夜明け前の国道が、そこになかった

雪中の村と静かな夜

夜勤が終わる時刻は、いつも午前五時だった。

金属部品の寸法検査を専任で受け持っていた私は、週三日の夜勤シフトで工場に入っていた。その工場は富山県高岡市の外れにある工業団地の一角にあり、最寄り駅からも遠く、私は毎回自転車で通っていた。距離にして四キロほどだったが、冬のあいだは積雪と路面凍結のせいで、その四キロが一時間近くかかることもあった。

夜勤の帰り道は、いつも同じルートを走っていた。工業団地を抜けて、国道八号線の歩道に出る。その国道沿いを三キロほど走り、角のコンビニで缶コーヒーを一本買う。それだけが習慣だった。深夜から早朝にかけての国道は、大型トラックがぽつぽつと行き来しているだけで静かだった。街灯が等間隔に並び、その光が積雪に反射して、昼間とは別の明るさがあった。私はその道をもう三年近く走っていたので、街灯の数も、どのあたりでカーブするかも、体で覚えていた。

ある街灯の根元に、いつからかシールが貼られていた。誰が貼ったのか分からない、何かのキャラクターのシールだった。私はそのシールを、帰り道の位置確認の目印にしていた。あのシールが見えたら、コンビニまであと七百メートルだと分かっていた。

冬の夜勤は体に来る。午前一時から五時のあいだは特に眠気が強く、検査台の前でぼんやりしてしまうことがあった。私はそれを防ぐために、一時間おきに工場の外へ出て冷気を吸い込むことにしていた。外に出るたびに工業団地の夜景が視界に入った。倉庫のシルエット、フォークリフトの黄色い灯り、遠くに見える高速道路の橋脚。毎晩同じものを見ていた。

一月の終わりのことだった。

その夜は工場を出るころから雪が降りはじめ、自転車に乗って十分ほど経つと横殴りになっていた。国道に出てからは向かい風がひどく、いつもより速度が出なかった。フードを深くかぶって走っていたが、顔の正面から吹きつける粉雪が目に入りはじめた。思わず目を閉じ、顎を胸に埋めるようにして数秒だけやり過ごした。ほんの三、四秒のことだったと思う。自転車の速度は落としていなかった。

目を開けると、コンビニの灯りが見えなかった。

一瞬、雪で視界が塞がれているのだと思った。目を細めてもう一度見渡したが、国道の向こうに並んでいたはずの街灯が、一本も見当たらなかった。あのシールの貼られた街灯も、どこにもなかった。路面の状態も変わっていた。除雪された痕跡がなく、誰も踏み荒らしていない雪が、道の端から端まで均一に積もっていた。アスファルトの感触がなかった。自転車のタイヤが、未舗装の地面を踏んでいるような音を立てていた。

私は自転車を止めた。

あたりを見渡すと、工業団地の建物が見えなかった。

工場のフェンスも、外灯も、看板類も、すべてが消えていた。かわりに、古い農家のような建物が数棟、雪の中にぼんやりと輪郭をのぞかせていた。屋根の形がどこか古めかしかった。瓦の積み方が現代のものとは違うかのようでもあった。棟と棟のあいだに、木でできた低い柵のようなものが続いていた。どれも雪をたっぷりとかぶっていて、人が暮らしている気配はなかった。

国道が、どこにもなかった。

私が今まさに走っていたはずの国道八号線が、左右どちらを向いても、ただの雪野原になっていた。車の轍も、街灯の柱も、ガードレールも、何もなかった。その代わりに、細い農道のようなものが一本、雪の中を延びていた。幅は一メートルあるかないかで、人か小さな荷車しか通れないような道だった。

工業団地の排気音も、遠くを走るトラックのエンジン音も、何一つ聞こえなかった。雪が降っているときの無音には慣れていたが、この無音はそれとは質が違うように思えた。何か大きなものが音を抜き取ったような、空洞のような静けさだった。

夢だとは思わなかった。寒さはリアルだったし、自転車のハンドルの冷たさも、靴の中に入りこんだ雪の感触も、どれも夢のそれとは違った。私はいつの間にか自転車を降りて、周囲を確認しようと歩きはじめた。工業団地を外れたのかもしれない、雪で方向感覚がずれたのかもしれない、そういう可能性を順番に検討しながら歩いた。どれも、しっくりこなかった。

農家のような建物の前まで来たが、灯りは一つも点いていなかった。引き戸に手をかけてみたが、動かなかった。窓の様式が今の建築のものではなかった。木枠に白いサッシのような素材が組まれていたが、その意匠がどこか古く見えた。昭和の中頃か、あるいはそれより前のもののようでもあった。

敷地の隅に、農機具らしきものが置かれていた。金属と木でできた、用途のよく分からない道具だった。エンジンはついていなかった。手押しか、動物に引かせるかして使うものに見えた。今の農業で使うものとは、形が全体的に違った。

別の建物の前も覗いてみたが、同じだった。灯りなし、人の気配なし。戸がすべて閉まっていた。表札のようなものがあったが、雪と汚れで読めなかった。辛うじて人名らしきものが二文字ほど見えたが、それ以上は判別できなかった。空を見上げると雪雲が低く垂れ込めていて、どちらが東でどちらが西なのか、見当もつかなかった。

集落の外れに小さな井戸があった。石で囲われた古い井戸で、木の蓋が乗っていた。その蓋の上に、濡れた痕跡のようなものがあった。誰かが最近ここを使ったかのようだった。周囲を確認しようとしたが、人の姿も動物の姿も足跡らしきものも、なかった。

どれだけ歩いたかは分からない。雪が降り続けていたので、自分の足跡もすぐに消えていった。どちらが来た方向なのか、もう分からなくなっていた。細い農道を歩いたが、少し先で途切れていた。途切れた先は、ただの雪原だった。

一度立ち止まって、携帯電話を取り出した。電波は一本も立っていなかった。時刻表示は先ほどと変わっていなかった。午前五時十三分のまま、時計が動いていなかった。画面を閉じて、もう一度開いても、やはり五時十三分だった。

そのとき、遠くに人影が見えた。

最初は柱か何かだと思った。雪の中で、何か細長いものが、ゆっくりこちらへ近づいてくる気配があった。目を凝らすと、人だとわかった。荷車を引いていた。木製の、二輪の荷車で、荷台には何かを乗せているようだったが、雪で形が分からなかった。荷車の車輪が雪を踏む、低い軋み音がした。その音だけがかすかに聞こえた。

五十代か、六十代か。体格のいい男性だった。綿入れのような厚い上着を着ていた。頭には毛糸の帽子。足元は地下足袋だった。今の季節に地下足袋を履いている人間がいることに、私は少しだけ驚いた。

男性は私を見ると、立ち止まった。しばらく私を頭からつま先まで眺めてから、口を開いた。

「どっから来た」

私は工場の名前を言った。高岡市の、あの工業団地の工場だと言った。男性は首をわずかに傾けた。私が工業団地という言葉を使った瞬間だけ、男性の表情がわずかに変わったように見えた。その変化が何を意味するのかは分からなかった。

「どうやってここに入った」

「入ったというか、気づいたらここにいました。目を閉じた瞬間に」

男性は少しのあいだ黙っていた。困ったような顔をして、ため息とも呼べないような短い息を吐いた。何かを長いあいだ繰り返してきた者の、疲れた表情だった。

「ここは俺の地区じゃないんだが」と男性は言った。「仕方ない」

「仕方ない、というのはどういう意味ですか」

「そのまんまだ。俺の担当じゃないが、放っておくわけにもいかないってことだ」

男性はそれ以上説明しなかった。こちらへ三歩ほど近づいて、私が来た方向を指さした。

「来た方向に、十歩戻れ。数を間違えるな。目を開けたままだと戻れない」

「目を閉じるんですか」

「閉じて、十歩。数えながら歩け。途中で止まるな。頭が痛くなるかもしれないが、止まらずに歩き続けろ」

「戻れますか」

男性は少し間を置いてから言った。

「俺はもう何度かこういうのを見てる。だいたい戻れる。だいたいだが」

「だいたい、というのは」

男性は答えなかった。荷車の引き手を持ち直して、ゆっくりと歩きはじめた。私が来た方向とは逆に、雪の中へ遠ざかっていった。荷車の車輪が雪を踏む音が、少しずつ遠くなっていった。

その背中を見ながら、私は少しのあいだ立ち尽くしていた。男性の姿が雪の向こうに見えなくなるまで、何も考えられなかった。考えるための情報が、あまりにも足りなかった。他に選択肢がなかった。

目を閉じた。

来た方向はどちらか、しばらく考えた。自転車を止めた地点から歩きはじめた方向を逆算して、なんとなくこちらだろうという方向を向いた。自信はなかった。ただ男性の指した方向だけを頼りにした。

一歩。二歩。雪の感触が足の裏に伝わった。未舗装の地面を踏んでいる感触だった。

三歩。四歩。五歩。あの男性の言った「頭が痛くなる」が頭の片隅にあった。今は何ともなかった。ただ静かだった。目の裏が暗いだけだった。

六歩。七歩。耳の奥に低い音が響きはじめた気がした。何かが静かに変化しているような感じだった。その音は聴こえているとも聴こえていないとも言えない、境界のような音だった。

八歩。九歩。足の裏の感触が変わった。舗装された路面の硬さになった。確かにアスファルトを踏んでいた。

十歩。

目を開けた。

街灯があった。コンビニの看板が見えた。車が一台、遠くで曲がっていった。国道の白線が、雪の中にうっすらと見えた。自転車が、私のすぐ後ろに止まっていた。空気に音が戻っていた。

しばらくその場に立って、周囲を確認した。工業団地のフェンスが見えた。工場の外灯が見えた。あのシールの貼られた街灯も、すぐそこに立っていた。何もかもが元通りだった。

振り返ると、荷車の轍だけが、雪の上に一直線に続いていた。

その轍は二十メートルほど先で止まっていた。止まっているだけで、消えてもいなかった。ただそこで終わっていた。男性が歩いていった方向には、轍の跡はなかった。

私は自転車を押しながらコンビニに入り、缶コーヒーを一本買った。レジの店員が「外、すごい雪ですね」と言った。私は「そうですね」と答えた。それだけだった。

帰宅してから、一時間ほど眠れなかった。何かを考えていたわけではなかった。ただ天井を見ていた。あの雪原の静けさが耳の奥に残っているような気がした。翌日、国道八号線をいつも通りに走った。あのシールの貼られた街灯の前で、少しだけ速度を落とした。目は閉じなかった。

あの男性が何者だったのか、今も分からない。「ここは俺の地区じゃない」という言い方が、今でも気になっている。では彼の地区というのはどこなのか。どこかに担当区域のようなものがあるとしたら、あの雪原に迷い込んだ人間を助けて回る者たちが、複数いるということなのか。荷車の上に何を乗せていたのかも、分からなかった。

いつかまた雪の中で目を閉じることがあったら、同じ場所に戻るのかもしれない。今のところ、そうはなっていない。あの時計が止まったまま午前五時十三分を指していた携帯電話も、コンビニを出たときにはいつも通りの時刻に戻っていた。

今も、あれが何だったのかはわからない。

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