うずめ様と呼ばれた古い人形

雨夜の村と不気味な人形

今でも、糸を巻かれた人形だけは、店に引き取らない。

どんなに古くて値打ちがありそうでも、あれだけは断ることにしている。

これは、三十年ほど前の、梅雨のさなかにあったことのせいだ。

当時の私は、古道具の出張買取をなりわいにしていた。

女がひとりでこの商売をするのは、あの時代にはまだ珍しかったと思う。

軽の貨物車に相棒のトキオを乗せて、県境の在郷町まで、蔵ひとつぶんの品を引き取りに行った。

トキオは二十歳そこそこの、まだ品物の値もろくに読めない見習いだった。

それでも力仕事には重宝したし、長い運転の相手には困らなかった。

依頼主は、タツ婆という名の老女だった。

私の遠い縁筋にあたる人で、亭主に先立たれてから、旧街道沿いの古い家に、ひとりで暮らしていた。

町は、昔の宿場の名残をとどめた、平べったい土地だった。

街道の両側に、傾いだ格子戸の家が、ぽつぽつと並んでいた。

山も海もない、ただ田と畦道の続く、退屈なほど静かな土地だった。

かつては旅籠が軒を連ねて栄えたのだと、道すがら、トキオが古い道標の文字を読み上げた。

今はもう、その面影も薄く、宿場を抜ける車は、みな素通りしていくだけだった。

梅雨の走りで、空はずっと、鉛のような色をしていた。

ワイパーの音だけが、車内に、単調に響いていた。

こんな辛気くさい町に、値のつく物なんてあるんですかね、とトキオがぼやいた。

私は、蔵ひとつぶんと言われたら、行ってみるしかないだろう、と答えた。

車が町に入ったのは、昼をだいぶ過ぎた頃だった。

タツ婆の家は、街道の外れの、いちばん奥まったところにあった。

黒ずんだ板塀に囲まれた、間口の広い、古い商家造りの家だった。

茶を出しながら、タツ婆は、この家のことを、ぽつりぽつりと話した。

座敷は薄暗く、仏壇の脇に、色の褪せた子供の晴れ着が、大切そうに畳んで置かれていた。

誰の着物か、とは、私はとうとう、聞けずじまいだった。

この家は代々、なかなか子に恵まれぬ家系だったのだという。

ずっと昔、街道を流していた行商人から、ある人形を譲り受けて、ようやく子が生まれた。

以来、その人形を、うずめ様と呼んで、蔵の奥に祀ってきたのだ、と。

ただし、その子は長じてのち、ふいに家を出て、二度と戻らなかったそうだ。

そのくだりを話すとき、タツ婆の声は、少しだけ低くなった。

家の裏手に、黒く煤けた土蔵が建っていた。

タツ婆は蔵の錠前を外しながら、なんべんも私の顔を見た。

あんた、こういう古い物は、慣れとるんやろか。

そう聞かれて、私は、慣れています、と答えた。

蔵の中は、梅雨どきの湿気で、かび臭い匂いが立ちこめていた。

簞笥、長持、欠けた瀬戸物。

どれも、値のつくような品ではなかった。

それでも私は、簞笥の抽斗をひとつずつ検め、瀬戸物の裏を返し、長持の底までていねいに手を入れていった。

薄暗い蔵のなかで、埃と黴の匂いに混じって、かすかに、線香に似た甘い匂いが漂っているのに気づいた。

その匂いは、いちばん奥の棚に近づくほど、濃くなっていくようだった。

けれど、いちばん奥の棚に、桐の箱がひとつ、ぽつんと置かれていた。

私は何気なく、その蓋を持ち上げた。

桐の箱の中で、赤い麻糸をぐるぐると巻かれた人形が、こちらを向いて座っていた。

市松人形のような、おかっぱ頭の、子供の人形だった。

顔から手足まで、赤い麻糸で、簀巻きのように厳重に縛られていた。

まるで、動かれては困る、とでもいうように。

タツ婆が、私の背後で、小さく息を呑む音がした。

それは、売り物には、せんといて。

声が、少しだけ震えていた。

私が理由を尋ねると、タツ婆はしばらく黙っていた。

それから、蔵の外の、明るいほうへ目をやりながら言った。

うずめ様、いうんや。この家の。

うずめ様。

初めて聞く名だった。

タツ婆は最後にひとこと、糸は解かんといてな、と念を押した。

私はうなずいて、桐の箱を、荷台のいちばん端に積んだ。

その時はまだ、ただの古い人形だと、そう思っていた。

異変に気づいたのは、その日の夕方だった。

町はずれの、小さな旅館に宿を取った。

買い取った品を、翌朝の便で送る手はずになっていた。

荷を部屋に運び入れたトキオが、妙な顔をして戻ってきた。

姉さん、あの箱の糸、緩んでませんか。

見に行くと、確かにそうだった。

蔵で見たときは、隙間もないほどきつく巻かれていた赤い糸が、心なしか、ゆるく垂れている。

私は、運ぶ途中でほどけたのだろうと思った。

思おうと、した。

きつく巻き直して、箱の蓋を閉め、押入れの奥に仕舞った。

巻き直すとき、私は初めて、その人形をまじまじと見た。

首と胴を繋ぐ節のところに、渦を巻いたような、細かい彫りが刻まれていた。

指先で触れると、その彫りだけが、妙に、ひやりと冷たかった。

古い人形にしては、着物の朱色が、いやに鮮やかだったのを覚えている。

夕飯を運んできた旅館の女将が、荷物の中身を聞いて、ふと手を止めた。

この町にはね、昔、街道を流していた人形遣いの、置いていった箱があるらしいよ。

女将は、まるで世間話のように、そう言った。

触っちゃいけない箱だって、年寄りはみんな言うけどねえ。

その時は、私も、ただの言い伝えだろうと聞き流していた。

夕飯のあと、私は蔵で見落とした品がないか、タツ婆の家へもう一度戻ることにした。

街道は、もう人通りもなく、家々の灯りも乏しかった。

家の前まで来たとき、私はふと、裏手の土蔵を見上げた。

蔵の小窓から、子供の頭がひとつ、こちらを覗いていた。

月あかりが逆光になって、顔は見えなかった。

けれど、おかっぱ頭の輪郭だけが、はっきりと分かった。

私は、その場に立ちすくんだ。

蔵の錠は、昼間、タツ婆が確かにかけたはずだった。

それに、人形なら、いま私の宿の押入れにあるはずだった。

もう一度見上げたときには、窓に頭はなかった。

タツ婆にそのことを話すと、婆はひどく怯えた顔になった。

そして、堰を切ったように、うずめ様のことを話し始めた。

この土地には、昔から、うずめ様という言い伝えがあるのだという。

子の授からぬ家や、身重の女のいる家の屋根に、稀に現れる。

現れると、その家には、無事に子が育つ。

だから、めでたい、縁起のよいものとされてきた。

けれど、と婆は声を落とした。

何十年かに一度、うずめ様は、なぜか子供をひとり、向こうへ連れて行ってしまうのだという。

そういう時は、うずめ様が最初に降りた場所に、赤い麻糸で封じ込める。

糸を巻いたまま箱に納めて奉れば、それ以上は連れて行かれずにすむ。

うちの蔵のあれも、ずっとそうして、糸を巻いて眠らせてあったのだ、と婆は言った。

私は、その晩は宿へ戻り、翌朝、宿の近くの小さな社を訪ねた。

夜のうちに聞いた話が、どうにも頭から離れなかったからだ。

社の宮司は、水無瀬という、痩せた老人だった。

水無瀬さんは、うずめ様の名を出すと、露骨に顔を曇らせた。

古い帳面を出してきて、色の褪せた墨の字を、指でたどってくれた。

帳面には、確かに、うずめ様の記述があった。

過去にも幾度か、この土地で、子供が抜け殻のようになった、と書かれていた。

帳面には、そのたびに封じを行った年号と、関わった家の名が、几帳面な字で書き連ねてあった。

どの記録も、封じさえ済ませれば、それきり静かになった、と結ばれていた。

だが、私たちの人形について書かれた頁だけは、どこにも見当たらなかった。

つまり、あれは、この土地が長らく封じ続けてきたものとは、まるで別の何かだったのだ。

そのたびに、社と村の者とで、糸を巻いて封じてきたのだ、と。

いちばん新しい記録でも、もう二十年は前のことになる、と水無瀬さんは言った。

だから、いま騒ぎが起きるのは、あまりに早すぎるのだ、とも。

けれど、そこに描かれた姿は、私の見た人形とは、まるで違っていた。

帳面のうずめ様は、毛におおわれた、猿のような姿をしていた。

人形でも、おかっぱ頭でもなかった。

あんたの言うそれは、うずめ様やない気がする。

水無瀬さんは、帳面を閉じながら、そう呟いた。

だが、悪いものであることは、間違いない。

宿へ戻る道々、私は妙な違和感を、ずっと引きずっていた。

蔵の窓で見た、あの子供の頭のことだ。

あんなに窓から乗り出していたのに、なぜ、頭だけしか見えなかったのだろう。

その日の昼、私は、買い取った品を送る手続きを、一日だけ遅らせることにした。

あの人形だけは、便に混ぜて、よその土地へ運ぶ気には、どうしてもなれなかった。

押入れの前を通るたび、耳の奥で、ホホホ、という音が、鳴った気がした。

そのたびに立ち止まって、襖を開けたが、箱の蓋は、いつも閉じたままだった。

タツ婆からは、あれをこの家に戻さんといて、と、電話で念を押された。

戻したら、また、この土地の子が連れて行かれる、と。

私は、承知しました、とだけ答えて、受話器を置いた。

その晩、事は起きた。

トキオが、夜中に、けたたましい笑い声をあげたのだ。

私が飛び起きると、隣の布団で、トキオが天井を向いて笑っていた。

アハハハ、と、部屋じゅうに響くほどの、明るい笑い声だった。

けれど、その顔は、笑ってなど、いなかった。

無表情のまま、目からは、大粒の涙が、ぼろぼろとこぼれていた。

私がいくら肩をゆすっても、名を呼んでも、まるで届かない。

トキオは、私が見えていないように、笑いながら、泣き続けた。

その時、部屋のすみに置いた桐の箱が、かたり、と鳴った。

私は、震える手で、箱の蓋に手をかけた。

箱の蓋を開けると、巻いたはずの赤い麻糸が、ひとりでに、するすると解けていくところだった。

私は、悲鳴も出せなかった。

糸は、生き物のように、みずから畳の上へ這い落ちていった。

最後のひと巻きがほどけた瞬間、人形の首が、かくん、と持ち上がった。

私はトキオを引きずるようにして、廊下へ逃げた。

宿の主人と女将を叩き起こし、二人がかりでトキオを表へ運び出した。

女将も、部屋のほうから聞こえてくる、ホホホ、という声を聞いて、腰を抜かしていた。

その夜のことは、正直、あまり覚えていない。

トキオは、隣町の医者に運ばれた。

三日ほど、眠り続けたのちに、何事もなかったように目を覚ました。

入院していた間の記憶は、すっぽりと、抜け落ちていた。

翌朝、タツ婆の家に、十台ほどの車が集まった。

中から、二十人ほどの男たちが降りてきた。

街道沿いの家々から出てきた、年寄りばかりだった。

男たちは、蔵のまわりに縄を張り、木の杭を打ち込んで、囲いを作り始めた。

何をしているのか、と尋ねても、誰も答えてくれなかった。

ただ、ひとりの老人が、私を見て、気の毒そうに首を振った。

昼過ぎに、水無瀬さんが、私のいる帳場を訪ねてきた。

男たちがしているのは、うずめ様を封じる、昔ながらの作法なのだという。

だが、どうにも辻褄が合わない、と水無瀬さんは繰り返した。

封じは、もう二度もやり直している。それでも、収まらない。

こんなことは、帳面のどこにも、書かれていないのだ、と。

その夜から、あれは、私を追ってきた。

最初の晩は、宿の屋根の上にいた。

宿の窓を、こつ、こつ、と、規則正しく叩く音がした。

二階の、私の部屋の窓だ。

下は、崖のように切り立った石垣で、人の登れる場所ではない。

カーテンの隙間から、私は、そっと外を覗いた。

屋根の上に、和服を着た人形が、正座していた。

首のあるはずのところから、細い棒のようなものが、一メートルばかり、真っ直ぐに伸びていた。

その先にある頭が、窓の高さまで垂れ下がり、私の部屋を覗き込んでいた。

肩も胴もないのに、頭だけがそこにあった理由を、私はようやく理解した。

あの晩、蔵の窓に見えた頭も、こうして棒の先に、ぶら下がっていたのだ。

ホホホ、ホホホ、と、抑揚のない声が、窓越しに聞こえた。

笑い声のような、けれど、少しも楽しげではない音だった。

梅雨の湿った夜気のなかに、その声だけが、乾いた木のかけらを打ち合わせるように、ひどく硬く響いていた。

屋根瓦を踏む足音は、いつまで待っても、聞こえてこなかった。

あれは、屋根の上をゆっくりと移動しながら、私の部屋の真上で、ぴたりと止まった。

次の晩は、廊下の突き当たりにいた。

そのまた次の晩には、襖一枚を隔てた、隣の部屋にいた。

夜ごと、あれは、少しずつ、私のいる場所へ近づいてきた。

距離が縮むたびに、あの硬い笑い声は、耳の奥に、こびりついて離れなくなった。

目を閉じても、瞼の裏に、棒の先で揺れる、あのおかっぱ頭が浮かんだ。

私は、後ずさりして、朝まで一階の帳場で、夜を明かすようになった。

三日目に、水無瀬さんが、隣県から、もうひとり年老いた僧を連れてきた。

その僧が着くのと入れ違いに、一台のワゴンが、社の前に停まった。

中からは、トキオのときと同じ、けたたましい笑い声が響いていた。

隣村の子供が、ひとり、同じように抜け殻のようになった、というのだ。

数人の大人に抱えられて、笑い続けるその子が、本堂へと運ばれていった。

それを見て、私は、これはもう、私ひとりの話ではないのだと悟った。

年老いた僧は、人形をひと目見て、これは神様の類ではない、と言った。

何かの呪いを込めた、呪物だろう、と。

糸で封じるのではなく、縁を切って、供養してしまうしかない、と言った。

社の板の間で、読経が始まった。

私は、人形の入った箱を前に、座らされていた。

僧たちの声が、低く、長く、続いた。

読経の合間に、年老いた僧は、この人形はおそらく、誰かの深い恨みを、形にして封じ込めたものだろう、と低い声で言った。

人を縁起よく見せかけて近づき、いちばん弱い子供へと、そっと手を伸ばす。そういう質のものだ、と。

すると、箱の中から、ホホホ、ホホホ、と、あの声が聞こえ始めた。

そこから先のことは、自分でも、うまく説明ができない。

気がつくと、私は箱を開け、人形をつかみ、板の間に叩きつけていた。

なぜか、無性に、腹が立っていた。

笑いたくもないのに、口の端が勝手に吊り上がり、泣きたくもないのに、涙がこぼれた。

トキオと同じ状態になりかけているのだと、頭のどこかでは、分かっていた。

それでも、私は、人形を打ちつけるのを、やめられなかった。

後で聞くと、私は、笑いながら泣いて、人形を叩き続けていたそうだ。

燭台の火が、いつのまにか、人形の着物に燃え移っていた。

焦げくさい匂いが、板の間に立ちこめた。

人形は、炎に包まれても、なお、ホホホ、ホホホ、と笑っていた。

めきり、と、鈍い音がして、首の付け根の棒が折れた。

その瞬間、私のなかの、妙な感情が、すっと消えた。

腹立ちも、笑いたい気持ちも、泣きたい気持ちも、嘘のように、なくなった。

私は、その場に、へたり込んだ。

人形は、半分ほど炭になって、もう動かなかった。

焦げた胴の木地に、消えかけた墨で、寛延二年、と読める字があった。

その下に、ほとんど焼け落ちて、判読できない、作者らしき名が数文字。

そして、かろうじて、渦、という一文字だけが、読み取れた。

うずめ様、ではなかった。

渦、と書いて、なんと読ませたのかは、今も、わからない。

本堂の子供も、その夜のうちに、静かに寝入ったという。

僧は、正体が分かったら連絡する、と言った。

あれから、三十年になる。

その連絡は、いまだに、来ない。

トキオも、私も、その後は、何事もなく過ごしている。

ただ、ときどき思い出すことがある。

タツ婆の家から、昔、ふいに出ていって、戻らなかったという子供のことだ。

あの子も、屋根の上のあれに、覗き込まれた口だったのではないか。

糸をほどいてしまったのか、それとも、糸のほうから、ほどけたのか。

今となっては、確かめようもない。

タツ婆も、あの町を最後に、私は一度も、会っていない。

ただ、ひとつだけ。

供養のあと、片づけようとした桐の箱を、私は覗いた。

箱の底には、切れた赤い麻糸だけが、とぐろを巻いて残っていた。

その糸を、私はどうしても、燃やすことも捨てることもできず、今も店の金庫に、しまってある。

時々、確かめずには、いられないのだ。

巻いたはずの糸が、ひとりでに、解けてはいないかと。

金庫を閉めるとき、いつも、指先が、あの節の彫りを思い出して、ひやりとする。

渦を巻いた、あの冷たい感触だけは、三十年たった今も、はっきりと覚えている。

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