夜の古井戸と水を汲む音

月明かりの霧深い村

夜の仕事を始めたのは、七十を二つ越えてからである。

連れ合いを見送り、子らもみな遠い土地にある。

独りきりの家は、夜になるとひどく天井が高く感じられる。

柱時計の振り子だけが、暗がりで時を刻んでゆく。

その音を聞いていると、私まで止まってしまいそうになる。

それで私は、人の眠る刻限にこそ働くことを選んだ。

国道沿いの道の駅で、客の引いたあとの床を磨く。

昼に賑わう建物は、夜にはまるで別の貌を持つ。

蛍光灯は節電のため、半分が落とされている。

売店の棚も、土産物の人形も、薄闇の中で息をひそめている。

磨きあげた床に、私ひとりの影が長く伸びる。

その影だけが、私にとって夜の道連れであった。

建物の裏手には、古い井戸がある。

分厚いコンクリートの蓋が、固くその口を塞いでいる。

蓋の中央には、誰が彫ったのか、小さな梵字が一つ刻まれていた。

彫りはずいぶん古く、雨に洗われて角が丸い。

聞けば、この土地はダムに沈んだ村のはずれであるという。

家も田も墓も、そっくり水の底へ移された。

けれど、この井戸だけは移されずに残された。

水を抜かれ、とうに用を終えた井戸である。

なぜ井戸を埋めなかったのかと、古手の同僚に尋ねたことがある。

埋めようとすると決まって人が寝込む、と彼は声を落とした。

それで蓋をして、梵字を彫り、そのままにしてあるのだという。

私は初め、その話を年寄りの戯言ほどにも思っていなかった。

井戸など、私には石の塚と変わらぬものであった。

異変に気づいたのは、勤めて半月ほど経った夜だ。

深夜の二時、裏手から、釣瓶の軋む音がした。

古い縄が滑車を擦る、あの湿った音である。

塞がれた井戸から、水を汲む音がするはずもない。

私は箒を握ったまま、しばらく動けずにいた。

音は数分のあいだ続き、ふいに途切れた。

あとには、底のない静けさだけが残された。

ねずみか、配水管の音だろうと、その夜は思うことにした。

けれど翌晩も、その翌晩も、同じ刻限に音がした。

釣瓶の軋み、桶に水の落ちる音、そして女の小さな咳。

咳だけは、どこかで聞き覚えのある音色をしていた。

胸の奥が、わけもなくざわついた。

二晩目の音は、前の晩より少しだけ長く続いた。

三晩目には、桶を地に置く、ことりという音まで混じった。

まるで、誰かが日課のように水を汲んでいるかのようだった。

私は昼勤の同僚に、それとなく井戸のことを尋ねてみた。

彼女は手を止め、しばらく黙ってから口を開いた。

深夜に音を聞いた者は、これまでにも幾人かいたという。

けれど、その者たちは長く勤めず、みな辞めていったらしい。

音の正体を確かめようとした者は、一人もいなかった。

なぜ確かめないのかと問うと、彼女は曖昧に笑った。

確かめてしまうと、戻れなくなる気がするのだ、と。

その言葉が、なぜか私の胸の底に、澱のように残った。

私はその夜、勤めの記録簿を古いものまで繰ってみた。

ダムができたのは、私が嫁いだ年とほぼ同じ頃であった。

沈んだ村には、私の生まれ在所と同じ名の字があった。

偶然だと思おうとしても、指先が冷たくなっていった。

私は四晩目に、ようやく意を決して懐中電灯を手にした。

裏口の鍵を開けると、湿った夜気がどっと流れ込んでくる。

梅雨入り前の空には、薄く研いだような月が掛かっていた。

草を踏みしめ、一歩ずつ井戸のもとへ近づいてゆく。

近づくほどに、釣瓶の音は確かさを増した。

そしてようやく、私は蓋が動いていることに気づいた。

分厚いコンクリートが、指の幅ほど横へずれている。

大人が幾人がかりでも、容易には動かせぬ重さの蓋である。

そのわずかな隙間から、淡い灯りが漏れていた。

底に、火の灯るはずのない井戸である。

私は懐中電灯を消し、その灯りだけを見つめた。

やがて私は、草の上に膝をつき、隙間へ顔を寄せた。

冷たい水の匂いが、下から静かに立ちのぼってくる。

それは、もう何十年も嗅いでいない匂いだった。

嫁いだばかりの家の、台所の井戸の匂いである。

鼻の奥に、若い日々が一度に押し寄せてきた。

私は息を詰めて、暗い井戸の底を覗き込んだ。

底には、薄あかりに照らされた水面があった。

そして、その傍らに、誰かがしゃがんでいる。

絣の着物を着た、ひとりの若い女である。

女は桶を手に、ゆっくりと釣瓶の水を移していた。

結いあげた髪も、手の甲の白さも、私はそれを知っていた。

底で水を汲んでいたのは、若い頃の私だった。

嫁いで間もない、二十歳そこそこの私である。

私は声をあげることも、退くこともできなかった。

若い私は、汲んだ水を桶へ移し、また釣瓶を下ろす。

その手つきの一つ一つに、紛れもない覚えがあった。

右の手首に、嫁入りに持たされた銀の指輪が光っている。

三十年も前に、井戸端で落としてなくしたはずの指輪である。

それが今、あの細い手首に、ひそやかに嵌まっている。

私は思わず、遠い昔の自分の名を呼んだ。

声は、自分でも驚くほど震えていた。

若い私が、釣瓶の手を止めた。

そして、ゆっくりとこちらを見上げた。

薄あかりの中に、その顔がはっきりと浮かぶ。

私がもう長いこと忘れていた、自分の若い顔であった。

若い私は、私を見て、静かに微笑んだ。

咎める色も、驚く色も、そこにはなかった。

ただ、長く待った者を見るような、穏やかな目だった。

その目を、私はどこかで見た覚えがあると思った。

嫁いだ朝、井戸に映った自分の顔が、ちょうどそんな目をしていた。

「もう、上がってこんでええよ」

その唇が、確かにそう動いた。

声は聞こえぬのに、言葉だけが胸の底へ沈んでくる。

私は思わず、蓋の縁から手を離した。

尻もちをついて、湿った草の上にへたり込む。

心の臓が、耳のなかで鳴っていた。

次に顔を上げたとき、灯りはすでに消えていた。

釣瓶の音も、水の匂いも、跡形なく絶えていた。

蓋は、もとのように井戸をきつく塞いでいる。

指の幅の隙間も、いつのまにか失われていた。

私は震える膝で立ち、懐中電灯で蓋を照らした。

コンクリートの上に、濡れた手形が一つだけ残っていた。

私の手より、ひとまわり小さな手形だった。

若い女の、ほっそりとした指の跡である。

私はその手形に、自分の手をそっと重ねてみた。

指は重ならず、私の手のほうが、ずっと節くれだっていた。

手形はやがて夜気に乾き、朝までには跡形もなく消えていた。

翌朝、私は古い同僚に、見たままを話そうとした。

けれど、いざ口を開くと、言葉がどうしても出てこなかった。

話してしまえば、本当に戻れなくなる気がしたのだ。

彼女が言った意味が、その時はじめて腑に落ちた。

それから、裏手の音は二度と聞こえなくなった。

私は今も、夜ごとあの道の駅で床を磨いている。

けれど掃除の終わりには、必ず裏手へ回るようになった。

古井戸の蓋の前で、しばらく立ち止まる。

梵字の刻まれた、冷たいコンクリートに手をあてる。

もう、音は聞こえない。

灯りも、二度と漏れてはこない。

それでも私は、なぜかその場を離れがたい。

手のひらに、冷たいはずの蓋が、ほのかに温いと感じる夜もある。

若い私が言ったあの言葉の意味を、まだ計りかねている。

上がってこなくてよい、とはどういうことか。

私は今、本当に地の上にいるのだろうか。

それとも、いつかあの底へ降りてゆくのだろうか。

降りていったとき、迎えてくれるのは、あの若い私なのか。

夜の道の駅は、相変わらず半分の灯りで沈んでいる。

私の影だけが、磨いたばかりの床に長く伸びてゆく。

そうして私は、上がってこなくてよい日を、静かに待っている。

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