紙漉きの谷のウツシサマ

雪夜の灯りと幻影

これは、私が人に話す、三度目の証言になる。

一度目は駐在さんに、二度目は寺の住職に話した。

駐在さんは途中で帳面を閉じ、住職は最後まで目を合わせなかった。

だから今度は、聞き手の顔を思わず、起きた順の通りに話す。

その紙は、今も手文庫の底に一枚だけある。

昭和四十一年の冬、私は二十三で、四国の山あいの楮原という谷に嫁いだ。

九つの家がみな紙を漉く、寒漉きの村だった。

私の里は峠を三つ下った米作りの村で、紙のことは何も知らなんだ。

初めて峠から谷を見下ろした時、斜面に白いものが幾列も並んでいて、季節外れの雪かと思うた。

あれはみな、干し板の紙だった。

谷には電気こそ来とったが、道は荷車がやっとの幅で、冬は峠が塞がると町とも切れた。

切れても困らんだけのものが、谷の内で回っとった。

谷は深く、日は昼の二時には尾根の向こうへ引き上げた。

日が抜けたあとの谷を、土地の者は「影が入る」と言った。

影が入ると、谷の空気は音を立てずに冷えて、川の色が青から墨へ変わった。

漉き舟の水は、影入川という細い川から引いていた。

楮は秋の終いに刈って、雪の来る前に蒸して皮を剥ぐ。

蒸し釜から上がる湯気が、谷いっぱいに甘い匂いを広げる日は、九つの家が総出になった。

剥いだ皮は、影入川の瀬に晒す。

寒の水で晒した楮は、抜けるように白うなる。

「寒が紙を作るがよ」

姑の口癖だった。

九つの家の干し場が谷のあちこちで光って、冬の楮原は、雪より紙の方が白かった。

嫁いだ家は、夫と、姑と、十六になる義妹の小夜の四人暮らしだった。

夫は口の重い人で、怒りもせん代わりに、笑うのも年に数えるほどだった。

姑は仕事に厳しく、糊の炊き加減ひとつで一日口を利かんこともあった。

小夜だけが、朝から晩までよく笑った。

漉き舟には、トロロアオイの根を潰した糊を混ぜる。

この糊の加減で、紙の命が決まるのだと、嫁いだ晩に教えられた。

寒の水は、指の感覚を最初の一枡で持っていく。

簀桁の揺すり方を、私は小夜に教わった。

小夜は左利きで、簀桁を揺する手つきが、皆とは逆向きだった。

「姉さん、水は叩いたらいかん、撫でるがよ」

そう言って、赤う腫れた手で笑った。

逆向きの手つきなのに、小夜の紙が一番薄う、一番均一に上がった。

姑は小夜の紙を検めるとき、少しだけ目元を緩めた。

姑は毎朝、干し場の板の前に立ち、唇だけを動かして数を数えていた。

出荷の勘定だろうと、私は思っていた。

不思議だったのは、家の障子だった。

うちの障子には、うちの紙は貼らん。

嫁いですぐ、姑にそう言いつけられた。

紙漉きの家が、町の機械紙を買うて貼っていた。

理由を夫に聞くと、「昔からそうじゃき」とだけ言って、薪を割りに出て行った。

もう一つ、教えられた決まりがあった。

影が入ったら、漉かない。

日が尾根を離れたら、舟に簀桁を入れてはならない。

「影の水で漉いた紙は濁るき」

姑はそう言った。

濁れば売り物にならぬというだけの話だと、その時の私は思った。

村を歩くと、影入川の上手に、石を並べた小さな塚があった。

紙塚、と小夜が教えてくれた。

古い紙を納める場所だとだけ聞いて、私は手を合わせて通り過ぎた。

夜は早かった。

囲炉裏の火を落とすと、谷にはもう、川の音しか残らなかった。

その川の音を、私は長いこと、良い音だと思うて聞いていた。

最初の異変は、音だった。

一月の半ば、夜半に目が覚めた。

干し場の方から、音がしていた。

濡れた紙を、板からゆっくり剥ぐ音だった。

ぺり、ぺり、と間を置いて、それは続いた。

こんな刻に紙を触る者はいない。

氷の張る音だろうと思うことにして、目を閉じた。

翌る朝、干し場の紙は、どれも板に貼りついたままだった。

ただ、板の前の雪に、濡れた足の跡が一列あった。

下駄でも藁沓でもない、素足の形だった。

足跡は干し場の端まで続いて、川の方へ折れて、消えていた。

夜のうちに雪が締まっただけだと、これも思うことにした。

音は、それきり止んだわけではなかった。

幾晩かおきに、剥ぐ音は続いた。

そして少しずつ、家に近うなっている気がした。

初めは干し場の奥、次は板の列の手前、その次は、庭の木戸のあたり。

気のせいと言い聞かせるには、進み方が真っ直ぐすぎた。

二月に入ると、町から紙買いが来た。

帳場で餅が焼かれ、家の中が久しぶりに賑やかになった。

「楮原の紙は、明かりを入れると別嬪に映るき、高う売れるがよ」

紙買いは上機嫌でそう言った。

「ほんなら私の紙は、別嬪の別嬪じゃね」

小夜が混ぜ返して、皆が笑った。

姑だけが、笑わなかった。

紙買いは帰り際、土間で声を落とした。

「峠向こうの梼川の衆は、紙をやめたぜよ」

「なんでまた」

「さあ。紙が良すぎる村は、ようないと言うきね」

冗談の口ぶりだったが、誰も笑わんかった。

それから幾日かした朝のことだった。

姑の数える唇が、途中で止まった。

姑は列の頭からもう一度数え、それから板の間を一枚ずつ見て歩いた。

干した覚えのない場所から、一枚の紙が剥がされた。

遠目にも、その紙には濁りがあった。

雲のようなむらが、ちょうど人の目鼻の高さに、集まっていた。

姑はそれを筒に巻くと、何も言わずに仕舞い込んだ。

その夜、私は厠に立って、雨戸の節穴から外を見た。

干し場の裏に、小さな火が見えた。

火の前に、姑の背中があった。

燃え上がった炎が、一度だけ、縦に長う伸びた。

人の丈ほどに伸びて、それから静かに縮んだ。

私は見なかったことにして、布団へ戻った。

明け方、姑が影入川の上手から戻って来るのを、雨戸の隙間から見た。

手には、何も持っていなかった。

「お婆やんも、燃やしよったよ」

次の晩、隣の布団の小夜が小さな声で言った。

「ずっと前、私がちいさい時。夜中に、干し場の裏で」

「何の紙を」

「濁った紙。数より増えた紙」

小夜はそこで少し黙った。

「燃やすとき、紙が立つんよ」

「立つ?」

「炎の中で、こう、人が起きるみたいに」

それきり小夜は、掛け布団を頭まで引き上げた。

春が来て、雪の解けた影入川で、小夜と二人で楮を晒した。

水はまだ切れるように冷たかったが、日は長うなっていた。

「私はね、谷の外へ嫁に行くが」

小夜は瀬に手を突っ込んだまま、そう言った。

「海の見える町がええ。障子のいらん、硝子の窓の家がええ」

「紙漉きの娘が、紙のいらん家か」

「ほうよ。紙はもう、見飽きたき」

そう言って笑う横顔に、川の光が揺れていた。

私はこの時の小夜を、今でも一番よう覚えている。

春の彼岸に、隣の家の婆さまが茶飲みに来た。

婆さまは仏間の方を拝んでから、世間話の合間に、ぽつりと言った。

「影の入った水にはね、ウツシサマが下りとるがよ」

「ウツシサマ」

「ほう。じゃき、影の水で漉いたらいかん。紙が先に、顔をもらういかんき」

紙が、顔をもらう。

その言い回しが、しばらく耳の奥に残った。

「顔をもろうた紙は、どうなるん」

私が聞くと、婆さまは湯呑みを置いて、初めてこちらを見た。

「どうにもならん。始末が間に合えばの話よ」

婆さまはそれ以上を語らず、茶を飲み干して帰った。

後で知ったことも、ここに足しておく。

楮原の紙は、昔は障子紙ではなかった。

野辺送りの前に、渡った人の顔へ一晩かぶせる紙だった。

面紙と言うのだそうだ。

顔をこの世に置いて行ってもらうための紙で、使うた面紙は、影入川の上手の紙塚に埋めた。

面紙の漉き賃で、この谷は長いこと食うてきた。

売り先が障子紙に変わっても、水は同じ川から引いている。

紙塚の石の下には、幾百年ぶんの顔が眠っている勘定になる。

私はそれを、由緒のある話としか思わなかった。

思わないように、していたのかもしれない。

一度だけ、姑に聞いたことがある。

ウツシサマとは、何ですか、と。

姑は糊を炊く手を止めんまま、「名前を口にするもんやない」とだけ言うた。

その声が、叱るというより、庇うような声だったのを覚えている。

誰を庇うたのかは、今も分からん。

その年の十一月の終わり、町の問屋から急ぎの注文が入った。

師走前の、猫の手も借りたい時期だった。

私はその日、最後の一舟を任された。

数を上げようと急ぐうち、手元がふっと暗うなった。

顔を上げると、尾根の際から日が離れるところだった。

影が入る。

分かっていて、私はあと三枚を漉いた。

三枚目のとき、舟の水が、急に重うなった気がした。

撫でても撫でても、水が簀の上で止まりたがるような、嫌な重さだった。

水の面に映る自分の顔が、一瞬、揺れてもおらんのに歪んで見えた。

漉き上げた三枚は、見た目には濁っていなかった。

私は誰にも言わず、三枚をそのまま干し場の列に混ぜた。

数だけを合わせて、その日を終えた。

今から思えば、あれが全ての元だった。

年が明けて二月の口、南から強い風の吹く晩があった。

小夜の部屋の障子が桟ごと倒れて、三枡ほど破れた。

姑は折悪しく、峠向こうの遠縁の弔いに呼ばれて、二日戻らない日だった。

「町へ紙を買いに行く暇がないき」

夫はそう言って、蔵から売り物の紙を出してきた。

うちの障子には、うちの紙は貼らん。

姑の言いつけが頭を過ぎった。

「検めた紙じゃき、構んろう」

夫は笑って、刷毛で糊を伸ばした。

私も、手伝うた。

自分の漉いた紙かどうかは、乾いてしまえば見分けがつかん。

つかんはずのものが、その時だけ、妙に手に馴染んだ。

貼り上がった障子は真新しゅうて、部屋が急に明るうなった。

小夜は「上等の部屋になった」と喜んで、その晩から行灯を点けて本を読むようになった。

四日目の晩だったと思う。

厠に立った帰り、小夜の部屋の前を通った。

障子に、行灯の明かりで、小夜の影が映っていた。

文机に向かう、見慣れた坐り姿だった。

その影の右肩の上に、もう一つ、薄いしみのようなものがあった。

ちょうど、人の顔の高さだった。

行灯の火が揺れると、小夜の影は揺れた。

そのしみだけが、揺れなかった。

「小夜ちゃん」

声を掛けると、中で影が振り向いた。

「姉さん、まだ起きとったが」

いつもの声だった。

障子を開けた。

部屋には、小夜と行灯のほかに、何もなかった。

ただ、貼り替えたばかりの一枡に、糊のむらとも紙のむらともつかぬ濁りが出来ていた。

目と、鼻のあたりの高さに。

「糊が浮いたんじゃろか」

小夜は呑気にそう言って、指の背でその濁りを撫でた。

私はその晩のことを、誰にも言わなかった。

言葉にすれば、何かが決まってしまう気がした。

翌る晩、濁りは少し濃うなっていた。

その翌る晩は、障子の前に立つことが出来なんだ。

廊下の暗がりから、一枡だけ月より白い紙が、こちらを向いているようで。

三晩目の夜半、あの音を聞いた。

ぺり、ぺり、と、濡れた紙を剥ぐ音だった。

ただ、その音は干し場からではなく、家の内から聞こえていた。

廊下へ出た。

行灯はとうに落ちている刻なのに、小夜の部屋の障子に、ぼんやりと明るみがあった。

明るみの中に、坐った小夜の影があった。

その真向かいに、顔があった。

影ではなかった。

紙の濁りが目鼻を成して、内から膨らむように、小夜と向き合うていた。

私は、小夜の名を呼んだつもりだった。

声は、出ていなかったと思う。

膝から力が抜けて、廊下の柱に手をついた。

柱の鳴る音に、中の影がゆっくりと崩れ、布団へ入る気配がした。

障子の明るみが、すっと消えた。

あとは、ただの夜だった。

川の音だけが、いつもの通りにしていた。

私は朝まで、自分の布団の中で目を開けていた。

朝餉の席に、小夜はいつもの刻に下りて来た。

「姉さん、おはよう」

声も、顔も、小夜だった。

箸を取るのを見て、私は椀を持ったまま動けなくなった。

小夜は、右の手で箸を持っていた。

汁を一口啜って、「今朝は甘いね」と笑った。

味噌は、昨日と同じ味噌だった。

夫は箸を持ったまま、小夜の手元を見ていた。

それから私を見た。

何も言わず、目だけが、見たか、と聞いていた。

私は、椀に目を落とした。

その日から、小夜は鼻歌を歌わなくなった。

簀桁を揺する手つきは、皆と同じ向きになった。

紙は前より薄う、前より均一に上がった。

午後、川で楮を晒す小夜の手が、いつまでも水から出んのを見た。

「冷とうないが?」

「ん、今日はぬるいね」

真冬の影入川が、ぬるいはずはなかった。

海の見える町の話を振ってみた。

「ほんな話、したかね」

小夜は首を傾げて、少しの間の後、「ああ、した」と笑うた。

笑い方は、寸分違わず小夜だった。

夜、寝息を聞いた。

小夜の寝息は昔から浅うて、時々ことりと歯が鳴った。

その晩の寝息は深うて、朝まで一度も途切れなんだ。

その寸分違わんところが、一番いかんかった。

姑が峠から戻ったのは、その日の夕方だった。

姑は土間で小夜の「お帰りなさい」を受けて、小夜の顔を長いこと見た。

それから、部屋の障子を見に行った。

貼り替えた一枡の濁りは、消えていた。

紙は、漉き上がりのように白かった。

姑は何も聞かなかった。

夫を叱りもしなかった。

ただその晩、あの一枡の紙だけを枠から剥ぐと、油紙に包んだ。

「これは、紙塚へ持って行く」

それだけ言うて、包みを仏間の棚に上げた。

夜中、私は仏間へ入った。

包みを開けたのは、確かめたかったからだ。

剥がされた紙には、また濁りが浮いていた。

浮いた目鼻は、まっすぐこちらを向いていた。

小夜の顔だった。

鼻歌を歌いよった方の、左利きの方の、小夜の顔だった。

埋めてしまえば、この小夜は、どこにも居らんなる。

そう思うたら、手が勝手に動いた。

私は蔵から同じ寸法の紙を出して包みへ入れ替え、その一枚を手文庫の底に仕舞うた。

姑は次の弔いの折に、包みを紙塚へ納めた。

中身の入れ替わっとることには、終いまで気付かなんだと思う。

気付いとって、黙っとったのかもしれん。

それからのことは、早う話せる。

小夜はその後も、変わらず家で働いた。

物覚えは前のままで、昔の話をすれば正しゅう答えた。

ただ、答えるまでの間が、いつも半呼吸だけ長かった。

夫も気付いとったはずだが、生涯、口にはしなかった。

五年して、小夜は谷の外へ嫁に行った。

海の見える町ではなく、峠を二つ越えた盆地の、障子の多い旧家だった。

祝言の朝、白う装うた小夜は、家を出る前に紙塚の方へ向き直って、長いこと頭を下げた。

昔の小夜は、紙塚を「暗いき嫌い」と言うて、近寄りもしなかった。

姑は晩年、床に就く前の年に、私を干し場へ呼んだ。

「数えるんは、今日からあんたの役目じゃき」

姑が毎朝数えとったのは、出来た紙の数ではなく、増えた紙の数だった。

影の水が混んだ年には、干した覚えのない紙が板に増える。

誰より先にそれを見つけて、人の目に触れる前に始末するのが、この家の女の仕事だった。

「増えた紙は、顔の出る前に燃やすがよ。出てしもうたら、もう燃えん」

「燃えんかったら、どうするん」

「紙塚へ。それでも間に合わなんだら――」

姑はそこで言葉を切って、私の顔をじっと見た。

「――あんたはもう、知っとろう」

私は、手文庫のことを言えなかった。

翌る年、私は男の子を授かった。

子の部屋の障子には、必ず町の紙を貼った。

干し場の仕事は、子には終いまで教えなんだ。

数える役目が、私で終いになるようにと思うたからだ。

役目は、それから三十年続けた。

増えた紙は、二度見つけた。

二度とも、顔の出る前の朝に燃やした。

炎の中で、紙は二度とも、人が起きるように立った。

立った紙が倒れるまで、私は目を逸らさんかった。

それが、始末というものだと思うたからだ。

燃やした朝は、決まって影入川の水がぬるかった。

ぬるい水で漉いた紙は、その年はどれも、よう売れた。

楮原の寒漉きは、平成の口に終わった。

九つあった漉き場は、今は一つも残っていない。

紙は、町の工場が漉いている。

機械は昼も夜も止まらず、影が入ってからも紙を吐き続ける。

水は、今も影入川の筋から引いているそうだ。

干し場もなければ、板の前で唇を動かす者も、もうおらん。

増えた一枚は、誰にも数えられんまま、束に紛れて町へ出て行く。

障子の紙は減ったが、紙そのものは減っとらん。

本の紙、包みの紙、写しの紙。

明かりに透けて人の傍に立つ紙なら、今の世の方が、よほど多い。

駐在さんが帳面を閉じたのも、住職が目を合わせなんだのも、今なら分かる。

聞いてしもうたら、家の障子を見るたび、数えとうなるからだ。

証言は、これで終いになる。

手文庫は、今も私の枕元にある。

電灯を消す前に、時々、底の紙を出して透かしてみる。

小夜の顔は、年々薄うなっていく。

そして紙の上の顔は、年ごとに、私に似てくる。

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