夜の古井戸と水を汲む音

月明かりの霧深い村

夜の仕事を始めたのは、七十を二つ越えてからである。

連れ合いを見送り、子らもみな遠い土地にある。

独りきりの家は、夜になるとひどく天井が高く感じられる。

柱時計の振り子だけが、暗がりで時を刻んでゆく。

その音を聞いていると、私まで止まってしまいそうになる。

それで私は、人の眠る刻限にこそ働くことを選んだ。

国道沿いの道の駅で、客の引いたあとの床を磨く。

昼に賑わう建物は、夜にはまるで別の貌を持つ。

蛍光灯は節電のため、半分が落とされている。

売店の棚も、土産物の人形も、薄闇の中で息をひそめている。

磨きあげた床に、私ひとりの影が長く伸びる。

その影だけが、私にとって夜の道連れであった。

建物の裏手には、古い井戸がある。

※

分厚いコンクリートの蓋が、固くその口を塞いでいる。

蓋の中央には、誰が彫ったのか、小さな梵字が一つ刻まれていた。

彫りはずいぶん古く、雨に洗われて角が丸い。

聞けば、この土地はダムに沈んだ村のはずれであるという。

家も田も墓も、そっくり水の底へ移された。

けれど、この井戸だけは移されずに残された。

水を抜かれ、とうに用を終えた井戸である。

なぜ井戸を埋めなかったのかと、古手の同僚に尋ねたことがある。

埋めようとすると決まって人が寝込む、と彼は声を落とした。

それで蓋をして、梵字を彫り、そのままにしてあるのだという。

私は初め、その話を年寄りの戯言ほどにも思っていなかった。

井戸など、私には石の塚と変わらぬものであった。

異変に気づいたのは、勤めて半月ほど経った夜だ。

深夜の二時、裏手から、釣瓶の軋む音がした。

古い縄が滑車を擦る、あの湿った音である。

塞がれた井戸から、水を汲む音がするはずもない。

私は箒を握ったまま、しばらく動けずにいた。

音は数分のあいだ続き、ふいに途切れた。

あとには、底のない静けさだけが残された。

ねずみか、配水管の音だろうと、その夜は思うことにした。

けれど翌晩も、その翌晩も、同じ刻限に音がした。

釣瓶の軋み、桶に水の落ちる音、そして女の小さな咳。

咳だけは、どこかで聞き覚えのある音色をしていた。

胸の奥が、わけもなくざわついた。

二晩目の音は、前の晩より少しだけ長く続いた。

三晩目には、桶を地に置く、ことりという音まで混じった。

まるで、誰かが日課のように水を汲んでいるかのようだった。

私は昼勤の同僚に、それとなく井戸のことを尋ねてみた。

彼女は手を止め、しばらく黙ってから口を開いた。

深夜に音を聞いた者は、これまでにも幾人かいたという。

けれど、その者たちは長く勤めず、みな辞めていったらしい。

音の正体を確かめようとした者は、一人もいなかった。

なぜ確かめないのかと問うと、彼女は曖昧に笑った。

確かめてしまうと、戻れなくなる気がするのだ、と。

その言葉が、なぜか私の胸の底に、澱のように残った。

私はその夜、勤めの記録簿を古いものまで繰ってみた。

ダムができたのは、私が嫁いだ年とほぼ同じ頃であった。

沈んだ村には、私の生まれ在所と同じ名の字があった。

偶然だと思おうとしても、指先が冷たくなっていった。

私は四晩目に、ようやく意を決して懐中電灯を手にした。

裏口の鍵を開けると、湿った夜気がどっと流れ込んでくる。

梅雨入り前の空には、薄く研いだような月が掛かっていた。

草を踏みしめ、一歩ずつ井戸のもとへ近づいてゆく。

近づくほどに、釣瓶の音は確かさを増した。

そしてようやく、私は蓋が動いていることに気づいた。

分厚いコンクリートが、指の幅ほど横へずれている。

大人が幾人がかりでも、容易には動かせぬ重さの蓋である。

そのわずかな隙間から、淡い灯りが漏れていた。

底に、火の灯るはずのない井戸である。

私は懐中電灯を消し、その灯りだけを見つめた。

※

やがて私は、草の上に膝をつき、隙間へ顔を寄せた。

冷たい水の匂いが、下から静かに立ちのぼってくる。

それは、もう何十年も嗅いでいない匂いだった。

嫁いだばかりの家の、台所の井戸の匂いである。

鼻の奥に、若い日々が一度に押し寄せてきた。

私は息を詰めて、暗い井戸の底を覗き込んだ。

底には、薄あかりに照らされた水面があった。

そして、その傍らに、誰かがしゃがんでいる。

絣の着物を着た、ひとりの若い女である。

女は桶を手に、ゆっくりと釣瓶の水を移していた。

結いあげた髪も、手の甲の白さも、私はそれを知っていた。

底で水を汲んでいたのは、若い頃の私だった。

嫁いで間もない、二十歳そこそこの私である。

私は声をあげることも、退くこともできなかった。

若い私は、汲んだ水を桶へ移し、また釣瓶を下ろす。

その手つきの一つ一つに、紛れもない覚えがあった。

右の手首に、嫁入りに持たされた銀の指輪が光っている。

三十年も前に、井戸端で落としてなくしたはずの指輪である。

それが今、あの細い手首に、ひそやかに嵌まっている。

私は思わず、遠い昔の自分の名を呼んだ。

声は、自分でも驚くほど震えていた。

若い私が、釣瓶の手を止めた。

そして、ゆっくりとこちらを見上げた。

薄あかりの中に、その顔がはっきりと浮かぶ。

私がもう長いこと忘れていた、自分の若い顔であった。

若い私は、私を見て、静かに微笑んだ。

咎める色も、驚く色も、そこにはなかった。

ただ、長く待った者を見るような、穏やかな目だった。

その目を、私はどこかで見た覚えがあると思った。

嫁いだ朝、井戸に映った自分の顔が、ちょうどそんな目をしていた。

「もう、上がってこんでええよ」

その唇が、確かにそう動いた。

声は聞こえぬのに、言葉だけが胸の底へ沈んでくる。

私は思わず、蓋の縁から手を離した。

尻もちをついて、湿った草の上にへたり込む。

心の臓が、耳のなかで鳴っていた。

次に顔を上げたとき、灯りはすでに消えていた。

釣瓶の音も、水の匂いも、跡形なく絶えていた。

蓋は、もとのように井戸をきつく塞いでいる。

指の幅の隙間も、いつのまにか失われていた。

私は震える膝で立ち、懐中電灯で蓋を照らした。

コンクリートの上に、濡れた手形が一つだけ残っていた。

私の手より、ひとまわり小さな手形だった。

若い女の、ほっそりとした指の跡である。

私はその手形に、自分の手をそっと重ねてみた。

指は重ならず、私の手のほうが、ずっと節くれだっていた。

手形はやがて夜気に乾き、朝までには跡形もなく消えていた。

翌朝、私は古い同僚に、見たままを話そうとした。

けれど、いざ口を開くと、言葉がどうしても出てこなかった。

話してしまえば、本当に戻れなくなる気がしたのだ。

彼女が言った意味が、その時はじめて腑に落ちた。

それから、裏手の音は二度と聞こえなくなった。

私は今も、夜ごとあの道の駅で床を磨いている。

けれど掃除の終わりには、必ず裏手へ回るようになった。

古井戸の蓋の前で、しばらく立ち止まる。

梵字の刻まれた、冷たいコンクリートに手をあてる。

もう、音は聞こえない。

灯りも、二度と漏れてはこない。

それでも私は、なぜかその場を離れがたい。

手のひらに、冷たいはずの蓋が、ほのかに温いと感じる夜もある。

若い私が言ったあの言葉の意味を、まだ計りかねている。

上がってこなくてよい、とはどういうことか。

私は今、本当に地の上にいるのだろうか。

それとも、いつかあの底へ降りてゆくのだろうか。

降りていったとき、迎えてくれるのは、あの若い私なのか。

夜の道の駅は、相変わらず半分の灯りで沈んでいる。

私の影だけが、磨いたばかりの床に長く伸びてゆく。

そうして私は、上がってこなくてよい日を、静かに待っている。

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