白いクーペと埋まった道

白いクーペと埋まった道

中古車を見るとき、私はまず助手席のシートベルトを引いてみる。

エンジンでも、下回りでもない。

助手席のベルトだ。

同業には笑われるが、二十六年、この癖は直っていない。

直せない理由が一つだけある。

※

平成のはじめ、私は房総の海沿いにある中古車屋で整備をしていた。

国道から少し引っ込んだ、須賀ヶ浦という小さな町だ。

店といっても、砂利の敷地にプレハブが一棟。

社長と、営業が一人と、整備が私。

それだけの店だった。

潮風で、置いてある車は半年で下回りが錆びる。

だから回転の早い安い車ばかり並べていた。

社長は五十半ばで、口数が少なく、値引きも渋い人だった。

営業の谷口さんは、その逆で、朝から晩まで喋っていた。

私は毎朝、並んだ車のフロントガラスを拭くところから一日を始めた。

潮でざらつく塩の粒が、雑巾の下でじゃりじゃり鳴る。

その音を、二十年経ったいまでも思い出す。

その中に、白いクーペが一台あった。

二ドアで、昭和五十四年の初度登録。

当時でもう古かったが、内外装はやけにきれいだった。

値札は、四万八千円。

当時、その手の車は状態がよければ三十万は下らなかった。

内装のビニールも、ハンドルの革も、ほとんど傷んでいない。

灰皿を開けても、吸殻の跡さえなかった。

それでいて、走行距離は六万八千を超えている。

六万八千キロ走った車の助手席が、なぜ新品の匂いのままなのか。

当時の私は、そこを不思議だと思わなかった。

間違いではない。

社長が自分で書いた値札だ。

「社長、これ桁が違いませんか」

「合っとる」

「もったいないですよ」

「早う出したいんよ、あれは」

社長はそれ以上、何も言わなかった。

※

車は三日で売れた。

買ったのは、木更津のほうから来た三十くらいの男の人だった。

納車の日、その人は嬉しそうにボンネットを撫でていた。

「昔から欲しかったんです、こういうの」

「大事に乗ってください」

「ええ。もう一生手放しませんよ」

その車が戻ってきたのは、十一日後だった。

下取りではない。

本人が運転してきて、鍵を置いて、書類だけ書いて帰った。

理由の欄には、一言だけ書いてあった。

合いませんでした、と。

「何が合わんかったんですかね」

「聞くな」

社長は伝票を裏返して、それきりだった。

谷口さんは、それを見て肩をすくめた。

「まあ、こういうこともあらあね」

「ありますか」

「あるある。人と車にも相性があるんよ」

谷口さんは笑って、次の車の値札を書きに行った。

その背中に、社長が短く声をかけた。

「あれは、まだ表に出すな」

※

最初の違和感は、そのときの点検で気づいた。

走行距離が、減っていたのだ。

納車のとき、私は自分でメーターを控えている。

六万八千二百四十。

戻ってきたときの数字は、六万八千百九十だった。

五十キロ、減っている。

メーターを戻せば、封印か固定のねじに必ず跡が残る。

私は分解して確かめた。

跡はなかった。

数字だけが、静かに巻き戻っていた。

私は、そのことを社長に言わなかった。

言えば、自分の記録間違いを疑われると思った。

それでもノートには書いた。

職業病のようなもので、数字だけは残さないと落ち着かない。

あとになって、その癖に救われることになる。

※

二人目は、地元の若い男の子だった。

車は九日で戻ってきた。

三人目は、東京から電車で来た女の人。

六日で戻ってきた。

若い男の子は、返しに来たとき、店の入口で立ち止まって中に入ってこなかった。

鍵をカウンターに滑らせて、そのまま自転車で帰った。

東京の女の人は、代金を返さなくていいと言った。

「いえ、規定ですので」

「そういうお金じゃないんです」

何がそういうお金なのか、そのときはわからなかった。

三人とも、車のどこが悪いとは一言も言わなかった。

エンジンも、足回りも、私が見るかぎり調子はよかった。

どちらも、理由の欄は同じだった。

合いませんでした。

三度目の入庫の日、社長が事務所で煙草を消して言った。

「うちでは、三度戻ってきた車には値をつけんことになっとる」

「なんでですか」

「昔からそうしとる」

「売らんのですか」

「売らん。奥に置いとく」

白いクーペは、その日から敷地のいちばん奥へ回された。

シートをかぶせられ、値札も外された。

敷地の奥は、裏の防風林と物置に挟まれた、日の当たらない場所だ。

雨が降ると水が溜まって、車を置くには向かない。

社長がそこへ回した車を、私はそれまで見たことがなかった。

※

二つ目の違和感は、手で触ってわかった。

シートをかけるとき、助手席のベルトが伸びきっていた。

巻き取り機構が甘くなった車は珍しくない。

だが、この車のベルトは、運転席側だけは新品同様に巻き取る。

助手席のほうだけが、だらりと垂れている。

私は巻き取りユニットを分解して、ばねを新品に替えた。

きっちり巻き取るのを、その場で三度確かめた。

翌朝、シートをめくると、また伸びていた。

人ひとりぶん、引き出されたかたちで。

締めた覚えのないバックルが、外れて座面に転がっていた。

三度替えて、三度とも同じことが起きた。

四度目に、私は替えるのをやめた。

やめてから、妙なことに気づいた。

伸びている長さが、毎回まったく同じなのだ。

巻尺を当てると、いつも七十四センチ。

座った人の胴回りに合わせたような、中途半端に具体的な長さだった。

※

三つ目は、人の口だ。

営業の谷口さんは、書類の控えを几帳面に残す人だった。

私はその控えから三人に電話をかけた。

仕事熱心だったわけではない。

眠れなくなっていたからだ。

一人目の男の人は、電話口で長いこと黙っていた。

「須賀ヶ浦から、南へ行く国道あるでしょう」

「ありますね」

「あの新しいトンネルの手前で、右に折れる細い道」

「旧道ですね。塞がっとりますよ」

「そう。バリケードがある」

「それが、なにか」

「気がついたら、そこで車を停めてたんです」

男の人は、そこから先へ進めなくなったのだという。

進めなかったのではない。

進もうとしなかった、という言い方をした。

「自分が停めたんじゃない、と思うんです」

「じゃ、誰が」

「……それを言うと、頭がおかしいと思われるので」

電話はそこで切れた。

かけ直したが、二度と出なかった。

三日後に、控えの番号は使われていないというアナウンスに変わった。

引っ越したのだと思う。

そう思うことにした。

※

二人目も、三人目も、同じ場所を言った。

三人とも、旧道のバリケードの前で車を停めている。

三人とも、それきり乗るのが怖くなったと言った。

三人目の女の人だけが、もう一つ付け足した。

「助手席のベルトが、勝手に締まったんです」

「締まった」

「ええ。カチッて。あの音だけ、はっきり覚えてます」

私は受話器を持ったまま、敷地の奥のシートを見ていた。

風でめくれた裾から、白いドアの下半分が見えていた。

※

その週の土曜、私は自転車で旧道のバリケードまで行った。

新しいトンネルの手前を右に折れると、急に路面が古くなる。

継ぎ目にアスファルトを流した跡が、黒い線になって残っていた。

三百メートルほどで、鉄のバリケードが道をふさいでいる。

看板の字は、雨で半分読めなくなっていた。

その向こうは、土砂が斜面ごと道を飲み込んでいる。

草と灌木が茂って、もう道の形はわからない。

バリケードの手前の土の上に、タイヤの跡が二筋ついていた。

雨が降ったあとで、跡はまだ新しかった。

跡は、バリケードの直前で止まっている。

バックした跡は、なかった。

私は自転車を押して、来た道を早足で戻った。

戻る途中で一度だけ振り返った。

バリケードの鉄棒に、夕日が横から当たっていた。

影が、道の向こう側へ長く伸びている。

伸びた影の先が、土砂の斜面の途中で、途切れずに続いていた。

そこにはもう、道はないはずだった。

※

旧道のことは、地元の人間なら誰でも知っている。

昭和五十六年の秋、長雨のあとに崖が落ちた。

道は三百メートルほど土砂に埋まり、そのまま使われなくなった。

復旧はせず、山側に新しいトンネルを掘って付け替えた。

埋まった区間は、いまも土の下にある。

私は町の図書館で、当時の新聞の縮刷版を繰った。

崖崩れの記事は小さく、けが人の有無だけが書いてあった。

その隣の面に、通行止めの告知が載っていた。

同じ紙面に、地元の話題が小さく載っていた。

崖崩れの前の晩、旧道で車を待っていた人があったらしい、という短い記事だ。

名前は出ていない。

その人がどうなったかも、書いていない。

続報は、翌週の紙面にも、その次の週にもなかった。

私は縮刷版を閉じて、しばらく机に手をついていた。

告知の日付は、十月三日。

白いクーペの初度登録は、その二年前だ。

つまりこの車は、旧道が生きていた頃を知っている。

新しいトンネルを、知らない。

※

四つ目は、私自身が味わった。

梅雨の晴れ間に、私はその車を試運転に出した。

社長には黙っていた。

バッテリーを繋ぐと、一発でかかった。

半年動かしていない車の音ではなかった。

国道を南へ、新しいトンネルへ入る。

全長は千二百メートル。

制限速度で走れば、一分半ほどかかる。

入って十秒ほどで、ラジオの音が変わった。

曲が途切れて、アナウンサーの声になった。

何を言っているのかは聞き取れない。

ただ、話し方が古かった。

いまの人の喋り方ではなかった。

トンネルの照明が、途中から色を変えた。

白ではなく、黄色い、粒の粗い光になった。

そんな照明は、この町のどこにもない。

抜けた。

時計を見ると、入る前より二分ほど戻っていた。

デジタル時計が、戻ることはない。

私はハンドルを握ったまま、路肩でしばらく動けなかった。

耳の奥で、まだ古い放送の声が続いている気がした。

その日から三日ほど、店のラジオを点けるのが怖かった。

谷口さんに笑われたが、笑い話にしてもらえるのがありがたかった。

※

そして、助手席のベルトが締まっていた。

出るときには、確かに座面に転がっていたものだ。

バックルの音は、聞いていない。

私は車を降りて、五分ほど歩いた。

引き返してドアを開ける勇気が出るまで、それだけかかった。

戻ると、ベルトは外れていた。

だらりと、人ひとりぶん引き出されたかたちで垂れていた。

店に戻り、メーターを見た。

出る前より、十四キロ減っていた。

※

社長にすべて話したのは、その夜だ。

社長は事務所の蛍光灯を消して、外の自販機で缶コーヒーを二本買ってきた。

「昔な、この道はもっと海に近かったんよ」

「旧道ですね」

「よう乗せた道やった」

「乗せた」

「歩いとる人をな。バスが少なかったけん、みんな拾うて乗せよった」

社長は、缶の縁を指で回した。

「谷口も知っとるはずよ。あいつの親父が運転手やったけんな」

あとで聞くと、谷口さんはあっさり認めた。

「親父がよう言うとったよ。須賀ヶ浦の坂で手を挙げとる人はな、って」

「なんですか」

「必ず、家まで送れ。途中で降ろすくらいなら、初めから乗せるな」

谷口さんは、そこだけ真顔だった。

「送り届けん人はな、ずっと道におるけん」

「拾うたら、家まで送るのが決まりよ。途中で降ろすもんやなかった」

「……途中で降ろしたら」

「知らん。わしは降ろしたことがない」

風が敷地の砂利を鳴らした。

社長は缶を空にして、こう言った。

「三度戻るいうことはな、その車が、まだ帰り着いとらんちゅうことだ」

「帰り着いてない」

「行き先が、埋まっとるけんな」

それから社長は、少しだけ笑った。

笑い方が、まったく笑っていなかった。

「わしがあれを四万八千で出したんはな」

「はい」

「早う、次の人に渡してやりたかったけんよ」

「……次の人が、送り届けてくれるかもしれんから、ですか」

社長は答えなかった。

答えないことが、答えだった。

「あの車は、まだ、埋まったほうの道を走っとるんだよ」

※

翌週、白いクーペは敷地から消えた。

シートだけが、たたまれて置いてあった。

砂利には、タイヤが出て行った跡がなかった。

陸運局に照会したが、その車台番号の登録は見つからなかった。

谷口さんの控えも、その一台分だけが抜けていた。

三人分の下取り伝票も、綴りごとなくなっていた。

私が控えたメーターの数字を書いたノートだけが、机の引き出しに残っていた。

あの車が存在した証拠は、結局それしかない。

社長は消えた翌朝、一度だけ敷地の奥を見に行った。

シートをたたんで小脇に抱えて戻ってきて、それきり何も言わなかった。

私が何か言いかけると、片手を上げて止めた。

その手つきを、いまでも夢に見ることがある。

六万八千二百四十。

六万八千百九十。

六万八千百二十。

数字が、下へ向かって並んでいた。

※

社長は五年前に店をたたんで、いまは山のほうで畑をやっている。

去年の正月に電話をかけて、あの車のことを聞いてみた。

「憶えとらん」

「憶えてないですか」

「憶えとらんことにしとる」

それだけ言って、社長は話題を変えた。

畑の猪の話を三十分聞かされて、電話は終わった。

※

私は今も、隣の県で整備の仕事をしている。

三年前、取引先の店の裏で、白い二ドアのクーペを見た。

型も年式も同じだった。

色の褪せ方まで、同じだった。

ナンバーは、まったく別の県のものになっていた。

私は、まわりに誰もいないのを確かめてから、助手席のドアを開けた。

ベルトを引いた。

引くまでもなかった。

それは、すでに人ひとりぶん引き出された長さで、垂れていた。

値札には、五万円と書いてあった。

店の者に聞くと、二度目の下取りだと言った。

あと一度だ、と思った。

教えるべきかどうか、私は少し迷った。

教えてどうなるものでもない。

次に買った人も、たぶん十日ほどで返しに来る。

そしてまた、どこか別の店の裏に並ぶ。

三度戻れば、値札は外される。

外されたあとのことは、誰も知らない。

私は何も言わずに、その場を離れた。

言ったところで、あの車の行き先が掘り返されるわけではない。

中古車を見るとき、私はまず助手席のベルトを引いてみる。

きちんと巻き取るのを確かめて、それから、少しだけ息を吐く。

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