
これは、路線図にも地図にも載っていない「すたか駅」という無人駅に、降りてしまった夜の話です。
去年の十一月の、金曜日のことでした。
その日は京都で取引先との会食があり、帰りの電車に乗ったのは、二十二時を少し過ぎた頃でした。
京都駅から、JR京都線の普通電車に乗ります。
自宅の最寄りは長岡京駅で、乗ってしまえば二十分ほどです。
いつも通りの帰り道でした。
座席は半分ほど空いていて、私は車両の端の席に腰を下ろしました。
ビールを二杯と、日本酒を少し飲んでいました。
窓に頭を預けた途端、まぶたが重くなりました。
車内のアナウンスも、レールの継ぎ目の音も、少しずつ遠くなっていきました。
会食の席で聞いた、取引先の昔話が、頭の中でぼんやり繰り返されていました。
向かいの席のおばあさんが、膝の上で赤い糸の束を、ゆっくりと撫でていたのを覚えています。
目が覚めたのは、電車が止まったときの、小さな揺れでした。
窓の外は暗く、ホームの灯りは数えるほどしかありません。
スマートフォンを見ると、画面には二十三時七分と出ていました。
長岡京を乗り過ごしたのだと、すぐに思いました。
けれど、窓の外に駅名標が見当たりません。
ドアが開き、湿った冷たい空気が、車内へ流れ込んできました。
車内に残っていたのは、私と、向かいの席にいた小柄なおばあさんだけでした。
おばあさんは、何も言わずに立ち上がり、先にホームへ降りていきました。
私も、つられるように降りました。
振り返ると、電車のドアはもう閉まり始めていました。
そのまま音もなく動き出し、すたか駅のホームを後にして、赤い尾灯が、闇に溶けていきました。
すたか駅の待合室
ホームの端に、錆びた駅名標が一本だけ立っていました。
コンクリートの床は、雨上がりのように黒く濡れていて、靴底が少し滑りました。
白い文字は薄れかけていて、「すたか」と、平仮名でそう読めました。
漢字の表記は、どこにもありません。
無人駅でした。
屋根の下には、木のベンチがひとつだけあります。
蛍光灯が一本、虫の羽音のような音を立てて、ちらついていました。
改札機はなく、錆びた柵の向こうは、墨を流したような暗がりです。
とにかく次の電車を調べようと思いました。
スマートフォンを取り出すと、画面の右上には「圏外」と出ています。
電波は、一本も立っていません。
すたか駅の壁に時刻表がないかと探しましたが、色の抜けた広告の跡があるだけでした。
ベンチの木は、ささくれていて、指に冷たく刺さりました。
風が吹くたびに、どこかで錆びた金属が、ことんと鳴りました。
虫の声が、まったくしないことに気づいたのは、そのときです。
十一月とはいえ、郊外の駅なら、遠くで犬くらいは吠えるはずです。
何の音もしませんでした。
自分の呼吸と、蛍光灯のちらつく音だけが、耳の中で重なっていました。
帰りが遅くなると、妻に連絡しようと思いましたが、メッセージは送信中のまま、進みませんでした。
ベンチの反対の端に、さっきのおばあさんが座っていました。
いつ座ったのか、私にはわかりません。
十分ほど、お互いに口をききませんでした。
思い切って、声をかけました。
「すみません、次の電車は、何時ごろでしょうか」
おばあさんは、こちらを見ずに答えました。
「じきに来るよ」
それだけでした。
さらに十分が過ぎましたが、線路の先に灯りは見えません。
スマートフォンの時刻は、二十三時七分のまま、動いていませんでした。
再び話しかけようとしたとき、おばあさんが、独り言のように言いました。
「牛が鳴いたら、あの子の背中だけを見て歩きなさいね。振り向いたら、いけないよ」
意味がわからず、聞き返そうとしました。
けれど、おばあさんはもう立ち上がっていました。
杖もつかずに、ホームの端の暗がりへ、歩いていきます。
その足音が、まったくしないことにも、私は気づきました。
落ちていたお守り
ひとりになると、蛍光灯の音だけが大きくなりました。
そのとき、改札の柵のほうから、小さな足音が近づいてきました。
子どもでした。
小学生くらいに見えましたが、年は、はっきりしません。
白っぽいシャツを着て、頭が、灯りの届かない高さにあるせいか、顔はよく見えませんでした。
子どもは私の前を通り過ぎ、ホームの端へ、小走りに向かいました。
そのとき、何かがコトンと音を立てて、床に落ちました。
赤い布の、小さなお守りでした。
房の糸が、片方だけほつれています。
「落としましたよ」
声をかけましたが、子どもは振り返りませんでした。
私はお守りを拾い上げ、おばあさんが消えた暗がりへ向かいました。
おばあさんは、線路沿いの柵の前に、背を向けて立っていました。
「これ、あの子が落としたようです」
差し出すと、おばあさんは手を伸ばして、受け取りました。
指先が触れた瞬間、ひどく冷たいと感じました。
氷に触れたような冷たさでした。
布の赤が、蛍光灯の下で、妙に濡れて見えました。
羽虫がひとつ、蛍光灯に当たって、乾いた音を立てました。
おばあさんは、受け取ったお守りを、しばらく掌の中で転がしていました。
「そうかい」
おばあさんは、小さく息を吐きました。
「それなら、あの子は怒るかもしれないねえ」
意味を尋ねようと顔を上げると、そこにはもう、誰もいませんでした。
山に灯る提灯
そのとき、低い音が、山のほうから響いてきました。
牛の鳴き声のようでした。
ただ、牛にしては、あまりに長く、腹の底に響く音でした。
思わず顔を上げると、駅の向こうの山の斜面に、橙色の灯りが並んでいました。
提灯のようでした。
風はないのに、灯りだけが、ゆらゆらと同じ方向へ揺れていました。
そちらから、線香にも似た、甘く焦げた匂いが流れてきました。
一つ、また一つと、山肌を登るように、灯りが増えていきます。
何かの行列のようにも見えました。
足元で、砂利を踏む音がしました。
さっきの子どもが、すぐ傍に立っていました。
今度は、顔が見えました。
ひどく不機嫌そうに、眉をひそめていました。
私の手元を見て、お守りがもうないことに気づいたのでしょう。
子どもは何も言わずに私を睨み、それから、くるりと背を向けて歩き出しました。
「牛が鳴いたら、あの子の背中だけを見て歩きなさいね」
おばあさんの声が、耳の奥で聞こえました。
私は、その小さな背中の後を追いました。
改札の柵が、ひとりでに開きました。
その先の道は、ぬかるんでいて、濡れた草の匂いがしました。
靴の中に、冷たい泥水が染みてきましたが、足を止める気にはなれませんでした。
前を行く子どもの足音は、まったく聞こえません。
背後から、牛の声が、何度も追ってきます。
提灯の灯りが、後ろの木々の間で、ゆらゆらと揺れているのがわかりました。
振り返ってはいけない。
そう言い聞かせて、私は子どもの背中だけを見て歩きました。
どれほど歩いたのか、わかりません。
前を行く背中が、ふと見えなくなりました。
顔を上げると、そこは、見慣れた明るい光の下でした。
阪急長岡天神駅の、改札の前でした。
終電を待つ人が、数人、スマートフォンを見ています。
私のスマートフォンは、二十三時四十二分を示していました。
膝から力が抜けて、私は改札脇の柱に、しばらくもたれかかっていました。
振り返っても、そこにあるのは、駅前のロータリーの街灯だけでした。
山も、提灯も、ありませんでした。
画面の右上には、電波が三本、立っていました。
履歴に残った運賃
家に着いたのは、日付が変わる頃でした。
玄関で靴を脱ぐと、妻は寝ていて、廊下には、洗濯物の柔軟剤の匂いが残っていました。
その普通の匂いが、かえって現実から遠く感じられました。
シャワーを浴びて、ようやく落ち着いてから、スマートフォンで調べました。
「すたか駅」と入力しても、路線図にも、駅名の一覧にも、出てきません。
京都線にも、阪急にも、そんな名前の駅は存在しないようでした。
平仮名の「すたか」という地名も、見つかりませんでした。
ICカードの利用履歴を開くと、最後の行に、京都から阪急長岡天神までの運賃が引かれていました。
靴の裏には、乾きかけた泥が、うっすらと残っていました。
私は、JRに乗ったはずです。
阪急に乗り換えた記憶は、ありません。
上着のポケットには、あの夜以来、赤い糸くずが一本入っています。
捨てようとするたびに、手が止まります。
すたか駅のベンチに座っていたのは、二十三時七分から、二十三時四十二分までのどこかです。
そのあいだ、電車は一本も来ませんでした。
三十五分という時間は、どの電車にも、どの駅にも、結びつきません。
それでも、おばあさんは確かに言いました。
「じきに来るよ」
あれは、電車のことだったのでしょうか。
それとも、別の何かのことだったのでしょうか。
今も、私にはわかりません。
ただ、あの夜以来、帰りの電車では、決して眠らないようにしています。