先週末の話だ。
息子を連れて、山あいのキャンプ場へ一泊で出かけた。
小学三年になる息子は、初めてのテント泊にはしゃいでいた。
夜は焚き火を囲んで、二人でソーセージを焼いて食べた。
「父ちゃん、来年もまた来ようね」
そう言って笑う息子の顔を、焚き火の赤い光が照らしていた。
穏やかな、なんでもない週末になるはずだった。
テントの中で、息子は私の腕にしがみついて眠った。
その寝息を聞きながら、私は幸せだと思った。
妻を早くに亡くしてから、息子と二人きりの暮らしだった。
だからこそ、こうした時間が、何より大切だった。
翌朝、テントをたたみながら、息子は名残惜しそうにしていた。
「もう一泊したいなあ」
「また今度な。父ちゃん、仕事だから」
そんな、ありふれた会話を交わしていた。
あのまま、素直に高速道路へ向かっていれば、よかったのだ。
※
帰りの日、私は少し時間を持て余していた。
カーナビが、近道だという細い県道を案内してきた。
舗装はされていたが、対向車一台すれ違わない、寂しい山道だった。
途中で道は二股に分かれ、片方は未舗装の林道に続いていた。
なぜだか、私はその林道のほうへ、ハンドルを切ってしまった。
分かれ道の脇に、朽ちかけた木の立て札があった。
かすれた文字で、「この先、入るべからず」とだけ書かれていた。
誰が、何のために立てたのか、今となっては分からない。
その古さが、かえって私の好奇心を、妙にくすぐった。
「こっち、道あってるの」
息子が不安そうに尋ねた。
「近道だよ。すぐ抜けるさ」
私は軽く答えたが、道はどんどん細く、暗くなっていった。
カーナビの地図から、いつのまにか道が消えていた。
画面には、ただ青い背景に、車のアイコンだけが浮かんでいた。
そんなはずはないと、私は何度も画面を叩いた。
「父ちゃん、なんか、空気がへんだよ」
息子が、窓の外を見ながら、小さな声で言った。
言われてみれば、車内に、土の腐ったような匂いが漂っていた。
窓を少し開けると、匂いは、いっそう強くなった。
慌てて窓を閉め、私はアクセルを踏み直した。
引き返そうにも、道幅は、もう車を回せる広さではなかった。
進むしか、なかった。
木々が頭上を覆い、昼間なのに、車内は夕方のように薄暗かった。
そして、坂の途中で、唐突にエンジンが止まった。
※
何度キーをひねっても、エンジンはかからなかった。
携帯を見ると、圏外の二文字が出ていた。
私には、車を直す知識などなかった。
日が傾きはじめ、林道はみるみる暗くなっていった。
歩いて戻るには、来た道はあまりに長すぎた。
一度、車を降りて、後ろから押してみようとした。
ドアを開けた瞬間、肌に触れる空気が、氷のように冷たかった。
森のなかは、墨を流したような闇だった。
その闇が、じっとこちらを見ているような気がして、私は慌てて車内に戻った。
鍵をかけ、息子の手を握って、夜が明けるのを待つしかなかった。
仕方なく、その夜は車中で明かすことにした。
息子を助手席で毛布にくるみ、私は何度も外をうかがった。
夜の山は、不気味なほど静かだった。
虫の声ひとつ、しなかった。
こんな季節に、虫が一匹も鳴かないのはおかしい。
カーラジオをつけてみた。
どの局も、ざらついた砂嵐の音しか流れなかった。
その砂嵐の奥に、一瞬、人の囁きのようなものが混じった気がした。
囁きは、確かに、私の名前を呼んでいた。
聞き間違いだと思いたかった。
だが、こんな山奥で、私の名前を知る者などいるはずがなかった。
慌てて、ラジオを切った。
ダッシュボードの時計に、目をやった。
針が、ぴたりと止まっていた。
腕時計を見ると、こちらの秒針も、動いていなかった。
この林道に入ってから、時間そのものが、止まっているようだった。
気温が、急に下がったように感じた。
毛布にくるまった息子が、寝ながら、何度も苦しそうに身じろぎした。
「いやだ……いやだ……」
息子は、寝言で、そう繰り返していた。
ふと、息子の鼻から、一筋の血が垂れていた。
慌ててぬぐうと、息子は薄く目を開けて、こう言った。
「父ちゃん、だれか、そとで、てまねきしてる」
窓の外には、ただ黒い木立があるばかりだった。
だが、息子の目は、確かに、何かを見ていた。
そう気づいたとき、背筋に冷たいものが走った。
耳を澄ますと、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いた。
その鼓動に合わせるように、遠くで、こつ、こつ、と音がした。
何かが、固いもので、地面を叩いているような音だった。
音は、規則正しく、こちらへ近づいていた。
※
どれくらい時間が経っただろう。
息子は、いつのまにか助手席で眠っていた。
私もまどろみかけた、そのときだった。
どこからか、低い声が聞こえてきた。
風が、細い管を吹き抜けるような音だった。
ウツ……ロ……ニ……ナレ……
そんな言葉が、何度も繰り返されていた。
最初は、空耳だと思い込もうとした。
だが、その声は、確かに少しずつ近づいてきていた。
ウツロ……ニ……ナレ……
たまらなくなって、私は目を開けた。
そして、フロントガラスの先を見て、息を呑んだ。
林道の奥から、白い何かが、こちらへ近づいてきていた。
※
それは、人のかたちをしていなかった。
のっぺりとした、白い布をかぶせたような姿だった。
頭がなく、足は一本しかないように見えた。
その一本足で、ぴょん、ぴょんと跳ねながら来る。
両腕だけが、めちゃくちゃに振り回されていた。
全身を、ぶれるように震わせながら、近づいてくる。
関節という関節が、あり得ない向きに折れ曲がっていた。
跳ねるたびに、ぴちゃ、ぴちゃと、濡れた音がした。
近づくにつれ、あの匂いが、いっそう濃くなった。
息を止めても、喉の奥に、その匂いが絡みついた。
歯の根が合わず、私はハンドルを握りしめた。
逃げたくても、エンジンは死んだままだった。
ただ、息を殺して、それが過ぎ去るのを待つしかなかった。
私は叫び出しそうになった。
だが、なぜか妙なところに気が回った。
隣で眠る息子を、起こしてはいけない。
そう思うと、叫ぶことも、逃げることもできなかった。
白いものは、車のすぐ脇まで来た。
そして、車の横を、すうっと通り過ぎていった。
通り過ぎるあいだも、ずっと声が聞こえていた。
ウツロ……ニ……ナレ……
声が、後ろへ遠ざかっていった。
遠ざかる声に、私は全身の力が抜けるのを感じた。
背中は、いつのまにか、汗でぐっしょりと濡れていた。
もう大丈夫だ。そう、自分に言い聞かせた。
息子は、まだ静かに眠っていた。
その寝顔を見て、私は少しだけ、心がほどけた。
早く朝になれと、ただそれだけを願った。
私は、ほっと息を吐いた。
※
安心して、息子のほうへ顔を向けた。
その瞬間、心臓が止まるかと思った。
助手席の窓の外に、あの白いものが、張りついていた。
頭がないと思っていた。
だが、胸のあたりに、顔があった。
思い出したくもない、恐ろしい顔だった。
それが、息子の寝顔を覗き込んで、にたにたと笑っていた。
口の裂け目が、耳のあたりまで広がっていた。
その奥に、歯はなく、ただ暗い穴がのぞいていた。
白いものは、窓ガラスを、長い爪で、つう、となぞった。
息子の頬の、すぐそばだった。
私のなかで、恐怖が、怒りに変わった。
息子に近づくな。
「この野郎っ……!」
私は、ありったけの声で怒鳴った。
叫んだ瞬間、白いものは、すっと消えた。
消えた拍子に、窓ガラスに、白い手の跡だけが残った。
それは、内側からこすったように、じわじわと曇りを広げていった。
同時に、息子が跳ね起きた。
※
私の怒鳴り声で起きたのかと思った。
違った。
息子は、虚ろな目で、前を向いていた。
そして、壊れた機械のように、繰り返しはじめた。
「アイタ、アイタ、アイタ、アイタ」
その声は、息子のものではなかった。
私は、これはまずい、と直感した。
震える手で、もう一度キーをひねった。
ダメ元だった。
だが、今度はエンジンがかかった。
私は車を飛ばし、来た道を必死で引き返した。
ヘッドライトが照らす道だけを、私はにらみつけていた。
左右の闇からは、何かが伴走してくる気配があった。
木々の影が、一本足で跳ねているように見えた。
見てはいけない。私は、ただ前だけを向いて走った。
息子は、隣でまだ「アイタ」と呟き続けていた。
バックミラーに、後ろの林道が映っていた。
その闇の奥で、白いものが、こちらを見送るように立っていた。
一本足のまま、ゆらゆらと、揺れていた。
私は、二度とミラーを見ないようにして、アクセルを踏み込んだ。
タイヤが砂利をはじき、車は林道を転がるように下った。
枝が何度も、車体を引っかいた。
その音が、まるで、爪で車を掻く音のように聞こえた。
※
ようやく、山を下りた。
遠くに、街の明かりが見えてきた。
少しだけ、安心した。
だが、息子の呟きが、いつのまにか変わっていた。
「アイタ、アイタ」が、こうなっていた。
ウツロ……ニ……ナレ……
あの、白いものと同じ声だった。
横を見ると、息子の顔が、息子の顔ではなくなっていた。
のっぺりと、表情が抜け落ちていた。
このまま家に帰るわけにはいかなかった。
私は、目についた古い寺へ、車を乗り入れた。
※
夜更けだったが、庫裏には明かりがついていた。
私は、ぐったりした息子を抱えて、戸を叩いた。
出てきた住職らしき老人は、息子をひと目見るなり、顔色を変えた。
「あんた、子どもを連れて、どこへ入った」
「山道で……変なものを、見たんです」
私が答えると、老人は深いため息をついた。
「気休めにしか、ならんかもしれんが」
そう言って、老人は息子を畳に寝かせた。
そして、低い声で経を唱えはじめた。
「この山はな」と、老人は経の合間に語りはじめた。
「昔、飢饉のときに、口減らしのため、捨てられた者たちがいた」
「腹を空かせ、心を空っぽにしたまま、山で果てた者たちだ」
「その空っぽが寄り集まって、ああいうものになったと言われとる」
「だから、あれは、空っぽの器を探しておるのだ」
聞いているだけで、胸の奥が冷たくなった。
「一本足なのはな」と、老人は続けた。
「片足を、山に置いてきたからだと言われとる」
「だから、新しい足の代わりに、人の子をほしがるのだ」
私は、助手席の窓に張りついた、あの顔を思い出した。
※
経を唱えながら、老人は息子の背を、強く叩き続けた。
叩くたびに、息子の体は、別の生き物のように跳ねた。
口からは、聞いたこともない、低いうなり声が漏れた。
「こらえろ。今、出て行こうとしておる」
老人の額には、玉のような汗が浮かんでいた。
どれほどそうしていただろう。
やがて息子は、糸が切れたように、ぐったりと畳に倒れ込んだ。
そして、ようやく、穏やかな寝息を立てはじめた。
その寝顔を見て、私は涙がこぼれた。
戻ってきてくれた、と思った。
だが、老人は厳しい顔のまま、首を横に振った。
「油断するな。あれは、しつこい」
「一度、器の味を覚えたものは、何度でも戻ってくる」
「だが、名を呼んでやれ」と、老人は言った。
「お前さんが、その子の名を呼ぶかぎり、器は、その子のものだ」
「忘れるな。名を呼ぶことだけが、お前さんにできる戦いだ」
私は、その言葉を、胸に刻んだ。
「これは、ウツロというものだ」
老人は、唱える合間に、ぽつりと言った。
「山に棲む、空っぽのものよ」
「人の心が、ふと空いた隙に、入り込もうとする」
「子どもは、心が無防備だから、狙われやすい」
私は、寒気が止まらなかった。
あの林道で、私は確かに、心が空白になる瞬間を感じていた。
エンジンが止まり、途方に暮れたあの瞬間。
頭のなかが、真っ白になった、あのわずかな隙。
あのとき、何かが、私のそばをすり抜けていった気がする。
そして、隣で眠る、無防備な息子のほうへ向かったのだ。
守ってやれなかった自分を、私は今でも、責め続けている。
老人は、泊まっていけと言った。
息子が心配で、私はその言葉に甘えることにした。
※
息子は、その夜じゅう、うなされ続けた。
老人は、四十九日のあいだ、毎朝この寺へ来いと言った。
「四十九日を過ぎても、この子が戻らなんだら」
老人の声は、低く、重かった。
老人は、そこで言葉を切った。
「そのときは、もう、この子は戻らん」
「中身が、すっかり入れ替わってしまう」
「見た目は同じでも、それは、もう、お前さんの子ではない」
私は、その言葉に、めまいがした。
今、まだ、その四十九日の途中だ。
息子は、昼間はいつも通りに笑っている。
だが、夜になると、ときどき、あの声で呟く。
ウツロ……ニ……ナレ……
私は、毎朝、祈るような気持ちで、あの寺へ通っている。
つい三日前の夜のことだ。
息子の部屋から、あの声が聞こえて、私は飛び起きた。
ウツロ……ニ……ナレ……
ドアを開けると、息子はベッドの上に、正座していた。
真っ暗な部屋で、一本の足で立つように、片膝で身を支えていた。
「アイてる、アイてる」と、息子は窓のほうへ笑いかけていた。
私は、息子を抱きしめて、朝まで名前を呼び続けた。
「父ちゃんは、ここにいるぞ」
「お前は、父ちゃんの子だ。誰にも、渡さない」
そう繰り返すうちに、東の空が、白んできた。
朝の光が差すと、息子は、いつもの寝顔に戻っていた。
名前を呼ぶあいだだけ、息子は、いつもの息子に戻るのだ。
明日で、ちょうど四十日目になる。
あと九日、あの空っぽのものに、勝ち続けなければならない。
もし負ければ、私は息子の顔をした、別の何かと暮らすことになる。
あの林道の立て札は、正しかった。
入るべからず、と。
私は、あの夜のハンドルを、何度も悔やんでいる。
どうか、これを読んだあなたは、山の細い道へ、安易に入らないでほしい。
そこには、ずっと、空腹を抱えたものが、待っているのだから。
どうか、間に合ってくれと、それだけを願いながら。