能力
商店街の奥の椅子に座る年寄りは、通る人を見て食べ物の名を一言だけ呟きました。直前に食べたものを当てているのだと思っていた私は、呟かれた人の記録を追ううちに、この…
商店街の奥の椅子に座る年寄りは、通る人を見て食べ物の名を一言だけ呟きました。直前に食べたものを当てているのだと思っていた私は、呟かれた人の記録を追ううちに、この…
雨の晩、堤防の道で前を行く車は追い越すな、鳴らすな。祖母の言いつけを破った夜勤明けの朝、前の軽自動車のワイパーだけが一度も動いていませんでした。その意味を知った…
昭和六十年の夏、川原に建つ見世物小屋で木戸番をしました。祖父に言われたのは、釣りを先に渡せという一言だけです。幕の内から響く拍手、濡れる地面、減っていく矢印、十…
昭和五十四年の秋、人形の町の川沿いで、乳母車を数珠つなぎに引く男とすれ違いました。布の下にあったのは、雛壇には決して飾られない顔。拾ったものに名をつけてはいけな…
四万八千円の白いクーペは、売れるたびに十日ほどで店へ戻ってきました。走行距離は戻るたび減り、助手席のベルトだけが人ひとりぶん伸びている。前の持ち主は全員、土砂に…
図面を見ずに時計を直してしまう祖父は、締める順序だけを帳面に書き残しませんでした。順は手に訊け、というその一行の本当の意味を知ったとき、盛岡の塔時計をめぐる四十…
琵琶湖のほとりの古い秤屋には、秤は必ず二本で一組という決まりがありました。控え帳は百年ぶん一本だけ多く、梁の奥には目盛りのない竿が掛かっています。対岸にあったと…
宮崎の山奥の集落で炭を焼く祖父は、窯の口を塗る土に必ず唾を落としました。木が一本も生えない丸い場所、鍬が入らないのに指では崩れる黒い層、叩くと鐘のように鳴るのに…
但馬の鉱山の旧坑から出た、用途の分からない素焼きの壺。夜だけ振れる電位計、毎週坑口に落ちている金色の板、そして日報といつも一つだけ合わない人数。台帳に残した三と…
昭和五十八年の秋、八溝の山あいの集落で、数の合わない彫刻石が見つかりました。誰も見ていない日にだけ増え、絵はしだいに新しくなり、やがて建ったばかりの建物が現れま…
紀伊の山あいの集落では家の戸をみな同じ形に作り、閉めるたびに数える習わしがありました。中学二年の朝、私は開けたはずの引き戸から玄関へ出てしまい、怖くなって一度閉…
霧ヶ沼の人は、ものを渡すとき決して「あげる」と言いません。期限を言わない贈り物は沼のものになるからです。図書室で仲良くなったあの子が遺した三行のノートを、私は期…
人見知りをしない双子の弟は、人の顔ではなく頭ひとつ上を見て笑う子でした。二十年ぶりに訪ねてきた同級生を見て、姉が初めて泣き叫んだ雨の日。三和土に残された素足の跡…
四国山地の集落に残る農村舞台に、支柱も鉄の釘も使わない十三段の箱階段がありました。材木の記録も大工の名も帳面にありません。手間賃を受け取らなかった職人に名を訊い…
熊野灘に面した集落の蔵に、夕方だけ湿る白い球が置かれていました。表面に浮かぶ入り江は日ごとに増え、地籍の控えには消えたはずの字名が一行だけ残っています。決して濡…
県境の低い山にあるという工事中の寺を、後輩と二人で探しに行きました。霧の参道で墨染めの行列に出会い、袖から腕が覗いた瞬間、そのうちの一体が参道の先へ声を張り上げ…
津軽のりんご園には、枯れた木の代わりを決めておく習わしがあります。祖父が三十年、南のはずれの一本だけ袋を掛けなかった理由と、新しいはずの剪定鋏の柄に残る二つの握…
駅のホームで起きた出来事から、娘の目だけは守ったはずだった。なのに娘は言った——「上からだと、ぜんぶ見えたもん」。古い木の跨線橋に伝わる「振り返ってはいけない」…
峠の一軒だけの洋食店。名物は三日火を入れるコンソメ。ある晩、湯気の消えた店で、見知らぬウェイターが告げた——「シェフは、煮詰まっております」。四日後の新聞記事で…
ゲーム好きだった祖母を亡くした春、孫だけで集まってテトリスを遊びました。選んだ覚えのないレベルから始まり、一度もクリアできたことのない私の指が止まらなくなります…