祖父には、口ぐせがあった。
村で何かが見つかったと聞くたびに、必ず同じことを訊くのだ。
「ほんで、誰が拵えたことになった」
見つかったのが何なのかは、訊かない。
誰が拵えたことになったのか、それだけを訊く。
子どものころは、変わった言い方だと思っていた。
いまは、そうは思わない。
※
昭和五十八年の秋、私は町の郷土資料館の嘱託だった。
二十六歳で、大学は出たが職がなく、月に六万円ほどの仕事だった。
茨城の北、八溝の山あいにある小さな町である。
資料館といっても、廃校になった分校を使ったもので、展示は農具と土器の破片くらいしかない。
私の仕事は、寄贈品に台帳の番号を振ることだった。
建物は昭和八年の木造で、教室が三つ、宿直室がひとつある。
床は油引きで、歩くたびに、決まった場所だけが鳴る。
廊下の端から数えて七枚目と、十九枚目。
その二枚だけが、きゅう、と鳴った。
冬は石油ストーブを焚いても、朝の九時まで息が白い。
来館者は、月に十人いればいいほうだった。
ほとんどは、雨宿りの年寄りである。
私は毎日、割れた土器の破片に、細い筆で番号を書いた。
筆を洗う水の匂いと、油引きの匂いだけが、その年の記憶に残っている。
退屈だったが、嫌ではなかった。
十月の半ば、館長が電話を切って、私を呼んだ。
「西小屋で、石が出たとよ」
西小屋というのは、町から車で二十分ほど山へ入った集落だ。
戸数は十四。
私の父の生まれた家も、そこにあった。
父は十八で出たきり、盆にも戻らなかった。
理由を訊いたことはない。
訊いても、父は「遠いで」としか言わなかった。
西小屋は、沢に沿って十四軒が一列に並んでいる。
道は一本きりで、行き止まりの先は杉山になる。
家はどれも古く、屋根の勾配が異様に急だった。
昔は雪が多かったのだと、区長さんが言っていた。
いまは、そんなに降らない。
それでも、屋根だけが昔のままの角度で立っている。
※
行ってみると、公民館の土間に、石が並べてあった。
てのひらに載るくらいの、平たい川原石である。
その表面に、細い線で絵が彫ってあった。
牛のようなもの。
笠をかぶった人。
橋。
屋根の形。
どれも、稚拙といえば稚拙だが、線に迷いがない。
数を数えると、四十七個あった。
「畑の隅の、石垣崩したとこから出たんだと」
区長さんがそう言った。
私はカメラを構えて、一枚ずつ撮った。
そのとき、指先に、石の粉がついた。
白い粉だった。
彫った跡から出る、新しい粉である。
※
翌週、県の文化課から人が来た。
二人とも、石を見るなり、渋い顔をした。
「彫りが、新しいですね」
「線の底が、光ってます」
古いものなら、線の底に土が噛んで黒ずむ。
これは、まだ白い。
それだけではない。
彫られている橋には、コンクリートの欄干があった。
西小屋の沢にかかっている、いまの橋である。
架け替えられたのは、昭和四十六年だった。
「まあ、そういうことでしょう」
県の人は、そう言って帰った。
誰かの悪戯だ、という結論である。
それで済むはずだった。
※
済まなかったのは、数が合わなかったからだ。
私は最初の日に、四十七個と数えて、台帳に書いた。
次に行った日、五十一個あった。
区長さんは、増やしていないと言った。
公民館には鍵がかかっている。
鍵は区長さんが持っている。
私は自分の数え間違いだと思って、その日、三度数えた。
三度とも五十一だった。
十日後には、五十八になっていた。
そのころから、公民館の土間に、匂いがするようになった。
雨の日でもないのに、湿った石の匂いがする。
川の底の石を持ち上げたときの、あの匂いだ。
私は区長さんに訊いた。
「この匂い、前からしてましたか」
「する」と、区長さんは言った。
それから、少し考えて、言い直した。
「いや、石が来てからだな」
土間の隅には、乾いた白い粉が、うっすらと溜まっていた。
掃いても、次に行くと、また同じ場所に溜まっている。
いつも、同じ場所だった。
※
増えた石には、共通点があった。
絵が、新しくなっていくのだ。
はじめは牛や笠だったのが、そのうち電柱が出た。
バスが出た。
八本足の、四角い建物が出た。
私はそれを見て、しばらく動けなかった。
四角い建物には、屋根の上に丸いものが載っている。
町の中学校の、時計台である。
その学校は、その年の三月に建ったばかりだった。
※
私は、増えた石を、時間を決めて数えるようにした。
朝の九時と、夕方の五時。
朝と夕で、数が変わったことは一度もなかった。
変わるのは、私が西小屋へ行かない日をはさんだときだけだった。
つまり、誰も見ていない日にだけ増える。
私は試しに、三日続けて通った。
三日とも、五十八のままだった。
四日目に一日空けた。
五日目に行くと、六十一になっていた。
増えた三枚は、土間のいちばん端に、きちんと角を揃えて置いてあった。
放り込まれたのではない。
並べてあった。
私は、祖父に訊きに行った。
祖父は八十一で、耳が遠かったが、頭ははっきりしていた。
石の話をすると、祖父は湯呑みを置いた。
「ほんで、誰が拵えたことになった」
「まだ、誰も」
祖父は、そこで初めて、私の顔をまともに見た。
「早う決めんとな」
「決める、って」
「拵えた者が要るんよ」
祖父の言い方は、静かだった。
「西小屋で何ぞ出たときは、必ず、拵えた者が名乗る」
「名乗る者がおらんとな」
そこで、祖父は少し黙った。
「こっちから、選ばれる」
※
その意味を、私は訊き返さなかった。
訊き返せなかった、というほうが正しい。
祖父は、それきり石の話をしなかった。
かわりに、こんなことを言った。
「わしの兄も、若いころ、名乗ったんよ」
「何を」
「大正の終わりに、山で瓶が出たときな」
「兄は、わしが埋めた、言うて回った」
「そんで、収まった」
「その伯父さんは、いまどこに」
「西小屋におる」
祖父は、そう答えた。
私は、父の生まれた家に、そんな伯父がいるとは聞いたことがなかった。
※
十一月に入って、名乗り出た人がいた。
西小屋の、榎本さんという八十過ぎの老人だった。
公民館で、みんなの前で言ったのだそうだ。
「わしが彫った」
「暇つぶしに、ちっと彫って、畑に埋めた」
それで、村は収まった。
区長さんの声は、電話越しでも安心しているのが分かった。
「これで、片づいたよ」
ただ、ひとつだけ引っかかることがあった。
榎本さんが名乗ったのは、十一月の三日である。
その前日、私は公民館へ行っていた。
石は六十一のままだった。
名乗った翌日に行くと、六十一のままだった。
増えていない。
止まったのだ。
私は、そのとき初めて、増えていたものが何かに応じていたのだと思った。
私は、翌日、榎本さんの家へ行った。
礼を言うつもりだった。
玄関で、榎本さんは笑って迎えてくれた。
茶を出してくれた。
その手を、私は見た。
右手の指が、人差し指から先、三本なかった。
戦後すぐ、製材所で挟まれたのだと、あとで区長さんが教えてくれた。
※
「あの、彫るときは、どちらの手で」
私が訊くと、榎本さんは、不思議そうな顔をした。
「そりゃ、右じゃ」
そう言って、三本ない右手を、自然に持ち上げた。
持ち上げてから、自分の手を見た。
見て、しばらく、じっとしていた。
それから、また笑った。
「そうだ。わしが彫った」
その声には、迷いがなかった。
迷いがないことが、いちばん怖かった。
私は、彫った道具を見せてほしいと頼んだ。
榎本さんは、素直に立って、納戸から古い木箱を持ってきた。
中には、鑿が三本入っていた。
どれも刃こぼれして、柄の握りが黒く光っていた。
石を彫る道具ではない。
木を彫る道具である。
「これで、石を」
「そうだ」
刃には、木屑がひとつも付いていなかった。
そのかわりに、白い粉が薄く付いていた。
もう一度、はっきりそう言った。
私は、茶を飲まずに帰った。
※
資料館に戻って、私は古い綴りを引っ張り出した。
町史の編纂で集めた、聞き取りの控えである。
西小屋の項に、似た話が三度あった。
大正十三年、山で瓶が出た。
名乗ったのは、当時二十四歳の男性。
昭和十一年、堰の底から木の札が出た。
名乗ったのは、当時六十歳の女性。
昭和三十四年、畑から鉄の輪が出た。
名乗ったのは、当時十七歳の少年。
三度とも、名乗った者の名前が、はっきり書いてある。
そして三度とも、こう書き添えてあった。
「以後、当人は当集落を離れず」
※
離れず、というのは、住み続けたという意味だと、はじめは思った。
けれど、控えには続きがあった。
大正十三年に名乗った男性は、翌年、町へ出る話が決まっていた。
行かなかった。
昭和十一年の女性は、娘のところへ移る予定だった。
移らなかった。
昭和三十四年の少年は、集団就職で東京へ行くことになっていた。
駅まで行って、切符を買って、そこで気が変わったと書いてある。
三人とも、理由は「なんとなく」だった。
※
私は、榎本さんの名前を、その綴りのなかに探した。
なかった。
かわりに、別の名前があった。
昭和三十四年の少年の欄である。
そこにあったのは、私の伯父の名前だった。
祖父が「西小屋におる」と言った、あの伯父である。
私は、その綴りの日付を、もう一度確かめた。
大正十三年、昭和十一年、昭和三十四年。
間隔は、十二年と、二十三年。
そして昭和三十四年から、その年までが、二十四年。
規則があるようで、ない。
ないのに、次が来ているという感じだけが、はっきりあった。
私は、その足で西小屋へ行った。
伯父は、いた。
畑の隅で、石垣を積み直していた。
崩れたところから、石が出たという、あの石垣である。
※
伯父は、私が名乗ると、うなずいた。
「兄貴の子か」
「父の、兄の」
「そうだ」
それきり、しばらく石を積んでいた。
私は、大正の瓶の話をした。
祖父の兄も名乗ったと聞いた、と言った。
伯父の手が止まった。
「あれはな」
「わしが十七のときに、ここで聞かされた話よ」
「聞かされてから、東京行きをやめた」
「やめてから、輪が出た」
順番が、逆だった。
名乗ったから残ったのではない。
残ると決めた者のところへ、出てくるのだ。
※
「榎本さんは、どうして名乗ったんですか」
私が訊くと、伯父は、石を置いた。
「あの人は、来月、娘のとこへ行くことになっとった」
「新潟だ」
「行くのか、と訊いたら、行くと言うとった」
「先週までは」
伯父は、手についた土を、はたいた。
「拵えた者が要るんじゃない」
「拵えたことになる者が、要るんだ」
私は、なぜ、と訊いた。
伯父は答えなかった。
かわりに、積みかけの石垣を指した。
「この石垣な、崩れるたんびに積み直しとる」
「わしの前は、榎本さんの父親が積んどった」
「その前は、誰か知らん」
「積む者がおらんようになったら、どうなると思う」
私は答えられなかった。
「崩れっぱなしになるだけよ」と伯父は言った。
「そんで、崩れたとこから、また出る」
杉山のほうで、鳥が一羽、鳴いて飛んだ。
沢の水の音が、急に大きく聞こえた。
私は、その言葉を、何度も頭のなかでくり返した。
※
その晩、私は資料館に泊まった。
宿直室の布団は湿っていて、油引きの匂いがした。
十一時をすぎたころ、廊下が鳴った。
きゅう、と一度。
七枚目の板だった。
少し間があって、また、きゅう、と鳴った。
十九枚目である。
順番が、玄関から奥へ向かっていた。
私は、布団の中で、その次を待った。
次はなかった。
翌朝、廊下を歩いてみると、七枚目と十九枚目のあいだに、白い粉が点々と落ちていた。
雑巾で拭くと、粉は水を吸わずに、玉になって転がった。
石は、まだ増えていた。
六十四個になっていた。
新しく増えた一枚を、私は明かりの下で見た。
彫ってあったのは、建物だった。
四角い、平屋の建物で、窓が横に六つ並んでいる。
手前に、木が二本。
この資料館である。
廃校になった、この分校である。
そして、その入口のところに、線が三本、立っていた。
人が三人、並んでいる。
※
私は、その石を、てのひらに載せた。
指先に、白い粉がついた。
彫った跡から出る、新しい粉である。
私は、それを見ていた。
そして、口が動いた。
「これは、わたしが」
そこまで言って、私は、自分の口を手で押さえた。
押さえた手のほうに、白い粉がついていた。
※
私は、その晩のうちに、町を出た。
荷物はまとめなかった。
始発を待たずに、国道まで歩いて、走ってきたトラックを止めた。
資料館へは、それきり戻っていない。
台帳の最後の数字は、六十四のままになっているはずだ。
翌年、区長さんから手紙が来た。
石は、いつのまにか、なくなっていたそうだ。
公民館の土間に、白い粉だけが残っていたと書いてあった。
※
手紙には、榎本さんのことも書いてあった。
新潟の娘さんのところへは、結局、行かなかったそうだ。
荷造りまで済ませて、前の晩に、行かないと言い出したという。
理由は「なんとなく」だった。
私は、その四文字を、しばらく見ていた。
私は、いま、群馬に住んでいる。
四十年、一度も西小屋へは行っていない。
去年、父の法事で、久しぶりに親戚が集まった。
その席で、伯父の話が出た。
伯父は、九十を越えて、まだ西小屋にいる。
誰かが、こう言った。
「あの人、資料館の写真、ずっと飾っとるらしいよ」
「なんの写真」
「分校の。人が三人写っとるやつ」
私は、その分校で、誰かと三人で写真を撮ったことはない。
一度もない。
※
それでも、ときどき思う。
あの晩、私が最後まで言い切っていたら、どうなっていたのだろうと。
言い切っていれば、私は西小屋の人間になっていたはずだ。
そして、四十年、あの土地を出られなかったはずだ。
けれど、言い切らなかったから、私はここにいる。
ここにいるのに、写真には三人写っている。
祖父の言い方を、いまごろになって思い出す。
誰が拵えたか、ではない。
誰が拵えたことになったか、なのだ。
私は、まだ、なっていないのだと思う。
思っていないと、やっていけない。