
これは、俺がまだ若かった頃に、実際に体験した怖い話だ。
今でも人には滅多に話さないが、書き残しておこうと思う。
平成のはじめ、俺は長距離のトラック運転手をしていた。
積み荷を港まで運ぶのが、その頃の主な仕事だった。
走るのはたいてい夜だ。
昼間の渋滞を避け、荷主が指定する朝一番の荷降ろしに間に合わせる。
だから俺の一日は、たいてい日が沈んでから始まった。
山陰の暗い国道を、俺は何年も一人で走り続けていた。
携帯電話などまだ普及していない時代だ。
連絡といえば、車に積んだ無線機と、道端の公衆電話がすべてだった。
その道の途中に、長い峠がひとつある。
昼でも薄暗い、両側を古い杉に挟まれた道だ。
カーブが多く、ガードレールの向こうはすぐ深い谷になっている。
慣れた運転手でも、雨の晩は肝を冷やす場所だった。
峠の中腹には、深夜まで開いている小さなドライブインが一軒あった。
運転手仲間はそこで仮眠を取り、うどんをすすり、また走り出す。
無線では「峠の茶屋」と呼ばれていた店だ。
店の主人は無口な年寄りで、俺の顔を見ると黙って湯を沸かした。
その峠は、運転手仲間の間では、ちょっとした怖い話の舞台として知られていた。
その峠には昔から、運転手の間で一つだけ言い伝えがあった。
「あの峠で、女を乗せるな」
理由を聞いても、誰もはっきりとは答えなかった。
ただ、ずっと昔にあの峠で戻らぬ人となった若い女がいる、とだけ聞かされた。
嫁入りの晩に谷へ落ちたとも、悪い男に連れ去られたとも言われている。
どれが本当なのかは、もう誰も知らない。
弔うための小さな祠が、峠の頂の脇に今も残っているという。
昔かたぎの運転手は、その祠の前を通るとき、必ず一度クラクションを鳴らした。
そうしないと女がついてくる、というのがこの道の決まりだった。
迷信だと、俺は笑っていた。
若い頃の俺は、そういう話をまるで信じていなかった。
その晩も、俺はいつも通り峠へさしかかった。
時刻は夜の十一時を回っていた。
空はよく晴れていて、杉の梢の間から細い月が覗いていた。
妙なことに、いつもは何台か行き交う対向車が、一台も来ない。
「土曜の晩ってこんなものだったか」と思ったが、気にも留めなかった。
ドライブインの駐車場も、やけに空いていた。
停まっているのは、俺のトラックと、埃をかぶった古い軽が一台きりだった。
店に入ると、いつもの主人はおらず、代わりに誰もいない。
呼んでも返事がないので、俺は勝手に湯を沸かし、うどんを作った。
熱いつゆをすすると、冷えた体に温かさが染みた。
その時、どこか遠くで、細い声がわらべ歌をうたっているのが聞こえた気がした。
子供の声のようでもあり、女の声のようでもあった。
窓の外を見たが、駐車場には人影ひとつない。
気のせいだろうと、俺はどんぶりに目を戻した。
杉の匂いと、古い油の匂いが、店の中に重くこもっていた。
今思えば、あの静けさが、すべての始まりだった。
その峠のことを、俺に一番よく話してくれたのは、田口さんという先輩だった。
田口さんは三十年この道を走ってきた、無線でも顔の広い人だった。
その田口さんが、一度だけ真顔で俺に言ったことがある。
「峠で女に声をかけられても、絶対に振り向くな」と。
昔、言い伝えを笑い飛ばした若い運転手が一人、あの峠で消えたのだという。
車だけが頂の路肩に残され、本人はどこにも見当たらなかった。
荷台には、なぜか濡れた女物の草履が片方だけ残っていたそうだ。
警察も探したが、その運転手は今も戻らぬ人のままだという。
「あの峠のは、乗せたら最後、家までついてくる」と田口さんは言った。
その時の俺は、年寄りの脅かし話だと、やはり笑っていた。
※
うどんを食べ終え、俺はトラックのステップに足をかけた。
その時、暗がりから声をかけられた。
「港まで、乗せてもらえませんか」
振り向くと、若い女が一人、立っていた。
黒いセミロングの髪に、大人しそうな顔立ちをしている。
正直に言えば、こんな夜道には惜しいくらい、器量のいい娘だった。
どこから現れたのか、駐車場にはさっきまで誰もいなかったはずだ。
だが、疲れていた俺は、そこまで深く考えなかった。
断る理由もなく、俺は助手席のドアを開けた。
女は「ありがとう」と言って、大きめの布のバッグを抱えて乗り込んだ。
そのバッグを、女はやけに大事そうに膝の上で抱えていた。
走り出してすぐ、女はよく喋った。
最近はやりの歌の話をしたかと思うと、急に何十年も前の出来事を語り出す。
まるで、戦後すぐの町並みを、自分の目で見てきたかのように話す。
去年の大きな揺れの話を振っても、反応が妙に薄い。
かと思えば、同じ話をもう一度、初めてのように繰り返す。
そして時々、糸が切れたように、無表情で黙り込む。
浮かれていたわけでもないのに、俺は話の噛み合わなさが気になり始めた。
まるで、自分で見聞きしたことではなく、どこかから伝え聞いたことだけを喋っているようだった。
覚えた言葉を、順番に並べているだけ、とでも言えばいいのか。
うまく説明できないが、そういう不自然さが、女の言葉にはあった。
それに、さっきから妙な音がしていた。
トラックが揺れるたび、「カチ……カチ……」と、硬くて軽いものがぶつかる音がする。
プラスチックの箸を鳴らすような、乾いた音だ。
音の出どころを探したが、どこから鳴っているのか分からない。
シートの下か、荷台か、それとも女のバッグの中か。
「どうかしましたか」と女が笑った。
「いや、なんでもない」と俺は流した。
その時、無線機がザッと鳴った。
別の運転手の声が、雑音の向こうから途切れ途切れに入ってきた。
「……峠で……女を乗せた奴が……気をつけろ……」
俺が返そうとすると、無線はぷつりと切れた。
何度呼びかけても、もう誰も応じなかった。
ハンドルを握る手が、少しだけ汗ばんでいた。
途中、俺は峠を下りたところのガソリンスタンドに寄った。
給油の間、店員がちらちらと助手席のほうを見ている。
金を払うとき、店員が声をひそめて言った。
「兄さん、あの人……どこで乗せたの」
俺が答えられずにいると、店員は首を振って、それ以上何も言わなかった。
車に戻ると、女はさっきと同じ姿勢で、じっと前を見ていた。
再び走り出してしばらく、女がバッグから何かを取り出そうとした。
その時、俺は開いたバッグの中を見てしまった。
錆びついた、山刀のような大きな刃物が二本、布の底に転がっていた。
刃はぼろぼろで、長いこと土の中にあったようにも見えた。
若い娘が、夜道に持ち歩くようなものではない。
見間違いではなかった。
女はすぐにバッグの口を閉じたが、俺の目にははっきりと焼き付いていた。
その間も、「カチ……カチ……」と音は鳴り続けていた。
俺はようやく、あの言い伝えを思い出していた。
「あの峠で、女を乗せるな」
背中に嫌な汗が滲むのを、俺は必死で顔に出すまいとした。
ヘッドライトの先に、港の灯りがぼんやりと見え始めていた。
女はふいに、俺の暮らしのことを尋ね始めた。
「運転手さんは、一人暮らしなの」と、こちらを見ずに言う。
「家はどのあたり」「港に着いたら、どこへ帰るの」
答えたわけでもないのに、女は俺の町の名を、正しく口にした。
背筋が冷えたが、俺は聞こえなかったふりをした。
女はこの峠のことを、今は誰も使わない古い呼び名で呼んだ。
その呼び名を、俺は田口さんから一度だけ聞いたことがあった。
今の若い者が知っているはずのない、昔の名だった。
「懐かしいね、この道」と、女は独りごとのように言った。
何十年も前から、この道を知っているような口ぶりだった。
女は窓の外の闇を見ながら、時々くすくすと笑った。
何がおかしいのか、俺には見当もつかなかった。
「運転手さんは、優しいね」と、女は誰にともなく言った。
その声が、車の走行音の中で、やけにはっきりと聞こえた。
ラジオをつけようと手を伸ばすと、女が「消して」と静かに言った。
俺は言われるまま、手を引っ込めた。
※
港が近づいた頃、俺は嘘をついた。
「悪いが、この先で荷を降ろす。ここで降りてくれ」
フェリー乗り場の少し手前で、俺は女を降ろした。
女は不満そうな顔もせず、「じゃあ、また」と笑って手を振った。
その「また」が、やけに耳に残った。
まるで、次に会う約束をされたような、そんな響きだった。
俺はそのまま車を出し、乗り場の事務所へ回った。
夜勤の係員に伝票を渡すと、相手は怪訝な顔で俺を見た。
「兄さん、さっき若い娘が、あんたのトラックの番号を聞きに来たよ」
「港のどこへ着けるのかって、しつこく聞いてった」
背中に、冷たいものが走った。
女を降ろした場所から、この乗り場まで、歩けば二十分はかかる。
車もないのに、俺より先に着けるはずがない。
何かの間違いだろうと、俺は自分に言い聞かせた。
トラックに戻ろうと踵を返した、その俺の肩を、後ろから誰かが軽く叩いた。
振り向くと、あの女が、にこにこと笑って立っていた。
手には、あの大きめのバッグを提げている。
「もう、置いていくなんて酷いよ」
俺はとっさに後ずさった。
女はその分だけ、こちらへ詰めてくる。
逃げようとした俺の腕を、女が片手でつかんだ。
振りほどこうとしたが、万力で挟まれたように、びくともしない。
俺は身長百八十、体重八十近い。
それを、細い娘の片腕が軽々と引き寄せる。
とても、人の力ではなかった。
つかまれた腕の骨が、みしりと鳴った。
その時、女が邪魔そうに、自分の首もとの髪をかき上げた。
街灯の下に、その首すじが晒された。
その髪の下の首すじには、木を継いだような線が一本、ぐるりと入っていた。
その線の、ちょうどうなじの真上のところが、わずかに欠けて噛み合っていない。
女が身じろぎするたび、そこが「カチ、カチ」と鳴っていた。
車の中でずっと聞こえていた音の正体は、これだったのだ。
俺が凝視しているのに気づくと、女は「恥ずかしいじゃないですか」と笑った。
その笑い方が妙に可愛らしく、可愛いからこそ、よけいに寒気がした。
その時、乗り場の軒に掛けてあった漁の浮き玉がひとつ、女の頭の上に落ちた。
鈍い音がして、女の首が、継ぎ目のところから横にずれた。
顔が、肩の上で斜めにかしいでいる。
女は「あーあ」と言いながら、両手で首を元の位置に戻した。
そして何事もなかったように、また笑っている。
俺の目の前にいるものが、人ではないことだけは、もう分かっていた。
足がすくんで、声も出せなかった。
その時気づいたのだが、上着の右の袂に、何か硬いものが入っている。
つかまれていないほうの手で、俺はそれをつまみ出した。
街灯の下で見たそれは、人の指のようだった。
思わず落としかけて、俺は手を止めた。
触った感触が、本物とは違う。
乾いて軽い、人形の指だった。
いつ袂に入れられたのか、まるで見当がつかなかった。
女は俺の手の中の指を見て、静かに言った。
「捨てちゃ、だめだよ」
「次、“私”を捨てたら、あんたも向こうだからね」
その声だけが、なぜか少しも笑っていなかった。
「今夜、運転手さんのお家、行ってもいい」と女は囁いた。
「お部屋、片付けてあげる。散らかってるでしょう」
その言い方が、まるで長年連れ添った相手のようで、俺は総毛立った。
つかまれた腕の先が、だんだん冷たくなっていくのが分かった。
女の指は、氷のように冷たく、そして石のように硬かった。
俺は空いた手で、必死に街灯の柱をつかんだ。
それでも女の力には、まるで敵わなかった。
助けを呼ぼうにも、事務所の係員はいつの間にか奥へ引っ込んでいた。
広い乗り場に、俺と女の二人きりだった。
遠くで、フェリーの汽笛が一度だけ鳴った。
※
俺は女の手を渾身の力で振り払い、トラックに飛び乗った。
エンジンをかけ、俺は港とは反対の、来た道へアクセルを踏んだ。
バックミラーに、女が走って追ってくるのが映った。
ヒールのサンダルのはずなのに、その走りは、車と並ぶほど速い。
やがて姿は見えなくなったが、追ってきていないとは思えなかった。
上着の袂で、人形の指が「カチ、カチ」と鳴っていた。
まるで、居場所を女に知らせる合図のようだった。
俺はさっき女が言った言葉を思い出していた。
「“私”を捨てたら、あんたも向こう」だと。
本体は、この指だというのか。
だが、持っていても、どこまでも追われるだろう。
かといって、捨てても、向こうへ連れて行かれる。
どちらにしても、同じことだった。
問題は、捨てるか捨てないかではない。
どこで、どう手放すかだ。
夜道には相変わらず、一台の対向車もなかった。
何キロ走っても、歩いている人間の姿を一人も見なかった。
峠にさしかかった時、俺はあの祠を思い出した。
戻らぬ人となった女を弔う、頂の脇の古い祠だ。
俺は何の根拠もなく、「あそこだ」と思った。
トラックを路肩に停め、俺は懐中電灯を握って杉の斜面を駆け上がった。
苔むした石段の先に、朽ちかけた小さな祠があった。
俺は上着から人形の指をつかみ出すと、祠の奥へ力任せに放り込んだ。
その瞬間、峠の下の国道から、車の急ブレーキの音が響いた。
続いて、鈍い衝突の音がした。
俺が石段を駆け下りると、国道に一台の車が停まっていた。
中年の男が車を降り、青い顔で辺りを見回している。
「今、人を撥ねたはずなんだ」と、その男は震える声で言った。
「若い女が、道の真ん中に立ってて……なのに、どこにも、人がいない」
俺は路肩に近づいて、地面を照らした。
そこに散らばっていたのは、人の形をした、安っぽい人形の破片だった。
胴と手足に着いた布は、どう見ても、あの女が着ていたものだった。
男も俺も、しばらく何も言えなかった。
やがて連絡を受けた駐在が、自転車で駆けつけてきた。
駐在は破片を一つずつ拾い集めながら、しきりに首をかしげていた。
「妙だな。手も足も、胴と繋ぐ継ぎ目がどこにもない」
一本の木から彫り出したようだ、とも言った。
どうやって人の形に組み上がっていたのか、誰にも分からなかった。
中に何かが入っていたのではないか、と俺は思ったが、口には出さなかった。
破片はそのまま、証拠として持っていかれた。
その後の行方は、俺も聞かされていない。
後日、フェリー乗り場の係員も、峠のスタンドの店員も、みな口をそろえた。
あの晩、俺のトラックのあとを、若い女がずっとついて回っていた、と。
だが、その顔をはっきり覚えている者は、一人もいなかった。
可愛い娘だった、とだけ、みな言うのだ。
それきり、俺があの女に会うことはない。
ただ、今でも俺は、あの峠で客を乗せない。
祠の前を通るときは、必ず一度、クラクションを鳴らすようになった。
そして、人気のない夜道にさしかかると、俺は無線を切る。
どこかで、あの細いわらべ歌が、また聞こえてきそうな気がするからだ。
あの指を、祠がどうしたのかは、今も分からない。
考えると、それが本当になりそうで、俺はもう、考えないことにしている。
何日か経って、俺はもう一度あのドライブインに寄った。
今度は無口な主人が、いつものように湯を沸かしていた。
思い切って峠の女の話をすると、主人は手を止めた。
「あんた、乗せたのか」と、低い声で聞いた。
俺が頷くと、主人は長い間、黙っていた。
そして、あの祠に指を放り込んだと話すと、小さく息を吐いた。
「よく気がついたな。そうしなけりゃ、今頃あんたはいなかった」
主人が言うには、祠は昔、あの人形を封じるために建てられたのだという。
誰かがそれを持ち出すたび、女はまた道に立つのだと。
それ以上は、主人も語ろうとしなかった。
何年か後、若い運転手が無線で、峠の女の話をしているのを聞いた。
声の様子から、そいつも同じ目に遭ったのだと、俺にはすぐに分かった。
俺は無線を握って、ただ一言だけ伝えた。
「祠に放り込め。振り返るな」と。
それからというもの、俺は峠を越えるたびに、助手席をちらりと確かめる癖がついた。
誰も乗っていないと分かって、ようやく息をつく。
あの晩のことは、家族にも話していない。
話せば、あの女がまた道に立つような気がしてならないからだ。
運転手を辞めて久しい今も、雨の晩に硬い音がすると、俺は思わず耳をふさぐ。
「カチ、カチ」というあの音だけは、何年経っても忘れられない。