淵に二度映ってはいけない

月夜の社と水鏡

昭和四十八年の夏の話をする。

私は十九だった。

県の視聴覚ライブラリーという役所の出先に雇われて、巡回映画の助手をしていた。

十六ミリの映写機と、フィルムの缶と、巻いた白い布。

それを軽三輪に積んで、山の分校や公民館を回る。

夏のあいだだけの、臨時の仕事だった。

フィルムを回すと、白い布に光が乗る。

それだけの仕事だった。

技師は五十を過ぎた人で、沢渡さんといった。

沢渡さんは寡黙で、運転中はほとんど喋らない。

私は助手席で、地図と上映の予定表を膝に載せていた。

その年の八月、予定表の最後に、聞いたことのない地名があった。

梅淵。

紀伊の山の、川をふたつ遡ったところにある集落だという。

「来年の春には沈む」

沢渡さんが、前を見たままそう言った。

ダムができるのだと。

私は、沈む村で映画をやるんですか、と訊いた。

「役所がやれと言うんだ」

沢渡さんはそれきり黙った。

※

林道は舗装が切れて、そこから先は川の音のほうが車の音より大きかった。

右手はずっと崖で、左手は谷だった。

その谷の底を、川が白く光りながら流れている。

水は、山の川にしては妙に澄んでいた。

石の一つひとつが、上から数えられるほどに見えた。

沢渡さんが一度だけ車を停めて、煙草を吸った。

私も外に出て、崖の縁から下を覗いた。

ちょうど真下が、川幅の広がった淵になっていた。

深そうだった。

水面が、私の顔のあたりの空を映していた。

「あんまり覗くな」

沢渡さんが、煙草を靴で消しながら言った。

落ちるぞ、という意味だと私は思った。

※

梅淵に着いたのは、午後の三時を回った頃だった。

家は、思っていたよりずっと少なかった。

数えると十一軒。

どの家も、川に背を向けるように建っている。

玄関が、山側についているのだ。

川のほうに面した壁には、窓が一つもなかった。

板を打ちつけて塞いだのではない。

はじめから、そちら側に窓を作っていないのだ。

軒下に干してある洗濯物まで、全部が山を向いていた。

沢渡さんは、それを見ても何も言わなかった。

公民館は集落のいちばん奥にあって、板張りの、思ったより大きな建物だった。

その公民館の窓に、内側から新聞紙が貼ってあった。

一枚や二枚ではない。

窓という窓に、隙間なく貼ってある。

まだ日は高かった。

真っ昼間の建物が、外から見ると夜のように暗かった。

「映画のために貼ったんですかね」

私が言うと、沢渡さんは首を振った。

「あれは去年の新聞だ」

区長という人が出てきて、私たちを中に入れてくれた。

七十くらいの、背の低い男の人だった。

名前は聞いたが、その場ですぐに忘れてしまった。

この村では、人の名を聞いてもなぜか頭に残らなかった。

中は、外から見たとおり暗かった。

電灯はついていたが、裸電球が三つだけだった。

区長は、板の間の奥の壁を指して「あそこに張ってくれ」と言った。

奥の壁というのは、川と反対側の壁だった。

私はスクリーンを吊るす金具を探しながら、当たり前のように反対側を見ていた。

そちらの壁のほうが広くて、張りやすかったからだ。

「そっちはいかん」

区長は、それだけ言った。

声は静かだったが、そのあとしばらく私の顔を見ていた。

私は謝って、言われたほうの壁に布を張った。

準備をしていると、子どもが二人、戸口から覗いていた。

小学校の三年か四年くらいの、男の子と女の子だった。

女の子のほうが、思い切ったように入ってきて、フィルムの缶を運びたいと言った。

私は一つだけ渡した。

子どもの両腕にはずいぶん重かったらしく、抱えたままよろよろ歩いていた。

それでも嬉しそうだった。

運び終えると、女の子は缶を置いて、私の顔を見上げた。

「おじさん、名ぁは言わんときな」

そう言った。

方言なのか、冗談なのか、私にはわからなかった。

私は笑って、どうしてと訊いた。

女の子は答えず、男の子の手を引いて外へ出て行った。

外はまだ明るかった。

※

上映は日が落ちてからだった。

八時に始めることになっていた。

それまで、区長の家で夕飯をもらった。

そうめんと、川魚の甘露煮と、胡瓜の漬物が出た。

区長の奥さんが、氷は下の町まで行かんとないんです、と何度も済まなそうに言った。

私はぬるいそうめんを三杯食べた。

沢渡さんは一杯だけ食べて、あとは麦茶を飲んでいた。

食べながら、私は何気なく、いい水の村ですね、と言った。

台所にいた奥さんの手が、止まった。

区長は箸を置いて、少し笑った。

「昔は濁っとった」

上の山に鉱山があってな、と区長は言った。

年の半分は、川が白く濁っていたのだそうだ。

「濁っとる水は、なんも映さん」

それがどういう意味なのか、そのときの私にはわからなかった。

鉱山は昭和のはじめに閉まって、それから水はだんだん澄んだのだという。

「澄んだんは、ええことじゃなかった」

区長はそう言って、麦茶を飲み干した。

※

八時前に、村の人が公民館に集まってきた。

十一軒ぶんの人が全部来ても、三十人には届かなかった。

年寄りが多く、子どもは昼間の二人だけだった。

私は映写機の後ろで、フィルムの巻きを確かめていた。

そして、顔を上げて、手が止まった。

客席の全員が、白い布に背を向けて座っていた。

折り畳みの椅子を、わざわざ全部、後ろ向きに並べ替えてあった。

つまり、村の人たちは、私と映写機のほうを向いて座っていた。

スクリーンは、彼らの背中の側にあった。

私は区長を探した。

区長は最前列の、いちばん端に座っていて、やはり背を向けていた。

私と目が合うと、軽く頷いた。

始めてくれ、という意味だった。

沢渡さんを見た。

沢渡さんは、何も言わずに部屋の明かりを落とした。

その晩の演目は、時代劇と、短い記録映画だった。

私はフィルムを回した。

白い布に光が乗って、人の形が動きはじめた。

音が鳴った。

村の人たちは、身じろぎもせずに座っていた。

誰も振り向かない。

笑うところで、誰も笑わなかった。

それは、笑いを我慢しているという感じではなかった。

そもそも、見ていないのだから笑いようがない。

彼らは、音だけを聞いていた。

目を閉じている人もいた。

三十分ほど回したところで、私は妙なことに気づいた。

音楽が途切れる場面が何度かある。

その静かになった一瞬に、外の川の音が入ってくる。

それはいい。

おかしいのは、その川の音が、いつも半拍だけ遅れて聞こえることだった。

音楽が止まってから、少し間があって、それから川が鳴る。

まるで、川のほうが映画に合わせているようだった。

※

上映が終わって、明かりをつけた。

村の人たちは静かに立ち上がり、椅子を元の向きに直して、順に出て行った。

礼を言われた。

何度も言われた。

最後に残った老婆が、私の手を握って、こう言った。

「都会の役者は、よう喋るのう」

私は思わず笑った。

「喋りすぎじゃ」

老婆も笑った。

その笑い方は、ごく普通のおばあさんのものだった。

私はこの村のことを、少しだけ好きになった。

それから片づけを始めて、映写機のレンズを拭こうとして、手が止まった。

レンズに、指の跡がついていた。

渦の形まで、はっきり見えるほどの跡だった。

私は自分の指を見た。

その日、私はずっと軍手をしていた。

そして、その跡はレンズの外側ではなかった。

ガラスの、内側についていた。

※

その夜は、公民館の板の間に布団を敷いて寝ることになっていた。

沢渡さんはすぐに寝息を立てた。

私は寝つけなかった。

窓に新聞紙が貼ってあるので、外の明るさがわからない。

時計を見ると、一時を過ぎていた。

喉が渇いて、水を飲みに外へ出た。

外は、思っていたより明るかった。

月が出ていた。

川の音が近い。

公民館の裏手は、すぐに川原になっていた。

私は水を飲むつもりで、川のほうへ下りた。

そこが、昼間に上から覗いた淵の下流だった。

川原に、人が立っていた。

駐在さんだった。

夕方に一度、挨拶をしていた。

四十くらいの、痩せた人だった。

制服ではなく、シャツ一枚で立っていた。

私を見て、少し驚いた顔をした。

「眠れんかね」

私は、はい、と答えた。

駐在さんは川のほうを向いたまま、煙草に火をつけた。

「十一軒しかない村ですね」

私がそう言うと、駐在さんは頷いた。

「昭和三十六年から、ずっと十一軒だ」

一軒も増えず、一軒も減っていないという。

「移った家は」

「移った家は、はじめから十二軒あった」

二十三軒あったのが、半分だけ先に移ったのだ、と駐在さんは言った。

移った先は、下の町に造成された団地で、車で四十分ほどの距離だという。

「近いんですね」

「近い」

駐在さんは、それだけ言った。

そして、移った十二軒の誰一人、この村へ戻って来たことがない、と付け加えた。

盆にも、正月にも、墓参りにも来ない。

「祭りはどうしてるんですか」

「祭りは、もう三十年やっとらん」

私は、残りの人も春には移るんでしょう、と言った。

駐在さんは、しばらく黙っていた。

「あの人らは、移らんよ」

どうしてですか、と私は訊いた。

「移れんのだ」

駐在さんは、それ以上は説明しなかった。

代わりに、こんな話をした。

この村には、三つの決まりがあるのだという。

一つ、水面を覗かない。

二つ、光るものを川に向けない。

三つ、夜に人の名を大きな声で呼ばない。

私は、その三つ目でようやく、昼間の女の子の言葉を思い出した。

おじさん、名ぁは言わんときな。

「子どもに言われました」

駐在さんは、そうか、とだけ言った。

それから、煙草を川に投げずに、地面で踏んで消した。

「わしは、この村の生まれじゃない」

「だから、あんたと同じで、まだ何も知らんのだ」

そう言って、駐在さんは自分の家のほうへ歩いて行った。

私は、水を飲むのを忘れて公民館に戻った。

※

二日目の夕方、村の人が十人ほどで、公民館の掃除に来た。

昨日と同じように、椅子を後ろ向きに並べていく。

私はそれを手伝いながら、区長に訊いてみた。

どうして、みんな後ろを向いて観るんですか、と。

区長は、椅子を持ったまま、私の顔を見た。

「観とらんよ」

私は、はい、と答えるしかなかった。

「聞いとるだけじゃ」

区長は椅子を置いて、それから付け加えた。

「聞くだけなら、こっちが減らんでな」

その言い方は、何かの計算のようだった。

私は、意味がわからないまま頷いた。

※

二日目の上映は、九時から始まった。

一本目の途中で、フィルムが切れた。

音が消えて、光が消えて、部屋がまっ暗になった。

私は焦って懐中電灯を探した。

そのとき、暗闇の中で音がした。

三十人近い人間が、一斉に立ち上がる音だった。

椅子が擦れる音も、声も、ひとつもなかった。

ただ、布と板の擦れる音だけが、そろって鳴った。

私は懐中電灯をつけた。

村の人たちは全員、立ったまま、私のほうを向いていた。

誰も目を開けていなかった。

全員が、目を閉じていた。

「灯りを消しなさい」

区長の声だった。

私は消した。

暗闇で、沢渡さんの手が私の肩を掴んだ。

「繋いだら、点けろ」

沢渡さんの声は、いつもと同じだった。

私は手探りでフィルムを繋いだ。

光が戻ると、村の人たちはもう座っていた。

やはり、白い布に背を向けて。

上映が終わったのは、十一時前だった。

昨日と同じように、みんな静かに帰っていった。

老婆は、今日は何も言わなかった。

私は片づけをしながら、手が震えているのに気づいた。

沢渡さんが、外の空気を吸ってこいと言った。

私は外へ出た。

月は、昨日より少し細かった。

川の音がした。

私はまた、川原へ下りた。

なぜ下りたのか、自分でもわからない。

足が、そちらへ行った。

淵の水は、昼間よりも静かだった。

月の光で、水面が鏡のようになっていた。

私は縁に立って、下を見た。

自分が映っていた。

髪も、シャツの襟も、はっきりと見えた。

私はそれを、少しのあいだ見ていた。

そして、気づいた。

水に映った私は、こちらを見ていなかった。

水面の中の私は、顔を上げて、向こう岸のほうを向いていた。

私は自分の首を触った。

私の顔は、確かに下を向いていた。

水の中の私は、まだ向こうを見ていた。

そして、ゆっくりと、こちらを向いた。

※

どうやって公民館まで戻ったのか、覚えていない。

気がつくと、板の間に座っていた。

沢渡さんは起きていて、私の顔を見て、何も訊かなかった。

ただ、こう言った。

「明日、朝いちで出る」

外が白みはじめた頃、戸を叩く音がした。

駐在さんだった。

昨日と同じシャツで、髪が濡れていた。

私を見て、少しほっとした顔をした。

それから、私の名を呼んだ。

駐在は三度、私の名を呼んだ。

私は、返事をしようとした。

私の喉から、返事が出てこなかった。

声が出ないのではなかった。

「はい」という二文字が、どこにも見つからなかった。

自分の名前が、自分のものだという感じが、しなかったのだ。

駐在さんは、それを見て、四度目は呼ばなかった。

代わりに、私の腕を掴んで、外へ引っ張り出した。

「早う行きなさい」

それだけ言って、駐在さんは自分の家へ戻って行った。

※

軽三輪が村を出るとき、区長が道に立っていた。

見送りではなかった。

区長は、私のほうを見ずに、川のほうを見ていた。

その隣に、あの女の子が立っていた。

女の子だけが、こちらに手を振った。

私は、手を振り返せなかった。

林道を下りながら、沢渡さんが一度だけ口を開いた。

「あの村は、はじめから断るべきだった」

私は、あの人たちは何を怖がってるんですか、と訊いた。

沢渡さんは答えなかった。

ただ、ハンドルを握ったまま、こう言った。

「濁っとる水は、なんも映さん」

区長と同じ言葉だった。

※

それから五十年以上が経った。

私は映写の仕事を二年でやめて、電気工事の職人になった。

結婚して、子どもができて、その子にも子どもができた。

梅淵は、翌年の春に沈んだ。

新聞に小さく載っただけだった。

私は、その記事を切り抜いて、ずっと持っていた。

村の人たちは、最後まで移らなかったのだと、後から人づてに聞いた。

どうなったのかは、誰も教えてくれなかった。

私はそれを、悪いことだとは思わなかった。

水の底には、水面がない。

沈んでしまえば、もう何も映らない。

あの人たちは、それを待っていたのだと、私はいつからか思うようになった。

そして私も、同じものに救われていたのだ。

あの淵は沈んだ。

だから、二度目はない。

そう思って、五十年を暮らしてきた。

※

あの晩のことを、私は長いこと考え続けた。

なぜ村の人たちが、後ろを向いて座っていたのか。

なぜ窓に新聞紙を貼っていたのか。

なぜ昼間の女の子が、名を言うなと言ったのか。

答えらしいものに行き着いたのは、六十を過ぎてからだ。

映画というのは、光と、映るものの塊だ。

それをあの村に持ち込んだのは、役所と、私たちだった。

あの人たちは、映画を観ていなかったのではない。

あの人たちは、映されないように座っていたのだ。

白い布に背を向ければ、布に自分は映らない。

窓を塞げば、ガラスに自分は映らない。

名を呼ばれなければ、誰も自分のほうを向かない。

澄んだ水は、人を映す。

一度目は、ただ映るだけだ。

二度目に映ったとき、映ったほうが名前を覚えて、こちらは覚えていられなくなる。

だからあの村は、鉱山が閉まって水が澄んだ日から、ずっと息を潜めていた。

先に移った十二軒は、まだ一度も映っていない家だった。

残った十一軒は、もう映ってしまった家だった。

移りたくても、移れなかったのだ。

名前を持って行けない人間は、よその土地の帳面に載れない。

※

この夏、テレビでダムの映像を見た。

渇水で、貯水率が二割を切ったという。

西日本のいくつかのダムが底を見せている、というニュースだった。

その中に、あの谷の名前があった。

画面には、上から撮った映像が映っていた。

水が引いて、五十年ぶりに、旧い河床が出ていた。

谷の底に、白い布のようなものが見えた。

乾いた砂が、日を受けて光っていたのだと思う。

思うのだが、私はテレビを消した。

※

先週の夜のことだ。

孫が私の部屋に来て、こう言った。

「じいちゃん、いま呼んだ?」

私は呼んでいない。

私はテレビも点けていなかったし、誰とも話していなかった。

孫は不思議そうな顔をして、確かに聞こえたと言った。

私の名前を、下のほうから呼ぶ声がしたのだと。

私は孫に、もう寝なさいと言った。

そして、一人になってから、自分の名前を口の中で言ってみた。

言えた。

ちゃんと言えた。

それが、なぜだか、少しも安心にならなかった。

私はこの五十年、水面を覗いていない。

洗面器も、風呂も、雨上がりの水たまりも、避けて生きてきた。

それでも、乾いた河床に、また雨は降る。

水が戻れば、そこにまた、映るものができる。

今度は、私が向こう岸を向いている番かもしれない。

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