先輩は倉庫で口をきかない

灯火に佇む蔵の石環

今でも、E通路だけは声を出さずに歩く。

会社の決まりではない。

誰かに叱られたわけでもない。

ただ、あの通路で口を開いた人間がどうなるのかを、私は一度だけ見ている。

※

私が働いているのは、湾岸の埋立地に建つ物流倉庫だ。

四階建てで、アパレルと日用品の在庫を預かっている。

元請けの名前は伏せるが、名前を出せば誰でも知っている会社だと思う。

私の担当は夜勤の在庫管理で、入荷した荷物の検品と、実棚と呼ばれる棚ごとの数合わせが主な仕事だった。

実棚というのは、システム上の在庫数と、実際に棚にある数を突き合わせる作業のことだ。

合わないときは、たいてい人のミスが原因になる。

誤出荷か、置き場所の間違いか、打ち忘れか。

そのどれかを探して、朝までに理由を書く。

それが夜勤の仕事の、いちばん地味な部分だった。

昼のパートさんたちが帰ったあとの倉庫は、驚くほど静かになる。

自動倉庫のクレーンが遠くで上下する音と、自分の靴音しか聞こえない。

天井の照明は人感センサーで、人がいる区画だけが点くようになっている。

歩くと、明かりが後ろから追いついてくるように順番に点いていく。

E通路の照明は、人が入る少し前に点く。

最初は、そこだけセンサーの感度がいいのだと思っていた。

先輩に聞いても、そういうもんだよ、としか言われなかった。

※

E通路というのは、四階のいちばん奥にある返品と保留品の区画のことだ。

出荷の動線から完全に外れているので、日中でもほとんど人が来ない。

壁際に空のパレットが積んであって、その先は行き止まりになっている。

その突き当たりに、床のコンクリートが四角く抜かれた場所がある。

一メートル四方くらいの、むき出しの土だ。

倉庫の四階に土が出ているというのが、まずおかしい。

その土の上に、丸い石が据えてある。

高さは膝の下くらいで、表面はつるつるとして、灰色をしている。

川から上げてきたような、角のない形をしていた。

この倉庫が建っているのは埋立地で、地面はすべて後から運ばれてきたものだ。

だから四階どころか一階にも、本来この土地の土などは無いはずだった。

石の下の土だけが、明らかに周りと色が違っていた。

赤みの強い、粘りのありそうな土だった。

誰かがわざわざどこかから運んできて、そこに入れたようにしか見えなかった。

ラックの割付図を確認したことがある。

倉庫の床は全部ロケーション番号で区切られているのに、その一マスだけが白く抜けていた。

図面の余白に、手書きで「保留」とだけ書き足してある。

何が保留なのかは、どこにも書かれていない。

元請けの総務の人に、一度だけ聞いてみたことがある。

その人は年に一度、決算の前に現場へ来て、四階まで上がって石の前で手を合わせて帰る。

移設はしなかったんですかと聞いたら、少し困った顔をされた。

許可が下りなかったんですよ、とだけ言われた。

誰の許可ですかとは、聞けなかった。

※

引継ぎのとき、先輩は夜勤のルールをいくつか教えてくれた。

巡回は二人一組が原則で、フロアを分けて回ること。

非常階段の扉は必ず閉めること。

そして最後に、こう付け足した。

「E通路だけは一人で行っていい」と先輩は言った。

「二人で行っちゃ駄目なんですか」

「駄目とは言ってない。一人でいいって言ってるんだ」

「効率の話ですか」

「まあ、そんなようなもんだ」

「なんかあるんですか、あそこ」

「なんかあったら、俺がここにいないだろ」

先輩はそう言って、話を終わりにした。

夜勤の引継ぎは十五分しかない。

聞きたいことは、たいてい聞き逃したまま次の日になる。

※

先輩は芝田さんという人だった。

私より少し上で、無口で、指示はいつも短い。

怒鳴らないし、笑いもしない。

巡回から戻ってくると、事務所のドアのところで軽く片手を挙げることがあった。

おつかれさま、と言う代わりなのだと思っていた。

先輩はE通路から戻ってくると、いつも黙って片手を挙げるだけだった。

正月明けの、いちばん最初の夜勤のときだけ、石の前に小さな鏡餅が置いてあることがある。

誰が置いているのかは知らない。

元請けの人だという話もあるし、清掃会社の人だという話もあった。

三日もすると、包みごと無くなっている。

誰かが下げているのだろうと思っていた。

ただ、下げているところを見た人には、まだ会ったことがない。

私の前にこの夜勤枠にいた人のことも、少しだけ書いておく。

引継ぎは芝田さんが代わりにやってくれたので、私はその人に会っていない。

机の引き出しに、前任者のものらしい付箋が一枚だけ残っていた。

「Eは数えるだけ」と、ボールペンで書いてあった。

在庫管理の人間が書いたメモとしては、意味が通らない。

私はそれを実棚の注意書きだと思って、捨てずに引き出しへ戻した。

※

最初におかしいと思ったのは、冬の終わりの晩だった。

深夜の巡回で四階に上がったとき、E通路の奥から音がした。

猫の鳴き声のようでもあり、赤ん坊の声のようでもあった。

ぎゃあ、という長い鳴き方ではない。

ぎ、ぎ、ぎ、と短く区切って、きっちり同じ間隔で続いていた。

何かを読み上げているような、規則正しい鳴き方だった。

私はその場で立ち止まって、しばらくそれを聞いていた。

怖いとは思わなかった。

ただ、通路の奥へ足を踏み出すのに、少し時間がかかった。

結局その日は行かずに、事務所へ戻った。

翌朝、防犯カメラの録画を確認した。

E通路のカメラには音声も入る。

該当の時間帯を再生してみたが、通路には何も映っていなかった。

音も入っていなかった。

空調の低い唸りだけが、最初から最後まで続いていた。

念のため、その前後の日の録画も飛ばし飛ばしに見た。

どの日も、E通路のカメラだけは何も起きていなかった。

ただ、通路の照明が点く時刻が、人が映り込む数秒前になっている日が何日もあった。

録画のタイムコードで確かめたので、これは気のせいではない。

誰も歩いていない通路で、先に明かりだけが点いている映像が、いくつも残っていた。

同僚には、外の猫じゃないかと言われた。

四階に窓は無い。

そう返すと、じゃあ空調だろ、と言われて話は終わった。

※

次に気づいたのは、床のほうだった。

その週の朝、E通路を通ったら、石の周りに小石が散らばっていた。

親指の先くらいの大きさで、灰色で、どれも角が取れている。

川原に落ちているような石だった。

石を中心にして、ゆるい円を描くように散っていた。

誰かが撒いたにしては、置き方が几帳面すぎた。

清掃の人が掃き集めていったので、その日はそれで終わった。

ところが翌朝、また同じように散っていた。

数を数えてみたら、十七あった。

次の日は九つで、その次は二十三あった。

掃いた日も、掃かなかった日も出る。

数だけが、毎日違っていた。

私は手帳の隅に、日付と数を書きつけるようになった。

意味があると思ったわけではない。

ただ、数が合わないものを見ると数えてしまうのは、この仕事の癖だった。

小石は、拾い上げると思っていたより冷たかった。

四階の空調は一定に保たれているので、床の温度もほとんど変わらない。

その中で、その石だけが外に置いてあったような冷たさをしていた。

手のひらに乗せて温めても、なかなか温度が上がらなかった。

私は結局それをポケットに入れて持ち帰り、家の玄関に置いた。

翌朝、玄関にその石は無かった。

同居している人間も、飼っている動物もいない部屋だった。

※

三つ目は、人のほうから来た。

郡司さんという、フォークリフトのオペレーターがいる。

この現場に入っている人間の中では、いちばん長い。

倉庫が建つ前からこのあたりで働いていたらしい。

休憩室で顔を合わせたときに、あの石は何なんですかと聞いてみた。

郡司さんは缶コーヒーを置いて、しばらく黙っていた。

「あれの前でものを言わんことや」

「言ったらどうなるんですか」

「勘定しよるだけやから、こっちが混ざったらいかん」

「勘定って、何をですか」

「その日、ここにおった数や」

「石が、数えてるってことですか」

「数える石やと、昔の人は言うとった」

郡司さんはそれだけ言って、缶を持って出て行った。

冗談を言っている顔ではなかった。

郡司さんは、この埋立地に土が入る前のことを知っている数少ない一人だった。

むかしは対岸に古い道があって、その道が二股に分かれるところに石が置いてあったのだと、別の日に少しだけ話してくれた。

道が消えるときに、石だけを残す条件で工事が通ったらしい。

残す場所として選ばれたのが、ちょうど今の四階の位置にあたる。

地面ごと持ち上げられたようなものだと、郡司さんは言った。

「上に行っても、あれのやることは変わらんかったな」

清掃のリーダーにも聞いてみた。

小石のことを言うと、ああ、と短く頷かれた。

掃いても出るんですよ、あれ、と言われた。

うちの前に入っていた会社の人も同じことを言うてました、とも言われた。

誰かが悪戯しているという説明は、誰の口からも出なかった。

※

四つ目は、数字のほうに出た。

実棚の差異が、E通路のロケーションだけ、毎晩ひとつ多くなるようになった。

システム上は百二十、実際に数えると百二十一ある。

返品の保留品なので、動かす人間はいない。

翌日の昼に他の担当が確認すると、きれいに合っている。

夜だけ、ひとつ多い。

ハンディターミナルの通過ログも見た。

各通路の入口にタグが貼ってあって、通るたびに端末が拾う仕組みになっている。

私の端末のログに、私が通っていない時刻のE通路の通過が残っていた。

時刻は、私が四階のべつの区画にいた時間帯だった。

端末は私のベルトに下がっていた。

システム部門に問い合わせたら、電波の反射でしょう、と返ってきた。

そういうことにして、私はしばらく黙っていた。

差異の報告書は、毎晩書いた。

原因の欄には、要調査、とだけ書き続けた。

月の半ばに上長から呼ばれて、E通路の差異が続いている件で話をした。

上長は画面を見ながら、保留品は動かないから差異は出ないはずだと言った。

はい、と私は答えた。

じゃあ数え間違いだな、と言われて、その話は終わった。

翌日から、私は差異の報告書に、E通路の行を書かなくなった。

書かないほうが誰も困らないということが、その面談ではっきりしたからだ。

帳簿の上では、それでこの現場は正常になった。

※

五つ目は、紙のほうだった。

事務所の棚に、安全衛生の引継ぎファイルが並んでいる。

何年も前からのものが、背表紙の日付だけを頼りに詰め込まれていた。

私は古いバインダーを一冊、休憩時間に開いてみた。

見たかったのは事故の記録ではなく、夜勤の担当者の名簿だった。

在庫管理の夜勤担当は、思っていたよりずっと速く入れ替わっていた。

半年で辞めた人が続けて三人いた。

その次の人は、四か月だった。

退職の理由は、どこにも書かれていない。

私はバインダーを閉じて、棚に戻した。

そのときは、最後まで繰らなかった。

辞めた人のうち一人は、いまも近くの現場にいると聞いた。

共通の知り合いを介して、短いやり取りだけができた。

E通路のことを覚えていますかと送ったら、既読になってからしばらく返事が来なかった。

返ってきたのは一行だけだった。

「あそこで返事をしないほうがいいです」

それ以上は、何を送っても返ってこなかった。

※

三月の終わり、棚卸しの前の週だった。

保留品の数を最終確認するために、私はE通路へ向かった。

この日も、一人だった。

通路の入口に立つ前に、奥の照明が点いた。

いつものことなので、私はそのまま入った。

突き当たりの手前まで来たとき、後ろから名前を呼ばれた。

苗字だけを、短く。

芝田さんの声だった。

低くて、少し掠れた、聞き慣れた声だ。

私は振り返らずに、「はい」と返事をした。

返事をした瞬間、空調の音が消えた。

耳が詰まったような静けさが来て、次に、あの音がした。

ぎ、ぎ、ぎ。

きっちり同じ間隔で、私の背中側からではなく、前から聞こえた。

顔を上げた。

石の上に、何かが乗っていた。

子供くらいの背丈で、こちらに背を向けている。

髪が濡れていて、肩から水が落ちていた。

床の土が、その滴の分だけ黒くなっていくのが見えた。

背中は動いていない。

動いていないのに、音だけが同じ間隔で続いていた。

匂いがした。

雨が降り始めたときの、乾いたコンクリートの匂いに近い。

倉庫の四階でその匂いがすることは、まず無い。

私はそれを、頭のどこかで冷静に記録していた。

足のほうは、まったく動かなかった。

背中の輪郭は、はっきりしていた。

遠くの霞んだ影ではなく、手を伸ばせば届く距離に、きちんと形があった。

肩の高さも、髪の分け目も見えていた。

見えていたのに、それが何であるかだけが、どうしても像を結ばなかった。

私はそのとき初めて、あの音の数を一度も数えていないことに気づいた。

私は走った。

非常階段の扉を開けて、一階まで降りた。

途中で膝が笑って、踊り場で一度座り込んだ。

そのあいだも、音は追ってこなかった。

追ってこないことのほうが、後から怖かった。

踊り場で息を整えているあいだ、私は一度だけ上を見た。

非常階段の吹き抜けは四階までまっすぐ抜けていて、各階の扉の窓が縦に並んで見える。

四階の窓だけが明るかった。

私が閉めた扉の向こうで、通路の照明がまだ点いていた。

人感センサーの保持時間は、たしか三分だと聞いていた。

私は一階まで降りて、時計を見た。

もう一度階段を見上げたときも、四階の窓はまだ明るかった。

※

事務所に戻ると、芝田さんがいた。

パソコンの前に座って、入荷の伝票を打っていた。

「今、四階にいましたか」

「一階の受け入れにずっといた」

「私のこと、呼びませんでしたか」

「呼んでない」

芝田さんは手を止めて、私の顔を見た。

「E通路か」

「はい」

「返事したのか」

「しました」

芝田さんは何も言わずに、椅子を回して画面に戻った。

その日の残りの時間、先輩は一言も口をきかなかった。

明け方、休憩室で先輩がインスタントのスープを飲んでいた。

私が向かいに座ると、先輩はカップを置いて、指で机に何かを書く仕草をした。

口は開かなかった。

書いていたのは、郡司さん、という三文字だった。

私は頷いた。

先輩はカップを持って、休憩室を出て行った。

※

翌朝、私はゲートの入退場ログと、端末の通過ログを並べて開いた。

その夜の入退場ログには、E通路の通過が二件残っていた。

私は、ひとりで歩いたはずだった。

二件目の時刻は、私が返事をした時刻と一致していた。

端末の番号は、どちらも私のものだった。

同じ端末が、同じ場所を、同じ瞬間に二度通っていた。

私は事務所の棚から、あのバインダーをもう一度引き出した。

今度は最後まで繰った。

最後の見開きの余白に、E通路は複数名での立入を禁ず、と手書きで書いてあった。

日付も署名も無い。

インクは褪せていて、この倉庫が建った頃のものに見えた。

一人で行っていい、という言葉の意味を、私はそこで読み違えていたことに気づいた。

それから、もうひとつ思い出したことがある。

先輩が片手を挙げるだけだったのは、E通路から戻ってきたときだけだった。

他の通路から戻ったときは、ちゃんとおつかれさまと言っていた。

私はそれを、ただの癖だと思っていた。

※

その日の夕方、私は郡司さんの携帯に電話をした。

返事をしてしまったことを伝えると、電話の向こうで一度だけ息を吐く音がした。

「ゲートのログを出せ」

「入退場のですか」

「その晩、あの建物に入った人間の数を数えろ。全員や」

「数えて、どうするんですか」

「その数だけ、川で丸い石を拾うてこい」

郡司さんの声は、いつもより早口だった。

「拾うたら振り向くな。家の戸をくぐるまで、誰とも口をきくな」

私は夜勤明けの朝に、川の護岸へ降りた。

ゲートを通った人数は二十九だった。

水に近いところに、角の取れた丸い石がいくらでもあった。

袋が重くなったところで、私は振り向かずに土手を上がった。

駅までの道で、コンビニの店員に話しかけられたが、私は黙って会釈だけをした。

石は家の中に置いた。

玄関、洗面所、風呂の入口、寝室の入口。

最後のひとつだけを、袋に残した。

次の夜勤で、私はその石を持ってE通路へ行った。

何も言わずに、丸い石の前にそれを置いた。

そして、思い切り踏んだ。

靴の底で、こつ、と乾いた音がした。

音はそれきりだった。

帰りのエレベーターの中で、はじめて肩の力が抜けた。

何かが解決したという感覚は無い。

手続きを一つ終えた、という感じに近かった。

役所の窓口で、書類を出したあとの気分によく似ていた。

※

芝田さんは、いまも同じ現場にいる。

あの晩のことを、私たちは一度も話題にしていない。

先輩は相変わらずE通路から戻ると片手を挙げるだけで、私もそれに黙って頷き返す。

郡司さんが使った数える石という呼び方を、私はこれまで誰にも使っていない。

それでこの現場は回っている。

変わったことがひとつだけある。

石の周りに散る小石が、毎朝ひとつずつ減っている。

十七や二十三といった、日ごとにばらばらな数はもう出ない。

きのうは三つで、その前の日は四つだった。

私は今でも手帳の隅に、日付と数を書きつけている。

E通路の照明は、人が入る少し前に点く。

今朝も、私が通路に入る前に照明は点いていた。

石の周りに、小石はもう一つも落ちていなかった。

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