盛岡の実家は、時計屋だった。
祖父の代からで、私で三代目になる。
私は東京の専門学校で二年、電子部品の会社で三年働いて、昭和五十八年の春に戻った。
戻ったのは、祖父が倒れたからである。
祖父の名は常吉といった。
町では、常さん、で通っていた。
腕のいい職人だったというより、少し変わった職人だったと言うほうが正しい。
変わっている、というのは、こういうことである。
祖父は、図面を見なかった。
持ち込まれた時計を、蓋を開けて三十秒ほど覗いて、それで直した。
国産でも舶来でも、同じだった。
戦前のものでも、同じだった。
「なんで分かるの」
子どものころ、私が訊いたことがある。
祖父は、拡大鏡を目に挟んだまま答えた。
「分からんよ」
「分からんのに直せるの」
「手に訊いとる」
私はそれを、職人の気取った言い方だと思っていた。
三十年、そう思っていた。
※
戻ってからのひと月は、ただの町の時計屋だった。
朝、シャッターを開けると、向かいの菓子屋の湯気が上がっている。
客の八割は、電池交換とバンド調整である。
母が店番をして、私は奥の作業台にいた。
作業台は、祖父が使っていたものをそのまま使った。
天板の右手前が、丸く窪んでいる。
四十年、同じ場所に肘を置いた跡だった。
私は左利きだから、その窪みは邪魔になる。
それでも、削らなかった。
削る理由が、うまく言葉にならなかったからである。
祖父の葬儀には、町の年寄りがずいぶん来た。
その一人に、隣町で眼鏡屋をやっている佐々木さんという人がいた。
戦後すぐ、祖父と同じ親方についていたのだという。
焼香のあと、佐々木さんは私を店の前に呼んで、こう言った。
「常さんはな、若いころは、そんなに上手やなかった」
「そうなんですか」
「上手やなかった。手が遅うてな」
佐々木さんは、煙草に火を点けた。
「変わったんは、塔の時計を任されてからや」
「何年ごろですか」
「昭和十六年か、十七年やな」
「急に上手くなったんですか」
佐々木さんは、しばらく黙って煙を吐いた。
「上手うなった、いうのとは、ちょっと違う」
それきり、何も言わなかった。
※
盛岡の旧公会堂には、塔時計がある。
大正の終わりに据えられたもので、四つの文字盤が東西南北を向いている。
あれの世話を、祖父が四十年やっていた。
正確には、祖父しかできなかった。
市の営繕課が、一度だけ他の業者に頼んだことがある。
昭和四十年代のはじめだ。
その業者は、きちんと分解して、きちんと組み直した。
時計は動いた。
ただ、月に三分ずつ遅れた。
三分というのは、塔時計にとっては話にならない狂いである。
結局、祖父が呼ばれた。
祖父は分解もせずに、ネジを何本か締め直しただけで帰った。
それきり、遅れは止まった。
営繕課の記録に、そのときの一行が残っている。
「小野寺氏、締付順序ノ調整ノミ」
締付順序、というのが何なのか、私は東京にいるあいだ、考えたこともなかった。
※
祖父は、その年の六月に亡くなった。
店を継いで最初の大きな仕事が、塔時計の秋の点検だった。
私は工具を担いで、塔の螺旋階段を上がった。
機械室は、思っていたより狭かった。
床は木で、歩くたびに乾いた音がした。
鳩の羽根が、隅に溜まっていた。
機構そのものは、単純だった。
ゼンマイではなく、重錘で動く。
私は手順どおりに分解して、油を替えて、組み直した。
ひと月後、時計は月に三分遅れていた。
営繕課から電話が来たとき、私は自分の耳を疑った。
私の組み方に、間違いはなかったはずだ。
部品は一つも余らなかった。
寸法も、噛み合いも、全部見た。
それでも、三分だった。
十七年前と、同じ数字だった。
※
塔の機械室のことを、もう少し書いておく。
入口は南向きの鉄扉で、鍵は市役所の営繕課が持っている。
中は八畳ほどで、真ん中に鋳鉄の枠が据わっている。
枠の上に、大きな歯車が三枚。
その奥に、振り子が下りている。
振り子の長さは、二メートル近い。
錘は、鉛を布で包んだものだった。
布は何度も巻き替えられていて、いちばん内側だけ、古い麻が残っている。
初めて上がった日、私はその麻に触れた。
湿っていた。
塔の中は乾いている。
屋根も壁も傷んでいない。
それでも、その布だけが、握ると指に冷たさが残るほど湿っていた。
私は営繕課に、雨漏りではないかと言った。
三上さんが調べて、雨漏りはないと言った。
「昔からです」
「昔から湿ってるんですか」
「小野寺さんも、同じことを言ってました」
祖父も、同じことを言っていた。
言って、そのまま四十年、何も変えなかったということである。
※
祖父の帳面を、私は初めて真面目にめくった。
四十年ぶんが、桐の箱に入っていた。
塔時計の項は、毎年一ページずつある。
そこには、分解の手順も、部品の名前も、油の種類も、きちんと書いてあった。
ただ一つ、書いていないものがあった。
締める順である。
どのページにも、その欄だけが空いている。
空欄の下に、毎年、同じ一行が書いてあった。
三月に、私は塔の記録を写しに、もう一度営繕課へ行った。
そのついでに、昭和十六年の点検記録を、指でなぞって読んだ。
最後の一枚に、佐藤という人の字で、こう書いてあった。
「締付順序、次ノ者ニ渡ス」
渡す、である。
教える、でも、記す、でもない。
その下の空欄には、何も書かれていなかった。
翌年の欄から、祖父の字になっている。
祖父の四十枚目の記録の、いちばん最後の一行を、私はそのとき初めて読んだ。
亡くなる二か月前の、震える字だった。
「締付順序、次ノ者ニ渡ス」
同じ一行だった。
その下の空欄も、同じように、白いままだった。
私が塔に上がったのは、その半年後である。
空欄が白かったのは、渡す相手が決まっていなかったからではない。
名前を書く必要が、なかったからだ。
※
順は、手に訊け。
四十回、同じ一行。
筆圧が年々弱くなっていくのが、はっきり分かった。
それでも、四十回とも書いてある。
忘れないための覚え書きではない。
誰かに読ませるつもりで書いた一行だと、私はそのとき思った。
※
十一月に、私はもう一度、塔に上がった。
今度は、分解しなかった。
ネジだけを見た。
機械室のネジは、全部で三十二本ある。
その頭を、拡大鏡で一本ずつ見た。
どのネジにも、当て傷が一つずつあった。
ドライバーの先が滑ったときにつく、細い傷である。
職人によって、つく角度が違う。
手の甲の向きと、肘の高さで決まるからだ。
三十二本の当て傷は、全部、同じ角度だった。
祖父の角度だった。
私は、秋に自分が締めたネジを探した。
締めたのは、十四本のはずである。
その十四本にも、傷はついていた。
同じ角度で、ついていた。
私の手は、祖父とは逆の利きである。
祖父は右で、私は左だ。
左で締めた傷が、右の角度でつくことは、ありえない。
※
それからのひと月、私は工房で妙なことに気づくようになった。
まず、音だった。
店を閉めて二階に上がったあと、階下でネジを回す音がする。
きゅ、と半回転して、止まる。
それだけである。
降りていくと、作業台には何もない。
次に、順である。
柱時計の修理をしていたときだった。
私は蓋を留めるネジを、いつも左上から時計回りに締める。
その晩、私の手は、右下から締めていた。
気づいたのは、三本目を締めているときだ。
止めようと思った。
止められなかった。
正確に言えば、止める理由が思いつかなかった。
その順で締めるのが、あまりに自然だったからである。
締め終わって、手を離してから、私はようやく怖くなった。
あの晩、私の右手は、私より先に順を知っていた。
※
十二月に入って、工房でもう一つ、妙なことが起きた。
私は油差しを、作業台の左端に置く癖がある。
左利きだからだ。
ある朝、油差しが右端にあった。
母が触ったのかと思って訊いたが、触っていないと言う。
次の朝も、右端だった。
私は試しに、寝る前に左端へ置いて、位置を紙に写した。
朝、油差しは右端にあった。
紙に写した輪郭と、寸分ずれていない位置に、別の輪郭ができていた。
その位置は、天板の窪みの、ちょうど右である。
右手で作業する人間にとって、いちばん取りやすい場所だった。
私はそれから、油差しを右端に置くようにした。
置くようにしたら、動かなくなった。
怖かったのは、動かなくなったことではない。
私が、自分から譲ったことだった。
※
年が明けて、営繕課の三上さんという人が店に来た。
塔時計の古い記録を持ってきてくれたのである。
大正十四年からの、修理の記録だった。
私は、祖父の没後の欄を見た。
祖父は六月に亡くなっている。
七月に一度、九月に一度、記録があった。
担当者の欄に、小野寺常吉、と書いてある。
「三上さん、これ」
「ああ、それね」
三上さんは、あっさり言った。
「うちの課で、様式どおり書いてるだけです。契約が年度で切れてないんで」
「けど、誰が上がったんですか」
三上さんは、少し考えてから答えた。
「業者さんですよ。名前までは」
「うちには、その依頼、来てません」
三上さんは、書類をめくった。
めくって、めくって、それから顔を上げた。
「発注、してないですね」
「してないのに、記録がある」
「点検して、異常なし、と書いてありますね」
私たちは、しばらく黙っていた。
三上さんが、書類を閉じながら言った。
「昔から、そうなんですよ」
「昔から、というと」
「大正十四年から、この時計、遅れたことがないんです」
「四十年代に三分遅れたでしょう」
三上さんは、うなずいた。
「よその業者が触った年だけです」
※
三上さんが帰ったあと、私は大正十四年からの記録を借りて、机に広げた。
五十八年ぶんの点検記録である。
担当者の欄を、上から順に指で追った。
大正十四年から昭和十六年までは、佐藤という名前が並んでいる。
昭和十七年から、小野寺常吉になる。
佐々木さんが言っていた年と、ちょうど重なっていた。
気になって、佐藤という人のことを調べた。
市の名簿にも、商工会の記録にも、時計屋の佐藤は残っていない。
三上さんに訊くと、少し調べてから電話をくれた。
「昭和十六年の秋に、廃業されてますね」
「理由は書いてありますか」
「書いてないです。ただ」
三上さんは、言い淀んだ。
「廃業の届に、代筆、と判が押してあります」
「誰の代筆ですか」
「小野寺常吉さん、です」
私は、受話器を持ち替えた。
「祖父が、代わりに出したということですか」
「そうなりますね」
私は礼を言って、電話を切った。
切ってから、ずいぶん長いこと、机の前に座っていた。
祖父は、佐藤という人から、店を譲られたのではない。
手を、譲られたのだ。
そう考えると、佐々木さんの言い方が腑に落ちる。
上手くなったのとは違う、というのは、そういう意味だった。
※
私は、祖父の癖を一つ思い出していた。
祖父は、ネジを締めるとき、必ず一度だけ、逆に回してから締めた。
ゆるめる方向へ、きゅ、と半回転。
それから、締める。
ネジ山を噛ませるための作法だと、私はずっと思っていた。
実際、そういう作法はある。
ただ、祖父は三十二本のうち、一本にしかそれをしなかった。
いつも、同じ一本にだけ。
三番車の押さえの、十七番目のネジである。
祖父が入院していたころ、東京から一度だけ電話したことがある。
店に持ち込まれた古い柱時計が、どうしても直らなかった。
私が症状を説明すると、祖父は、ふん、と言った。
そして、受話器の向こうで、こう言った。
「三番車の、十七枚目」
それだけだった。
私はそのとおりにして、時計は動いた。
あのとき、祖父はその時計を見ていない。
見ていないどころか、そんな型があることも、知らないはずだった。
※
佐々木さんに、もう一度会いに行った。
隣町の眼鏡屋は、店じまいの支度をしていた。
私は、佐藤という時計屋のことを訊いた。
佐々木さんは、レンズを拭く手を止めた。
「あんた、そこまで調べたか」
「はい」
「佐藤さんはな、手が動かんようになったんや」
「病気ですか」
「そういう話やった」
佐々木さんは、布を置いた。
「けど、わしは一度、見とる」
「何をですか」
「廃業したあとの佐藤さんが、川原で、こうやっとった」
佐々木さんは、右手を膝の上に置いて、指を順に動かしてみせた。
親指、薬指、人差し指、小指。
妙な順序だった。
「何にも持っとらんのにな」
「ずっとですか」
「ずっとや。日が暮れるまで」
私は、その順序を覚えて帰った。
その晩、作業台で、自分の左手を同じように動かしてみた。
動かなかった。
右手は、動いた。
教わっていない順序で、迷いなく動いた。
※
二月の終わり、深夜に店の電話が鳴った。
取ると、雑音がした。
交換機を通したときの、あの遠い雑音である。
そのなかから、声が一つ聞こえた。
「三番車の、十七枚目」
私は、受話器を持ったまま動けなかった。
声は、それきり切れた。
翌朝、私は塔に上がった。
三番車の押さえの、十七番目のネジを見た。
ゆるんでいた。
私は、逆に半回転させてから、締めた。
その日から、塔時計の遅れは止まった。
ひと月経っても、三か月経っても、狂わなかった。
私が何をしたのかは、いまも分からない。
ただ、あのとき私の手は、迷わなかった。
※
順は、手に訊け。
祖父が四十回書いた一行の意味を、私はいまはこう考えている。
祖父は、順を暗記していたのではない。
覚える必要が、なかったのである。
順は人ではなく、手のほうに預けられている。
だから祖父は、図面を見なかった。
見なくても、手が先に知っていた。
そして、祖父の手がなくなったあとも、塔時計は正しく締められ続けている。
順序を持つ手が、まだこの町のどこかにあるからだ。
私の手も、いまはその一つである。
※
去年、店の帳面を整理していて、自分の字を見た。
三年前に書いたものと、去年書いたものを、並べて見た。
並べて、私は帳面を閉じた。
払いの跳ね方が、祖父のそれになっていた。
私は左利きである。
左で書いた字が、右利きの跳ね方をするはずがない。
それでも、なっていた。
いま、店には若い子が一人いる。
高校を出たばかりで、まだ何もできない。
私はその子に、一つだけ教えた。
ネジは、締める前に、一度だけ逆に回せ。
なぜかは、教えていない。
先月、その子が締めたネジの頭を、拡大鏡で見た。
当て傷は、まだその子の角度だった。
まだ、と書いておく。
塔時計は、いまも一分も狂わない。
ただ、年に一度だけ、点検の朝に上がると、私が締めるより先に、三番車の十七番目だけが、半回転ゆるんでいる。