らかに周りと色が違っていた。

赤みの強い、粘りのありそうな土だった。

誰かがわざわざどこかから運んできて、そこに入れたようにしか見えなかった。

ラックの割付図を確認したことがある。

倉庫の床は全部ロケーション番号で区切られているのに、その一マスだけが白く抜けていた。

図面の余白に、手書きで「保留」とだけ書き足してある。

何が保留なのかは、どこにも書かれていない。

元請けの総務の人に、一度だけ聞いてみたことがある。

その人は年に一度、決算の前に現場へ来て、四階まで上がって石の前で手を合わせて帰る。

移設はしなかったんですかと聞いたら、少し困った顔をされた。

許可が下りなかったんですよ、とだけ言われた。

誰の許可ですかとは、聞けなかった。

引継ぎのとき、先輩は夜勤のルールをいくつか教えてくれた。

巡回は二人一組が原則で、フロアを分けて回ること。

非常階段の扉は必ず閉めること。

そして最後に、こう付け足した。

「E通路だけは一人で行っていい」と先輩は言った。

「二人で行っちゃ駄目なんですか」

「駄目とは言ってない。一人でいいって言ってるんだ」

「効率の話ですか」

「まあ、そんなようなもんだ」

「なんかあるんですか、あそこ」

「なんかあったら、俺がここにいないだろ」

先輩はそう言って、話を終わりにした。

夜勤の引継ぎは十五分しかない。

聞きたいことは、たいてい聞き逃したまま次の日になる。

先輩は芝田さんという人だった。

私より少し上で、無口で、指示はいつも短い。

怒鳴らないし、笑いもしない。

巡回から戻ってくると、事務所のドアのところで軽く片手を挙げることがあった。

おつかれさま、と言う代わりなのだと思っていた。

先輩はE通路から戻ってくると、いつも黙って片手を挙げるだけだった。

正月明けの、いちばん最初の夜勤のときだけ、石の前に小さな鏡餅が置いてあることがある。

誰が置いているのかは知らない。

元請けの人だという話もあるし、清掃会社の人だという話もあった。

三日もすると、包みごと無くなっている。

誰かが下げているのだろうと思っていた。

ただ、下げているところを見た人には、まだ会ったことがない。

私の前にこの夜勤枠にいた人のことも、少しだけ書いておく。

引継ぎは芝田さんが代わりにやってくれたので、私はその人に会っていない。

机の引き出しに、前任者のものらしい付箋が一枚だけ残っていた。

「Eは数えるだけ」と、ボールペンで書いてあった。

在庫管理の人間が書いたメモとしては、意味が通らない。

私はそれを実棚の注意書きだと思って、捨てずに引き出しへ戻した。

最初におかしいと思ったのは、冬の終わりの晩だった。

深夜の巡回で四階に上がったとき、E通路の奥から音がした。

猫の鳴き声のようでもあり、赤ん坊の声のようでもあった。

ぎゃあ、という長い鳴き方ではない。

ぎ、ぎ、ぎ、と短く区切って、きっちり同じ間隔で続いていた。

何かを読み上げているような、規則正しい鳴き方だった。

私はその場で立ち止まって、しばらくそれを聞いていた。

怖いとは思わなかった。

ただ、通路の奥へ足を踏み出すのに、少し時間がかかった。

結局その日は行かずに、事務所へ戻った。

翌朝、防犯カメラの録画を確認した。

E通路のカメラには音声も入る。

該当の時間帯を再生してみたが、通路には何も映っていなかった。

音も入っていなかった。

空調の低い唸りだけが、最初から最後まで続いていた。

念のため、その前後の日の録画も飛ばし飛ばしに見た。

どの日も、E通路のカメラだけは何も起きていなかった。

ただ、通路の照明が点く時刻が、人が映り込む数秒前になっている日が何日もあった。

録画のタイムコードで確かめたので、これは気のせいではない。

誰も歩いていない通路で、先に明かりだけが点いている映像が、いくつも残っていた。

同僚には、外の猫じゃないかと言われた。

四階に窓は無い。

そう返すと、じゃあ空調だろ、と言われて話は終わった。

次に気づいたのは、床のほうだった。

その週の朝、E通路を通ったら、石の周りに小石が散らばっていた。

親指の先くらいの大きさで、灰色で、どれも角が取れている。

川原に落ちているような石だった。

石を中心にして、ゆるい円を描くように散っていた。

誰かが撒いたにしては、置き方が几帳面すぎた。

清掃の人が掃き集めていったので、その日はそれで終わった。

ところが翌朝、また同じように散っていた。

数を数えてみたら、十七あった。

次の日は九つで、その次は二十三あった。

掃いた日も、掃かなかった日も出る。

数だけが、毎日違っていた。

私は手帳の隅に、日付と数を書きつけるようになった。

意味があると思ったわけではない。

ただ、数が合わないものを見ると数えてしまうのは、この仕事の癖だった。

小石は、拾い上げると思っていたより冷たかった。

四階の空調は一定に保たれているので、床の温度もほとんど変わらない。

その中で、その石だけが外に置いてあったような冷たさをしていた。

手のひらに乗せて温めても、なかなか温度が上がらなかった。

私は結局それをポケットに入れて持ち帰り、家の玄関に置いた。

翌朝、玄関にその石は無かった。

同居している人間も、飼っている動物もいない部屋だった。

三つ目は、人のほうから来た。

郡司さんという、フォークリフトのオペレーターがいる。

この現場に入っている人間の中では、いちばん長い。

倉庫が建つ前からこのあたりで働いていたらしい。

休憩室で顔を合わせたときに、あの石は何なんですかと聞いてみた。

郡司さんは缶コーヒーを置いて、しばらく黙っていた。

「あれの前でものを言わんことや」

「言ったらどうなるんですか」

「勘定しよるだけやから、こっちが混ざったらいかん」

「勘定って、何をですか」

「その日、ここにおった数や」

「石が、数えてるってことですか」

「数える石やと、昔の人は言うとった」

郡司さんはそれだけ言って、缶を持って出て行った。

冗談を言っている顔ではなかった。

郡司さんは、この埋立地に土が入る前のことを知っている数少ない一人だった。

むかしは対岸に古い道があって、その道が二股に分かれるところに石が置いてあったのだと、別の日に少しだけ話してくれた。

道が消えるときに、石だけを残す条件で工事が通ったらしい。

残す場所として選ばれたのが、ちょうど今の四階の位置にあたる。

地面ごと持ち上げられたようなものだと、郡司さんは言った。

「上に行っても、あれのやることは変わらんかったな」

清掃のリーダーにも聞いてみた。

小石のことを言うと、ああ、と短く頷かれた。

掃いても出るんですよ、あれ、と言われた。

うちの前に入っていた会社の人も同じことを言うてました、とも言われた。

誰かが悪戯しているという説明は、誰の口からも出なかった。

四つ目は、数字のほうに出た。

実棚の差異が、E通路のロケーションだけ、毎晩ひとつ多くなるようになった。

システム上は百二十、実際に数えると百二十一ある。

返品の保留品なので、動かす人間はいない。

翌日の昼に他の担当が確認すると、きれいに合っている。

夜だけ、ひとつ多い。

ハンディターミナルの通過ログも見た。

各通路の入口にタグが貼ってあって、通るたびに端末が拾う仕組みになっている。

私の端末のログに、私が通っていない時刻のE通路の通過が残っていた。

時刻は、私が四階のべつの区画にいた時間帯だった。

端末は私のベルトに下がっていた。

システム部門に問い合わせたら、電波の反射でしょう、と返ってきた。

そういうことにして、私はしばらく黙っていた。

差異の報告書は、毎晩書いた。

原因の欄には、要調査、とだけ書き続けた。

月の半ばに上長から呼ばれて、E通路の差異が続いている件で話をした。

上長は画面を見ながら、保留品は動かないから差異は出ないはずだと言った。

はい、と私は答えた。

じゃあ数え間違いだな、と言われて、その話は終わった。

翌日から、私は差異の報告書に、E通路の行を書かなくなった。

書かないほうが誰も困らないということが、その面談ではっきりしたからだ。

帳簿の上では、それでこの現場は正常になった。

五つ目は、紙のほうだった。

事務所の棚に、安全衛生の引継ぎファイルが並んでいる。

何年も前からのものが、背表紙の日付だけを頼りに詰め込まれていた。

私は古いバインダーを一冊、休憩時間に開いてみた。

見たかったのは事故の記録ではなく、夜勤の担当者の名簿だった。

在庫管理の夜勤担当は、思っていたよりずっと速く入れ替わっていた。

半年で辞めた人が続けて三人いた。

その次の人は、四か月だった。

退職の理由は、どこにも書かれていない。

私はバインダーを閉じて、棚に戻した。

そのときは、最後まで繰らなかった。

辞めた人のうち一人は、いまも近くの現場にいると聞いた。

共通の知り合いを介して、短いやり取りだけができた。

E通路のことを覚えていますかと送ったら、既読になってからしばらく返事が来なかった。

返ってきたのは一行だけだった。

「あそこで返事をしないほうがいいです」

それ以上は、何を送っても返ってこなかった。

三月の終わり、棚卸しの前の週だった。

保留品の数を最終確認するために、私はE通路へ向かった。

この日も、一人だった。

通路の入口に立つ前に、奥の照明が点いた。

いつものことなので、私はそのまま入った。

突き当たりの手前まで来たとき、後ろから名前を呼ばれた。

苗字だけを、短く。

芝田さんの声だった。

低くて、少し掠れた、聞き慣れた声だ。

私は振り返らずに、「はい」と返事をした。

返事をした瞬間、空調の音が消えた。

耳が詰まったような静けさが来て、次に、あの音がした。

ぎ、ぎ、ぎ。

きっちり同じ間隔で、私の背中側からではなく、前から聞こえた。

顔を上げた。

石の上に、何かが乗っていた。

子供くらいの背丈で、こちらに背を向けている。

髪が濡れていて、肩から水が落ちていた。

床の土が、その滴の分だけ黒くなっていくのが見えた。

背中は動いていない。

動いていないのに、音だけが同じ間隔で続いていた。

匂いがした。

雨が降り始めたときの、乾いたコンクリートの匂いに近い。

倉庫の四階でその匂いがすることは、まず無い。

私はそれを、頭のどこかで冷静に記録していた。

足のほうは、まったく動かなかった。

背中の輪郭は、はっきりしていた。

遠くの霞んだ影ではなく、手を伸ばせば届く距離に、きちんと形があった。

肩の高さも、髪の分け目も見えていた。

見えていたのに、それが何であるかだけが、どうしても像を結ばなかった。

私はそのとき初めて、あの音の数を一度も数えていないことに気づいた。

私は走った。

非常階段の扉を開けて、一階まで降りた。

途中で膝が笑って、踊り場で一度座り込んだ。

そのあいだも、音は追ってこなかった。

追ってこないことのほうが、後から怖かった。

踊り場で息を整えているあいだ、私は一度だけ上を見た。

非常階段の吹き抜けは四階までまっすぐ抜けていて、各階の扉の窓が縦に並んで見える。

四階の窓だけが明るかった。

私が閉めた扉の向こうで、通路の照明がまだ点いていた。

人感センサーの保持時間は、たしか三分だと聞いていた。

私は一階まで降りて、時計を見た。

もう一度階段を見上げたときも、四階の窓はまだ明るかった。

事務所に戻ると、芝田さんがいた。

パソコンの前に座って、入荷の伝票を打っていた。

「今、四階にいましたか」

「一階の受け入れにずっといた」

「私のこと、呼びませんでしたか」

「呼んでない」

芝田さんは手を止めて、私の顔を見た。

「E通路か」

「はい」

「返事したのか」

「しました」

芝田さんは何も言わずに、椅子を回して画面に戻った。

その日の残りの時間、先輩は一言も口をきかなかった。

明け方、休憩室で先輩がインスタントのスープを飲んでいた。

私が向かいに座ると、先輩はカップを置いて、指で机に何かを書く仕草をした。

口は開かなかった。

書いていたのは、郡司さん、という三文字だった。

私は頷いた。

先輩はカップを持って、休憩室を出て行った。

翌朝、私はゲートの入退場ログと、端末の通過ログを並べて開いた。

その夜の入退場ログには、E通路の通過が二件残っていた。

私は、ひとりで歩いたはずだった。

二件目の時刻は、私が返事をした時刻と一致していた。

端末の番号は、どちらも私のものだった。

同じ端末が、同じ場所を、同じ瞬間に二度通っていた。

私は事務所の棚から、あのバインダーをもう一度引き出した。

今度は最後まで繰った。

最後の見開きの余白に、E通路は複数名での立入を禁ず、と手書きで書いてあった。

日付も署名も無い。

インクは褪せていて、この倉庫が建った頃のものに見えた。

一人で行っていい、という言葉の意味を、私はそこで読み違えていたことに気づいた。

それから、もうひとつ思い出したことがある。

先輩が片手を挙げるだけだったのは、E通路から戻ってきたときだけだった。

他の通路から戻ったときは、ちゃんとおつかれさまと言っていた。

私はそれを、ただの癖だと思っていた。

その日の夕方、私は郡司さんの携帯に電話をした。

返事をしてしまったことを伝えると、電話の向こうで一度だけ息を吐く音がした。

「ゲートのログを出せ」

「入退場のですか」

「その晩、あの建物に入った人間の数を数えろ。全員や」

「数えて、どうするんですか」

「その数だけ、川で丸い石を拾うてこい」

郡司さんの声は、いつもより早口だった。

「拾うたら振り向くな。家の戸をくぐるまで、誰とも口をきくな」

私は夜勤明けの朝に、川の護岸へ降りた。

ゲートを通った人数は二十九だった。

水に近いところに、角の取れた丸い石がいくらでもあった。

袋が重くなったところで、私は振り向かずに土手を上がった。

駅までの道で、コンビニの店員に話しかけられたが、私は黙って会釈だけをした。

石は家の中に置いた。

玄関、洗面所、風呂の入口、寝室の入口。

最後のひとつだけを、袋に残した。

次の夜勤で、私はその石を持ってE通路へ行った。

何も言わずに、丸い石の前にそれを置いた。

そして、思い切り踏んだ。

靴の底で、こつ、と乾いた音がした。

音はそれきりだった。

帰りのエレベーターの中で、はじめて肩の力が抜けた。

何かが解決したという感覚は無い。

手続きを一つ終えた、という感じに近かった。

役所の窓口で、書類を出したあとの気分によく似ていた。

芝田さんは、いまも同じ現場にいる。

あの晩のことを、私たちは一度も話題にしていない。

先輩は相変わらずE通路から戻ると片手を挙げるだけで、私もそれに黙って頷き返す。

郡司さんが使った数える石という呼び方を、私はこれまで誰にも使っていない。

それでこの現場は回っている。

変わったことがひとつだけある。

石の周りに散る小石が、毎朝ひとつずつ減っている。

十七や二十三といった、日ごとにばらばらな数はもう出ない。

きのうは三つで、その前の日は四つだった。

私は今でも手帳の隅に、日付と数を書きつけている。

E通路の照明は、人が入る少し前に点く。

今朝も、私が通路に入る前に照明は点いていた。

石の周りに、小石はもう一つも落ちていなかった。

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