壁の内側を撮ってしまった

秋の縁側と佇む女性

私の仕事は、他人の家を数字にして返すことだ。

不動産会社から依頼を受けて、売りに出る前の家に入る。

部屋を撮り、寸法を測り、間取り図に起こして納品する。

最近はパノラマも撮る。

三脚に丸いカメラを載せて回すと、内見の前に部屋の中をぐるりと見られる、あの画面ができあがる。

ひとりで入って、ひとりで出る。

誰とも話さない日のほうが多い。

だからこの話も、しばらく誰にも話さなかった。

去年の秋に入った、一軒の平屋のことだ。

市の外れの、駅からバスで二十分ほどの住宅地だった。

まわりは新しい建売ばかりで、その一画だけ、黒い板塀に囲まれた平屋が残っていた。

航空写真で見ると、その一画だけ屋根の色が違う。

周りの家が建て替わっていくあいだ、そこだけ動かなかったということだ。

門から玄関まで、飛び石が七つ。

撮る前に歩幅を数える癖がついている。

依頼書には、家財の搬出は済み、当日は誰も来ない、とだけ書いてあった。

施主の欄には、女性の名字が一つ。

備考の欄は空だった。

担当者からは、鍵は開けておくと聞いていた。

玄関の框に置かれていた鍵は、私が触れる前から、少しだけ温かかった。

秋の陽が差し込む位置だったので、そのときは何も思わなかった。

家の中は、驚くほどきれいに片づいていた。

畳は新しくないが、日焼けの縁がまっすぐで、家具の跡がどこにも残っていない。

台所も風呂も、水は止められている。

長く人のいない家の、乾いた紙のような匂いがした。

空き家というのは、たいてい生活の残りかすが匂う。

油の匂い、洗剤の匂い、押し入れの湿気。

その家には、どれもなかった。

匂いまで片づけたような家だった。

私はまず廊下を歩いた。

間取りを起こすときは、廊下から始めると早い。

その家の廊下は、田の字に走っていた。

真ん中に大きな座敷があって、その四方を廊下がぐるりと囲んでいる。

古い家にはたまにある造りだ。

回り廊下といって、風と光を通すためのものだと聞いたことがある。

ただ、歩いてみると、東側の廊下だけがやけに長かった。

座敷の中から見た広さと、外の廊下の長さが、どうにも噛み合わない。

目の錯覚だろうと思った。

測ればわかる、と考えて、私は仕事に戻った。

撮影は座敷から始めた。

三脚を立てて、丸いカメラを回す。

一周するのに二分かからない。

その二分のあいだ、私は柱の陰に隠れていなければならない。

パノラマは、撮っている人間まで写してしまうからだ。

柱に背中をつけてしゃがんでいると、音が聞こえた。

ぽた、と何かが落ちる音だった。

水は止まっている。

雨も降っていない。

ぽた、とまた鳴った。

間隔は不規則で、家の奥のほうから聞こえた。

あとになって思い返すと、あの音は一つではなかった気がする。

重なって聞こえた瞬間が、少なくとも二度あった。

撮影が終わるのを待って、私は音のした方へ行った。

床も天井も乾いていた。

押し入れを開けても、何もなかった。

戻るときに、もう一度だけ、後ろで鳴った。

私は振り返らずに、座敷へ戻った。

仕事のときは、音を数えないようにしている。

数え始めると、手が止まるからだ。

次に入ったのは、座敷の東隣の部屋だった。

畳が六枚の、何もない部屋だ。

採寸のあいだ、私は畳に膝をついていた。

そのとき、頬に何かが触れた。

髪だと思って払った。

手の甲に、細くて冷たいものが乗っていた。

白い。

長さは、私の小指くらいだった。

虫だと思って、そのまま畳に落とした。

落ちたものは、畳の目に沿って、ゆっくり這った。

私は膝をついたまま、それを見ていた。

関節があった。

爪もあった。

それは、人の指だった。

血の気がなくて、細い。

女の人のものだと思う。

爪の先だけが、黒く汚れていた。

床を這ってきたのだと思えば、それは自然な汚れ方だった。

そう考えた自分に、あとで少し驚いた。

悲鳴は出なかった。

声が出るより先に、指のほうが動いたからだ。

指は、畳の上で立ち上がった。

付け根で立って、ぴょこ、と跳ねた。

それから左右に、ゆっくり揺れた。

怖くなかったと言えば、嘘になる。

ただ、その動きには愛嬌があった。

犬が尻尾を振るときの動きに、少し似ていた。

私は、しばらく動けなかった。

指も動かずに、こちらを向いていた。

向いていた、というのはおかしいのだけれど、そうとしか言いようがない。

気がつくと、私は声に出して訊いていた。

「あなた、ここの人?」

指は、頷くように、真ん中で一度曲がった。

「ずっといるの?」

また曲がった。

「私、入っちゃまずかった?」

今度は、横に振れた。

「まずくないの?」

曲がった。

「怒られない?」

また曲がった。

「……写真、撮っていい?」

指は、動かなかった。

それきり、何を訊いても曲がらなくなった。

私は上着からスマートフォンを出して、カメラを向けた。

画面の中の畳には、何も乗っていなかった。

目を上げると、指はそこにいた。

下ろすと、また画面から消える。

何度か繰り返して、私はスマートフォンをしまった。

撮られたくないのだと思うことにした。

私は仕事を思い出して、採寸に戻った。

指は、私が畳を測っているあいだ、部屋の隅まで行って戻ってきた。

まるで、ついてきているようだった。

私が距離計を畳に置くと、その脇まで来て止まる。

持ち上げると、また離れる。

邪魔をしないようにしている、と思った。

数字がおかしいと気づいたのは、そのときだ。

この部屋の内寸と、隣の座敷の内寸と、東側の廊下の長さ。

三つを足しても、外から見た家の幅に届かない。

畳一枚半ほど、余った。

距離計の電池を疑って、玄関の土間で測り直した。

数字は変わらなかった。

間取りの下書きを引いていて、私は廊下の途中で一度、線を止めていた。

なぜ止めたのかは、自分でもわからなかった。

ペンを持った手が、そこで勝手に浮いた。

廊下の実測をやり直した。

巻尺でも測った。

数字は同じだった。

この家には、図面にない部屋が一つぶん入る余地がある。

そのときは、増築の跡か何かだろうと思っていた。

指を、外に出してみようと思った。

いま書いていても、自分でどうかしていると思う。

けれどそのときは、この子を車まで連れて行って、明るいところで見たいとしか考えていなかった。

手のひらに乗せて、襖のところまで運んだ。

敷居をまたごうとすると、指は手の中からするりと抜けた。

床に落ちて、部屋の中へ戻っていく。

もう一度乗せた。

今度は指のあいだで挟んだ。

それでも、敷居の上で抜けた。

抜けるというより、私の手のほうが、そこで指を持てなくなる感じだった。

敷居の手前までは、確かに手の中にある。

またいだ瞬間だけ、そこが空になる。

三度やって、三度とも同じだった。

窓は雨戸が閉まっていた。

私は部屋をぐるりと見た。

床の間の脇、壁と壁が合わさるところに、細い隙間があった。

古い土壁が痩せて、板とのあいだが開いている。

爪の先ほどの幅だった。

私は、そこに指を差し込んだ。

指は、隙間の中でしばらくもぞもぞしていた。

それから、向こう側へ消えた。

隙間の奥から、乾いた擦れる音がしばらく続いた。

やがて、聞こえなくなった。

私は廊下へ走った。

廊下の板の上に、白いものが落ちていた。

拾い上げると、指はまた、ぴょこ、と跳ねた。

うまくいった、と思った。

そのとき、頬が熱くなった。

指が跳ねて、私の顔に飛んだ。

頬を、上から下へ、まっすぐ引っかかれた。

痛みは遅れて来た。

私は手で押さえて、その場にしゃがみ込んだ。

血が指のあいだから出た。

そのあいだ、指は私の肩の上にいた。

そして、押さえていないほうの頬を、二度撫でた。

謝られている、と思った。

いま思えば、あれは謝罪ではなかったのだと思う。

引っかいたところを、確かめていたのだ。

玄関で音がした。

誰かが入ってきて、廊下を走ってくる。

依頼主の女性だった。

担当者から、その日は来ないと聞いていた人だ。

女性は私を見て、それから私の肩のあたりを見た。

顔から色が引くのが、はっきりわかった。

「どこ」

それだけ言われた。

「どこ、って」

「どの部屋」

私は東隣の部屋を指した。

女性は、その部屋のほうを見なかった。

見ないまま、私の腕を掴んで玄関へ引いた。

「靴」

「あの、機材が」

「あとで出します」

外に出されたところで、私は座り込んだ。

そこから先は、あまり覚えていない。

気がついたら、駅前のロータリーのベンチにいた。

機材一式が、足元に揃えて置いてあった。

頬に、ガーゼが貼ってあった。

自分で貼った覚えはなかった。

その日のうちに、仲介の担当者から電話が来た。

売却の話が流れたので、撮影の件はなかったことにしてほしい、と言われた。

撮ったデータは全部消してくれ、とも言われた。

私は消した。

消す前に、一度だけフォルダを開いた。

座敷のパノラマが四枚。

東隣の部屋のパノラマが、二枚あった。

私は、あの部屋で一度しかカメラを回していない。

二枚の撮影時刻を見た。

一枚目は、家に入って四十分ほど後。

二枚目は、私が門をくぐるより前の時刻だった。

私はフォルダごと消した。

ごみ箱も空にした。

三日後、封筒が届いた。

中には、撮影料の倍ほどの現金が入っていた。

それと、小さな鏡と、粗塩の袋と、白い紙に包んだ灰。

差出人の名前はなかった。

現金には、帯も封もついていなかった。

塩と灰は、そのまま台所の棚に置いてある。

鏡だけは、どこかへやってしまった。

頬の傷は、二週間ほどで塞がった。

薄い線が残った。

仕事は普通に続いた。

変わったことがあるとすれば、Sさんのことだ。

Sさんは同業の人で、遺品整理の現場写真を撮る仕事もしている。

私より少し年上で、現場で何度か一緒になったことがある。

そのSさんが、秋の終わりから、私を避けるようになった。

同じ現場に入っても、部屋を分けて動く。

休憩のときは、車の外に立っている。

私は、自分が何かしたのだと思っていた。

仕事の断り方が悪かったのか、それとも噂でも立ったのか。

何度か訊こうとして、そのたびに切り出せなかった。

冬に、Sさんと二人で入った家があった。

古い借家で、長く空いていた。

奥の四畳半を私が撮って、Sさんが台所を撮る、という分け方だった。

台所のほうで、物が落ちる音がした。

行ってみると、Sさんが流しの前で動かなくなっていた。

視線の先、床の隅に、黒っぽいものがあった。

髪の束のようにも、濡れた布のようにも見えた。

それが、こちらへ這ってきていた。

Sさんは、私の腕を掴んだ。

そして、自分の前に引き出した。

私は、その黒いものと、床の上で正面から向き合う形になった。

黒いものは、止まった。

それから、来たほうへ戻っていって、壁の下で見えなくなった。

外に出て、Sさんは私に謝った。

「ごめん。ほかに思いつかなかった」

「今の、何ですか」

「わからない。でも、あなたの前では止まると思った」

「どうして」

「秋から、あなたに何か付いてる」

Sさんは、私の頬の傷のある側を見なかった。

見ないまま、そこを指さした。

「それ、印」

「守ってもらってる、ってことですか」

「守るとは、たぶん違う」

Sさんは、少し考えてから言った。

「手を出すな、っていう目印。誰にでも効くわけじゃない」

私は、避けられていた理由を訊いた。

「あなたが嫌なんじゃない。付いてるものが、私には重い」

重い、というのはどういうことかと訊いた。

Sさんは、言葉を探すように黙った。

「数が多い、みたいな感じ」

「一つじゃないってことですか」

「わからない。でも、一本ぶんの重さじゃない」

私は、あの部屋で聞いた水の音を思い出した。

それから私たちは、以前より普通に話すようになった。

ただしSさんは、いまも私の右側には立たない。

私は、あの家のことを調べた。

登記の記録を取って、古い航空写真を並べて、近所の家を何軒か訪ねた。

板塀の向かいに住む女性が、少しだけ話してくれた。

あの家には昔、よその人がよく来ていたそうだ。

車で来て、玄関には上がらず、東側の廊下だけを通って、帰っていく。

手ぶらで来て、手ぶらで帰る人もいたという。

「なんか、あずけに来てたって聞いたけどねえ」

何を、とは教えてもらえなかった。

その女性は、話しながら一度も板塀のほうを向かなかった。

最後に、あの家は東側の廊下だけ雨戸を閉めない、と言われた。

夜になると、その廊下だけ電気がついていたそうだ。

誰も住まなくなってからも、しばらくは、ついていたという。

依頼主の女性の弟にあたる人と連絡がついたのは、年が明けてからだ。

いまは別の県で暮らしている人だった。

会って最初に言われたのは、こういう言葉だった。

「あなたが元気なのが、いちばん不思議です」

その人の話では、あの家の東側の壁の内側には、部屋がひとつある。

表向きの出入り口はない。

家の者は「ヨセマ」と呼んでいた。

寄せ間、と書くらしい。

よその家で始末に困ったものを、そこへ寄せて預かる。

預けた側は、礼を置いていく。

それでこの家は長く不自由をしなかった、とその人は言った。

礼というのは、金のこともあれば、そうでないこともあったらしい。

子どもの頃、玄関に見たことのない果物が置いてあった朝を覚えている、とその人は言った。

誰が置いたのかは、家の誰も口にしなかったそうだ。

決まりは四つあったそうだ。

部屋の四方を廊下で囲むこと。

その廊下の人通りを絶やさないこと。

家の者以外に、部屋のことを話さないこと。

そして、家を空けないこと。

人が毎日そこを歩いていることが、錠の代わりになるのだと言われた。

だから預けに来る人にも、わざわざその廊下を通ってもらう。

私は、東側の廊下の長さを思い出した。

人に歩かせるために、長く取ってあったのだ。

それを聞いて、はじめて筋が通った気がした。

通ったところで、どうにもならないのだけれど。

「うちは、空けました」

その人は、湯呑みを持ったまま言った。

「母が施設に入って、誰も住まなくなって、ずいぶん経ちます」

「錠が緩んだ、ということですか」

「そう思っています」

「でも、私が入ったのは普通の部屋でしたよ」

「畳、六枚でしたか」

「はい」

「あの部屋は、四枚半のはずなんです」

私は、湯呑みを置いた。

その人は、それ以上その部屋の話をしなかった。

代わりに、頬を見せてくれと言われた。

傷の線を見て、その人は少しだけ笑った。

「うちに来た人で、これを付けてもらった人は、いないと思います」

「これは、何ですか」

「うちのじゃない、ということです」

帰り際、その人は玄関先まで送ってくれた。

靴を履いていると、後ろから声がした。

「うちのは、預かるだけなんです」

私は振り返らなかった。

「置いていく側が、何を置いていったかは、うちも知りません」

家に帰って、私は消したはずの下書きを探した。

手描きの下書きを撮った写真が、クラウドの履歴に一枚だけ残っていた。

線を止めた場所の内側が、あの一室だった。

担当者にも、もう一度確認した。

その鍵は、その朝に不動産会社の金庫から出されて、私が来るまで誰も触れていなかった。

それだけ聞いて、私は電話を切った。

春先に、一度だけあの住宅地の前を通った。

仕事の帰りで、バスの窓からだった。

板塀はそのままで、門に売り物件の看板は出ていなかった。

東側にあたる面の雨戸だけが、開いていた。

別れ際に、弟さんは姉の連絡先を教えてくれていた。

かけてみると、使われていない番号だと機械の声が言った。

仲介の担当者の携帯にも、後日かけた。

同じ声が出た。

会社の代表番号にかけ直すと、担当は替わったと言われた。

あの家に上がった人のうち、いまも同じ番号が通じるのは、私だけだった。

いまも、私は同じ仕事をしている。

週に三軒か四軒、他人の家に入って、寸法を測って、パノラマを撮る。

先週も、郊外の建売を撮った。

新しい家だ。

変わったことは何もなかった。

車に戻って、タブレットでプレビューを流した。

画面を指で回すと、玄関から廊下へ、廊下から居間へ、視点が動く。

廊下の突き当たり、幅木のところに、白いものがあった。

画面を広げた。

細くて、関節があって、爪があった。

頬の、線の残っているところが、じわりと熱くなった。

私は画面をそのままにして、しばらく見ていた。

図面にない部屋のことは、いまも誰にも詳しくは話していない。

あの家の数字だけは、まだ返していない。

白いものは、こちらを向いて、頷くように、真ん中で一度曲がった。

私は、まだ何も訊いていない。

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