
この話は、私が見たぶんより、梶さんに聞いたぶんのほうが多い。
順番どおりに書くと、たぶん何も伝わらない。
それでも順番どおりに書く。
水を抜いたぶんだけ、地面は軽くなる。
私の仕事は、その軽くなった地面が一日にどれだけ沈んだかを測ることだ。
計測会社に入って六年目になる。
沈下計と水位計を据えて、数字を拾って、朝いちばんに表へ落とす。
派手なことは何もない仕事だ。
去年の春から、間久保の雨水貯留管の現場に入っていた。
市の中心から北へ二キロほど行った低地だ。
白須川の古い氾濫原で、掘れば必ず水が出ると言われていた。
実際、ボーリングの柱状図は砂と礫と水ばかりだった。
だから工事は、水を抜くところから始まる。
深井戸を何本も打って、ポンプで汲み上げ、地下水位を十メートル下げる。
地面を乾かしてから掘る、という段取りだ。
その作業が、止め井戸という別の言葉と重なるとは、そのときは思っていなかった。
立坑は直径八メートル、深さは二十二メートル。
内壁は灰色のセグメントで、継ぎ目から細い水が筋になって垂れていた。
底に降りると、耳の圧が少し変わる。
外の音がひとつも入ってこない。
発電機の唸りだけが、円筒の壁を回って戻ってくる。
その底に、掘削中に出てきた古い石組みがひとつ残っていた。
径一メートルほどの、円く積まれた石だ。
苔の跡が黒く残っていて、上から見ると井戸の口にしか見えない。
図面には載っていない。
市の埋蔵文化財の担当者が来て、近世の井戸でしょう、と言って帰った。
撤去の手続きが下りるまで、そこだけ養生シートを掛けて残すことになった。
私はその脇に沈下計を一台据えた。
ついでに、というつもりだった。
現場には二十人ほどが入っていた。
私と組んでいたのが、柚木さんという二十七歳の作業員だった。
声が大きくて、休憩のたびに怪談の動画を音を出して見ている人だった。
イヤホンをしてくださいと言うと、素直に片方だけ入れた。
「俺、十七か所回って、一度も何も見てないんですよ」
柚木さんはそう言って笑った。
「霊感ゼロなんです。なんかもう、才能ないですね」
「才能がないほうが長生きしますよ」
「それ、梶さんにも言われました」
梶さんの名前が出たのは、そのときが最初だった。
八月に入る前の、まだ何も起きていない昼だ。
羽虫の多い時季だった。
坑口に投光器を据えると、光の柱が白い虫で埋まる。
夜間の作業では、その柱の下を通るたびに顔をぬぐうことになる。
ただ、柚木さんの投光器にだけ、羽虫が一匹も来ていなかった。
光の強さも角度も、私のものと変わらない。
私は電球の型が違うのだろうと思っていた。
そのころの私は、数字に出ないことは起きていないことだと思っていた。
カチという音の間隔
最初に音を聞いたのは、梅雨が明ける少し前だった。
底で検尺をしていると、背中のほうで小さな音がした。
カチ、と乾いた音だ。
巻尺の目盛りが一段だけ送られるときの音によく似ていた。
私は反射的に自分の手元を見た。
テープは止まっている。
指も動かしていない。
顔を上げると、音は石組みのあたりから来ていた。
養生シートは掛かったままで、膨らんでも揺れてもいない。
その日は一回だけだった。
勘違いということにして、私は梯子を上がった。
翌日は二回鳴った。
その次の日は、四回だった。
数えていたわけではないのに、耳が勝手に間隔を覚えていく。
一週間もすると、カチ、カチ、と二拍で続くようになった。
音は毎回、前の日より少しだけ速い。
「これ、なんの音ですかね」
私が言うと、隣で配筋を見ていた戸波さんが顔を上げた。
戸波さんは現場代理人で、この現場でいちばん長い人だ。
「湧水が石を叩いてんじゃないの」
そう言いながら、戸波さんは石組みのほうを見なかった。
見ていないのではなく、見ないようにしている、という目の動きだった。
「水はもう抜いてますよ」
「じゃあ配管の膨張だ」
「配管、あの位置に入ってないです」
戸波さんは軍手を直して、上へ行ってしまった。
柚木さんだけが、きょとんとしていた。
「え、なんか鳴ってます?」
「鳴ってるよ。さっきから」
「聞こえないなあ」
柚木さんは耳に手を当てて、わざとらしく首を傾げた。
本当に聞こえていないようだった。
私はそのとき、少しうらやましかった。
その週の終わりには、音は三拍に増えていた。
三拍のあいだに、私は自分の呼吸を止めていることに気づいた。
念のため、スマートフォンで録音してみたことがある。
底に三十分置いて、あとで再生した。
発電機の唸りと、水の垂れる音しか入っていなかった。
カチという音は、一つも録れていない。
私はそれを見て、自分の耳のほうを疑った。
耳鼻科の予約を取って、行かなかった。
「聞こえる人と聞こえない人がいるみたいです」
若い作業員がそう言ったのは、盆の前だ。
聞こえるのは私と戸波さんと、あと二人。
聞こえないのは柚木さんと、あとは日によって変わった。
「柚木さんだけ、いっつも聞こえないんですよね」
若い子は笑いながら言った。
私は笑えなかった。
その日の帰り、駐車場で柚木さんに聞いてみた。
本当に何も聞こえないのか、と。
柚木さんは真面目な顔で、静かすぎて眠くなる、と言った。
底に降りると、いつも眠いのだそうだ。
底だけが上がっている
異変を数字で見たのは八月のはじめだ。
周囲の民家に据えた沈下計は、どれも順当に沈んでいた。
水を抜けば地面は縮む。
それが私たちの想定していた動きで、報告書もそう書くはずだった。
ところが立坑の底に置いた一台だけ、逆の値を返していた。
一日に〇・四ミリずつ、底が上がっている。
私は機器の故障を疑って、予備と入れ替えた。
翌日も同じだけ上がっていた。
三台目を並べて置いた。
三台とも、同じ値で上がった。
上がっているのは石組みの真上だけだ。
二メートル離すと、値はきれいに正常へ戻る。
円の内側と外側で、地面が別々の動きをしている。
私は上司に電話をして、途中で説明をあきらめた。
報告書にどう書けばいいのかわからなかった。
そのころから、底に匂いが出るようになった。
乾いた畳のような匂いだ。
い草と、古い木と、少しだけ線香に似た何か。
地下二十二メートルの、鉄と泥しかない場所で、それは不自然だった。
最初は誰かの弁当かと思った。
違った。
匂いは朝がいちばん強く、人が入ると薄くなる。
養生シートをめくったのは、匂いの元を探すためだった。
石組みの内側の壁に、木の造作が嵌まっていた。
手のひらに乗るほどの大きさだ。
はじめは配管の古い継手かと思った。
ライトを近づけて、私は膝をついた。
小さな座敷だった。
畳が四枚あって、襖まで入っている。
柱の面は削られて角が立っていて、細工は丁寧だった。
水が引いて、初めて空気に触れた面だとわかった。
木は濡れた色をしているのに、指で触ると乾いていた。
畳の目に、砂が一粒も入っていない。
畳の縁には、細い黒い線まで描き込まれていた。
誰かが住むために作られたものだ、と思った。
私は写真を三枚だけ撮って、シートを戻した。
手が震えていたわけではない。
ただ、それ以上めくってはいけない気がした。
その晩、日報の余白に、座敷、とだけ書いた。
石組みの寸法も測っておいた。
外径一メートル四センチ、内径七十二センチ。
石は十二段積まれていて、いちばん下の段だけ色が違う。
座敷が嵌まっていたのは、上から九段目だった。
方角を見ると、襖が北を向いていた。
北を向いた入口を、私はそのとき、ただの偶然だと思った。
本社にデータを送ると、すぐに電話がかかってきた。
計器の据え付けをやり直せ、という指示だった。
私は四台目を、石組みから五十センチの位置に据えた。
その一台も、翌朝には上がっていた。
私は数字を印刷して、机の上に四枚並べた。
四枚とも、同じ線の形をしている。
故障なら、こんなにきれいには揃わない。
止め井戸という言葉
翌週、前の警備会社にいたという老人が現場事務所に来た。
用地の境界の話をしに来たらしい。
話が済んで、湯呑みを置いて、帰りぎわに老人は坑口のほうを見た。
「あすこ、まだ水あるかい」
私は、抜いています、と答えた。
老人は少しのあいだ黙っていた。
「昔は、夜に水位を見に来る人がおったよ」
「工事の人ですか」
「いや。ずっと前からの決まりだったんだと」
「何のためにですか」
「それは知らん。減ってたら足しに来るんだと聞いた」
その人はもういない、と言って老人は帰った。
私はその足で図書館へ行った。
郷土資料の棚に、市史の分冊が並んでいた。
間久保の項に、止め井戸という言葉があった。
水を汲むための井戸ではない、と書いてあった。
地下から出ようとするものに棲む場所を与えて、そこに留めておくための井戸だという。
底に小さな座敷を据え、常に水を張っておく。
水があるうちは座敷は沈んでいて、住人は動かない。
干上がれば住人は家を失ったものとみなし、次の棲み処を探す。
記述はそれで終わっていた。
四行だけだった。
出典も、いつの話かも書いていない。
コピーを持って現場に戻ると、梶さんが事務所の前に立っていた。
元請けの安全衛生管理者で、五十代の女性だ。
現場に来る日はいつも、坑口の前で長いあいだ動かない人だった。
私はそれを、几帳面な人の癖だと思っていた。
コピーを見せると、梶さんは紙を読まずに言った。
「あれは止め井戸です」
「知ってたんですか」
「知ってました。だから毎週来てます」
「言ってくださいよ」
「言って、工程が止まりますか」
私は答えられなかった。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「水を戻すしかないです。でも、いまは戻せない」
梶さんはそれ以上は言わなかった。
帰りぎわに一度だけ振り返って、柚木さんのいる方を見た。
司書の人が、もう一冊出してきてくれた。
市史の資料編で、古い絵図が折り込んである。
白須川の東側に、小さな丸が点々と打たれていた。
凡例には、止井と書いてあった。
数えると、十一あった。
そのうちの一つが、いまの立坑の位置にほぼ重なる。
残りの十は、いまの白須の住宅地の下だ。
私は絵図の写しを頼んで、受け取るまで閲覧席で待った。
絵図の丸は、どれも川からの距離がほぼ同じだった。
水の来る高さに合わせて掘られている、ということだと思う。
待っているあいだに、柚木さんから通話の着信があった。
出ると、明日の段取りの確認だけだった。
「先輩、なんか声が暗いですよ」
「図書館にいるから」
「図書館で暗くならないでくださいよ」
電話を切ってから、私はしばらく絵図を見ていた。
四分ずれた日報
九月に入って、時刻が合わなくなった。
坑内の計測ロガーが打つ時刻と、地上の日報の時刻が四分ずれる。
ずれるのは、底に人が入っている時間帯だけだった。
私は電波時計に合わせて同期をやり直した。
翌日も四分だった。
前でも後ろでもなく、いつも四分。
柚木さんは、休憩に上がった記憶がないと言い出した。
上がってきたのを私は見ている。
自販機の前で、コーンポタージュの缶を振りながら話もした。
それでも柚木さんは、ずっと下にいたつもりだと言う。
「寝ぼけてんのかなあ、俺」
「病院、行ったほうがいいですよ」
「行きましたよ。異常なしって」
柚木さんは笑っていた。
私も笑った。
そのときの自分の顔を、あとで何度も思い出した。
四分のずれは、上がるときに消えた。
地上に出て十秒ほどで、ロガーの時刻と腕時計が揃う。
私はそれを二度、自分の目で確かめた。
戸波さんにも見せた。
戸波さんは画面を見て、記録には残すな、と言った。
残しても誰も信じない、という言い方だった。
その晩、薬液注入の立ち会いで残業になった。
底に降りたのは五人だ。
降りた瞬間に、匂いが濃いのがわかった。
カチ、カチ、カチ、と音はもう続き拍になっていた。
拍が速くなるにつれて、音の数が増えていく。
一つではない。
石組みの向こう側に、いくつも並んでいる。
乾いた金属が、順番に目盛りを送っている。
それが、こちらへ向かって列を詰めてくる。
足が動かなくなった。
梯子は十歩先にあるのに、その十歩が遠かった。
若い作業員が壁際にしゃがみ込んでいた。
戸波さんは立ったまま、石組みを見ていた。
今度は目をそらさなかった。
上から梶さんの声が落ちてきた。
「柚木くんから離れないで」
梶さんは梯子を滑るように降りてきて、私の手首を掴んだ。
そして私の手を、柚木さんの作業服の背中へ押しつけた。
「掴んで。指一本でもいいから」
私は掴んだ。
布は汗で湿っていて、背中は普通に温かかった。
戸波さんが柚木さんの腕を掴み、若い子が裾を掴んだ。
梶さんは柚木さんのベルトを握ったまま、最後の一人を引き寄せた。
五人が、一人の作業服に繋がっている。
そのとき、柚木さんの背中から何かが出た。
白とも灰ともつかない、煙のような形だった。
形は一度だけ人の肩のように見えて、すぐに崩れた。
それは私たちのほうを一度も見なかった。
音の列のほうへ向き直り、そこで止まった。
カチという音が、石組みの手前で止まっている。
止まったまま、鳴り続けている。
「今です。上がって」
私たちは梯子を上がった。
柚木さんは最後まで眠そうな顔をしていた。
事務所に戻っても、誰も何も言わなかった。
若い作業員が自販機で二本続けて缶を落とし、一本を柚木さんに渡した。
柚木さんは礼を言って、普通に飲んでいた。
「なんかあったんですか」
誰も答えなかった。
梶さんだけが、柚木さんの背中をしばらく見ていた。
その目は、人を見る目ではなかった。
建物の傷み具合を確かめる人の目だった。
羽虫の来ない投光器
数日して、私は梶さんに時間をもらった。
梶さんは缶のお茶を二本買って、坑口の見える段差に腰かけた。
「柚木くんの中に、先にいるんです」
「中って、体のなかですか」
「そう。あの子は入れ物なんです」
虫が寄らないのは、そこが空き家ではないからです、と梶さんは言った。
私は投光器の光の柱を思い出した。
白い虫で埋まる柱と、一本だけ透き通った柱を。
「十七か所の全部で、向こうが柚木くんを避けていたんです」
だから何も見ていない。
見えないのではなく、近寄られていないのだと梶さんは言った。
「あの晩、あれは私たちを助けたんですか」
梶さんはお茶を一口飲んだ。
「あれが柚木くんを守るのは、雨漏りのする家に住みたくないからです」
「じゃあ、私たちは」
「柚木くんに触れていたから、軒下に入れただけです」
少し離れていたら、井戸から来たほうに持っていかれていた、とも言った。
私は自分の手のひらを見た。
作業服の生地の感触が、まだ残っている気がした。
「祓えないんですか」
「祓うって、追い出すことでしょう」
梶さんは坑口を見たまま言った。
「出ていくときに、あの子の側が無事だと思いますか」
私は何も言えなかった。
「柚木くんのは、いつから入ってるんですか」
梶さんは少し考えてから、白須の区画整理の話をした。
川沿いの一帯が埋め立てられて、古い井戸がまとめて潰された年があるという。
そのときに家を失ったものが、近くにいた入れ物へ移ったのだろうと。
私は市史のコピーをもう一度めくった。
年表の欄に、埋め立ての年が入っていた。
白須の止め井戸が埋められたのは、柚木さんが生まれた年だった。
水を戻す作業には、三日かかった。
散水用のホースを底まで下ろして、石組みの内側だけを満たしていく。
座敷が沈んだ瞬間、匂いが消えた。
現場の全員が気づいたのに、誰も口に出さなかった。
沈下計の値は、その日から上がらなくなった。
一日〇・〇ミリ。
私は初めて、変化のない数字を見て安心した。
戸波さんは年度末で別の現場へ移った。
挨拶のときに一度だけ、あの井戸のことを言った。
「水位、頼むな」
それだけだった。
梶さんはいまも毎週来る。
坑口の前で立ち止まる時間が、前より短くなった気がする。
現場は十月に工程を変えた。
石組みは撤去せずに残すことになり、底には水を戻した。
理由は地下水位の復元ということになっている。
水位計の値を毎日確認する担当は、いまも私だ。
数字が下がった日は、その日のうちに水を足しに行く。
夜に見に来ていたという人の役目を、いまは私がやっている。
柚木さんは去年結婚して、今年子どもが生まれた。
写真が送られてきて、私はおめでとうとだけ返した。
水を抜いたぶんだけ、地面は軽くなる。
軽くなった場所に何が上がってくるかは、誰も計算に入れていない。