帰省中に神社で出会った老婆が知っていたこと

老婆

三十五になった今も、実家に帰るたびに必ずそこへ寄ってしまう。

幼い頃から遊び場にしていた、集落の外れにある小さな神社だ。本殿も拝殿もひどく古びていて、正直なところ地元の子ども以外にはほとんど知られていないような、そういう場所だった。由緒書きの板は雨に打たれ続けて字が読めなくなり、参道の石段には何年分もの苔が張り付いている。手水舎の水は、俺が子どもの頃からもう止まっている。

三十代にもなってそんな場所をわざわざ訪ねるのも妙な話だが、あそこへ行くと何となく落ち着く。頭の中が静かになる、とでも言えばいいか。仕事のことも、人間関係のごたごたも、何もかも遠くなる気がする。帰省のたびに、夕食を終えてから一人でぶらりと出かけるのが、いつの間にか習慣になっていた。

今年の盆も同じようにしようと思い、夜の九時を少し過ぎたあたりに実家を出た。

空にはうっすら雲がかかっていて、月明かりはほとんどなかった。石段を上がるとき、足元が暗くて何度か躓きそうになった。錆びた手水舎の横を抜けると、砂利の境内が暗闇の中に広がっていた。本殿の前に置かれた古い石灯篭には、もう何年も火が入っていない。それでも、見知った場所というのは暗くても分かるものだ。

石畳の端に腰を下ろして、しばらく何も考えずにいた。田舎の夜の静けさというのは、都会に慣れた耳には少し息苦しいくらい深い。木の葉が揺れる音と、虫の鳴き声だけが途切れなく続いていた。スマホをポケットにしまい、ただそこにいた。

どれくらいそうしていたのか。ふいに、砂利を踏む音がして振り返った。

鳥居の方からゆっくりと近づいてくる人影があった。かなり背の低い老女で、薄い色の着物を着ていた。こんな時間に参拝に来る人もいるのかと思いながら、俺は自然に会釈した。老女も小さく頭を下げた。そのまますれ違うかと思ったが、老女は俺の手前で足を止めた。

「あんたは、重雄さんのお孫さんかね」

驚いた。重雄というのは、俺の祖父の名前だ。もう十年以上前に他界している。

「そうですが……ご存知だったんですか」と聞くと、老女は小さく頷いた。

「昔、よくここで話しをしたもんさ。ここへ来るのが好きな人でね。あの人のお孫さんかと思って、声をかけてみたよ」

祖父がここへよく来ていたというのは、確かに聞いたことがあった。晩年、散歩がてらよく境内に立ち寄っていたと、母が話してくれたことがある。口数が少ない人だったが、ここだけは特別好きだったと言っていた。

「そうでしたか。祖父が世話になっていたんですね」と俺は言った。

老女はしばらく本殿の方を眺めていた。何かを懐かしむような、あるいは確かめるような目だった。暗い中でも、その輪郭だけははっきり見えた。

「重雄さんはね、いつもここで同じことを言っていたよ」

「何と言っていたんですか」

老女は少し間を置いてから、静かに答えた。

「ここに来ると、何もかも黙っていてくれる気がするって」

俺は返す言葉が見つからなかった。さっき自分が感じていたこととまったく同じだったからだ。

老女はそれ以上何も言わなかった。しばらくの沈黙のあと、「そろそろ行くとするか」とだけ呟いて、来た方向へゆっくりと歩いていった。小さな背中が鳥居をくぐり、石段の方へ消えていった。足音は最初と同じように、砂利の上をゆっくりと踏みしめていた。

俺はその後もしばらく境内に残り、それから家に帰った。不思議な夜だったと思いながら、布団に入ってすぐに眠った。

翌朝、母に昨夜の話をした。神社で老婆に会った、祖父のことを知っていたと言うと、母は少し不思議そうな顔をした。

「あそこへわざわざ来るような年寄りは、最近はいないんだけどね。近所の田島さんが知ってるかもしれない」

昼過ぎに、母と一緒に近くに住む田島のばあさんの家に寄った。俺の祖父とも古い知り合いで、八十は過ぎているが頭のしっかりした人だ。老婆の特徴を話すと、田島のばあさんはしばらく首を傾げた。

「それ、もしかして薄い色の着物だったかい」

「ええ、そうです」

「……あの神社の宮司の奥さんに、よく似た格好の人がいたよ。もう四十年以上前に亡くなってるけどね。重雄さんとも仲が良かったと聞いたことがある。あの境内でよく話し込んでいたって、昔の人が言っていた」

田島のばあさんは、それ以上のことは言わなかった。俺も、それ以上は聞かなかった。

あの老婆が何者だったのか、今でも分からない。近所の誰かだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない。

ただ一つ、ずっと気になっていることがある。

あの夜、老婆は砂利を踏んで歩いてきた。俺はその足音を確かに聞いた。近づいてくる音も、遠ざかっていく音も。

翌朝、俺は一人で神社に戻ってみた。昨夜俺が座っていた石畳の周りには、朝露に濡れた落ち葉が薄く積もっていた。前日の夕方から雨は降っていない。乾いた砂利の上に、足跡が残るような状態ではなかったことは分かっている。

ただ、砂利の上にはっきりと足跡が残るとすれば、それはよほど重い何かが踏んだときだけだ。

昨夜の砂利には、俺のものを含めて、何一つ跡がなかった。

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