ヤマノケ

先週末の話だ。

息子を連れて、山あいのキャンプ場へ一泊で出かけた。

小学三年になる息子は、初めてのテント泊にはしゃいでいた。

夜は焚き火を囲んで、二人でソーセージを焼いて食べた。

「父ちゃん、来年もまた来ようね」

そう言って笑う息子の顔を、焚き火の赤い光が照らしていた。

穏やかな、なんでもない週末になるはずだった。

テントの中で、息子は私の腕にしがみついて眠った。

その寝息を聞きながら、私は幸せだと思った。

妻を早くに亡くしてから、息子と二人きりの暮らしだった。

だからこそ、こうした時間が、何より大切だった。

翌朝、テントをたたみながら、息子は名残惜しそうにしていた。

「もう一泊したいなあ」

「また今度な。父ちゃん、仕事だから」

そんな、ありふれた会話を交わしていた。

あのまま、素直に高速道路へ向かっていれば、よかったのだ。

帰りの日、私は少し時間を持て余していた。

カーナビが、近道だという細い県道を案内してきた。

舗装はされていたが、対向車一台すれ違わない、寂しい山道だった。

途中で道は二股に分かれ、片方は未舗装の林道に続いていた。

なぜだか、私はその林道のほうへ、ハンドルを切ってしまった。

分かれ道の脇に、朽ちかけた木の立て札があった。

かすれた文字で、「この先、入るべからず」とだけ書かれていた。

誰が、何のために立てたのか、今となっては分からない。

その古さが、かえって私の好奇心を、妙にくすぐった。

「こっち、道あってるの」

息子が不安そうに尋ねた。

「近道だよ。すぐ抜けるさ」

私は軽く答えたが、道はどんどん細く、暗くなっていった。

カーナビの地図から、いつのまにか道が消えていた。

画面には、ただ青い背景に、車のアイコンだけが浮かんでいた。

そんなはずはないと、私は何度も画面を叩いた。

「父ちゃん、なんか、空気がへんだよ」

息子が、窓の外を見ながら、小さな声で言った。

言われてみれば、車内に、土の腐ったような匂いが漂っていた。

窓を少し開けると、匂いは、いっそう強くなった。

慌てて窓を閉め、私はアクセルを踏み直した。

引き返そうにも、道幅は、もう車を回せる広さではなかった。

進むしか、なかった。

木々が頭上を覆い、昼間なのに、車内は夕方のように薄暗かった。

そして、坂の途中で、唐突にエンジンが止まった。

何度キーをひねっても、エンジンはかからなかった。

携帯を見ると、圏外の二文字が出ていた。

私には、車を直す知識などなかった。

日が傾きはじめ、林道はみるみる暗くなっていった。

歩いて戻るには、来た道はあまりに長すぎた。

一度、車を降りて、後ろから押してみようとした。

ドアを開けた瞬間、肌に触れる空気が、氷のように冷たかった。

森のなかは、墨を流したような闇だった。

その闇が、じっとこちらを見ているような気がして、私は慌てて車内に戻った。

鍵をかけ、息子の手を握って、夜が明けるのを待つしかなかった。

仕方なく、その夜は車中で明かすことにした。

息子を助手席で毛布にくるみ、私は何度も外をうかがった。

夜の山は、不気味なほど静かだった。

虫の声ひとつ、しなかった。

こんな季節に、虫が一匹も鳴かないのはおかしい。

カーラジオをつけてみた。

どの局も、ざらついた砂嵐の音しか流れなかった。

その砂嵐の奥に、一瞬、人の囁きのようなものが混じった気がした。

囁きは、確かに、私の名前を呼んでいた。

聞き間違いだと思いたかった。

だが、こんな山奥で、私の名前を知る者などいるはずがなかった。

慌てて、ラジオを切った。

ダッシュボードの時計に、目をやった。

針が、ぴたりと止まっていた。

腕時計を見ると、こちらの秒針も、動いていなかった。

この林道に入ってから、時間そのものが、止まっているようだった。

気温が、急に下がったように感じた。

毛布にくるまった息子が、寝ながら、何度も苦しそうに身じろぎした。

「いやだ……いやだ……」

息子は、寝言で、そう繰り返していた。

ふと、息子の鼻から、一筋の血が垂れていた。

慌ててぬぐうと、息子は薄く目を開けて、こう言った。

「父ちゃん、だれか、そとで、てまねきしてる」

窓の外には、ただ黒い木立があるばかりだった。

だが、息子の目は、確かに、何かを見ていた。

そう気づいたとき、背筋に冷たいものが走った。

耳を澄ますと、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いた。

その鼓動に合わせるように、遠くで、こつ、こつ、と音がした。

何かが、固いもので、地面を叩いているような音だった。

音は、規則正しく、こちらへ近づいていた。

どれくらい時間が経っただろう。

息子は、いつのまにか助手席で眠っていた。

私もまどろみかけた、そのときだった。

どこからか、低い声が聞こえてきた。

風が、細い管を吹き抜けるような音だった。

ウツ……ロ……ニ……ナレ……

そんな言葉が、何度も繰り返されていた。

最初は、空耳だと思い込もうとした。

だが、その声は、確かに少しずつ近づいてきていた。

ウツロ……ニ……ナレ……

たまらなくなって、私は目を開けた。

そして、フロントガラスの先を見て、息を呑んだ。

林道の奥から、白い何かが、こちらへ近づいてきていた。

それは、人のかたちをしていなかった。

のっぺりとした、白い布をかぶせたような姿だった。

頭がなく、足は一本しかないように見えた。

その一本足で、ぴょん、ぴょんと跳ねながら来る。

両腕だけが、めちゃくちゃに振り回されていた。

全身を、ぶれるように震わせながら、近づいてくる。

関節という関節が、あり得ない向きに折れ曲がっていた。

跳ねるたびに、ぴちゃ、ぴちゃと、濡れた音がした。

近づくにつれ、あの匂いが、いっそう濃くなった。

息を止めても、喉の奥に、その匂いが絡みついた。

歯の根が合わず、私はハンドルを握りしめた。

逃げたくても、エンジンは死んだままだった。

ただ、息を殺して、それが過ぎ去るのを待つしかなかった。

私は叫び出しそうになった。

だが、なぜか妙なところに気が回った。

隣で眠る息子を、起こしてはいけない。

そう思うと、叫ぶことも、逃げることもできなかった。

白いものは、車のすぐ脇まで来た。

そして、車の横を、すうっと通り過ぎていった。

通り過ぎるあいだも、ずっと声が聞こえていた。

ウツロ……ニ……ナレ……

声が、後ろへ遠ざかっていった。

遠ざかる声に、私は全身の力が抜けるのを感じた。

背中は、いつのまにか、汗でぐっしょりと濡れていた。

もう大丈夫だ。そう、自分に言い聞かせた。

息子は、まだ静かに眠っていた。

その寝顔を見て、私は少しだけ、心がほどけた。

早く朝になれと、ただそれだけを願った。

私は、ほっと息を吐いた。

安心して、息子のほうへ顔を向けた。

その瞬間、心臓が止まるかと思った。

助手席の窓の外に、あの白いものが、張りついていた。

頭がないと思っていた。

だが、胸のあたりに、顔があった。

思い出したくもない、恐ろしい顔だった。

それが、息子の寝顔を覗き込んで、にたにたと笑っていた。

口の裂け目が、耳のあたりまで広がっていた。

その奥に、歯はなく、ただ暗い穴がのぞいていた。

白いものは、窓ガラスを、長い爪で、つう、となぞった。

息子の頬の、すぐそばだった。

私のなかで、恐怖が、怒りに変わった。

息子に近づくな。

「この野郎っ……!」

私は、ありったけの声で怒鳴った。

叫んだ瞬間、白いものは、すっと消えた。

消えた拍子に、窓ガラスに、白い手の跡だけが残った。

それは、内側からこすったように、じわじわと曇りを広げていった。

同時に、息子が跳ね起きた。

私の怒鳴り声で起きたのかと思った。

違った。

息子は、虚ろな目で、前を向いていた。

そして、壊れた機械のように、繰り返しはじめた。

「アイタ、アイタ、アイタ、アイタ」

その声は、息子のものではなかった。

私は、これはまずい、と直感した。

震える手で、もう一度キーをひねった。

ダメ元だった。

だが、今度はエンジンがかかった。

私は車を飛ばし、来た道を必死で引き返した。

ヘッドライトが照らす道だけを、私はにらみつけていた。

左右の闇からは、何かが伴走してくる気配があった。

木々の影が、一本足で跳ねているように見えた。

見てはいけない。私は、ただ前だけを向いて走った。

息子は、隣でまだ「アイタ」と呟き続けていた。

バックミラーに、後ろの林道が映っていた。

その闇の奥で、白いものが、こちらを見送るように立っていた。

一本足のまま、ゆらゆらと、揺れていた。

私は、二度とミラーを見ないようにして、アクセルを踏み込んだ。

タイヤが砂利をはじき、車は林道を転がるように下った。

枝が何度も、車体を引っかいた。

その音が、まるで、爪で車を掻く音のように聞こえた。

ようやく、山を下りた。

遠くに、街の明かりが見えてきた。

少しだけ、安心した。

だが、息子の呟きが、いつのまにか変わっていた。

「アイタ、アイタ」が、こうなっていた。

ウツロ……ニ……ナレ……

あの、白いものと同じ声だった。

横を見ると、息子の顔が、息子の顔ではなくなっていた。

のっぺりと、表情が抜け落ちていた。

このまま家に帰るわけにはいかなかった。

私は、目についた古い寺へ、車を乗り入れた。

夜更けだったが、庫裏には明かりがついていた。

私は、ぐったりした息子を抱えて、戸を叩いた。

出てきた住職らしき老人は、息子をひと目見るなり、顔色を変えた。

「あんた、子どもを連れて、どこへ入った」

「山道で……変なものを、見たんです」

私が答えると、老人は深いため息をついた。

「気休めにしか、ならんかもしれんが」

そう言って、老人は息子を畳に寝かせた。

そして、低い声で経を唱えはじめた。

「この山はな」と、老人は経の合間に語りはじめた。

「昔、飢饉のときに、口減らしのため、捨てられた者たちがいた」

「腹を空かせ、心を空っぽにしたまま、山で果てた者たちだ」

「その空っぽが寄り集まって、ああいうものになったと言われとる」

「だから、あれは、空っぽの器を探しておるのだ」

聞いているだけで、胸の奥が冷たくなった。

「一本足なのはな」と、老人は続けた。

「片足を、山に置いてきたからだと言われとる」

「だから、新しい足の代わりに、人の子をほしがるのだ」

私は、助手席の窓に張りついた、あの顔を思い出した。

経を唱えながら、老人は息子の背を、強く叩き続けた。

叩くたびに、息子の体は、別の生き物のように跳ねた。

口からは、聞いたこともない、低いうなり声が漏れた。

「こらえろ。今、出て行こうとしておる」

老人の額には、玉のような汗が浮かんでいた。

どれほどそうしていただろう。

やがて息子は、糸が切れたように、ぐったりと畳に倒れ込んだ。

そして、ようやく、穏やかな寝息を立てはじめた。

その寝顔を見て、私は涙がこぼれた。

戻ってきてくれた、と思った。

だが、老人は厳しい顔のまま、首を横に振った。

「油断するな。あれは、しつこい」

「一度、器の味を覚えたものは、何度でも戻ってくる」

「だが、名を呼んでやれ」と、老人は言った。

「お前さんが、その子の名を呼ぶかぎり、器は、その子のものだ」

「忘れるな。名を呼ぶことだけが、お前さんにできる戦いだ」

私は、その言葉を、胸に刻んだ。

「これは、ウツロというものだ」

老人は、唱える合間に、ぽつりと言った。

「山に棲む、空っぽのものよ」

「人の心が、ふと空いた隙に、入り込もうとする」

「子どもは、心が無防備だから、狙われやすい」

私は、寒気が止まらなかった。

あの林道で、私は確かに、心が空白になる瞬間を感じていた。

エンジンが止まり、途方に暮れたあの瞬間。

頭のなかが、真っ白になった、あのわずかな隙。

あのとき、何かが、私のそばをすり抜けていった気がする。

そして、隣で眠る、無防備な息子のほうへ向かったのだ。

守ってやれなかった自分を、私は今でも、責め続けている。

老人は、泊まっていけと言った。

息子が心配で、私はその言葉に甘えることにした。

息子は、その夜じゅう、うなされ続けた。

老人は、四十九日のあいだ、毎朝この寺へ来いと言った。

「四十九日を過ぎても、この子が戻らなんだら」

老人の声は、低く、重かった。

老人は、そこで言葉を切った。

「そのときは、もう、この子は戻らん」

「中身が、すっかり入れ替わってしまう」

「見た目は同じでも、それは、もう、お前さんの子ではない」

私は、その言葉に、めまいがした。

今、まだ、その四十九日の途中だ。

息子は、昼間はいつも通りに笑っている。

だが、夜になると、ときどき、あの声で呟く。

ウツロ……ニ……ナレ……

私は、毎朝、祈るような気持ちで、あの寺へ通っている。

つい三日前の夜のことだ。

息子の部屋から、あの声が聞こえて、私は飛び起きた。

ウツロ……ニ……ナレ……

ドアを開けると、息子はベッドの上に、正座していた。

真っ暗な部屋で、一本の足で立つように、片膝で身を支えていた。

「アイてる、アイてる」と、息子は窓のほうへ笑いかけていた。

私は、息子を抱きしめて、朝まで名前を呼び続けた。

「父ちゃんは、ここにいるぞ」

「お前は、父ちゃんの子だ。誰にも、渡さない」

そう繰り返すうちに、東の空が、白んできた。

朝の光が差すと、息子は、いつもの寝顔に戻っていた。

名前を呼ぶあいだだけ、息子は、いつもの息子に戻るのだ。

明日で、ちょうど四十日目になる。

あと九日、あの空っぽのものに、勝ち続けなければならない。

もし負ければ、私は息子の顔をした、別の何かと暮らすことになる。

あの林道の立て札は、正しかった。

入るべからず、と。

私は、あの夜のハンドルを、何度も悔やんでいる。

どうか、これを読んだあなたは、山の細い道へ、安易に入らないでほしい。

そこには、ずっと、空腹を抱えたものが、待っているのだから。

どうか、間に合ってくれと、それだけを願いながら。

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