
今からもう、五十年以上も前の話になる。
私はまだ二十歳を少し過ぎたばかりで、東北のある山あいを走る路線バスの運転手をしていた。
会社といっても、車庫に古い車が四台あるきりの、小さな営業所だった。
事務所はその車庫の隅にあって、一日じゅう石油ストーブの匂いがしていた。
所長と、年寄りの運転手が二人と、私。
それで全部だった。
そこから峠を越え、谷を二つ渡り、終点の温泉場まで往復するのが私の受け持ちだった。
道はほとんど一本きりで、対向車とすれ違うのも数えるほどだった。
昼間は、学生や、町へ買い出しに行く年寄りや、行商の人で、それなりに賑わう。
だが日が落ちると、客はめっきり減った。
最終の便になると、終点まで乗り通す客は、ほとんどいなかった。
それでも会社は、その便を回送にせず、律儀に客扱いのまま走らせていた。
いつ、どこで、誰が手を挙げるか分からない。
そういう土地だった。
私はその仕事が、嫌いではなかった。
夜の峠を一人で登っていく時間が、むしろ好きだった。
ライトの中を流れていく雪や、霧や、木の影を見ていると、自分が世界の果てを走っているような気がした。
その年の晩秋のことだ。
山はもう赤を通り越して、枯れた色に沈んでいた。
朝晩の冷えがきつくなり、峠の上のほうでは、その年の初めての雪がちらつき始めていた。
私はその晩、最終便のハンドルを握っていた。
出る前に、年寄りの運転手の一人が、私に声をかけた。
「今夜は冷えるぞ。峠の上は、もう白いからな」
「賽ノ口のあたりは、特に気をつけろ」
私は、なぜ賽ノ口なのか、と尋ねた。
だがその人は、ただ煙草の煙を吐いただけで、何も答えなかった。
私は深く考えず、バスを出した。
客は、町外れの停留所で降りた一人を最後に、誰も乗っていなかった。
がらんとした車内に、自分のエンジン音だけが響いていた。
フロントガラスの向こうを、細かい雪が斜めに流れていく。
ワイパーを動かすほどでもない、粉のような雪だった。
町の灯りが背後に遠ざかり、やがて、闇だけになった。
峠道に入ると、両側の杉が黒い壁のように迫ってくる。
ヘッドライトの届く先だけが世界で、その先は何も無いように見えた。
この路線には、ひとつ、妙な停留所があった。
賽ノ口(さいのくち)という名の、小さな停留所だ。
峠を半分ほど登った、急なカーブの途中に、ぽつんと立っている。
そのあたりには、もう人家は一軒も無かった。
街灯もない。
標識の白い板だけが、ライトに照らされて、闇の中に浮かび上がる。
昔はこの先に村があった、と先輩運転手から聞いていた。
だが私は、その村を、一度も見たことがなかった。
道はその停留所の先で、湖に突き当たって途切れている。
大きなダムができて、谷ごと水の底になった、という話だった。
工事が終わったのは、私が生まれるより前のことだ。
だから賽ノ口で手を挙げる客など、私は見たことがなかった。
その村のことを、土地の年寄りは、あまり語りたがらなかった。
ダムに沈む前は、川沿いに段々畑の広がる、静かな村だったという。
養蚕で生計を立て、秋には村をあげての祭りがあった、とも聞いた。
だが、その話をする時、皆、どこか言葉を濁した。
立ち退きの時に、何か、後味の悪いことがあったらしい。
詳しいことは、誰も教えてくれなかった。
私はその頃、まだこの土地に来て、半年ほどしか経っていなかった。
よその生まれで、身寄りも無く、住み込みでこの仕事に就いた。
だから、土地の古い話には、うとかった。
夜の峠を一人で走るのは、寂しくはあったが、性に合っていた。
誰にも気をつかわず、ただ闇とエンジンの音だけを相手にしていられた。
時刻表にだけ名前が残っている、ただの古い標識のようなものだった。
いつもなら、私はそこを徐行もせずに通り過ぎた。
その晩も、そうするつもりだった。
※
カーブを曲がると、ライトの中に、白いものが浮かんだ。
はじめは、雪のかたまりかと思った。
あるいは、立ち枯れた木の幹か。
だが、それは人の形をしていた。
賽ノ口の標識の下に、女が一人、立っていた。
私は思わずブレーキを踏んだ。
タイヤが砂利を噛む音がして、バスがゆっくりと止まった。
女は、こちらを見ていた。
古い、藍色の着物を着ていた。
今どき、町でもめったに見ないような、古風な仕立てだった。
その裾が、まるで川から上がってきたように、濡れて重く垂れていた。
髪をうしろできっちりと束ね、手に小さな風呂敷包みを抱えていた。
こんな時間に、こんな場所に。
頭のどこかで、おかしい、という声がした。
だが、体のほうが先に動いていた。
私は、扉を開けていた。
冷たい空気が、すっと車内に流れ込んできた。
その空気には、土と水の混じったような、湿った匂いがあった。
女は、音もなく乗り込んできた。
足音がしなかったことを、私はあとになって思い出した。
女は、私のすぐ横を通り過ぎて、奥へ進んだ。
その時、ふわりと、冷たい水の匂いが、鼻をかすめた。
井戸の底のような、苔と泥の混じった匂いだった。
抱えた風呂敷包みの端から、つう、と、雫が垂れて、床に小さな染みを作った。
私は、なぜか、その染みから目が離せなかった。
「どちらまで」
私はいつものように尋ねた。
女は、低い、聞き取りにくい声で、村の名を言った。
私の知らない名だった。
この路線の、どの停留所にも、その名は無かった。
「その村は、この先には無いはずですが」
私がそう言うと、女は不思議そうに、わずかに首をかしげた。
「いいえ。峠を越えた先の、川沿いの村です」
「もう帰らねばなりません。皆が、待っておりますので」
その言い方が、あまりに静かで、当たり前のことのようだったので、私は何も言い返せなかった。
とりあえず終点まで乗せて、事情は道々聞けばいい。
そう思って、私はバスを出した。
料金箱に手を伸ばす様子も無かったが、それを咎める気にもなれなかった。
バックミラーに、女の姿が映っていた。
いちばんうしろの席に、背筋をまっすぐ伸ばして座っていた。
窓の外の闇を、じっと見つめていた。
奇妙だったのは、窓ガラスのことだ。
夜の窓は、本来なら、車内を鏡のように映すはずだった。
私の背中も、運転席の灯りも、映るはずだった。
だが、女の座る窓だけは、ただ、黒く沈んでいた。
まるで、そこだけ、何も映さない、深い水のようだった。
車内灯の白い光の下で、その横顔は、ひどく青白く見えた。
私は前に向き直り、ハンドルを握り直した。
妙なことに気づいたのは、それからすぐだった。
車内が、寒い。
暖房は、ちゃんと効いているはずだった。
出る前に、自分で確かめた。
なのに、足元から這い上がってくるような冷えがあった。
まるで、うしろの席だけが、外の闇とつながっているようだった。
私は手をこすり合わせ、暖房の風量を上げた。
だが、寒さは消えなかった。
むしろ、背中のあたりが、じわじわと冷えていく。
ふと、自分の吐く息が、白いことに気づいた。
暖房の効いた車内で、息が白くなるはずがなかった。
フロントガラスの内側に、うっすらと、霜のようなものが張りはじめていた。
私は、手の甲で、それを拭った。
指先が、痺れるほど冷たかった。
ラジオを点けようとして、私は手を止めた。
スピーカーから、ざあ、という雨のような音だけが流れていた。
昼間は、はっきりと声の入る局だった。
つまみを回しても、どこも、同じ砂嵐の音だった。
私はラジオを消した。
沈黙が、かえって重くのしかかってきた。
代わりに、私はミラー越しに、女へ話しかけた。
「お客さん。こんな時間に、一人で何を」
「迎えに来てくれる人は、いないのですか」
女は、しばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「皆、向こうにおります」
「私だけが、はぐれてしまったのです」
その向こう、という言葉の響きが、妙に耳に残った。
私は、なんとなく、世間話のつもりで尋ねた。
「長く、待たれたのですか」
「ええ」と、女は言った。
「水が来てから、ずっと」
水が来てから。
その言い方の意味を、私はその時、まだ深くは考えなかった。
考えないように、していたのかもしれない。
「ずいぶん長いこと、待ちました」
「やっと、迎えが来てくれました」
女がそう言って、かすかに頭を下げたのが、ミラーに映った。
私は、それ以上は聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
道は、いつもの峠道のはずだった。
だが、何かが違っていた。
カーブの数が、多すぎる気がした。
いつもなら、終点まで、七つか八つの大きなカーブを曲がる。
私はその一つ一つを、目をつぶっていても言えるほど覚えていた。
だが、いくつ曲がっても、景色が変わらない。
同じ杉並木。
同じ黒い壁。
同じ角度の、同じ傾きの坂。
私は試しに、一度、バスを止めてみた。
そして、窓を開け、外の空気を吸った。
杉の匂いがした。
間違いなく、現実の、いつもの峠の匂いだった。
夢を見ているわけではない。
私は、はっきりと、目を覚ましていた。
なのに、道だけが、終わらなかった。
私は、走行距離を示すメーターを見た。
数字は、確かに増えていた。
なのに、外の景色は、一歩も進んでいない。
そして、また、あの標識が見えてきた。
賽ノ口。
私は峠を登っているはずだった。
なのに、さっき女を乗せた、あの停留所に、また戻ってきていた。
私はバスを止め、しばらく動けなかった。
道を間違えたのではない。
この道は、一本きりだ。
分かれ道など、どこにも無い。
引き返してもいないし、ぐるりと回れる場所も無い。
私は、無線機に手を伸ばした。
営業所を呼び出そうとした。
だが、受話器からは、また、あの砂嵐の音がするだけだった。
「もしもし」と、私は何度も呼びかけた。
返ってくるのは、ざあ、という、果ての無い音だけだった。
この峠の上で、私は、世界から切り離されていた。
なのに、戻っている。
心臓が、嫌な音を立て始めた。
ミラーの中で、女が、小さく言った。
「急がなくて、いいのです」
「どうせ、同じところに戻りますから」
「私が降りるまでは、この道は、終わらないのです」
※
背中に、冷たいものが伝うのを感じた。
私は、奥歯を噛んで、アクセルを踏んだ。
今度こそ峠を越えてやる、と思った。
エンジンが唸り、バスは坂を登っていく。
カーブを曲がる。
また曲がる。
私は景色を見ないようにして、ただ前だけを見ていた。
やがて、杉並木が途切れ、視界が、ふっと開けた。
その瞬間、私は息をのんだ。
道の先に、湖があった。
夜の湖は、黒い鏡のように静まり返っていた。
雪が、その面に吸い込まれ、音もなく消えていく。
波ひとつ、立っていなかった。
そして、その水際に、また賽ノ口の標識が立っていた。
私は、自分が同じ場所を、ぐるぐると回らされていることを、はっきりと悟った。
運転席の時計を見た。
針が、止まっていた。
女を乗せた、あの時刻のまま、ぴたりと止まっていた。
私はハンドルにしがみつくようにして、うしろを振り返った。
女は、もう、こちらを見ていなかった。
湖のほうを向いて、静かに、何かを口ずさんでいた。
子守唄のような、低い、抑揚のない節だった。
聞いたことのない言葉だった。
あとで分かったことだが、それは、その村にだけ伝わる、古い盆唄だったらしい。
水に沈んだその村でしか、もう、誰も歌わない唄だった。
だが、どこか懐かしいような、胸の奥が痛むような響きだった。
「お客さん」
私の声は、自分でも分かるほど、震えていた。
「あなたの村は、もう、そこには無い」
「ずっと前に、その湖の底に、沈んだはずだ」
女は、ゆっくりと、こちらを向いた。
そして、初めて、微かに笑った。
「ええ。知っております」
「皆、底で、待っているのです」
「私も、早く戻らねば」
その言葉を聞いた時、私は、ようやく理解した。
この人は、もう、向こう側の人なのだと。
湖の底に眠る村へ、帰ろうとしているのだと。
そして私は、その村まで送り届けるために、あの停留所に呼ばれたのだと。
足が、ペダルから離れなかった。
手が、ハンドルから離れなかった。
逃げよう、と思うのに、体が、言うことを聞かない。
指の一本さえ、自分の意思では動かせなかった。
湖の黒い面が、すぐそこまで迫っていた。
バスが、ひとりでに、ゆっくりと、水際へ向かって動き出した。
アクセルなど、踏んでいない。
私は、震える手で、エンジンを切った。
鍵を、ねじり抜いた。
その鍵を、しっかりと握りしめた。
それでも、バスは、止まらなかった。
砂利を踏む音が、たぷ、という水の音に変わった。
前輪が、湖に入ったのだ。
冷たい水の感触が、足元から伝わってくるようだった。
その時だった。
うしろで、女が、すっと立ち上がる気配がした。
「ここで、結構です」
凍りつくほど、静かな声だった。
「ここから先は、私一人で参りますので」
「親切に、ありがとうございました」
扉が、ひとりでに開いた。
冷たい風が吹き込み、車内灯が、一度、大きく、ちらついた。
そして、明かりが消えた、その一瞬の闇の中で。
私は、何かが、水の中へ静かに下りていく、かすかな音を聞いた。
※
気がつくと、私は、終点の温泉場の車庫に、バスを止めていた。
どうやって、そこまで戻ったのか、まるで覚えていない。
エンジンは、かかっていた。
時計の針も、ちゃんと動いていた。
終点に着く、いつもの時刻を、指していた。
車内は、がらんとしていた。
女の姿は、どこにも無かった。
私は、震える足で、いちばんうしろの席まで歩いた。
その座席が、濡れていた。
まるで、ずぶ濡れの誰かが、長いあいだ、そこに座っていたように。
座面に、小さな水たまりが、できていた。
そして、その上に。
片方だけの、濡れた草履が、残されていた。
私は、それを、どうしても拾うことが、できなかった。
その晩は、車庫の隅で、朝まで一睡もできなかった。
目をつぶると、あの黒い湖が、まぶたの裏に広がった。
耳の奥で、あの低い盆唄が、いつまでも鳴っていた。
明け方、ようやく東の空が白んできた時、私は心から、ほっとした。
朝の光が、こんなにありがたいと思ったことは、それまで無かった。
事務所のストーブの前で、私はようやく、体の震えが止まるのを感じた。
両手には、まだ、あの鍵を、固く握りしめたままだった。
翌朝、私は、営業所のいちばん古い先輩に、すべてを話した。
昨夜、私に声をかけた、あの人だった。
先輩は、長いこと、黙って聞いていた。
それから、煙草に火を点けて、ぽつりと言った。
「賽ノ口の先の村はな」
「ダムができる時、村ごと、立ち退いたんだ」
「皆、麓の町へ移って、新しい暮らしを始めた」
「だが、最後まで、出ていくのを拒んだ家が、一軒だけあった」
先輩は、窓の外の、山のほうを見た。
「水が満ちていく晩、その家の女だけが、戻らなかったそうだ」
「家ごと、湖の底に、残ることを選んだ、という者もいる」
私は、何も言えなかった。
あの女の、濡れた裾を思い出した。
「お前さん」
先輩は、私の顔を、じっと見た。
「その人を、乗せたのかもしれんな」
私が、座席に残された草履のことを話すと、先輩の顔色が、変わった。
二人で、すぐに車庫のバスを見に行った。
うしろの席は、もう、すっかり乾いていた。
そして、草履は、跡形もなく、消えていた。
水たまりの輪染みだけが、座面に、うっすらと残っていた。
先輩は、それを長いこと見つめてから、静かに手を合わせた。
私も、見よう見まねで、手を合わせた。
何に向かって祈っているのか、自分でも分からなかった。
私はその後、しばらくして、運転手を辞めた。
あれから、賽ノ口を通るたびに、私はあの標識を、見ないようにした。
だが、通り過ぎる一瞬、いつも、視界の隅に、白いものがちらつく気がした。
立っているのか、いないのか。
確かめる勇気は、一度も湧かなかった。
あの路線が怖かったからではない、と言えば、嘘になる。
だが、それだけでは、なかった。
あの女の、最後の微笑みが、忘れられなかったのだ。
あれは、恐ろしい顔では、なかった。
やっと帰れる、と安心したような、静かな、穏やかな顔だった。
だから私は、今でもこれを、ただの怖い話だとは、思っていない。
説明のつかない、不思議な話。
そういうことにして、長いあいだ、誰にも語らずに、きた。
だが、年を取って、ようやく、こうして話す気になった。
これはきっと、私が運ぶことになっていた、不思議な話なのだと思う。
怖い話として語るより、そのほうが、あの人に、ふさわしい気がするのだ。
先輩も、もう、とうに向こうへ渡ってしまった。
あの路線も、今は廃止されて、無い。
峠道も、新しいトンネルができて、誰も通らなくなった。
ずっとあとになって、私は一度だけ、あの湖を見に行ったことがある。
運転手を辞めて、何十年も経ってからのことだ。
湖は、昼の光の下で、ただ静かに、青く広がっていた。
観光客が、岸辺で釣りをしていた。
その水の下に、村があったことなど、誰も知らない様子だった。
湖のほとりに、小さな慰霊の碑が、ひとつだけ建っていた。
沈んだ村の名が、そこに刻まれていた。
あの晩、女が言った名と、同じだった。
碑の裏には、移転した家々の名が並んでいた。
その中に、一軒だけ、名のあとに小さな印のついた家があった。
案内の立て札に、最後まで村に残った一家のことが、短く記されていた。
私は、その前に、長いこと立っていた。
持ってきた花を供え、手を合わせた。
風が、湖の面を、さあ、と渡っていった。
その音が、あの晩のラジオの砂嵐に、よく似ていた。
私は、碑に刻まれた村の名を、指でそっとなぞった。
冷たい石の感触が、あの晩の、車内の冷えを思い出させた。
あの人は、無事に、家まで帰れただろうか。
皆と、また一緒になれただろうか。
そうであってほしい、と、私は思った。
恐ろしい一夜だったはずなのに、不思議と、そう願う気持ちのほうが、強かった。
賽ノ口の標識も、もう、無いだろう。
ただ、ひとつだけ。
今でも、雪の降り始める晩になると、思い出すことがある。
あの峠の、湖の底で。
皆に交じって、あの女が、静かに眠っているだろうか、ということを。
そして、いつかまた、はぐれた誰かが、あの水際に立つ晩が、来るのだろうか、ということを。
その時、迎えの車を運転するのは、いったい、誰なのだろう。
それを思うと、私は今でも、少しだけ、足がすくむ。
あの晩、私が確かに抜いたはずの鍵は、朝になっても、ちゃんと私の手の中に、あった。
汗で、温まっていた。
なのに、バスは、確かに、水の中へと、進んでいったのだ。
あれが、何だったのか。
今も、私には、分からない。
ただ、起きたことを、こうして述べるしか、ない。
もし、あなたが雪の晩に、見知らぬ停留所で手を挙げる人を見かけても。
どうか、扉だけは、開けないでほしい。
その人は、あなたに、迎えに来てもらおうとしているのかもしれないのだから。