世界一怖いお化け屋敷

世界一怖いお化け屋敷

昭和六十年の夏、私は高校二年だった。

住んでいたのは、群馬の山寄りの、川沿いに旅館が十軒ほど並ぶだけの温泉町だ。

その町には、毎年七月の終わりに小屋が建った。

見世物の一座で、お化け屋敷を出していた。

建てるのは決まって、橋を渡った先の川原だった。

町のほうには絶対に建てない。

「あれは川原に建てるもんじゃ」

祖父はそう言っていた。

理由を訊いても、答えたことはない。

町は、川を挟んで二つに分かれている。

旅館と商店のある側と、なにもない川原の側だ。

橋は一本しかない。

木の橋で、渡ると板が順番に鳴った。

夏になると、川原には葦が伸びて、夕方には蚊柱が立つ。

子供のころ、そこで遊ぶのは構わないと言われていた。

ただし、日が落ちる前に橋を渡って戻ること。

それだけは、どの家でも同じように言われていた。

※

バイトの話が来たのは、その年の六月だった。

木戸番の手伝いで、日当は当時の私には大きな額だった。

母は渋ったが、祖父はあっさり許した。

ただ、条件をひとつ出された。

「木戸銭を受け取る前に、釣りを先に渡せ」

意味がわからなかった。

「先に渡すと、勘定が合わんが」

「合わんでええ」

祖父は湯呑みを置いて、それきり黙った。

祖父は、若いころ営林署にいた人だ。

山の話はよくしたが、川原の話はしなかった。

母に訊いても、知らないと言う。

「おじいちゃんの言うことは、聞いといたらええ」

それで話は終わった。

うちはそういう家だった。

あとで祖父の手帳を見て知ったのだが、祖父も一年だけ木戸番をしている。

昭和十二年の夏だ。

手帳には、その年の七月の欄に、こう書いてあった。

「釣り、受け取り済み」

それだけだった。

他の月には、天気と山の仕事のことしか書かれていない。

なぜ釣りのことだけ書き残したのか、当時の私にはわからなかった。

※

小屋は七月二十六日に建った。

丸太を組んで、その上に藍色の幕を張る。

川原の石の上に直接建てるので、床は少し傾いている。

入口の脇に台がひとつ置かれ、そこが私の場所だった。

座長は、痩せた男だった。

歳はわからない。

四十にも六十にも見えた。

顔に白粉を塗って、口の端だけ赤くしている。

それで呼び込みをする。

「さあ、この町まで来て、この小屋に入らんで帰る手はないよ」

声はよく通った。

川の音の上を、まっすぐ飛んでいくような声だった。

座長は、私と口をきくとき以外、ほとんど声を落とさなかった。

呼び込みも、指示も、同じ大きさで喋る。

食事をしているところは、一度も見なかった。

朝、川で顔を洗っているのは何度も見た。

水に触れる前に、必ず手のひらを一度、水面の上でひらひらさせる。

それから顔を洗う。

訊いたら、癖だと言われた。

※

初日の朝、私も木戸を通るときに百円を払った。

バイトでも、木戸をくぐる者は払うのが決まりだという。

財布から出して、台の上に置いた。

座長は、私の百円を前掛けのかくしに入れて、そのまま呼び込みを始めた。

釣りの話は、そのときは出なかった。

私も、百円で釣りが出るとは思っていなかった。

※

初日、私は言われたとおり、釣りを先に台の上に置いた。

客が札を出す。

私は釣りを手のひらに載せて、先に渡す。

それから札を受け取る。

順番が逆なので、客はたいてい怪訝な顔をした。

座長はそれを見て、うなずいた。

「そうそう。それでええ」

「なんでですか」

「借りを残さんためよ」

それ以上は言わなかった。

客の中には、面白がって釣りを断る人もいた。

「いいよ、取っといて」

そういうとき、座長は必ず飛んできた。

「そりゃいけません」

「うちは釣りを出す商売ですから」

笑いながら、客の手に無理やり握らせる。

何度か見ているうちに、私はそれを口上の一部だと思うようになった。

一度、座長が握らせそこねた客がいた。

酔っていて、釣りを払いのけて、そのまま笑いながら入っていった男だ。

座長は木戸の前でしばらく立っていた。

その晩、その男が出てきたところを、私は見ていない。

閉場の少し前に、木戸のあたりで人の気配がした。

顔を上げたときには、もう誰もいなかった。

翌朝の地面は、濡れていた。

※

呼び込みの口上は、毎晩同じだった。

「この小屋の中には、明かりがひとつもない」

「懐中電灯は貸すが、有料だ。なくても楽しめるがね」

「古今東西、こわいものは全部おる」

「ゾンビ、幽霊、吸血鬼、人ならぬもの、名のないもの」

「ゾンビに触られればゾンビに、吸血鬼に触られれば吸血鬼になるから、気をつけて」

客は笑った。

笑いながら、金を払って入っていく。

「心配なら、黄色い矢印に沿って歩きなさい」

「そうすりゃ、ちゃんと出口に着く」

それも毎晩、同じだった。

懐中電灯は、実際に何本か用意してあった。

だが、借りていく客はほとんどいなかった。

一度だけ、若い夫婦が借りていったことがある。

返しに来たとき、電池が切れていた。

新しいのを入れたばかりだったので、私は不思議に思った。

夫のほうが言った。

「入ってすぐ消えたよ」

「途中で振ったら、いっぺんだけ点いた」

「そのとき、後ろに人がいっぱいおった」

奥さんが夫の袖を引いて、二人はそのまま橋のほうへ帰っていった。

※

最初の違和感は、音だった。

三日目の晩、幕の内側から拍手が聞こえた。

お化け屋敷である。

聞こえるべきは悲鳴のはずだった。

それも、二人や三人の拍手ではない。

客席がまるごと拍手しているような音が、十秒ほど続いて、ふっと止んだ。

入っているのは、そのとき二人連れだけだった。

私は台のところから幕の隙間を覗こうとした。

座長が、後ろから肩を叩いた。

「見んでええ」

手が、驚くほど冷たかった。

その晩、私は幕の内側から出てくる二人連れを、じっと見ていた。

二人とも、何ごともなかったような顔をしていた。

「拍手、してました?」

訊いたら、女性のほうが不思議そうな顔をした。

「拍手なんてしてないよ」

「した人がおったんですけど」

「中には、私らしかおらんかったよ」

※

次に気づいたのは、地面だった。

翌朝、小屋を開けにいくと、木戸の内側の地面だけが濡れていた。

川原である。

雨は降っていない。

外側の石は乾いて、白く焼けている。

木戸をまたいだ内側だけ、四角く色が変わっていた。

手で触ると、水ではなかった。

冷たいのに、指に何も付かない。

その日の夜、私はもう一度その場所を見た。

乾いていた。

その日から、私は開場前に必ず木戸の内側を見るようになった。

濡れている朝と、乾いている朝がある。

濡れているのは、前の晩の客が多かった日だった。

雨とは関係がない。

人の数と関係している。

それに気づいたとき、私ははじめて、少し怖くなった。

※

母には言わなかった。

言えば、バイトをやめさせられるとわかっていた。

祖父にだけ、一度話した。

木戸の内側が濡れる話をすると、祖父は箸を止めた。

「濡れとるだけならええ」

「どういうことですか」

「乾いとる朝が続いたら、やめえ」

その夏、乾いた朝が三日続いたことは、一度もなかった。

※

証言らしいものを聞いたのは、五日目だ。

橋のたもとの駄菓子屋のお婆さんが、氷を買いに来た私に言った。

「あんた、今年はあの小屋におるんかね」

「はい」

「ほんなら、気をつけんとね」

お婆さんは、店の奥の柱を見ながら言った。

「あの小屋はね、毎年、呼び込みの顔が違うんよ」

「一座なんじゃから、そりゃ人も替わるでしょう」

「そうじゃないんよ」

お婆さんは首を振った。

「一座は替わらんの。呼び込みだけが替わるの」

「あたしはもう六十年見とるけど、同じ顔は一遍もない」

氷が溶けて、袋の底に水が溜まりはじめていた。

お婆さんは、氷を包み直しながら続けた。

「戦争の前にな、うちの兄が一年だけ、あれをやったんよ」

「呼び込みをですか」

「そう」

「その次の年からは、別の人になった」

「お兄さんは、どうされたんですか」

お婆さんは、しばらく黙っていた。

「町から出て行った、いうことになっとる」

「なっとる、って」

「なっとるの」

それきり、お婆さんはその話をしなかった。

※

六日目に、時計のことがあった。

客の一人が、出てきたところで腕時計を見て、首をひねっていた。

「あれ、十分しか経っとらん」

連れの女性が言った。

「そんなわけない。ずいぶん歩いたよ」

男は時計を耳に当てて、動いてる、と言った。

私は自分の腕時計を見た。

二人が入ってから、二十五分経っていた。

念のため、次の客でも見た。

やはり、客の時計は十分しか進んでいなかった。

どの客も、判で押したように十分だった。

閉場のあと、私は自分の時計を外して、幕の内側の柱に掛けてみた。

翌朝、取りに行った。

時計は止まっていた。

止まった針は、十分ちょうど進んだところを指していた。

ねじを巻いたら、また動きだした。

それ以来、その時計は使っていない。

引き出しにしまってあるのを、去年、孫が見つけた。

「これ、動くの」

「動くよ」

「じゃあ何で使わんの」

答えられなかった。

孫はねじを巻いて、耳に当てて、それから机に置いた。

次の日の朝、その時計は止まっていた。

針は、十分ちょうど進んだところを指していた。

※

矢印のことに気づいたのは、その次の日だった。

座長が言う「黄色い矢印」は、実際に小屋の中に貼ってある。

開場前の点検で、私は数えるようになっていた。

初日は、十四枚あった。

六日目は、十一枚。

七日目の朝は、九枚。

誰かが剥がしているのではない。

剥がした跡がないのだ。

糊も、紙の毛羽も残っていない。

最初から貼られていなかったかのように、板の木目だけがある。

私は数えるのをやめた。

座長に一度だけ、矢印のことを訊いた。

「あの黄色いの、減ってませんか」

座長は幕の裾を直しながら答えた。

「使うたぶん、減るわな」

「使う、って」

「出るのに使うんじゃろ」

それきり、その話も終わった。

数えると、減る気がした。

※

八日目の晩、決定的なことがあった。

客の列の中に、見覚えのある男が並んでいた。

去年の夏、この同じ木戸で呼び込みをしていた男だ。

痩せていて、口の端だけ赤かった。

去年は顔に白粉を塗っていたから、すぐには結びつかなかった。

男は普通の格好をして、財布から札を出した。

私は釣りを先に台に置いた。

男は釣りを取らなかった。

「いいよ」

「いえ、決まりですから」

「いいって」

男は札だけ置いて、幕の内側へ入っていった。

その晩、閉場まで待ったが、男は出てこなかった。

閉場のあと、私は幕を持ち上げて中を覗いた。

真っ暗で、何も見えなかった。

川の音が、外で聞くより近く聞こえた。

小屋は川原に建っているのだから、当たり前ではある。

だが、音のする方角が違っていた。

川は小屋の南側にある。

音は、北のほうから聞こえていた。

※

翌朝、私は座長に言った。

「去年の呼び込みの人が、昨日入って、出てきません」

座長は幕の裾を直しながら、こちらを見ずに答えた。

「そうかい」

「探さんでいいんですか」

「探しても、おらんよ」

「なんでですか」

座長は手を止めた。

それから、はじめて私の顔をまっすぐ見た。

白粉の下の皮膚が、思ったより若かった。

「あんた、木戸を通るとき、金を払うたかね」

払った。

初日の朝、座長に言われて、私も百円を払っている。

バイトでも、木戸をくぐる者は払うのが決まりだと言われた。

「釣りは、受け取ったかね」

「……」

あの朝、座長は釣りを渡さなかった。

私も、催促しなかった。

「借りを残さんためよ」

祖父の言葉と、座長の言葉が、そこで重なった。

※

その夏、小屋は八月十日に畳まれた。

畳んだあとの川原には、木を組んだ穴だけが残る。

私はその穴を見に行った。

石は、まだ熱を持っていた。

幕を張っていたあたりの石だけが、白く抜けたようになっている。

日焼けの跡とは逆だ。

覆われていたほうが、白い。

手で撫でると、粉のようなものが指に付いた。

匂いを嗅いだが、匂いはなかった。

石の上を歩いた足跡が、そこらじゅうに残っていた。

数えるつもりはなかったが、目に入ってしまった。

川のほうから小屋へ向かう足跡と、小屋から川へ戻る足跡。

戻る足跡のほうが、少なかった。

どのくらい少ないのかは、数えなかった。

数えたら、たぶん、合わないことがはっきりしてしまう。

帰り道、橋の板が順番に鳴った。

渡りきってから、一度だけ振り返った。

川原には、何もなかった。

組んだ穴だけが、規則正しく並んでいた。

穴の数は、十四だった。

矢印の、初日の枚数と同じだった。

※

翌年の七月、また小屋が建った。

私は高校三年になっていて、バイトはしないつもりだった。

それでも、七月二十六日の夕方には、気づくと橋を渡っていた。

木戸の前に立っていたのは、知らない男だった。

痩せていて、白粉を塗って、口の端だけ赤い。

声はよく通った。

「さあ、この町まで来て、この小屋に入らんで帰る手はないよ」

私は台の脇に立って、その口上を最後まで聞いた。

聞き終わってから、家に帰った。

※

それから四十年、私はこの町を出ていない。

就職も結婚も、この町でした。

出ようとしたことは、三度ある。

三度とも、七月の終わりに用事ができた。

どれも、思い出せないほど小さな用事だった。

今年も、川原に小屋が建った。

孫が「バイトしたい」と言い出したので、私は反対した。

理由を訊かれて、答えられなかった。

祖父も、こうだったのだと思う。

言えることはひとつだけだった。

「木戸銭を受け取る前に、釣りを先に渡せ」

※

座長は、いまも同じ顔をしている。

四十年、一度も歳を取っていない。

呼び込みの顔だけが、毎年替わる。

今年の呼び込みは、去年うちの前の道を配達で通っていた若い男だった。

私はまだ、あの百円の釣りを受け取っていない。

だから、たぶん、まだ順番が来ていないのだと思う。

来ないでほしいと思っているわけでもない。

ただ、あの声はよく通る。

川の音の上を、まっすぐ飛んでいく。

聞いていると、木戸の内側に立っている自分が、少し想像できてしまう。

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