
坑を出るとき、勘定方の宮下さんは、必ず指を折って何かを数えた。
声には出さない。
人の頭を数えているのだと、私は長いこと思っていた。
違った。
※
昭和五十一年、私は但馬の鉱山町にいた。
錫と銅を掘る山で、明治から続いていたが、そのころにはもう先が見えていた。
私は二十四歳で、分析室の助手だった。
試料の岩を砕いて、酸で溶かして、含有量を出す。
それだけの仕事である。
分析室は坑口から百メートルほど下がったところにある、平屋のプレハブだった。
夏は暑く、冬は指がかじかんで滴定のビュレットが握れない。
窓からは、選鉱場の屋根と、その向こうの谷が見えた。
谷には社宅が三十戸ほど並んでいて、夕方になると、どの家からも同じ時間に同じ匂いがした。
味噌汁と、洗い場の石鹸の匂いである。
町全体が、ひとつの家みたいなところだった。
坑口は、山の腹に四つあった。
本坑が二つ、通気用が一つ、そして使っていない旧坑が一つ。
旧坑の口は、明治三十九年に掘られて、大正の初めに止まっている。
止めた理由は、湧水が多かったからだと聞いていた。
入口には、朽ちた木の柵が渡してあって、その柵だけが、なぜか毎年掛け替えられていた。
誰が掛け替えるのか、訊いても要領を得ない。
「持ち回りよ」と、みんなそう言った。
持ち回りの順番を知っている者に、私は会ったことがない。
※
その年の六月、旧坑の整理をしていた組が、壺を掘り出した。
本坑ではなく、明治期に途中でやめた古い横穴のほうだ。
素焼きの、両手で抱えるくらいの壺だった。
口はアスファルトのようなもので塞がれていて、中に銅の筒と、細い鉄の棒が入っていた。
誰も見たことのないものだった。
それが三つ、並んで出た。
「東洋の学者に見せたら喜ぶで」と、坑長は笑った。
とりあえず分析室に運ばれてきたのは、置く場所が他になかったからである。
私は台帳に書いた。
壺、三。
※
その日の夕方、宮下さんが分析室へ来た。
勘定方といっても、坑内に入る人の数と時間を管理する係で、六十を過ぎていた。
宮下さんは、壺を見るなり、机の縁に手をついた。
「これ、どこから出た」
「旧坑の、二番の横穴だそうです」
宮下さんは、しばらく黙っていた。
それから、私の顔を見ずに言った。
「水を入れたらいかん」
「なんでですか」
「入れると、数える」
宮下さんは、それだけ言って帰った。
私は、老人の言うことだと思って、笑って忘れた。
翌日、同僚にその話をすると、彼は笑わなかった。
「宮下さん、あれ、冗談言う人と違うで」
「どういう意味ですか」
「わしがここへ来て十二年で、あの人が冗談言うたの、一回だけや」
「なんの冗談ですか」
同僚は、少し考えて、思い出せないと言った。
「思い出せんくらい、面白うなかった」
そう言って、彼は笑った。
私も笑った。
その日は、それで終わった。
※
異変というほどのことは、しばらく起きなかった。
最初に気づいたのは、指先の味である。
壺の縁を素手で触ったあと、指を舐めると、かすかに甘い。
砂糖の甘さではない。
金属を舐めたときの、あの薄い甘さである。
私は同僚にも触らせた。
「甘いか」
「甘いな」
「なんでや」
分からなかった。
壺は乾いていたし、中身も乾いていた。
※
次に気づいたのは、電位計である。
分析室には、古い電位差計が置いてあった。
使っていないときは、当然、針は動かない。
ところが、夜になると振れる。
私が居残りをした晩、目盛が〇・九のあたりで、ゆらりと止まった。
端子には、何も繋いでいない。
私は、その振れる時刻を、二週間記録した。
毎日、少しずつずれていく。
三十分ほどずつ、遅くなっていく。
三週目に、私は気がついた。
坑内の排水ポンプを止める時刻と、ぴったり同じだった。
私は念のため、ポンプ係に確かめに行った。
係の男は、記録簿を見せてくれた。
数字は、私の記録と一分と違わなかった。
「なんでそんなん調べとるんや」
「機械が、その時間に鳴るんです」
「機械って、なんの」
「電位差計です」
男は、記録簿を閉じた。
「あんた、旧坑のほうの水は、どこへ行くと思う」
私が答えられずにいると、男は続けた。
「どこにも行かんのよ」
「本坑は下へ抜けとる。旧坑は行き止まりや」
「溜まる一方や」
私は、そのとき初めて、背中が冷たくなった。
※
ポンプを止めると、坑の底に水が溜まりはじめる。
止める時刻は、その日の湧水量で決まるから、毎日ずれる。
そのずれと、針の振れが、一致していた。
私は、宮下さんの言葉を思い出した。
入れると、数える。
水を入れたのは、私ではない。
坑が、勝手に入れていたのだ。
※
七月に入って、坑口に、銀の板が落ちるようになった。
小指の先ほどの、薄い板である。
表面が、うっすらと金色に光っていた。
選鉱場の技師に見せると、鍍金だと言われた。
「これ、電気でやったやつやな」
「電気の鍍金、いつからあるんですか」
「戦前からある。けど、こんな下手なんは見たことない」
私は、その板を試料として分析にかけた。
下地は銀で、表面の金は、厚さが一定していなかった。
電気を流して鍍金すると、電極に近いところだけが厚くなる。
この板は、片側が厚く、反対側がほとんど乗っていない。
つまり、板の一端に電極を当てて、そのまま短時間だけ流した形である。
設備を使えば、こんな仕上がりにはならない。
「素人がやったみたいですね」と、私は技師に言った。
技師は、しばらく板を光に当てていた。
「素人がやったんやろ」
「誰がですか」
技師は、それには答えなかった。
板は、毎週月曜の朝、必ず一枚あった。
坑口の、右側の柱の根元。
いつも同じ場所だった。
※
板には、刻みがあった。
縁のところに、細い線が何本か入っている。
一枚目は、線が四本。
二枚目は、六本。
三枚目は、九本。
四枚目は、十三本。
私は、その数を分析室の壁に書いていった。
チョークで、日付と本数を並べて書いた。
掃除の人が消してしまうので、隅の目立たないところに書いた。
ある朝、その字が、一段ぶん増えていた。
私がまだ書いていない、その週の分である。
数字だけが、先に書いてあった。
字は、私の字によく似ていた。
その週の月曜、坑口の柱の根元にあった板の線は、書いてあった数と同じだった。
増え方に、規則がなかった。
四、六、九、十三、十四、十四、十八。
私は、この数字をどこかで見たことがあると思った。
思い当たるまで、二週間かかった。
※
坑務課の日報である。
その週に、旧坑側へ入った人間の数だった。
ただし、日報の数字とは、いつも一つだけ違っていた。
板の線のほうが、必ず一本多い。
四人入った週の板には、五本ではなく四本。
いや、違う。
私は書き写した紙を並べ直して、ようやく分かった。
板の線は、その週に旧坑へ入った人数と、同じだった。
日報のほうが、一つ少なかったのだ。
毎週、必ず、一人多く入っている。
私は、旧坑へ入る作業の名簿を借りて、名前を一人ずつ確かめた。
名前は全部、知っている人だった。
顔も浮かぶ。
誰かが余分に紛れ込んでいる、という感じではない。
数だけが、一つ多い。
名前を数えると、日報と同じ数になる。
板の線を数えると、一本多い。
何度やっても、そうなった。
私は、名前と線を、紙の上で向かい合わせに並べた。
線のほうが、いつも一本、余った。
その余った一本には、対応する名前がない。
※
私は宮下さんのところへ行った。
勘定方の詰所は、坑口の脇の、三畳ほどの小屋である。
宮下さんは、木札を並べていた。
入坑する者が自分の札を裏返し、出てきたらまた表に返す。
それだけの、古い仕組みだった。
「宮下さん、旧坑の人数、日報と合ってますか」
宮下さんは、札を並べる手を止めなかった。
「合わん」
「いつからですか」
「わしが来たときから」
「三十年前ですか」
「そうだ」
宮下さんは、そこで初めて手を止めた。
「わしは、日報のほうを書き換えとる」
※
私は、詰所の板の間に座り込んだ。
宮下さんは、茶を淹れてくれた。
そして、昭和二十八年の出水の話をした。
旧坑の二番で、水が噴いた。
そのとき、坑内には十九人いた。
三日かかって、全員が上がってきた。
「十九人、無事に出たんですね」
「出た」
「よかったじゃないですか」
「二十人、出た」
私は、湯呑みを持ったまま、宮下さんの顔を見た。
「札は十九枚しか裏返っとらん」
「けど、坑口で数えたら、二十人おった」
「顔も、みんな知っとる顔よ」
「そんで、次の日から、一人足りんようになった」
※
足りなくなったのは、頭数ではない。
宮下さんの説明では、こういうことだった。
あの日から、この山では、坑に入る人数がいつも一人多い。
そして、出てくる人数も、いつも一人多い。
差し引きは合っている。
合っているから、誰も困らない。
「困らんから、書き換えるだけよ」
宮下さんは、そう言って笑った。
笑ってから、真顔になった。
「けどな、あれは、数えとる」
「ずっと、数えとる」
「わしが指を折るのは、あっちが数えとる数と、こっちの数が、いつずれるか見とるんよ」
私は、ずれたことはあるのかと訊いた。
宮下さんは、湯呑みの底を見ていた。
「二回ある」
「どうなりました」
「一回目は、昭和三十六年」
「二回目は、四十四年」
「そのたんびに、旧坑の柵を掛け替えた者が、山を下りた」
持ち回り、という言葉が、そこで結びついた。
柵を掛け替えるのは、順番ではない。
ずれを埋めた者が、次の年まで掛け替える役になるのだ。
「今年は、誰が掛け替えたんですか」
宮下さんは、答えなかった。
そのかわり、自分の右手を、少し持ち上げて見せた。
※
八月の終わりに、閉山が正式に決まった。
片づけがはじまり、分析室の器具も運び出された。
壺は、県の博物館が引き取ることになった。
引き取りの日、業者が来て、木箱に詰めた。
私は台帳を見ながら、数を確かめた。
壺は、四つあった。
※
私は台帳を見返した。
私の字で、はっきり「壺、三」と書いてある。
六月の日付である。
四つ目は、他の三つと、少しだけ違っていた。
素焼きの色が、わずかに新しい。
口を塞いだアスファルトが、まだ柔らかかった。
指で押すと、指紋がついた。
そして、中の銅の筒には、うっすらと金色の鍍金がしてあった。
私は、その厚みを、指の腹で確かめた。
片側が厚く、反対側にはほとんど乗っていない。
坑口に落ちていた板と、同じ乗り方だった。
同じ手が、同じやり方で、これをやったのだ。
私は、筒を持つ手が震えているのに気がついた。
震えているのに、指先だけが、また甘かった。
下手な鍍金だった。
※
日誌の「壺、三」は、間違いではなかった。
四つ目は、その日、まだ無かったのだ。
私は業者に、四つで間違いないかと三度訊いた。
業者は、面倒くさそうに、四つだと言った。
木箱の伝票にも、四と書いてあった。
伝票を書いたのは、私ではない。
宮下さんの字だった。
日付は、六月になっていた。
壺が三つしかなかった、あの日の日付である。
私は業者を止めて、宮下さんを呼びに走った。
詰所に、宮下さんはいなかった。
札だけが、きれいに全部、表になって並んでいた。
その隣に、木札がもう一枚、机の上に置いてあった。
名前の書いていない札だった。
裏返っていた。
※
宮下さんは、その日から出勤しなかった。
社宅にもいなかった。
荷物はそのままで、鍋に湯が張ってあったという。
閉山のごたごたで、探す人手もなかった。
誰も、慌てなかった。
それがいちばん、私にはこたえた。
坑長も、坑務課の人間も、「そうか」としか言わない。
まるで、そういう年があるのを知っているような顔だった。
私が食い下がると、坑務課の主任が、こう言った。
「数は、合うとるやろ」
「合うとるなら、ええやないか」
私は、その言い方を、いまでも忘れない。
年が明けて、坑口はコンクリートで塞がれた。
私は町を出て、姫路の工場へ移った。
壺は、四つとも博物館に納まった。
用途不明の出土品として、いまも収蔵庫にあるはずだ。
※
それから四十年になる。
私は七十を過ぎ、いまは播州の海に近い町に住んでいる。
去年の秋、鉱山町の同窓のような集まりがあった。
十人ほどが公民館に集まって、写真を回した。
閉山の年の、坑口の前で撮った集合写真である。
誰かが「宮下さん写っとるな」と言った。
私は覗き込んだ。
宮下さんは、いた。
前の列の端で、両手を前で組んでいた。
指が、四本折れていた。
※
写真の裏に、撮影の日付と、人数が書いてある。
誰かが几帳面に書いたものだ。
二十二名、とある。
その場で、みんなで数えた。
三度数えた。
三度とも、二十三人だった。
誰も、そのことを口に出さなかった。
回ってきた写真を、みんな、少し早く次へ渡した。
※
その夜、私は写真を撮った人のことを思い出そうとした。
閉山の日、写真屋は町から来て、三脚を立てた。
並べ方を指図していたのは、宮下さんだった。
「前の列は、詰めんでええ」と、宮下さんは言った。
写真屋が「もう少し詰めてください」と頼んでも、宮下さんは首を振った。
「一人ぶん、空けとくんや」
そのときは、誰も意味を訊かなかった。
いま思えば、あの人は、写る場所を用意していたのだと思う。
用意しておけば、他の誰かの場所を取られずに済むからだ。
家に帰ってから、私は物置を開けた。
引っ越しのときに持ってきた、分析室の古い道具が入っている。
電位差計も、まだある。
電池も入れていない、四十年動かしていない機械である。
その針が、〇・九のあたりで止まっていた。
私は箱を閉じて、ガムテープを二重に貼った。
貼ってから、指を舐めた。
甘かった。
※
宮下さんが指を折って数えていたものが、いまなら分かる。
あの人は、人を数えていたのではない。
壺を数えていたのだ。
三つのうちは、まだいい。
四つ目が出たときが、その人の番なのだと思う。
私は、物置を開けないようにしている。
開けて、三つだったら安心してしまうからだ。
安心したときに、四つ目ができる。