凪の刻に入れ替わる谷道

夕暮れの山間と海の風景

今でも、あの谷の旧道にだけは、測量の杭を打ちに行かない。

平成に入って間もない、蝉の鳴きしきる夏の話だ。

私は道路公団の下請けで、山あいの旧い峠道を測る技師をしていた。

三十を少し過ぎたばかりで、所帯を持って一年目だった。

その夏、私は師匠を送ったばかりだった。

測量のいろはを叩き込んでくれた、二十年来の恩師だ。

半月前に、あっけなく向こうへ渡ってしまった。

病を得てから、ひと月と保たなかった。

骨と皮ばかりになった手で、最後まで図面を撫でていた人だった。

通夜の晩、私は師匠の枕元で、覚えたての測量の話ばかりしていた。

何を話しても、もう返事はなかった。

野辺の送りのあと、私は骨箱を抱いて車に乗った。

重さのないその箱を、私は今も掌が覚えている。

喪服の袖には、線香の匂いがまだ残っていた。

師匠は紀伊の付け根の、海の見える谷の出だった。

若い頃に山を下りて、二度と故郷の土は踏まないと言っていた人だ。

なぜそこまで里を厭うのか、私は一度も聞けなかった。

その師匠が、最後にひとつだけ仕事をやり残していた。

生まれ育った谷を貫く旧峠道の、基準点の確認だ。

役所に頼まれても、その一件だけは長く先延ばしにしていた。

故郷の土は踏まぬと言った手前、気が進まなかったのだろう。

それでも床の上で、あの谷の杭だけは打っておけと言い残した。

師匠がやり残した最後の杭を、私が打ちに行くはずだった。

図面の隅には、師匠の几帳面な字で細かな注記が並んでいた。

その端に、『凪の刻、旧道に入るべからず』と書き添えてあった。

仕事の図面に土地の言い伝えを記す人ではなかったのに、と思った。

四十九日の頃合いに、私は一人でその谷へ向かった。

妻には、日帰りで師匠の里を見てくると告げて出た。

師匠は生前、酒が入るときまってこの谷の話をした。

この谷では凪の刻に道が入れ替わる、と口癖のように言っていた。

海と山の風がぴたりと止む、夕暮れの短いあいだのことらしい。

その刻に旧道を歩く者は、帰る道を間違えるのだと。

谷の一番奥に、昔は人の住まぬ段々畑があったという。

畑を捨てた家々は、海を渡ってよその土地へ移っていったそうだ。

残った古老たちは、凪の夕には決して山手へ上らなかった。

「上ったきり、顔つきの変わって戻る者がおった」と師匠は言った。

顔が変わるとはどういうことかと尋ねても、師匠は答えなかった。

ただ茶をすすって、遠くを見るような目をするだけだった。

凪の刻にそこへ迷い込んだ者は、よく似た別の谷へ出てしまう。

そういう話を、師匠は真顔で語り、最後にきまって笑った。

「だから測量屋は、日の高いうちに杭を打って帰るんや」

子供を脅す土地の言い伝えだと、私は笑って聞いていた。

谷に着いたのは、昼を少し回った頃だった。

駅からはバスもなく、私は借りた軽自動車で山道を上った。

谷へ下る分かれ道には、苔むした丁石が半ば土に埋もれていた。

車を停め、そこから先は徒歩で旧道を下ることにした。

背には測量の道具を負い、片手に師匠の図面を握っていた。

歩きだすと、道の両側から夏草がしなだれかかってきた。

手ですくうように払いのけながら、私は谷底を目指した。

草いきれの中に、潮の匂いがかすかに混じっていた。

クソ暑い日で、蝉の声が山肌に貼りついていた。

棚田のあいだを縫って、旧道はゆるく谷底へ下っていた。

谷の奥には、瓦屋根の集落と、その向こうに小さな港が光っていた。

師匠の図面を頼りに、私は三角点を一つずつ確かめて歩いた。

一つは、図面どおり大きな椎の根方にあった。

金属の標が陽に灼けて、触れると火傷しそうなほど熱かった。

私は手帳に数字を書き取り、次の点へと畦を辿った。

ふと、記憶にある谷の数と、目の前の谷の数が合わない気がした。

図面では谷はふたつのはずが、山襞の奥にもうひとつ切れ込みが見えた。

測り間違いだろうと、私は手帳に小さく印をつけただけだった。

棚田の水は張られていたが、どこにも人の姿はなかった。

稲の緑が風もないのに、さわりと一度だけ鳴った気がした。

谷底の集落は、昼下がりだというのに人影がなかった。

軒先に干された洗濯物が、乾ききって固くなっていた。

戸口はどれも開け放たれ、風鈴の音だけが乾いて鳴っていた。

どの家も留守のようで、犬の一匹も吠えなかった。

港のほうから、汽笛のような音が一度だけ聞こえた。

けれど船影は、どこにも見えなかった。

私は井戸端で顔を洗い、日陰のベンチにしばらく腰を下ろした。

井戸の水は驚くほど冷たく、掌に受けて何度も顔を洗った。

師匠が子供の頃に遊んだのは、この辺りだろうかと考えた。

気づけば、私は柄にもなく、その日陰で少し泣いていた。

恩師を送ったばかりの気持ちが、静かな谷でほどけたのだと思う。

ひとしきりして落ち着き、そろそろ杭を打とうと立ち上がった。

その途端、目の前がグワングワンと大きく揺れた。

立ち眩みだと思い、私はもう一度ベンチに腰を戻した。

耳の奥がキーンと鳴って、蝉の声がふつりと消えた。

頭の芯が白くなっていくのを、妙に冷静に感じていた。

ああ、私は倒れるな、とだけ思ったのを憶えている。

目を開けると、谷はもう薄暮に沈んでいた。

腕の時計は止まっていて、針は三時十分を指したままだった。

ずいぶん眠ったらしいと、私は慌てて立ち上がった。

耳を澄ませても、あれほどうるさかった蝉が一匹も鳴かない。

風鈴の音も、水路のせせらぎも、何もかもが失せていた。

妻が心配する、早く帰らねばと、旧道を上りはじめた。

だが、すぐに足が止まった。

暗いのに、足元の砂利が一粒ずつ見えるのだ。

街灯などない谷で、これはおかしかった。

空だけが藍色に暮れて、地面には昼の明るさが残っていた。

言葉にするのが難しい、ちぐはぐな明るさだった。

私は理屈を諦めて、とにかく道を上った。

来た道のはずなのに、ガードレールが記憶よりずっと錆びていた。

継ぎ目からは雑草が伸び、ひび割れに苔が乗っていた。

半日前に下ってきた道とは、とても思えなかった。

路肩の丁石も、下ってきたときより一段と摩耗して見えた。

彫られた文字は、風化したのか、もとから違うのか判じかねた。

それでも、見覚えのある石仏や辻はちゃんとあった。

間違った道ではない、はずだった。

道端の道標に、私は目を落とした。

そこに彫られた地名が、まるで読めなかった。

見慣れた漢字に混じって、見たこともない字が並んでいた。

「价ィ嘛ェ椏キ」とでもいうような、崩れた文字の羅列だった。

目まいのせいだと思おうとしたが、字はいつまでも像を結ばなかった。

手にした師匠の図面に目を落とすと、そちらの字はまだ読めた。

読める字と読めぬ字が、同じ谷に入り混じっているのだった。

私は自分の正気を疑い、こめかみを強く押さえた。

押さえた指の腹に、じっとりと冷たい汗が滲んでいた。

それでも、字はやはり読めないままだった。

棚田のほうから、ようやく人影が近づいてきた。

野良着の老人が、鍬を担いで畦道を歩いてくる。

私は救われた思いで、道を尋ねようと声をかけた。

老人は足を止め、私の顔をしげしげと見た。

そして、何かを言った。

声は確かに人の声なのに、言葉として掴めなかった。

もごもご、ふにゃふにゃと、水の中で喋るように聞こえる。

私が黙っていると、老人はもう一度、今度は強い調子で言った。

やはり一言も分からなかった。

集落のほうから、二人、三人と人が出てきてこちらを見ていた。

誰もが同じように、もごもごと囁き交わしている。

子供が一人、母親らしき人の袖を引いて私を指さした。

母親は子をかばうように背へ回し、早口で何かを唱えた。

祈りのような、追い払うような、そんな響きだった。

私はもう、この谷の誰とも言葉が交わせないのだと悟った。

私は愛想笑いを浮かべて、後ずさりに道を上りはじめた。

私はもう、集落を離れて交番を探すしかないと思った。

記憶にある辻を頼りに、谷を横切って歩いた。

山の風も海の風も止んだ谷で、道は確かに入れ替わっていた。

下り坂だったはずの傾斜が、足の裏でせり上がっていくのだ。

下ってきたはずの旧道が、いつのまにか上りに変わっていた。

それでも歩くうち、駐在所らしい小さな建物にたどり着いた。

窓から覗くと、制服の若い巡査が一人、退屈そうに座っていた。

私は縋る思いで戸を開けた。

巡査は私を見て、ひどく驚いた顔をした。

何か尋ねてくるが、やはり言葉は通じない。

私は紙とペンを借り、自分の名を書いて、胸を指した。

巡査は私の書いた字が読めないようで、しきりに首をかしげた。

それでも用件だけは察したらしく、どこかへ電話をかけた。

いい年をして、私はその場で子供のように泣いていた。

一時間ほどして、紺色の車が駐在所の前に停まった。

背の高い、眼鏡をかけたスーツの男が降りてきた。

男は巡査と短く話すと、私の腕を掴んで車へ乗せた。

走り出した車の中で、男はしきりにどこかへ連絡を取っていた。

その手にあったのは、私の知る電話より一回り大きな板だった。

光る板を耳に当て、男は低い声で何事か話し続けた。

やがて車は、谷の斜面に建つ古い療養所のような建物に着いた。

私は個室へ通され、白衣の初老の男から問診を受けた。

部屋には、見慣れぬ器具がいくつも並んでいた。

形は医療の道具に似ていたが、用途はまるで見当がつかなかった。

壁の暦らしき紙にも、読めない文字と数字が刷られていた。

男はコップを指さし、私に紙を差し出した。

「コップ」と書くと、男は難しい顔で眼鏡を外し、それを指さした。

「眼鏡」と書いても、返ってくるのは同じ渋い顔だった。

私の書く字は、この人たちには意味をなさないらしかった。

やがて私は、ベッドが四つ並ぶ狭い部屋に入れられた。

外から鍵のかかる音がして、私はようやく事の重さを知った。

隣のベッドに、頭に包帯を巻いた大柄な男が横になっていた。

男は天井を見たまま、低い声で私に言った。

「あんた、言葉が分かるんか」

聞き慣れた響きに、私は飛び起きた。

「分かります、分かります」

それだけのことが、涙が出るほど嬉しかった。

男は自分を、奈良で工務店をやっていた棟梁だと名乗った。

盆に墓参りへ山へ入り、凪の刻に道を違えたのだと言った。

男の言葉に、私は背筋が冷えた。

師匠の谷の言い伝えと、寸分たがわず同じだった。

「はじめは道を間違えたとしか思わんかった」と男は笑った。

「せやけど、家に帰ったら、表札の字が読めんかった」

男の話は、私の身に起きたことと、細部まで重なっていた。

この谷には、そうして迷い込む者が絶えないらしかった。

男が来てから、二人、自分と同じ者が運ばれてきたという。

その二人は、数日すると奥の棟へ連れて行かれ、戻らなかった。

「奥の棟へ連れて行かれた二人は、どうなったんですか」

私が問うと、男はしばらく黙ってから、低く答えた。

「わからん。ただ、戻ってきた者は一人もおらん」

男はそう言って、包帯の下の目を静かに閉じた。

そして毎日、決まった刻限に、訳の分からない注射をされた。

針の中身は薄い青色で、打たれると一日じゅう頭が重かった。

何のための薬かと身振りで尋ねても、誰も答えなかった。

食事は日に二度、木の盆に載って運ばれてきた。

見たこともない和菓子のようなものが、妙に甘くて美味かった。

窓のない部屋で、私は昼と夜の区別も曖昧になっていった。

男は毎晩、奈良の家族の話を、同じ調子で繰り返した。

「息子がな、もう歩いとる頃やと思うんや」

その声が細くなっていくのを、私は聞かぬふりをした。

打たれても身体に変わりはないが、それがいちばん怖かった。

「来たばかりなら、あんたはまだ戻れるかもしれん」

男は、自分はもう戻れないと、静かに言った。

五日ほど、私はその部屋に閉じ込められた。

厠と行水のほかは、外へ出ることを許されなかった。

六日目の晩、白髪の小柄な老人が部屋に入ってきた。

白衣を着ていたが、この谷で一番偉い人のように見えた。

老人は私を無言で手招きし、別室へ連れて行った。

そして、聞き取れる言葉で私に尋ねた。

「お前は、なんで戻ってきた」

問いの意味が分からず、私はただ立ち尽くした。

「いや、いつこちらへ来た」

「今日で、六日になります」

「来たばかりか。それなら、帰してやろう」

老人は、いくつかの約束をさせた。

写真も、この谷のものも、何ひとつ持ち帰らぬこと。

ここへ来たと語ってもよいが、あると認めさせぬこと。

戻れたら、二度とあの旧道へ近づかぬこと。

もし次に迷い込めば、もう帰る道はないこと。

私は半泣きで、何もかも誓った。

老人は電話をかけ、若いスーツの男を呼んだ。

その男もまた、私と同じで、別のところから来た者だった。

「あの部屋のおっさんは、運ばれるのが遅かった」

だから、もう戻れないだろうと、男は前を見たまま言った。

私は同室の男に、何も告げられなかったことを悔やんだ。

車に揺られるうち、私は急に、抗いがたい眠気に襲われた。

気がつくと、私は師匠の生家の庭で仰向けに寝ていた。

蝉が鳴き、山の風と海の風が、また谷を渡っていた。

空の暗さも、足元の明るさも、ちぐはぐさは消えていた。

庭の土は、私が倒れた広場の土とは、匂いが違う気がした。

手帳も鞄も、来たときのまま、傍らに転がっていた。

私は戻れたのだと、その場にへたり込んで安堵した。

けれど、日付だけが合わなかった。

谷にいたのは六日のはずが、暦は三日しか進んでいなかった。

帰り着いた谷に、山襞の奥の切れ込みは、もう無かった。

母屋からは、味噌汁の匂いと、包丁の音が漏れていた。

生きていれば、当たり前にそこにあるはずの、暮らしの音だった。

私は確かめたくて、師匠の生家の戸を引いた。

土間の奥に、灯りがともっていた。

製図台の前に、人が一人、背を丸めて座っていた。

その人が、私の足音に振り返った。

先に逝ったはずの師匠が、製図台の前で私を見ていた。

私は声を失った。

半月前、私はこの手で、師匠の骨箱を抱いたはずだった。

白い布に覆われた、もう動かない姿も見た。

それなのに、師匠はそこにいて、私の名を呼んだ。

声は確かに師匠のものだった。

今度は、言葉もちゃんと聞き取れた。

「なんや、そんな汗だくで。杭は打ってきたんか」

私は、うまく答えられなかった。

思わず、師匠の腕に触れて、その温かさを確かめた。

病み上がりの細い腕ではなく、太く逞しかった。

この人は、この世界では一度も床に就いていないのだと分かった。

病を得たという事実そのものが、この谷にはなかったのだ。

師匠は生きていて、あの杭は、まだ誰にも打たれていなかった。

私が戻ったのは、元の世界によく似た、少しだけずれた世界なのだと思う。

師匠が向こうへ渡らなかった、そんな谷に、私は流れ着いたらしい。

それから何年も、私はこのことを誰にも話せずにきた。

妻に打ち明けようとしたことは、幾度もあった。

けれど、あの約束が、いつも私の口を重くした。

存在を、認めさせてはいけない——老人の声が耳に残っていた。

一度だけ、酔った勢いで師匠に谷の話を向けたことがある。

師匠は箸を止め、しばらく私の顔をじっと見た。

「お前、あの谷へ行ったんか」

低い声だった。

私が黙っていると、師匠はそれきり何も聞かなかった。

この人も、何かを知っているのだと、その時に思った。

けれど私は、それ以上を問う勇気を持てなかった。

私は谷で見たことを、手帳の隅に小さな記号で残しただけだ。

その手帳も、いつのまにか字が薄れて読めなくなっている。

まるで、あの谷の道標のように。

師匠は今も達者で、時折、酒を酌み交わす。

孫を膝に乗せて、下手な図面を描いてやっている姿も見た。

その孫の名を、私はこの世界で初めて知った。

けれど私は、あの谷の言い伝えを、もう笑えなくなった。

半島のあの谷へは、仕事で近くを通っても、私は下りない。

凪の予報が出た夕には、なぜか決まって背筋が寒くなる。

あの棟梁は、今もあの谷にいるのだろうか。

奥の棟へ連れて行かれた者たちは、どこへ渡ったのだろう。

考えても、答えの出ないことばかりだ。

ただ、あの薄青い針の中身だけは、今も夢に出てくる。

凪の刻に、道は本当に入れ替わる。

そして時々、入れ替わったことにすら、誰も気づかない。

今でも、あの谷の旧道にだけは、私は杭を打ちに行かない。

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