
私の仕事は、他人の家を数字にして返すことだ。
不動産会社から依頼を受けて、売りに出る前の家に入る。
部屋を撮り、寸法を測り、間取り図に起こして納品する。
最近はパノラマも撮る。
三脚に丸いカメラを載せて回すと、内見の前に部屋の中をぐるりと見られる、あの画面ができあがる。
ひとりで入って、ひとりで出る。
誰とも話さない日のほうが多い。
だからこの話も、しばらく誰にも話さなかった。
去年の秋に入った、一軒の平屋のことだ。
※
市の外れの、駅からバスで二十分ほどの住宅地だった。
まわりは新しい建売ばかりで、その一画だけ、黒い板塀に囲まれた平屋が残っていた。
航空写真で見ると、その一画だけ屋根の色が違う。
周りの家が建て替わっていくあいだ、そこだけ動かなかったということだ。
門から玄関まで、飛び石が七つ。
撮る前に歩幅を数える癖がついている。
依頼書には、家財の搬出は済み、当日は誰も来ない、とだけ書いてあった。
施主の欄には、女性の名字が一つ。
備考の欄は空だった。
担当者からは、鍵は開けておくと聞いていた。
玄関の框に置かれていた鍵は、私が触れる前から、少しだけ温かかった。
秋の陽が差し込む位置だったので、そのときは何も思わなかった。
家の中は、驚くほどきれいに片づいていた。
畳は新しくないが、日焼けの縁がまっすぐで、家具の跡がどこにも残っていない。
台所も風呂も、水は止められている。
長く人のいない家の、乾いた紙のような匂いがした。
空き家というのは、たいてい生活の残りかすが匂う。
油の匂い、洗剤の匂い、押し入れの湿気。
その家には、どれもなかった。
匂いまで片づけたような家だった。
私はまず廊下を歩いた。
間取りを起こすときは、廊下から始めると早い。
その家の廊下は、田の字に走っていた。
真ん中に大きな座敷があって、その四方を廊下がぐるりと囲んでいる。
古い家にはたまにある造りだ。
回り廊下といって、風と光を通すためのものだと聞いたことがある。
ただ、歩いてみると、東側の廊下だけがやけに長かった。
座敷の中から見た広さと、外の廊下の長さが、どうにも噛み合わない。
目の錯覚だろうと思った。
測ればわかる、と考えて、私は仕事に戻った。
撮影は座敷から始めた。
三脚を立てて、丸いカメラを回す。
一周するのに二分かからない。
その二分のあいだ、私は柱の陰に隠れていなければならない。
パノラマは、撮っている人間まで写してしまうからだ。
柱に背中をつけてしゃがんでいると、音が聞こえた。
ぽた、と何かが落ちる音だった。
水は止まっている。
雨も降っていない。
ぽた、とまた鳴った。
間隔は不規則で、家の奥のほうから聞こえた。
あとになって思い返すと、あの音は一つではなかった気がする。
重なって聞こえた瞬間が、少なくとも二度あった。
撮影が終わるのを待って、私は音のした方へ行った。
床も天井も乾いていた。
押し入れを開けても、何もなかった。
戻るときに、もう一度だけ、後ろで鳴った。
私は振り返らずに、座敷へ戻った。
仕事のときは、音を数えないようにしている。
数え始めると、手が止まるからだ。
※
次に入ったのは、座敷の東隣の部屋だった。
畳が六枚の、何もない部屋だ。
採寸のあいだ、私は畳に膝をついていた。
そのとき、頬に何かが触れた。
髪だと思って払った。
手の甲に、細くて冷たいものが乗っていた。
白い。
長さは、私の小指くらいだった。
虫だと思って、そのまま畳に落とした。
落ちたものは、畳の目に沿って、ゆっくり這った。
私は膝をついたまま、それを見ていた。
関節があった。
爪もあった。
それは、人の指だった。
血の気がなくて、細い。
女の人のものだと思う。
爪の先だけが、黒く汚れていた。
床を這ってきたのだと思えば、それは自然な汚れ方だった。
そう考えた自分に、あとで少し驚いた。
悲鳴は出なかった。
声が出るより先に、指のほうが動いたからだ。
指は、畳の上で立ち上がった。
付け根で立って、ぴょこ、と跳ねた。
それから左右に、ゆっくり揺れた。
怖くなかったと言えば、嘘になる。
ただ、その動きには愛嬌があった。
犬が尻尾を振るときの動きに、少し似ていた。
私は、しばらく動けなかった。
指も動かずに、こちらを向いていた。
向いていた、というのはおかしいのだけれど、そうとしか言いようがない。
気がつくと、私は声に出して訊いていた。
「あなた、ここの人?」
指は、頷くように、真ん中で一度曲がった。
「ずっといるの?」
また曲がった。
「私、入っちゃまずかった?」
今度は、横に振れた。
「まずくないの?」
曲がった。
「怒られない?」
また曲がった。
「……写真、撮っていい?」
指は、動かなかった。
それきり、何を訊いても曲がらなくなった。
私は上着からスマートフォンを出して、カメラを向けた。
画面の中の畳には、何も乗っていなかった。
目を上げると、指はそこにいた。
下ろすと、また画面から消える。
何度か繰り返して、私はスマートフォンをしまった。
撮られたくないのだと思うことにした。
私は仕事を思い出して、採寸に戻った。
指は、私が畳を測っているあいだ、部屋の隅まで行って戻ってきた。
まるで、ついてきているようだった。
私が距離計を畳に置くと、その脇まで来て止まる。
持ち上げると、また離れる。
邪魔をしないようにしている、と思った。
数字がおかしいと気づいたのは、そのときだ。
この部屋の内寸と、隣の座敷の内寸と、東側の廊下の長さ。
三つを足しても、外から見た家の幅に届かない。
畳一枚半ほど、余った。
距離計の電池を疑って、玄関の土間で測り直した。
数字は変わらなかった。
間取りの下書きを引いていて、私は廊下の途中で一度、線を止めていた。
なぜ止めたのかは、自分でもわからなかった。
ペンを持った手が、そこで勝手に浮いた。
廊下の実測をやり直した。
巻尺でも測った。
数字は同じだった。
この家には、図面にない部屋が一つぶん入る余地がある。
そのときは、増築の跡か何かだろうと思っていた。
※
指を、外に出してみようと思った。
いま書いていても、自分でどうかしていると思う。
けれどそのときは、この子を車まで連れて行って、明るいところで見たいとしか考えていなかった。
手のひらに乗せて、襖のところまで運んだ。
敷居をまたごうとすると、指は手の中からするりと抜けた。
床に落ちて、部屋の中へ戻っていく。
もう一度乗せた。
今度は指のあいだで挟んだ。
それでも、敷居の上で抜けた。
抜けるというより、私の手のほうが、そこで指を持てなくなる感じだった。
敷居の手前までは、確かに手の中にある。
またいだ瞬間だけ、そこが空になる。
三度やって、三度とも同じだった。
窓は雨戸が閉まっていた。
私は部屋をぐるりと見た。
床の間の脇、壁と壁が合わさるところに、細い隙間があった。
古い土壁が痩せて、板とのあいだが開いている。
爪の先ほどの幅だった。
私は、そこに指を差し込んだ。
指は、隙間の中でしばらくもぞもぞしていた。
それから、向こう側へ消えた。
隙間の奥から、乾いた擦れる音がしばらく続いた。
やがて、聞こえなくなった。
私は廊下へ走った。
廊下の板の上に、白いものが落ちていた。
拾い上げると、指はまた、ぴょこ、と跳ねた。
うまくいった、と思った。
そのとき、頬が熱くなった。
指が跳ねて、私の顔に飛んだ。
頬を、上から下へ、まっすぐ引っかかれた。
痛みは遅れて来た。
私は手で押さえて、その場にしゃがみ込んだ。
血が指のあいだから出た。
そのあいだ、指は私の肩の上にいた。
そして、押さえていないほうの頬を、二度撫でた。
謝られている、と思った。
いま思えば、あれは謝罪ではなかったのだと思う。
引っかいたところを、確かめていたのだ。
玄関で音がした。
誰かが入ってきて、廊下を走ってくる。
依頼主の女性だった。
担当者から、その日は来ないと聞いていた人だ。
女性は私を見て、それから私の肩のあたりを見た。
顔から色が引くのが、はっきりわかった。
「どこ」
それだけ言われた。
「どこ、って」
「どの部屋」
私は東隣の部屋を指した。
女性は、その部屋のほうを見なかった。
見ないまま、私の腕を掴んで玄関へ引いた。
「靴」
「あの、機材が」
「あとで出します」
外に出されたところで、私は座り込んだ。
そこから先は、あまり覚えていない。
気がついたら、駅前のロータリーのベンチにいた。
機材一式が、足元に揃えて置いてあった。
頬に、ガーゼが貼ってあった。
自分で貼った覚えはなかった。
※
その日のうちに、仲介の担当者から電話が来た。
売却の話が流れたので、撮影の件はなかったことにしてほしい、と言われた。
撮ったデータは全部消してくれ、とも言われた。
私は消した。
消す前に、一度だけフォルダを開いた。
座敷のパノラマが四枚。
東隣の部屋のパノラマが、二枚あった。
私は、あの部屋で一度しかカメラを回していない。
二枚の撮影時刻を見た。
一枚目は、家に入って四十分ほど後。
二枚目は、私が門をくぐるより前の時刻だった。
私はフォルダごと消した。
ごみ箱も空にした。
三日後、封筒が届いた。
中には、撮影料の倍ほどの現金が入っていた。
それと、小さな鏡と、粗塩の袋と、白い紙に包んだ灰。
差出人の名前はなかった。
現金には、帯も封もついていなかった。
塩と灰は、そのまま台所の棚に置いてある。
鏡だけは、どこかへやってしまった。
頬の傷は、二週間ほどで塞がった。
薄い線が残った。
仕事は普通に続いた。
変わったことがあるとすれば、Sさんのことだ。
Sさんは同業の人で、遺品整理の現場写真を撮る仕事もしている。
私より少し年上で、現場で何度か一緒になったことがある。
そのSさんが、秋の終わりから、私を避けるようになった。
同じ現場に入っても、部屋を分けて動く。
休憩のときは、車の外に立っている。
私は、自分が何かしたのだと思っていた。
仕事の断り方が悪かったのか、それとも噂でも立ったのか。
何度か訊こうとして、そのたびに切り出せなかった。
※
冬に、Sさんと二人で入った家があった。
古い借家で、長く空いていた。
奥の四畳半を私が撮って、Sさんが台所を撮る、という分け方だった。
台所のほうで、物が落ちる音がした。
行ってみると、Sさんが流しの前で動かなくなっていた。
視線の先、床の隅に、黒っぽいものがあった。
髪の束のようにも、濡れた布のようにも見えた。
それが、こちらへ這ってきていた。
Sさんは、私の腕を掴んだ。
そして、自分の前に引き出した。
私は、その黒いものと、床の上で正面から向き合う形になった。
黒いものは、止まった。
それから、来たほうへ戻っていって、壁の下で見えなくなった。
外に出て、Sさんは私に謝った。
「ごめん。ほかに思いつかなかった」
「今の、何ですか」
「わからない。でも、あなたの前では止まると思った」
「どうして」
「秋から、あなたに何か付いてる」
Sさんは、私の頬の傷のある側を見なかった。
見ないまま、そこを指さした。
「それ、印」
「守ってもらってる、ってことですか」
「守るとは、たぶん違う」
Sさんは、少し考えてから言った。
「手を出すな、っていう目印。誰にでも効くわけじゃない」
私は、避けられていた理由を訊いた。
「あなたが嫌なんじゃない。付いてるものが、私には重い」
重い、というのはどういうことかと訊いた。
Sさんは、言葉を探すように黙った。
「数が多い、みたいな感じ」
「一つじゃないってことですか」
「わからない。でも、一本ぶんの重さじゃない」
私は、あの部屋で聞いた水の音を思い出した。
それから私たちは、以前より普通に話すようになった。
ただしSさんは、いまも私の右側には立たない。
※
私は、あの家のことを調べた。
登記の記録を取って、古い航空写真を並べて、近所の家を何軒か訪ねた。
板塀の向かいに住む女性が、少しだけ話してくれた。
あの家には昔、よその人がよく来ていたそうだ。
車で来て、玄関には上がらず、東側の廊下だけを通って、帰っていく。
手ぶらで来て、手ぶらで帰る人もいたという。
「なんか、あずけに来てたって聞いたけどねえ」
何を、とは教えてもらえなかった。
その女性は、話しながら一度も板塀のほうを向かなかった。
最後に、あの家は東側の廊下だけ雨戸を閉めない、と言われた。
夜になると、その廊下だけ電気がついていたそうだ。
誰も住まなくなってからも、しばらくは、ついていたという。
依頼主の女性の弟にあたる人と連絡がついたのは、年が明けてからだ。
いまは別の県で暮らしている人だった。
会って最初に言われたのは、こういう言葉だった。
「あなたが元気なのが、いちばん不思議です」
その人の話では、あの家の東側の壁の内側には、部屋がひとつある。
表向きの出入り口はない。
家の者は「ヨセマ」と呼んでいた。
寄せ間、と書くらしい。
よその家で始末に困ったものを、そこへ寄せて預かる。
預けた側は、礼を置いていく。
それでこの家は長く不自由をしなかった、とその人は言った。
礼というのは、金のこともあれば、そうでないこともあったらしい。
子どもの頃、玄関に見たことのない果物が置いてあった朝を覚えている、とその人は言った。
誰が置いたのかは、家の誰も口にしなかったそうだ。
決まりは四つあったそうだ。
部屋の四方を廊下で囲むこと。
その廊下の人通りを絶やさないこと。
家の者以外に、部屋のことを話さないこと。
そして、家を空けないこと。
人が毎日そこを歩いていることが、錠の代わりになるのだと言われた。
だから預けに来る人にも、わざわざその廊下を通ってもらう。
私は、東側の廊下の長さを思い出した。
人に歩かせるために、長く取ってあったのだ。
それを聞いて、はじめて筋が通った気がした。
通ったところで、どうにもならないのだけれど。
「うちは、空けました」
その人は、湯呑みを持ったまま言った。
「母が施設に入って、誰も住まなくなって、ずいぶん経ちます」
「錠が緩んだ、ということですか」
「そう思っています」
「でも、私が入ったのは普通の部屋でしたよ」
「畳、六枚でしたか」
「はい」
「あの部屋は、四枚半のはずなんです」
私は、湯呑みを置いた。
その人は、それ以上その部屋の話をしなかった。
代わりに、頬を見せてくれと言われた。
傷の線を見て、その人は少しだけ笑った。
「うちに来た人で、これを付けてもらった人は、いないと思います」
「これは、何ですか」
「うちのじゃない、ということです」
帰り際、その人は玄関先まで送ってくれた。
靴を履いていると、後ろから声がした。
「うちのは、預かるだけなんです」
私は振り返らなかった。
「置いていく側が、何を置いていったかは、うちも知りません」
※
家に帰って、私は消したはずの下書きを探した。
手描きの下書きを撮った写真が、クラウドの履歴に一枚だけ残っていた。
線を止めた場所の内側が、あの一室だった。
担当者にも、もう一度確認した。
その鍵は、その朝に不動産会社の金庫から出されて、私が来るまで誰も触れていなかった。
それだけ聞いて、私は電話を切った。
春先に、一度だけあの住宅地の前を通った。
仕事の帰りで、バスの窓からだった。
板塀はそのままで、門に売り物件の看板は出ていなかった。
東側にあたる面の雨戸だけが、開いていた。
別れ際に、弟さんは姉の連絡先を教えてくれていた。
かけてみると、使われていない番号だと機械の声が言った。
仲介の担当者の携帯にも、後日かけた。
同じ声が出た。
会社の代表番号にかけ直すと、担当は替わったと言われた。
あの家に上がった人のうち、いまも同じ番号が通じるのは、私だけだった。
※
いまも、私は同じ仕事をしている。
週に三軒か四軒、他人の家に入って、寸法を測って、パノラマを撮る。
先週も、郊外の建売を撮った。
新しい家だ。
変わったことは何もなかった。
車に戻って、タブレットでプレビューを流した。
画面を指で回すと、玄関から廊下へ、廊下から居間へ、視点が動く。
廊下の突き当たり、幅木のところに、白いものがあった。
画面を広げた。
細くて、関節があって、爪があった。
頬の、線の残っているところが、じわりと熱くなった。
私は画面をそのままにして、しばらく見ていた。
図面にない部屋のことは、いまも誰にも詳しくは話していない。
あの家の数字だけは、まだ返していない。
白いものは、こちらを向いて、頷くように、真ん中で一度曲がった。
私は、まだ何も訊いていない。