シェフは煮詰まっている

仕事柄、月に一度、県境の峠道を夜に越える。

橋やトンネルの点検の仕事をしている。

現場が山の中ばかりなので、帰りはどうしても遅くなる。

三年前の春からの習慣で、峠の中腹にある一軒の洋食店に寄るようになった。

「洋食 風早」という店だった。

国道沿いに、ぽつんと一軒だけ。

杉林を背にした古い平屋で、窓から橙色の灯りが漏れていた。

夜の峠であの灯りを見つけたときの安堵は、通った者にしか分からないと思う。

店主は六十絡みの、寡黙な人だった。

客はいつも、私のほかに一人か二人。

メニューは黒板に一行だけ。

「本日のコース」。

その日の仕入れで、店主が中身を決める。

品書きはない。

出てきたものを食べる。

それだけの店だった。

初めて入った晩のことは、よく覚えている。

三月の、まだ寒い夜だった。

現場で計器がひとつ壊れて、散々な一日だった。

温かいものが食べたい、それだけで戸を引いた。

カウンターの奥で、店主が顔を上げた。

「お一人ですか」

「ええ」

「少し、時間をいただきます」

それが最初の会話だった。

初めての晩、最初に出てきたのは、小さなカップのコンソメだった。

一口すすって、驚いた。

澄んだ琥珀色なのに、味の底が異様に深い。

思わず厨房のほうを見ると、店主がぼそりと言った。

「うちのコンソメは、三日、火を入れます」

三日、と私は聞き返した。

「はい。三日目の晩が、いちばん旨い」

それだけ言って、店主はまた鍋に向き直った。

以来、私はこの店のコンソメを目当てに、峠を越える日を月末に寄せるようになった。

コースの中身は、毎回違った。

春は山菜のフライ。

夏は鹿肉の煮込み。

秋は茸のオムレツ。

どれも品書きのない一期一会で、二度と同じ皿は出なかった。

ただ、最初のコンソメだけは、いつも同じだった。

あの琥珀色だけが、この店の変わらない挨拶だった。

店主は、無口だが、無愛想ではなかった。

皿を下げるとき、一言だけ添える。

「今日は、猪が良かったので」

「霜が降りると、葱が甘くなります」

会話らしい会話は、それだけ。

それが心地よくて、通った。

レジの横に、古い写真立てがひとつ置いてあった。

色褪せた写真の中で、若い男の人が、皿を持って笑っていた。

黒いベストに、長い前掛け。

一度だけ、「息子さんですか」と訊いたことがある。

店主は、少し間を置いて、「ホールを任せるつもりだったんです」と言った。

過去形だった。

それ以上は、訊かなかった。

訊いてはいけない過去形というものが、あの歳になると分かる。

ただ、その晩のコンソメは、いつもより少しだけ、塩が強かった。

味を間違える人ではなかったから、よく覚えている。

手帳を見返すと、最初の三年で三十四回通っている。

領収書は全部取ってある。

経費で落ちないのに、なんとなく捨てられなかった。

今になって思えば、あれは正解だった。

あの晩の一枚だけ、様子が違うのだから。

その夜のことは、順を追って書く。

十一月の、第二金曜だった。

昼から橋脚の点検があって、終わったのが二十一時過ぎ。

峠にかかった頃には、二十二時を回っていた。

雨上がりで、路面が黒く光っていた。

カーブを抜けると、いつもの灯りが見えた。

正直に言えば、ほっとした。

腹も減っていたし、体も冷えていた。

今夜のコンソメで、生き返ろうと思った。

ただ、その晩は、何かが違った。

店の煙突から、湯気が出ていなかった。

いつもは白い湯気が、灯りに照らされて立ちのぼっているのに。

換気扇の音も、していなかった。

駐車場に、車が一台もなかった。

金曜の夜にしては、珍しかった。

戸を引くと、いつものベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

ウェイターの声がした。

若い男の人だった。

黒いベストに、長い前掛け。

見覚えがなかった。

三十四回通って、この店で店主以外の人を見たのは、初めてだった。

ようやく雇えたのか、と思った。

ホールを任せる人を。

だから最初は、少しも疑わなかった。

「お一人ですか」

「ええ」

「ご予約の方ですね。どうぞ」

予約はしていない。

そもそも、この店に予約という仕組みがあることを知らなかった。

訂正しようとしたが、ウェイターはもう歩き出していた。

いつもの窓際の席に、案内された。

私がいつも座る席だった。

それを、初めて見る人が知っていた。

常連だと、店主から聞いていたのだろう。

そう思うことにした。

椅子を引く所作が、妙に丁寧だった。

丁寧すぎて、練習してきたみたいだった。

店内には、誰もいなかった。

暖房も、入っていないようだった。

コートを脱がずに座った。

テーブルには、真っ白なクロス。

銀器が、きちんと並んでいた。

ナイフの刃が、全部きっちり内側を向いていた。

教科書どおりの置き方だった。

あの店主は、そういう細かいことに構わない人だったのに。

水の入ったグラスが、先に置いてあった。

一口飲んで、おや、と思った。

ぬるい。

この店の水は、いつも山の湧き水で、冬は歯に染みるほど冷たいのに。

厨房のほうに目をやった。

磨りガラスの引き戸が、閉まっていた。

戸の向こうに、青白い小さな光が揺れていた。

コンロの火だと思った。

ただ、物音がしなかった。

包丁の音も、鍋のぶつかる音も、油の爆ぜる音も。

あの店主は、調理中、絶えず何かの音を立てていた。

その全部が、なかった。

火だけが、静かに揺れていた。

壁の時計を見た。

八時少し前を指したまま、止まっていた。

秒針が、動いていなかった。

腕時計は、二十二時四十分。

時計くらい直せばいいのに、と、そのときは思っただけだった。

あとで調べて、知ったことがある。

この土地の古い家では、家の主に何かあったとき、時計を止める習わしがあったそうだ。

「時が主を置いて先に行かないように」と。

峠の集落の、もう誰も守っていないはずの、古いしきたりだった。

あの時計が「いつの」八時前で止まったのか、考えるようになったのは、ずっと後のことだ。

そして、匂い。

いつものコンソメの、あの澄んだ香りの奥に、焦げに似た匂いが、薄く混じっていた。

香ばしいというより、乾いた匂いだった。

うまく言えないが、台所の匂いではない気がした。

線香に、少しだけ似ていた。

店の中で、そう思ってしまってから、慌てて打ち消した。

三十分待って、何も出てこなかった。

ウェイターは、店の隅に立っていた。

姿勢よく、まっすぐ前を向いて。

待っているあいだ、彼は一度も、厨房に入らなかった。

料理を運ぶ気配も、様子を見に行く素振りもない。

ただ、磨りガラスの火のほうを、ずっと見ていた。

火の番でもしているみたいに。

足音を、一度も聞いていないことに、そのとき気づいた。

「あの、すみません」

声をかけると、ウェイターは滑るように来た。

「コースは、まだですか」

「申し訳ございません」

彼は、深く頭を下げた。

「シェフは、煮詰まっております」

変な日本語だと思った。

言葉に詰まっている、という意味だと思った。

献立が決まらないのだろう、と。

「もう少々、お待ちいただけますか。三日目ですので」

三日目。

コンソメの仕込みの話だと、そのときは思った。

「今夜のは、格別に仕上がります」

「三年、通ってくださったお客様ですから」

どきりとした。

三年。

数えていたのか。

誰が。

ウェイターは、そう続けた。

「シェフが、ずっと付きっきりですので」

その言い方に、嘘の匂いはなかった。

むしろ、誇らしげだった。

それから、さらに三十分待った。

磨りガラスの向こうで、火は揺れ続けていた。

人影は、一度も動かなかった。

影が、あることにはあるのだ。

コンロの前に、座り込むような形の、低い影が。

料理人は、あんな低い姿勢では、鍋の中が見えないだろうに。

一度だけ、その影に声をかけようかと思った。

「大将、無理しないで」と。

言わなかった。

なぜか、声が出なかった。

あの引き戸を開けてはいけないと、体のどこかが決めていた。

二十三時半を過ぎて、私はとうとう席を立った。

空腹より、居心地の悪さが勝った。

「お会計を」

「いただいておりません」

ウェイターは、静かに首を振った。

「何も、お出しできておりませんので」

「でも、水を」

「お水は、うちからのサービスです」

ぬるい水の理由を、私はまだ、考えないようにしていた。

戸口まで送られた。

別れ際、彼は言った。

「またいらしてください。仕上がりますので」

振り返ると、磨りガラスの向こうの火が、ふっと小さくなった気がした。

車に乗って、峠を下った。

バックミラーの中で、店の灯りは、いつまでも橙色のままだった。

家に帰って、湯を沸かして、カップの吸い物で腹をごまかした。

味は、しなかった。

寝る前に、手帳にいつもの通り書いた。

「風早。三十五回目。コース出ず」

その一行が、あの店について書いた、最後の記録になった。

翌日も、翌々日も、仕事は普通にあった。

橋を測り、ボルトを叩き、数字を記録した。

それでも、ふとした瞬間に、あの磨りガラスの火を思い出した。

揺れる青白い火と、動かない低い影。

あれは何だったのかという問いを、私は忙しさで塞いでいた。

次にあの店の名前を目にしたのは、四日後だった。

地方紙の、隅の記事だった。

「峠の洋食店で店主倒れる」。

発見されたのは、私が店を出た、翌朝。

配達に来た酒屋さんが、鍵の開いたままの店で、厨房に倒れている店主を見つけた。

店主は、そのまま帰らぬ人となっていた。

持病の発作だったらしい。

記事には、こうあった。

「倒れてから、三日ほど経過していたとみられる」

三日。

活字の上で、その二文字だけが、浮いて見えた。

うちのコンソメは、三日、火を入れます。

三日目の晩が、いちばん旨い。

あの言葉が、耳の奥で再生された。

指を折って、日付を数えた。

何度数えても、同じところに行き着いた。

私があの店で食事をしようとしていた晩、店主はもう、三日近くも厨房に倒れていたことになる。

では、あの晩、私にぬるい水を出したのは、誰だったのか。

「ご予約の方ですね」と言って、私の席へ案内したのは。

どうしても気になって、後日、麓のガソリンスタンドで訊いてみた。

店主とは古い付き合いだという、年配の従業員の人がいた。

「風早さんとこ、お手伝いの人がいたでしょう。若い、ウェイターの」

その人は、給油の手を止めた。

「あの店は、開店からずっと、大将一人だよ」

「でも、黒いベストの」

「一人だよ」

念を押すように、繰り返された。

「大将、ホールに出す人を雇うのが夢だとは、よく言ってたけどね」

「息子さんが継いでくれたら、って」

「継ぐはずだったんだよ、ほんとはね」

「調理の学校を出て、ホールの修行までして」

「店に立つ前の年に、事故でね。遠いところへ行っちまった」

レジ横の、色褪せた写真を思い出した。

黒いベストに、長い前掛け。

皿を持って笑う、若い人。

あの晩、私を席へ案内した人と、同じ格好だった。

同じ、顔だった気がしてきた。

思い出そうとするほど、確信に変わっていくのが、自分でも怖かった。

息子さんは、と訊きかけて、やめた。

その人の目が、これ以上は訊いてくれるなという色をしていたからだ。

帰り際、その人はぽつりと言った。

「片付けに入った消防団の連中が、妙なことを言っててね」

「コンロの火が、点いたままだったんだと」

「三日だよ。普通、鍋なんか黒焦げで、火事になったっておかしくない」

「それがね」

鍋の中身は、ちょうど三日分、煮詰まっていた。

焦げる一歩手前の、いちばん深いところで、火から降ろされるのを待っていたそうだ。

「大将のコンソメ、あんた飲んだことある?」

訊かれて、頷くまでに、少し間が要った。

「……ええ」

「三日目の晩が、いちばん旨いんだとさ」

私は、相槌が打てなかった。

火事にならなかった理由を、消防団は「運が良かった」で片付けたそうだ。

三日間、誰かが火加減を見ていた、とは、誰も言わなかった。

言えるはずもなかった。

けれど私は、見ている。

あの晩、火のそばに立って、磨りガラスの向こうを見つめていた人を。

「シェフが、ずっと付きっきりですので」

あの言葉も、逆さまにすれば、辻褄が合ってしまう。

付きっきりだったのは、シェフのほうではなかったのだ。

財布には、今もあの店の領収書が三十四枚ある。

三十五枚目は、ない。

あの晩の会計を、私は受け取ってもらえなかったから。

煮詰まっていたのは、献立ではなかった。

あのウェイターの言葉は、最初から最後まで、何ひとつ嘘ではなかったのだ。

シェフは、煮詰まっていた。

言葉のあやでも、比喩でもなく。

あの店で三日、火にかけられ続けていたものの前で、あの人は倒れていた。

最後まで作り続けた人と、最後まで火を見ていた人。

親子の店は、あの晩、確かに開いていたのだ。

開店から、たった一晩だけの。

三日目の、いちばん旨いところで。

考えるのは、そこから先のことだ。

誰もいない厨房で、三日間、火加減を見ていたのは誰か。

磨りガラス越しに揺れていた、あの低い影は何か。

そして、あの晩の客が、なぜ私だったのか。

「またいらしてください。仕上がりますので」

あの言葉を思い出すたび、考えてしまう。

仕上がったコンソメは、誰の前に、出されたのだろう。

厨房の奥の、まかない用の小さな机に、カップがふたつ伏せてあったと、酒屋さんは言っていたそうだ。

洗いたてで、まだ濡れていたと。

倒れて三日経つ店の、洗いたてのカップが、ふたつ。

それを聞いてから、私は考えるのをやめた。

やめたというより、それ以上は、考えてはいけない気がした。

峠の店は、今は閉まったままだ。

先月、点検の帰りに、一度だけ車を停めてみた。

窓は暗く、煙突は冷えて、駐車場に草が伸び始めていた。

レジ横の写真立ては、外から見える位置に、まだ立っていた。

逆光でよく見えなかったが、写真の中の人は、二人になっていた気がする。

確かめには、行っていない。

それでも夜にあの道を通ると、私はまだ、カーブの先に橙色の灯りを探してしまう。

見つけてしまったら、今度は、断れない気がしている。

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