夜の湯小屋でしてはいけないこと

夜の湯浴みの静黙

先に断っておく。

これは、読んで面白いだけの怖い話ではない。

何かに憑かれるというのが、どういうことか。

それを知ってもらうために書く。

もうひとつ書いておくと、一度や二度のお祓いで済むことは、まずない。

長い時間をかけて、ゆっくり蝕まれていくものだからだ。

俺の場合、区切りがつくまでに丸三年かかった。

いや、本当に終わったのかどうか、今も確かめようがない。

五十年近く前の話だ。

名前や土地は、わからないように変えて書く。

※

昭和五十一年の春、俺は二十二だった。

北陸の小さな港町にある製網所に勤めていた。

漁の網を編んで、破れを繕う工場だ。

町は岬と岬に挟まれた細長い町で、どこにいても潮の匂いがした。

朝は船の発動機の音で目が覚め、夕方は鴎の声を聞きながら仕事を終えた。

盆と正月のほかに、春の大祭で町中が休みになる、そういう土地だった。

仕事は、編み機の番と、漁から戻った網の繕いだった。

指先が網の目を覚えるまで半年かかる、と最初に言われた。

給料日に先輩たちと食堂で一杯やるのが、何よりの楽しみだった。

実家は同じ県の山あいにあって、町までは汽車とバスで三時間かかった。

だから住み込みだった。

寮といっても、元は網元の倉だった木造の二階家で、若いのが八人寝起きしていた。

飯は賄いの婆さんが作ってくれた。

風呂は母屋の裏手にある湯小屋を使った。

湯小屋は渡り廊下で繋がった、石積みの古い建物だった。

湯は夜の十時に落とす決まりで、それより遅く使うことは禁じられていた。

中は洗い場と湯船だけの簡素な造りで、天井の梁が湯気で黒く光っていた。

壁の石積みは古く、ところどころ、貝殻が混ざっているのが見えた。

番頭に理由を聞いても、先代からの決まりだから、としか言わなかった。

ひとつ、妙なことがあった。

湯小屋の隅の格子窓は、誰がどれだけ固く閉めても、朝には指二本分だけ開いていた。

建て付けだろうと、皆笑っていた。

俺も笑っていた。

寮には藤野という、二つ年上の先輩がいた。

俺と相部屋だった。

仕事は真面目で、面倒見のいい人だった。

ただこの人が、妙なことばかり知っていた。

どこそこの坂では夜に口笛を吹いてはいけないとか、何々をすると良くないものが来るとか、そういう土地の禁忌を集めるのが趣味だった。

夜になると、布団の中でそういう話ばかりした。

例えば、と藤野は言った。

岬の先の一本松の下では、夜、名前を呼ばれても返事をしてはいけない。

返事をすると、朝、足の裏に松葉が刺さっている。

下らんやろ、と藤野は笑った。

ほやけど、これは出鱈目の方や、とも言った。

藤野が言うには、世間に転がっている怖い話の九割は出鱈目だという。

「ただな、たまに本物が混ざっとる」

「本物って、何ですか」

「条件が揃うと、ほんとうに来るやつや」

「来たら、どうなるんです」

「知らん。来られた奴に会うたことがないでな」

今思えば、このやり取りが全ての始まりだった。

退屈で、まっとうで、いい日々だった。

あの夏までは。

※

八月の頭だった。

夜勤明けで、体が汗と機械油でどうにもならなかった。

皆が寝静まった夜中の一時、俺は決まりを破って、ひとりで湯小屋に入った。

湯はとうに落とされていたから、水を浴びるだけのつもりだった。

洗い場の手桶で水をかぶっていると、ふと、藤野の話を思い出した。

湯小屋や風呂場で、してはいけないという類の話だった。

細かい手順は、ここには書かない。

真似をする馬鹿が出ると困るからだ。

水を張った湯船に向かって、あることをしたまま、左の肩越しに後ろを振り返る。

それだけのことだ。

来るわけがない、と口の中で呟いたのを覚えている。

振り返った。

洗い場の隅に、何かがいた。

背丈は、子供ほどしかなかった。

藍色の単衣を着て、立っていた。

顔には、濡れた和紙のようなものが、幾重にも貼り付けてあった。

紙は呼吸でもしているように、僅かにふくらみ、しぼんだ。

体は、小さく左右に揺れていた。

声は出なかった。

湯小屋の中が、水の底のように静かだった。

板の軋む音すら、しなかった。

そいつの周りだけ、薄青く見えた。

どれくらい見ていたのか、わからない。

呼吸の仕方を、忘れていた。

気が付くと、俺は裸のまま渡り廊下を走っていた。

そこから先の記憶がない。

我に返ると、波止場の常夜灯の下にしゃがんでいた。

着たはずのない作業着を、着ていた。

朝まで、海を見て過ごした。

夜が明けてから、恐る恐る湯小屋を覗いた。

誰もいなかった。

ただ、洗い場の隅に、黒い水が広がっていた。

磯が腐ったような匂いがした。

賄いの婆さんが、誰やこんなん、と顔をしかめて、それでも黙って流してくれた。

錯覚ではなかった。

確かに、何かが、あそこにいたのだ。

それから二日、俺は湯小屋に近づけなかった。

風呂は、町外れの銭湯まで歩いた。

三日目の夜、寮の二階の窓から、何気なく湯小屋を見下ろした。

灯りなど点いているはずがないのに、あの格子窓の奥だけが、仄白かった。

白いものは、ゆっくりと、左右に揺れていた。

俺は雨戸を閉めて、朝まで開けなかった。

その日の昼休み、藤野を捕まえた。

「先輩、あの湯小屋の話、あったでしょう」

「ん、あるな」

「昨日の夜、やったんです」

「やったって、何を」

「だから、あれです。振り返るやつ」

「……おい」

「来たんです」

藤野はしばらく俺の顔を見て、それから笑おうとして、やめた。

「お前、顔の色が違うぞ」

夜、藤野と二人で湯小屋に行った。

戸を開けた途端、藤野が鼻を押さえた。

あの匂いが、まだ残っていた。

「……これは、あかんな」

藤野はその晩から、自分の布団を別の部屋に移した。

薄情だとは思わなかった。

俺が藤野でも、そうしただろう。

それから、おかしなことが続いた。

左の手首に、指の形をした痣が一列、浮いた。

小さな手で、掴まれたような形だった。

洗っても、薬を塗っても、消えなかった。

痣は熱を持っていて、夜になると、とくとくと脈を打った。

そこだけ、別の生き物の体温があるようだった。

夜中、廊下の突き当たりで、水を流す音がした。

見に行っても、蛇口は乾いていた。

枕元のラジオは、夜中の一時になると決まって砂嵐になった。

工場の同僚に、お前近頃顔が黒いぞ、と言われた。

黒いというより影が差しとる、と言った者もいた。

賄いの婆さんは何も聞かずに、俺の膳の脇に盛り塩を置くようになった。

同じ夢を、見るようになった。

古い家の土間の向こうに、小さな影が座っていて、こちらへゆっくり手招きをする夢だ。

夢は、見るたびに少しずつ近づいてきた。

最初は土間の向こうにいた影が、次の週には囲炉裏のこちら側にいた。

そして先週から、影は俺の枕元に座っている。

近所の網元の隠居に、湯小屋の謂れを聞いたのは、この頃だ。

爺さんは煙管を置いて、しばらく黙った。

「あそこはな、昔、汐汲み場やった」

海で帰らんかった者の着物を、あそこで焚き上げたのだと言った。

「夜中に水を使うなと、言われとるやろ」

「言われてます」

「水はな、向こうとこっちを繋ぐでな」

爺さんはそれきり、この話をしてくれなくなった。

町の寺にも行った。

住職は俺の腕の痣を見て、少しだけ眉を動かした。

それでも出てきた言葉は、お医者に行かれた方がいい、だった。

神社でも似たようなものだった。

御守りだけが、枕元に増えていった。

盆の前に、俺は実家に帰った。

バス停から家までの夜道で、左腕が燃えるように熱くなった。

袖をまくると、痣の列が、肘の上まで増えていた。

家に駆け込むと、母が受話器を置いたところだった。

母は俺の顔を見るなり言った。

「あんた、能登のばあちゃんから電話やったよ」

「宗玄さんがな、修一が良うないことになっとる、すぐ連れて来い言うとられるて」

俺はまだ、誰にも何も話していなかった。

玄関の鏡に、自分が映っていた。

左腕の痣は、肩に向かって、一列に並んでいた。

※

それから二日間、高い熱が出た。

熱が引いた朝、藤野から実家に電話が来た。

「修一、大丈夫か」

「大丈夫なわけ、ないでしょう」

「すまん。……ほんとに、すまん」

「謝るのはいいですから、何か方法、ないんですか」

「それや。知り合いの伝手で、視えるいう人を見つけた」

「ほんとですか」

「ただ、金がかかる。三十万や」

三十万といえば、当時の俺の給料の半年分だった。

それでも、選べる立場ではなかった。

戸倉と名乗るその男は、日曜の昼に、白い乗用車で来た。

四十がらみで、白い開襟シャツを着て、揉み手で笑う男だった。

拝み屋というより、保険の外交員のように見えた。

「いやあ、お話は伺うとります。これは難儀なことで」

父が、あなたで何とかなるのですか、と聞いた。

「なります、なります。こういうのは専門ですから」

「ただねえ、お父さん。こっちも命懸けですからな」

「相応のものは、包んでいただかんと」

父と母は顔を見合わせて、それでも頷いた。

俺は黙って、畳の目を数えていた。

夜、座敷で祈祷が始まった。

戸倉は蝋燭を八本立て、部屋の四隅に塩を盛り、白い紙を切った御幣を振った。

俺は布団に寝かされ、目を閉じているように言われた。

雨戸の隙間から、夏の終わりの虫の声が聞こえていた。

その声が、いつの間にか、ぴたりと止んでいたことに、途中で気付いた。

祝詞のようなものが、長く続いた。

どれだけ経った頃か、その声が、途切れ始めた。

言葉の切れ目が、おかしい。

息継ぎの場所が、めちゃくちゃになっていく。

左腕の痣が、脈を打つように疼いた。

見てはいけない、と思った。

見てしまった。

戸倉の正面に、あれが、うずくまっていた。

畳に両手をつき、首だけを伸ばして、戸倉の顔を覗き込んでいた。

鼻先が、触れそうなほど近かった。

梟のように、小刻みに首を傾げていた。

戸倉は目を見開いたまま、口の端から涎を垂らしていた。

そして、薄く笑っていた。

時々、小さく頷いた。

何かを、聞かされているようだった。

あれの首が、止まった。

こちらを、向いた。

俺は布団を被って、覚えたての念仏を繰り返した。

襖の開く音と、廊下を走る音と、車の出ていく音を、布団の中で聞いた。

後で聞いた話では、戸倉は車の中で、わしは違う、わしは何も請けとらん、と繰り返していたそうだ。

金は要らん、と言ったらしい。

それきり、戸倉がどうなったのかは知らない。

知りたいとも、思わない。

俺はもう、限界だった。

食えず、眠れず、十日で人相が変わった。

見かねた父が、夜のうちに車を出した。

行き先は能登の祖父母の家、というより、祖母が長年世話になっている宗玄和尚の寺だった。

父は何も聞かなかった。

ただハンドルを握って、心配するな、とだけ何度も言った。

後ろの席で、母がずっと俺の背中をさすってくれた。

母にそんなことをされるのは、小学生のとき以来だった。

情けない話だが、俺はそのまま眠ってしまった。

目が覚めると、車は海沿いの道を走っていて、朝日が水面に乗っていた。

実際には、丸一日近く眠っていたらしい。

ろくに休まず車を走らせ続けた父への恩は、いまだに返せた気がしない。

宗玄和尚の寺は、入り江を見下ろす山の中腹にあった。

祖父母が、石段の下で待っていた。

祖母は俺の顔を見るなり、ぼろぼろ泣いた。

「よう来たね、よう来たね」

「宗玄さんがな、ずっと待っとられたんやよ」

本堂の脇の、小さな仏間に通された。

宗玄和尚は、八十に近い、痩せた爺さんだった。

皺だらけの顔で、よく笑う人だった。

「おう、来たか。遠かったろう」

和尚は俺を座らせ、両親と祖父母を別間に下がらせた。

「さて」

和尚は俺の手を取って、しばらく黙っていた。

俺は、堰が切れた。

「和尚さん、俺、何でなんですか」

「悪いことなんて、何もしとらんのです」

「確かに馬鹿な真似はしました。けど、それだけです」

「何で俺だけ、こんな目に遭わなきゃならんのですか」

その時だった。

(アァソボ)

小さな、小さな声だった。

(アソボ、アァソボ)

鈴を転がすような、子供の声だった。

声は、左の耳のすぐ後ろから聞こえた。

つまり、それは、俺の真後ろに座っていた。

和尚は俺の目を見たまま、動かなかった。

ただ、その目が、俺の肩越しに、すっと動いた。

よせばいいのに、俺は振り返った。

いた。

あの藍色の単衣が、畳に正座して、俺を見上げていた。

顔の和紙が、一枚、めくれかけていた。

紙の下から、口元らしきものが、見えかけていた。

(アソボ?)

乾いた音が、二度、響いた。

和尚が、手を打った音だった。

「こっちを向きなさい」

その声で、体が動いた。

気が付くと、仏間の隅まで這って逃げていて、額から血が出ていた。

柱の金具で切ったらしい。

痛みは、まったくなかった。

和尚は俺を呼び戻し、手拭いで額を押さえてくれた。

「見えたか」

「……見えました」

「何と言うとった」

「あそぼ、と」

「そうか」

和尚は長いこと、目を閉じていた。

「なあ、修一さんや」

「あれが、お前さんに何ぞしたか」

「いや……この、腕の痣だけです」

「そうやろう」

「怖ろしいか」

「怖ろしいです」

「そうやなあ」

「ほやけどな、わしには、あれが悪いものとは、どうしても言い切れんのや」

あれは、ずっと独りだったのだろうと、和尚は言った。

誰かに見つけてほしくて、構ってほしくて、たまらなかったのだろうと。

「お前さんは、人より温いんや」

「温いところに、寄ってきよる」

「ほやけど、お前さんは、あれよりずっと弱い」

「弱いもんが強いもんに好かれると、こうなる」

「それだけのことなんや」

俺は、どうすればいいのか、わからなくなった。

お祓いをしてもらえば終わると、思い込んでいたからだ。

和尚はひとつ、妙なことを聞いた。

「あれに、名前を聞かれんかったか」

「……聞かれとらんです」

「そうか。聞かれても、答えたらいかんよ」

それから和尚は、こう言った。

「正体の知れんもんほど、こっちと同じに難儀しとると思いなさい」

「手を合わせるのはな、追い払うためやないんや」

俺はこの言葉だけは、五十年経った今も、一字も忘れていない。

※

和尚の口利きで、俺はその宗派の本山に預けられることになった。

教科書にも名前が載るような、古い宗派だ。

本山は、雪の深い土地にあった。

朝四時に起き、堂の雑巾がけをして、お勤めの末席に座らせてもらった。

雪掻きは、いつの間にか俺の仕事になった。

夜は早く、夢を見る暇もないほど眠った。

あの手招きの夢を、ここでは一度も見なかった。

そこには、いろんな人がいた。

四十年、蛇の障りに苦しんでいるという女の人がいた。

廊下ですれ違うとき、その人は必ず、俺に小さく会釈をした。

家系ごと祟られて、身寄りをなくしたという兄弟もいた。

俺などは、軽い方だった。

自分がどれほど幸運か、ここで初めて知った。

蛇の障りの女の人と、一度だけ言葉を交わしたことがある。

雪掻きの手を止めて、その人は言った。

「あんたは、まだ戻れる側の人やね」

どういう意味か、聞き返せなかった。

その人が今どうしているか、時々考える。

ひと月経った頃、和尚が様子を見に来た。

「顔色が戻ったの」

「おかげさまで。……もう、あれから一度も見とらんです」

「成仏したんですかね」

「そうとも言えん」

「……え」

「まだ、おる」

結局、俺はその冬を丸ごと本山で過ごした。

山を下りられたのは、桜の頃だった。

寮には戻らず、実家から通える別の工場に移った。

あの湯小屋の寮がその後どうなったかは、聞いていない。

聞かないことにしている。

藤野は、俺が山を下りた晩に、菓子折りを提げて実家まで来た。

玄関で頭を下げる藤野を、俺は一発だけ殴った。

拳の痛みで、お互い、それで終わりにした。

あの晩のことをずっと夢に見るんや、と藤野は言った。

それから藤野は、用もないのに月に一度は顔を見せに来た。

俺が能登の寺に行く日には、必ず電話をよこした。

俺は言いつけ通り、月に一度、和尚の寺に通った。

二年目からは、季節に一度になった。

三年目の春、和尚は言った。

「わしにできることは、みな、した」

「もう、たまに顔を見せるだけでええ」

「ただし、妙な真似だけは、もうするなや」

それが、区切りだった。

その年の冬、宗玄和尚は、眠るように向こうへ渡った。

旅立ちの朝まで、いつも通りお勤めをしていたそうだ。

葬列の日、寺の石段には、入り江の漁師から町の年寄りまで、長い列ができた。

あの小さな爺さんが、どれだけの人を支えていたのかを、そこで初めて知った。

頼れる人を失うというのが、あれほど心細いものだとは思わなかった。

四十九日が済んだ頃、祖母から封書が届いた。

中に、もう一通、封筒が入っていた。

宗玄さんから預かっとった手紙です、と祖母の字が添えてあった。

和尚の手紙を、そのまま写すことは控える。

意味だけを、崩して書く。

※

修一さんへ。

わしは、お前さんに嘘をついた。

あれを初めて見た日、本当は、わしは怖ろしくてならなんだ。

あれは、わしの手に負えるものではなかった。

あの日、わしらは二人とも、連れて行かれていておかしくなかった。

運が良かっただけや。

それとも、あれの気まぐれやったか。

お前さんを本山に長く置いたのは、修行のためやない。

帰したら、いかんことになると思うたからや。

毎朝祈ったが、あれは、なかなか離れてくれなんだ。

ようやく見えんようにはなった。

ほやけど、消えたのか、隠れとるだけなのか、わしには最後までわからなんだ。

ええか、修一さん。

終わったと、思うたらいかん。

あれは、お前さんが安心するのを、待っとるかもしれん。

体の変わり目には、よくよく気をつけなさい。

どうにもならんようになったら、本山へ逃げ込みなさい。

あそこなら、まだお前さんを護れる。

嘘をついたことは、すまなんだ。

ほやけど、わしが力の限り、仏様にお願いし続けたことだけは、ほんとうや。

お前さんの毎日が、穏やかであるように。

宗玄。

※

これが、俺の知っている全てだ。

結局、あれが何だったのかは、わからずじまいだった。

湯小屋の言い伝えと関わりがあったのかも、確かめようがない。

俺に言えることは、ひとつだけだ。

何かに憑かれたら、洒落にならない。

そして、誰かが終わったと言っても、決して気を抜いてはいけない。

あの手紙は、そう教えてくれた。

それと、もうひとつ。

本当に怖ろしいのは、姿の見えるものではなかった。

終わったのかどうか、誰にも確かめられない、ということだった。

最後に、謝らなければならないことがある。

この話には、いくつも嘘を混ぜた。

土地や名前を変えたのは、最初に断った通りだ。

だが、もっと大きな嘘が、ひとつある。

気付かれないように、気を付けて書いた。

そうしなければ、最後まで読んでもらえないと思ったからだ。

俺が、藤野なんだ。

修一は、和尚の手紙が届いた年の暮れ、本山に行ってくる、と言って汽車に乗ったきり、姿が見えない。

本山に、修一は着いていなかった。

どこの駅で降りたのかも、わからなかった。

俺はあれから五十年、寝る前に必ず、あの湯小屋の格子窓を思い出す。

誰がどれだけ固く閉めても、朝には指二本分だけ開いていた、あの窓だ。

近頃、うちの風呂場の窓が、朝になると、少しだけ開いている。

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