あやかし

あの山に登ったのは、九年前の十月だ。

県境にある、名前もない低い山だった。

標高は六百メートルもない。

地元では「奥の山」とだけ呼ばれていた。

その中腹に、古い寺の跡があるという。

教えてくれたのは、大学の後輩の梶だった。

「工事中の寺があるらしいんですよ」

「跡地じゃなくて?」

「いや、建ててる途中らしいです」

梶は、そういう話を集めるのが趣味だった。

心霊スポット巡りとは少し違う。

廃墟にも興味がない。

あいつが集めていたのは、土地の言い伝えのほうだった。

「怖い場所じゃなくて、辻褄の合わない場所が好きなんです」

それが、梶の口癖だった。

辻褄の合わない場所。

いま思えば、あの山ほどその条件に当てはまる場所はなかった。

それが、そもそもおかしかった。

跡地に何かを建てているなら、それは新しい寺だ。

古い寺の跡とは呼ばない。

私はそのちぐはぐさを、ただの伝聞の乱れだと思っていた。

登り口は、廃業した製材所の裏にあった。

錆びたトタンの塀に、鎖で塞がれた林道が続いている。

製材所は、十年前に廃業していた。

事務所の窓が割れて、中に椅子が倒れているのが見えた。

敷地には、切りそろえられた丸太が積んだままになっていた。

樹皮が黒く変色して、断面に白い菌が広がっている。

それでも、木の匂いはまだ残っていた。

甘い、湿った匂いだ。

梶が丸太の山を見上げて、こう言った。

「これ、どこの木なんでしょうね」

「この山だろ」

「ですよね」

深く考えずに答えたが、あとで何度も思い返した。

あの山の木を、この製材所は何十年も伐り出していたのだ。

鎖には札がかかっていたが、文字は完全に消えていた。

梶が先に鎖をまたいだ。

「入っていいんですかね」

「札が読めない以上、禁止とも書いてない」

我ながら、いい加減な理屈だった。

時刻は午後二時。

晴れていたはずなのに、林道に入って十分もすると、霧が出てきた。

薄い霧だった。前は見える。

ただ、光の当たり方だけが変わる。

木の幹が、妙に平らに見えるのだ。

「なんか、書き割りみたいですね」

梶がそう言った。

うまいことを言うと思った。

あとになって、その表現の正しさに背筋が冷えた。

二十分ほど登ると、道が二股に分かれた。

分岐の正面に、石碑が立っていた。

膝の高さほどの、細長い石だ。

表面に、仮名が縦に一列に彫ってあった。

「キヨン」

その下に「キクケ」。

さらに下にも、二つ三つ続いている。

意味のある言葉には見えなかった。

人の名前のようでもあり、そうでないようでもある。

「先輩、あれ何ですかね」

「石だろ」

「石に、名前彫りますか」

「墓なら彫る」

「墓には見えないですよ」

確かに、墓には見えなかった。

墓標なら、もっと地面に据わっている。

あの石は、置いてあるだけのように見えた。

いつでも運び出せるように。

あるいは、いつでも増やせるように。

梶がしゃがみ込んで、指でなぞろうとした。

「やめとけ」

「なんでですか」

「なんとなく、嫌だ」

自分でも理由が言えなかった。

ただ、その石は新しすぎた。

苔がまったく生えていなかったのだ。

周囲の岩には、びっしり苔がついているのに。

梶が、スマートフォンを構えた。

「撮っときます」

「やめとけって言ってるだろ」

「記録ですよ、記録」

シャッター音が、霧の中で妙に響いた。

一度だけのはずの音が、二度聞こえた気がした。

梶は画面を確認して、首をかしげた。

「ピント合わないな」

「霧だからだろ」

梶はもう一度撮って、それで諦めた。

私たちは、左の道を選んだ。

右を選ばなかった理由も、いまだに説明できない。

左の道は、参道らしくなっていた。

両側に、太い杉が等間隔で並んでいる。

人の手で植えられたものだ。

しばらく歩くうちに、私は違和感に気づいた。

杉の根元が、どれも同じ形をしている。

瘤の位置も、皮の割れ方も。

同じ木が、何本も繰り返し並んでいるように見えた。

「先輩、これ」

梶が足を止めた。

三本目の杉の、幹の中ほど。

皮の割れ目が、横に長く走っていた。

目のように見えた。

「気のせいだ」

「そうですよね」

そう言い合って、私たちは足を速めた。

背中で、木が軋む音がした。

風は、吹いていなかった。

参道の先に、行列が見えた。

僧の行列だと思った。

墨染めの衣が、二十人ほど、緩やかに列を作っている。

法要でもあるのだろうと、私は少し安心した。

人がいる、と思ったからだ。

近づいて、その安心は消えた。

衣を着ているのは、人ではなかった。

顔の位置に、木の節があった。

腕は、枝をそのまま袖に通したような形をしていた。

何本かは、根に近い部分から蔓が垂れている。

それでも、歩いていた。

足の位置にあたるものが、確かに地面を踏んでいた。

音は、乾いていた。

炭を踏むような音だ。

行列の音を、もう少し正確に書く。

衣ずれの音が、しなかった。

布が擦れる音は、あれだけの人数がいれば必ず聞こえるはずだ。

聞こえたのは、足の音だけだった。

それと、もうひとつ。

ときどき、木が裂けるような短い音が混じった。

関節を鳴らす音に、少し似ていた。

列の中ほどにいた一体が、歩きながら首を回した。

回しすぎだった。

人の首は、あそこまで回らない。

それでも、そいつは正面を向き直した。

私は息を止めた。

私は梶の腕をつかんで、道の脇に寄った。

「見るな」

「見てません」

「顔を上げるな」

列は、私たちの横をゆっくり通り過ぎていった。

誰も、こちらを見なかった。

最後の一体だけが、立ち止まった。

それは、私のすぐ前で振り向いた。

節の並びが、確かに顔の造作に見えた。

「あんたらも、参拝かい」

声は、思っていたよりずっと普通だった。

年配の男の、少ししゃがれた声だった。

私は反射的に答えてしまった。

「はい、そうですが」

言いながら、頭を下げた。

そのとき、シャツの袖がずり上がった。

腕が出た。

手首から肘までの、肌の色が。

目の前のものが、動きを止めた。

節の並びが、ゆっくり形を変えた。

笑ったのだと、私は思った。

「おおい」

それは、参道の先へ向かって声を張った。

「人間がいるぞ」

走った。

梶の手首をつかんで、参道を外れて斜面を登った。

落ち葉で足が滑る。

背後で、乾いた足音が増えていく。

炭を踏む音が、十、二十、三十と重なった。

「先輩、どこ行くんですか」

「上だ」

「なんで上」

「下は、あいつらが来た方向だ」

斜面を登るあいだ、私は一度だけ振り返った。

追ってくるものたちは、走っていなかった。

歩いていた。

それも、参道を進むときと同じ速さで。

急ぐ必要がないということだ。

逃げ場を知っている者の歩き方だった。

それが、いちばん怖かった。

梶が途中で転んだ。

腕を引き起こすと、掌が土で汚れていた。

「大丈夫か」

「痛くないです」

「痛くない、って」

「感覚が、ないんです」

私はその言葉を、恐怖のせいだと解釈した。

そうであってほしかった。

斜面の上に、屋根が見えた。

瓦の載っていない、剥き出しの木組みの屋根だった。

それが、あの寺だった。

確かに、工事中だった。

足場が組まれ、青いシートが張られている。

シートは新しかった。

色が褪せていなかった。

けれど、その下の木組みは、明らかに古かった。

黒ずんで、ところどころ朽ちている。

新しい足場で、古い建物を、いつまでも建てているように見えた。

本堂に駆け込んだ。

床板は半分しか張られていない。

梁の上に、造りかけの厨子があった。

仏像の入るべき場所は、空だった。

代わりに、木を削るための道具が置かれていた。

鑿が三本、刃を上に向けて並んでいる。

厨子の下に、木くずが積もっていた。

新しい木くずだった。

指ですくうと、まだ湿り気があった。

つい先ほどまで、誰かが削っていたことになる。

その隣に、削りかけのものが転がっていた。

腕だった。

仏像の、右の前腕だけが彫り出されている。

指は、まだ五本に分かれていなかった。

手首の内側に、細い線が何本か彫られていた。

血管のつもりだろうか、と私は思った。

あとになって、その線のことを思い出すことになる。

「なんで刃が上なんですか」

「知るか」

外から、声がした。

「中に入りやがった」

「戸がない。入れんぞ」

「入れんな」

戸は、確かになかった。

入り口には、枠だけがある。

それなのに、外の連中は入ってこなかった。

枠の手前で、足音がぴたりと止まる。

そして、そこから先へは一歩も来ない。

「先輩」

梶の声が、震えていた。

「あいつら、なんで入れないんですか」

「たぶん、まだ完成してないからだ」

言ってから、自分でおかしいと思った。

完成していないから入れない場所とは、何なのか。

本堂の中は、外より明るかった。

屋根が半分しか葺かれていないので、光が落ちてくるのだ。

埃が、その光の筋の中で回っていた。

風がないのに、回っていた。

私は床の張られていない部分を覗き込んだ。

下は土だった。

基礎が打たれていない。

つまり、この建物は土の上に直接立っている。

九十年、それで立っている。

梁を見上げると、継ぎ手の細工が異様に細かかった。

釘が一本も使われていない。

職人の仕事だ、と私にも分かった。

ただ、その仕事が終わる気配だけが、どこにもなかった。

本堂の真ん中に、賽銭箱があった。

それも、造りかけだった。

側板は打ってあるが、格子はまだ載っていない。

私はポケットから小銭を出した。

百円玉が二枚あった。

「何してるんですか」

「他に思いつかない」

私は箱の縁に手をかけて、硬貨を落とした。

賽銭箱に落とした硬貨は、底に当たる音を立てなかった。

あの箱には、まだ底がなかったのだ。

それでも、私は手を合わせた。

梶も、隣で合わせた。

何を祈ったのかは、覚えていない。

たぶん、帰りたいとしか思っていなかった。

顔を上げたとき、外の音が消えていた。

足音も、声も。

風の音すら、していなかった。

入り口の枠から、そっと外を見た。

誰もいなかった。

参道にも、斜面にも。

あれだけいたものが、一体も残っていない。

衣の切れ端も、足跡も落ちていなかった。

霧だけが、まだ薄くかかっていた。

「消えちまったな」

私が言うと、梶が小さく答えた。

「あいつら、あやかしだったのかもしれませんね」

あやかし、という言葉を、私はそのとき初めて口に出したのを聞いた。

若い後輩が、なぜその言葉を選んだのかは分からない。

私たちは、来た道を戻らなかった。

斜面を下りて、沢に沿って一時間ほど歩き、林道に出た。

鎖の札のところに戻ったのは、日が暮れる直前だった。

消えていたはずの札の文字が、読めるようになっていた。

「工事中につき立入禁止」

日付は、入っていなかった。

写真のことを書いておく。

下山した晩、梶から連絡があった。

「先輩、あの石碑の写真、見てもらえますか」

送られてきた画像は、二枚あった。

一枚目には、分岐の道が写っていた。

二股に分かれた道と、左右の杉。

石碑があるはずの正面には、何もなかった。

地面が、平らに写っているだけだった。

二枚目も、同じだった。

「加工してないですよ」

「疑ってない」

「じゃあ、なんですかこれ」

私は答えられなかった。

ただ、一枚目の画像の左端に、細い縦の影が写っていた。

杉の幹にしては、細すぎる。

石碑にしては、位置が違う。

拡大すると、画像が粗くなって分からなくなった。

梶は、その二枚をすぐに消したと言っていた。

私は、消す前に自分の端末へ転送してもらった。

いまも持っている。

年に一度くらい、見返す。

見返すたびに、左端の影が、少しずつ太くなっている気がする。

気のせいだと思う。

思うことにしている。

後日、私はその土地のことを調べた。

市の資料館で、年配の職員に聞いた。

「奥の山に、寺はありませんよ」

「跡地でもですか」

「跡地もありません」

職員は、古い地図を出してきた。

該当する場所には、何も描かれていない。

ただ、一行だけ注記があった。

「建立中止」

「これは何ですか」

「昭和のはじめに、寺を建てようとしたらしいです」

「途中でやめた、と」

「そう聞いています。理由までは残っていません」

「昭和のはじめに、何があったんですか」

「分かりません。ただ」

職員は、地図の端を指でなぞった。

「このあたりの山は、戦後にかなり伐られています」

「製材所ですか」

「ええ。三代続いた家がありましたね」

「その山の木で、何を作っていたか分かりますか」

職員は、少し考えてから答えた。

「仏具です。厨子とか、そういうものを」

私は、礼を言って資料館を出た。

外は、よく晴れていた。

私は、青いシートのことを思い出した。

色の褪せていない、新しいシート。

九十年間、あの寺はずっと工事中なのだ。

誰かが、いまも建て続けている。

あるいは、建て終わらないようにしている。

帰りの電車で、財布を開けた。

百円玉が、二枚あった。

入れたはずの枚数と、同じだけ。

私は、それを梶に言わなかった。

梶とは、その翌年から連絡が取れなくなった。

実家に帰ったと、共通の友人から聞いた。

最後に会ったとき、梶は左の手首をずっと隠していた。

「見せろよ」と言うと、笑ってごまかした。

一度だけ、袖の隙間から見えた。

皮膚に、細い線が何本か走っていた。

傷ではない。

木の皮の割れ目に、よく似ていた。

梶の消息を、去年になって共通の友人から聞いた。

実家の家業を継いだのだという。

何の家業かと聞いて、私はしばらく黙った。

建具屋だった。

木を削る仕事だ。

連絡先は聞かなかった。

聞いても、たぶんかけない。

帰宅してから、私は自分の腕を何度も確かめた。

何もなかった。

それでも、風呂に入るたびに見てしまう。

肌を見られたのは、私のほうだったのだ。

あの一体が声を張り上げたのは、梶の腕を見たからではない。

私の腕を見たからだった。

それなのに、痕が残ったのは梶のほうだった。

その順番が、どうしても腑に落ちない。

あれから九年、私はあの山に近づいていない。

ただ、雨の日に湿った木の匂いを嗅ぐと、あの参道を思い出す。

同じ形の杉が、何本も並んでいた道を。

そして、いまでも分からないことがひとつある。

あの日、私たちは左の道を選んだ。

では、右の道の先には、何があったのだろう。

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