木の階段を上るとき、私はいまでも二段目に手のひらを置く癖がある。
人の家でやると、たいてい妙な顔をされる。
癖がついたのは二十四のときで、場所は四国山地の、椋ノ谷という集落だった。
三十年以上前の話になる。
当時の私は、県の文化財調査を手伝う臨時の職員だった。
実家は建具屋で、木のことなら少しはわかる、というだけの理由で雇われていた。
※
椋ノ谷には、明治二十年に建った農村舞台が残っていた。
村芝居の小屋だ。
茅葺きの屋根に、板張りの平場。
床下には奈落があって、人力で回す廻り舞台の仕掛けがそのまま残っていた。
調査の目的は、その仕掛けの図面を起こすことだった。
私は二週間、集落の空き家を借りて寝泊まりした。
朝は谷底から霧が上がってきて、昼過ぎまで山の中腹に白い帯を作っていた。
川の音が絶えず聞こえるので、三日目には音がしないと落ち着かなくなった。
世話をしてくれたのは、保存会の松五郎さんという人だった。
当時で七十半ば。
耳が遠いのか、聞こえないふりが上手なのか、最後までわからない人だった。
軽トラの荷台に薪を積んだまま、毎朝、小屋の前まで送ってくれた。
「先生、今日はどこ計るんぞ」
「先生やないです。手伝いです」
「同じことよ」
松五郎さんは、子どもの頃に舞台の下働きをしていたという。
廻り舞台は人力で、奈落に四人入って心棒を押す。
いちばん小さい子が、拍子木の合図を伝える役をやらされたそうだ。
「暗いとこにおるとな、上の足音だけで、誰が動きよるかわかるようになる」
その話は、あとになって別の意味を持つことになる。
※
問題の階段を見たのは、初日の午後だ。
舞台の上手から、二階の楽屋へ上がる箱階段が据えてあった。
箱階段というのは、段の下が箪笥になっているものをいう。
珍しいものではない。
珍しいのは、その造りのほうだった。
上まで十三段。
途中で一度、ゆるく巻いている。
そして、支柱がなかった。
曲がりの外側に、下から支える柱が一本もないのだ。
箱の内側を覗いても、控えの木一つ入っていない。
それでいて、私が体重をかけても、きしみひとつしなかった。
もう一つ、おかしなところがあった。
鉄の釘が、一本も使われていない。
段板も、箱の側板も、全部が木の栓と、仕口の噛み合わせだけで組んである。
舞台の他の部分には、明治の和釘が普通に打ってあった。
階段だけが、そこから浮いていた。
私は箱の中に頭を突っ込んで、懐中電灯で仕口を見た。
継ぎ手が、見たことのない形をしていた。
実家の親父に図を送ったが、こんな組み方は知らん、と返事が来た。
「どげんして立っとるんですか、これ」
「立っとろうが」
「いや、立っとるのは見えとりますけど」
松五郎さんは、それきり答えなかった。
私はそのとき、学生時代に読んだ外国の話を思い出した。
アメリカの古い礼拝堂に、支柱のない螺旋階段があるという。
どこからともなく現れた老いた大工が、鋸と金槌だけでひと月足らずで組み上げ、代金を受け取る前に姿を消したという話だ。
聖ヨゼフの階段、と呼ばれていると本には書いてあった。
作り話だろうと、当時の私は思っていた。
※
借りた空き家は、小屋から歩いて五分ほどの位置にあった。
電気は通っていたが、湯は薪で沸かした。
夜になると、山が音を吸うのか、川の音だけが妙にはっきり残る。
最初の三日は、その音がうるさくて眠れなかった。
四日目からは、その音がないと落ち着かなくなった。
人間の耳というのは、いい加減なものだと思う。
この谷では、静かになることのほうが、ずっと怖い。
それを私が知るのは、二週間の終わりだった。
※
最初の違和感は、その日の夕方だった。
寸法を取るために、私は段板に手をついて上っていた。
上から二段目に手のひらを置いたとき、そこだけが温かかった。
人が座っていたあとのような、体温の残りかたをしていた。
日は当たっていない。
小屋の中は、外より三度は低い。
手を離してもう一度置くと、まだ温かかった。
他の段は、どれも指が痺れるほど冷たかった。
私はその日、そのことを誰にも言わなかった。
翌朝も、その段だけ温かかった。
三日目も、四日目も同じだった。
温度計を当ててみると、他の段より四度ほど高い。
夕方も、朝も、雨の日も変わらなかった。
日射しでも、床下の湿気でも説明がつかない。
私はノートの隅に、二段目・体温、と書いた。
書いてから、その一行だけ横線で消した。
報告書に書けば、笑われるとわかっていた。
言うほどのことでもない、と思った。
※
二つ目は、匂いだった。
四日目に雨が降った。
谷の雨は横から来るので、板壁の隙間から霧のようなものが入ってくる。
私は奈落に下りて、廻り舞台の心棒を計っていた。
床下だから、当然かび臭い。
ところが、途中から匂いが変わった。
鉋をかけたばかりの木の匂いだ。
松脂の混じった、青いような甘いような匂いが、はっきりと鼻に来た。
明治二十年の建物である。
新しい木など、どこにもない。
私は懐中電灯を振り回して、床下を隅まで照らした。
匂いの出どころはわからなかった。
匂いは十分ほどで消えた。
上がって松五郎さんに話すと、雨の日はな、とだけ言われた。
聞き返しても、松五郎さんは薪を割る手を止めなかった。
斧が薪を割る音が、谷の壁に一度だけ跳ね返って戻ってくる。
「松五郎さん。雨の日は、なにかあるんですか」
「木が、動く日よ」
「木が」
「湿ると膨らむ。乾くと縮む。生きとる証拠たい」
それは建具屋の子どもなら誰でも知っていることだった。
知っていることを、そのときはうまく飲み込めなかった。
「雨の日は、なんですか」
「なんもなか」
※
三つ目は、記録だった。
私の仕事のうち半分は、村に残る帳面を読むことだった。
普請帳、材木の受け取り、寄進の名簿。
椋ノ谷の帳面は、驚くほど几帳面に残っていた。
屋根の茅の束数まで、一年ごとに書いてある。
ところが、階段の材だけが、どこにも出てこない。
欅の板十三枚は、決して安い買い物ではない。
それが、買った記録も、山から出した記録も、寄進された記録もない。
大工への支払いも、一行もなかった。
職人の名を書く欄に、そこだけ薄く墨が引いてある。
墨の線は、定規を当てて引いたようにまっすぐだった。
迷った跡がない。
書かないと決めた人の手つきだった。
消したのではない。
最初から、何も書かずに線だけ引いた跡だった。
※
四つ目は、人の口だった。
私は集落を回って、階段を組んだ大工の名を聞いた。
三人の古老が、それぞれ違う名を言った。
一人は、伊予から来た「岩さん」だと言った。
一人は、名は聞いとらんが、背の高い痩せた男だったと言った。
もう一人は、女の人だったと言い張った。
「その人、どこから来たんですか」
「谷の下から歩いて上がってきた」
「帰りは」
「帰るとこを見た者は、おらんのやないかな」
三人とも、そこだけは同じことを言った。
もう一つ、三人が同じことを言った点があった。
仕事のあいだ、その職人は一度も飯を食わなかったという。
村の女衆が握り飯を届けても、礼を言って受け取り、手をつけずに置いていた。
「食べんで、ひと月も仕事ができますか」
「わしに聞かれてもな」
いちばん年嵩の古老は、そう言って笑った。
笑ってから、急に真顔になって付け足した。
「あんた、握り飯の話はもう誰にもせんほうがええ」
手間賃は、受け取らずに行った。
※
五つ目は、写真だ。
落成の記念写真が、公民館の額に入って残っていた。
明治二十年、村の者が四十人ほど、舞台の前に並んでいる。
私はその写真を借りて、宿で拡大鏡を当てた。
床下の通風口が、写真の下端に写り込んでいた。
暗い穴の奥に、四角いものがある。
道具箱だった。
翌朝、私は奈落へ下りた。
心棒の裏、いちばん奥の隅に、木の道具箱が置いてあった。
百年ぶんの埃をかぶっている。
写真の中と、同じ場所だった。
蓋には、名も屋号も彫っていない。
私は手を伸ばして、やめた。
やめた理由は、自分でもうまく言えない。
手を伸ばしたとき、指先の下の空気が、そこだけ冷えていた。
床下は全体が冷たい。
それでも、道具箱のまわりだけ、明らかに温度が違った。
階段の二段目とは、逆向きの違いだった。
あたたかい場所と、冷たい場所。
二つの温度が、同じ建物の中で対になっている。
そのことに気づいたとき、私は初めて、背中に汗をかいた。
※
松五郎さんに道具箱の話をしたのは、その日の夕方だ。
松五郎さんは湯呑みを置いて、初めてまっすぐ私を見た。
「触ったか」
「触っとりません」
「なら、よか」
それから、聞かせるでもなく話しはじめた。
椋ノ谷には、一つだけ守っている作法があるという。
「この谷ではな、手間賃を受け取らんかった職人に、名を訊いたらいけんことになっとる」
「なんでですか」
「名を訊かれた者は、そこにおる理由をなくしてしまうけんな」
私は、言葉の意味をつかみそこねた。
松五郎さんは、湯呑みの縁を指でなぞった。
「わしが子どもの時分にな、奈落で押しよったら、足が五人分あった日があった」
「五人」
「四人しか入っとらんとよ」
「……誰か、手伝ってくれたんですか」
「そういうことにしとる」
松五郎さんは、そこで初めて笑った。
「その日の廻りは、いっとう軽かった」
「代を受け取らんかったちゅうことはな、まだ仕事が終わっとらんちゅうことよ」
「終わっとらん」
「そうたい。あの階段はな、まだ、作りよる途中なんよ」
外はもう暗く、川の音だけが大きくなっていた。
「あの階段を支えとるのは、柱やない」
松五郎さんは、それだけ言って湯呑みを空にした。
※
翌日が、調査の最終日だった。
図面はほぼ仕上がっていた。
仕上がっていたが、私は納得していなかった。
力の流れが、どうしても計算に合わないのだ。
曲がりの外側にかかる荷重を、どこも受けていない。
それでも階段は立っていて、人が上っても軋まない。
私はその朝、図面に一本だけ、点線で控え柱を描き足してみた。
実在しない柱だ。
描いた瞬間、数字がきれいに合った。
合ってしまったことのほうが、気味が悪かった。
消しゴムをかけると、紙の表がうっすら毛羽立った。
その毛羽立ちを、私はいまでも覚えている。
私は最後にもう一度、十三段を上った。
上りきったところで、懐中時計を見た。
三時四十二分。
楽屋を一回りして、埃をかぶった衣装箱の蓋を開け、また閉めた。
それから下りて、もう一度時計を見た。
三時四十二分だった。
秒針は動いている。
止まってはいない。
私は同じ動作を二度繰り返して、二度とも同じ数字を見た。
手のひらが冷たくなっていくのが、自分でわかった。
※
その夕方、私は聞いてはいけないことを聞いた。
帰りの挨拶に行って、玄関先で靴を履きながら、つい口が滑った。
「松五郎さん。あの階段の大工さん、結局なんちゅう名前やったんですか」
言った瞬間、背中で音がしなくなった。
川の音が、消えたのだ。
松五郎さんの顔から、色が引いた。
「あんた、いま、名を訊いたな」
「……すみません」
「わしにやない。あの谷に訊いたんぞ」
松五郎さんは私の腕を掴んで、外へ引っ張り出した。
力が、七十半ばの人のものではなかった。
※
その夜、小屋のほうから音がした。
木を打つ音だった。
槌ではない。
手のひらで板を叩いて、鳴りを確かめるときの音だ。
建具屋の息子だから、その音だけは間違えようがない。
音は三度して、やんだ。
私は布団の中で、朝まで目を開けていた。
音がやんだあと、川の音が戻ってきた。
戻ってきたことに気づいて、私は自分が息を止めていたのを知った。
時計を見ると、三時四十二分だった。
昼のあの数字と、同じだった。
偶然だと思いたかった。
いまでも、そう思うようにしている。
※
夜が明けて、松五郎さんと二人で小屋へ行った。
戸締まりは昨日のままだった。
埃の上に、私たち以外の足跡はない。
階段は、変わらずそこに立っていた。
私は上から二段目に、手のひらを置いた。
冷たかった。
他の段と、まったく同じ温度になっていた。
松五郎さんが、短く息を吐いた。
奈落へ下りると、隅の道具箱の蓋が開いていた。
中は、空だった。
埃の積もり方からして、百年、閉じたままだったはずのものだ。
「持って行かれたな」
「なにをですか」
松五郎さんは答えなかった。
代わりに、水平器を持ってこいと言った。
曲がりの外側に当てると、泡が、わずかに外へ寄っていた。
前の週の測定では、まっすぐだった。
三分。
人の目には、まずわからない傾きだ。
それでも、動いたことに変わりはない。
松五郎さんは水平器を箱にしまいながら、ひとりごとのように言った。
「支えとった者が、道具ば取りに戻ったんやろ」
「戻った、いうことは」
「行くとこができたっちゅうことよ。名がついたけんな」
私は、自分がしたことの大きさを、そこでようやく理解した。
名を訊いたのは、私だ。
訊いた相手は、松五郎さんではない。
※
あれから三十年以上が過ぎた。
椋ノ谷の舞台は、今も建っている。
傾きは、三分のまま止まっている。
保存会は十年ほど前から、控えの柱を入れるかどうかで揉めているらしい。
入れれば、確実に持つ。
入れれば、あの階段は、ただの箱階段になる。
私は、意見を求められるたびに黙っている。
建具屋としては、入れたほうがいいと言うべきだと思う。
それでも、口が動かない。
三十年、動かないままだ。
松五郎さんは、七年前に静かに逝った。
最後まで、大工の名は言わなかった。
葬儀の帰りに、保存会の若い人から預かりものを渡された。
茶封筒に、私の名前が書いてあった。
中身は、あの落成写真の複写と、一行だけの走り書き。
訊いたことは、あんたのせいやない、と書いてあった。
私はそれを、いまも作業場の柱に貼っている。
言えなかったのか、本当に知らなかったのかは、わからない。
私は建具屋を継いで、いまも木を削っている。
年に一度、盆の前に椋ノ谷へ上がる。
小屋の鍵を借りて、誰もいない平場に立つ。
それから、階段のところへ行く。
名は呼ばず、二段目に手のひらを置いて、ただ礼だけ言って帰る。
去年の盆は、その段が、少しだけ温かかった。