逆さに流れる用水

静かな夜の田舎風景

「水は、村から出ていくもんだ」

赴任した最初の朝、樋守の弥吉爺は、私にそう言った。

「戻ってくる水は、水じゃねえ」

意味は、わからなかった。

ただ、老人の声が、妙に低かったことだけを覚えている。

昭和四十六年の春のことだ。

私は二十六で、北国の低地にある村の駐在所へ、初めて一人で赴いた。

雪解けの水があちこちで光り、村じゅうが水の匂いに満ちていた。

低い土地だった。

家々は少し高く盛った土の上に建ち、その周りを田と水路が網の目のように囲んでいた。

用水を引き、余った水を落とし、また引く。

村の暮らしは、水の出入りそのものだった。

雨が続けば水が上がり、日が続けば水が引く。

村の者は、朝起きるとまず水を見た。

水の高さで、その日の機嫌が決まるようなところがあった。

私は駐在所の窓から、毎朝その水を眺めるのが習いになった。

村には、水にまつわる決まりごとが多かった。

朝一番の水は、まず神棚へ供える。

汚れた水は、決められた落とし口からしか流さない。

子供が水路へ物を投げれば、親がひどく叱った。

「水を汚すと、罰が当たる」

それが、この村の一番古い掟のようだった。

私は最初、ただの田舎の迷信だと思っていた。

今は、そうは思っていない。

その春、村では圃場整備が始まりかけていた。

曲がりくねった古い畦を潰し、田を四角く整え、素掘りの水路をコンクリートに替える。

役場の技師が図面を広げ、若い者たちはそれを歓迎していた。

「これで水の管理も楽になる」と、皆が言った。

ただ、年寄りだけは、どこか浮かない顔をしていた。

とりわけ弥吉爺は、工事の話が出るたびに黙り込んだ。

弥吉爺は、村外れの沼の樋を守る役だった。

樋守という古い役だと、村の者は言った。

沼は、隠り沼と呼ばれていた。

葦に囲まれた古い溜池で、水の色は昼でも黒に近かった。

風のない日でも、水面はかすかに動いていた。

そこだけは、村の子供が近づくことを固く禁じられていた。

「あすこで遊ぶな」と、どの家でも言い聞かせていた。

釣りをする者もなく、鳥さえあまり寄りつかなかった。

弥吉爺は毎朝、沼の縁の古い木の樋を見回り、水の落ち口を確かめていた。

沼の水は、樋を通って村の外の遣り水へと流れ、遠くの川へ落ちていく。

沼の水は、村へは一滴も入れない。

それが、樋守の役目なのだと弥吉爺は言った。

「なぜ村へ入れちゃならんのです」と、私は一度だけ訊いた。

爺は答えなかった。

ただ、「入れちゃならんもんは、入れちゃならん」と言って、樋の板をそっと撫でた。

その手つきが、赤子をあやすようだったことを、なぜか今もはっきり思い出せる。

駐在の仕事は、のどかなものだった。

自転車が盗まれた、犬がいなくなった、その程度だ。

私は毎日、田の間の道を巡回し、顔を覚え、名を覚えた。

畦で会う年寄りは、皆よく喋った。

茶を出され、漬物を出され、土地の昔話を聞かされた。

水の匂いにも、じきに慣れた。

穏やかな村だと思った。

そう思っていた。

梅雨に入る前、工事が沼の近くまで進んだ。

新しい排水路を通すために、古い遣り水が掘り返されることになった。

それに伴って、隠り沼の樋も、いったん壊すという話になった。

弥吉爺は役場へ何度も足を運び、あの樋だけは残してくれと頼んだ。

だが、若い技師には通じなかった。

古い木の樋など、新しい暗渠に替えれば済む話だった。

「じいさん、水はちゃんと流れるようにするから」と技師は笑った。

弥吉爺は、それには何も答えなかった。

工事の朝、弥吉爺は沼の縁に立って、じっと樋が外されるのを見ていた。

板が引き抜かれると、黒い水がどっと落ち口へあふれた。

爺は何も言わず、家へ帰っていった。

その背を、私は今でも覚えている。

異変は、その晩から始まった。

夜中に、田の方から水の音がした。

ちゃぷ、ちゃぷ、と規則正しい音だ。

雨は降っていなかった。

私は駐在所の窓を開けて、しばらく耳を澄ませた。

おかしなことに気づいたのは、そのときだ。

音は、低い田から高い村の方へ、少しずつ近づいてくる。

水が、坂を上ってくるように聞こえた。

気のせいだと思った。

夜の音は、方角を狂わせる。

そう思って、窓を閉めた。

それでも、音は明け方まで続いた。

翌朝、村の何軒かで、妙なことがあった。

戸口に、濡れた藁苞が置かれていた。

握り拳ほどの、古い藁を束ねて結んだものだ。

誰が置いたのか、誰も知らなかった。

「子供の悪戯だろう」と、私は言った。

言いながら、藁の湿り具合が気になった。

それは、沼の水に浸したように、芯まで濡れていた。

手に取ると、饐えたような泥の匂いがした。

藁は新しくないのに、結び目だけが妙に固く締まっていた。

私はそれを紙に包んで、駐在所へ持ち帰った。

藁苞は、いくつかの家に、何日かおきに現れた。

どの家も、戸を開けた朝に、それを見つけた。

そのたびに、村の空気が少しずつ重くなっていった。

その頃から、村じゅうの井戸の水が、濁り始めた。

汲んでしばらく置くと、底に薄く泥が溜まる。

飲めないほどではないが、皆が水甕を覗いては眉をひそめた。

沼から一番遠い、高台の家の井戸だけが、澄んだままだった。

その家の者は、それを幸運だと思っていた。

だが、後になって、その家だけが古い言い伝えを守り続けていたことを、私は知った。

そして、不幸が続き始めた。

新しい排水路に近い家から、順に、だった。

最初は、川端に近い家の主が、畑で急に倒れた。

そのまま床に就き、起き上がらなかった。

働き盛りの、丈夫な人だった。

次の月には、その隣の家の嫁が、朝、冷たくなっていた。

まだ若かった。

前の晩まで、何ともなかったという。

さらに、少し離れた家の年寄りが、二人続けて向こうへ渡った。

「このくらいなら、偶然もある」と、村の者は言い合った。

だが、その口ぶりは、もう自分に言い聞かせるようだった。

葬式の支度が続き、村から笑い声が消えた。

川端の家の通夜に、私も顔を出した。

座敷の隅で、その家の老婆が、ずっと同じことを呟いていた。

「戻ってきた、戻ってきた」

何が戻ったのかと訊いても、老婆はただ首を振るだけだった。

床の間に、濡れた藁苞がひとつ、供えるように置かれていた。

誰が置いたのかと訊くと、家の者は皆、青い顔で黙り込んだ。

私は駐在として、一軒ずつ回って話を聞いた。

どの家でも、判で押したように、同じことを言った。

「夜中に、水の音がした」

「戸口に、濡れた藁苞があった」

そして、皆が最後に、声を落としてこう言った。

「あれは、沼へ返したもんだ」

意味を訊いても、誰も詳しくは語らなかった。

口をつぐみ、目を伏せ、話を変えた。

新しい排水路を掘った作業員も、妙なことを言っていた。

掘っている最中、土の中から古い藁苞が何十と出てきたという。

「気味が悪いから、まとめて沼へ放り込んだ」と、その男は笑った。

その男も、数日後に高い熱を出して、村を離れた。

引っ越しを考える家も、出てきた。

だが、荷を積んだ車が、なぜか村の外れで動かなくなる。

「気のせいだ」と皆言ったが、結局、その年は誰も村を出られなかった。

ただ、川端の旧家の縫婆様だけが、重い口を開いた。

縫婆様は、九十に近い、村で一番の年寄りだった。

私が藁苞を見せると、婆様の顔色が変わった。

「昔からな」と、婆様は言った。

「この村じゃ、家に悪いことがあると、沼へ沈めたんだ」

「悪いこと、ですか」

「諍いや、恨みや、口にできんことよ」

婆様の話は、途切れ途切れだった。

まとめると、こういうことだった。

いつの頃からか、村では、家の内で起きた悪いことを、藁苞に込めて沼へ沈めてきた。

飢饉の年に、村ぐるみで負ったという古い業もあると、婆様は小声で言った。

その年、村は長い凶作に見舞われたのだという。

食うものがなく、隣の家とも、身内とも、諍いが絶えなかった。

人が人でなくなるような、暗い時期があった。

その頃の重い気持ちを、村は沼へ沈めることで、どうにか生き延びた。

「沼が、村の代わりに背負ってくれたんだ」と、婆様は言った。

「だから、沼を粗末にしちゃならん」

物ではなく、気持ちを沈めるのだと婆様は言った。

恨みや、憎しみや、業のようなものを、である。

沈めたものは、沼の底に留まる。

そして、樋を通って流れる水が、その念を少しずつ外へ運び出す。

だから、水は絶えず村の外へ流れていなければならなかった。

樋守は、その流れを絶やさぬための役だった。

代々、樋守の家だけが、沼の縁に立つことを許されていたという。

「流れが止まれば、沈めたもんが戻る」

婆様はそう言って、皺だらけの手で膝を握った。

「戻ってきたら、もう、水じゃねえ」

その言葉に、私は弥吉爺の朝の声を思い出して、うなじの産毛が立った。

婆様は最後に、ひとつだけ念を押した。

「あんた、沼の水を、家に入れちゃならんよ」

その帰り道、私は一度だけ、隠り沼へ寄った。

黒い水面に、村の影が逆さに映っていた。

私は、その影を数えて、指を止めた。

水に映る村には、家が一軒、多かった。

顔を上げて、実際の村を見た。

やはり、その家はなかった。

水の中にだけ、一軒、余分に建っていた。

私は、その余分な家が、どの家なのかを確かめようとした。

だが、水面が揺れて、影は崩れてしまった。

あとで思えば、水に映っていた家は、次に不幸のあった家だった。

その頃には、私自身の身にも、小さな異変が起きていた。

駐在所の裏に、古い井戸があった。

私は毎晩、そこで手桶に水を汲み、庭木に撒いていた。

ある晩、撒いた水が、妙に泥臭いことに気づいた。

井戸の水は、いつも澄んでいたはずだった。

その泥の匂いは、あの藁苞と同じだった。

私は嫌な心持ちのまま、桶を伏せて寝た。

翌朝、桶を見て、私は動けなくなった。

撒いたはずの水が、桶の中に、同じ量だけ戻っていた。

泥の匂いまで、同じだった。

私は桶を持ち上げ、中を覗き込んだ。

黒く濁った水面に、私の顔が映っていた。

その背後に、藁苞がひとつ、浮いていた。

振り返ると、庭には何もなかった。

桶の中にだけ、それは浮いていた。

膝から、力が抜けた。

私は桶を地面に落とし、しばらくそこから動けなかった。

私はその日、初めて村を懸命に見渡した。

そして、あることに気づいてしまった。

新しい排水路が、どちらへ流れているかを、である。

私は昼のうちに、水路の縁を辿って歩いた。

コンクリートの底を、水は静かに動いていた。

その向きを、私は目で追った。

新しい水路は、村へ向かって流れていた。

低い沼から、高いはずの村の中心へ。

水が、坂を上っていた。

ありえないことだった。

私は水路に、一枚の木の葉を落としてみた。

葉は、迷うことなく村の方へ運ばれていった。

もう一枚落とした。

やはり、村の方へ流れた。

私は水路の底に、しゃがみ込んだ。

耳を近づけると、水の下から、かすかに音がした。

ちゃぷ、ちゃぷ、と、あの夜の音だった。

水は、村の一軒一軒を、順に訪ねて回るように流れていた。

私はその足で、弥吉爺の家へ走った。

爺は、囲炉裏の前に座っていた。

私が水路の話をすると、爺は目を閉じた。

「そうか」とだけ言った。

驚いた様子は、まるでなかった。

「樋を抜いたときに、流れが逆になったんだ」

「新しい水路が、水を村へ引き込んどる」

「沈めたもんが、水に乗って、みんな戻ってくる」

爺の声は、諦めたように静かだった。

「わしの代で、絶やしてしもうた」

そう言って、爺は初めて顔を歪めた。

「昔はな」と、爺は続けた。

「どの家も、沈めた藁苞の数を覚えとった」

「自分の家が、何を沼へ返したか、忘れちゃならんかった」

「忘れたもんから、順に、戻ってくる」

私は、村の者が皆、藁苞から目を逸らした理由を、そこで悟った。

私たちは、その足で隠り沼へ向かった。

沼の水は、以前より高く、家々のほうへ押し寄せていた。

黒い水面に、いくつもの藁苞が浮いていた。

数えきれないほどの、古い藁苞だった。

爺は沼の縁にしゃがみ、そのひとつを拾い上げた。

古い、芯まで濡れた藁苞だった。

結び目の形を見て、爺の手が止まった。

ちょうどそこへ、村の者に呼ばれて、縫婆様が杖をついて現れた。

婆様は爺の手の藁苞を見るなり、息を呑んだ。

沼の底から上がってきた藁苞は、縫婆様が三十年前に結んだものだった。

「これは……うちのだ」と、婆様は掠れた声で言った。

「三十年前、うちの人と沈めた」

「もう、忘れておったのに」

三十年前に沈めたはずのものが、なぜ今、上がってきたのか。

婆様には、それがわかっているようだった。

だが、口にすることを、恐れているようでもあった。

婆様は、それが何を込めたものかは、とうとう言わなかった。

婆様の膝から力が抜け、私は慌てて背を支えた。

その体は、驚くほど冷たかった。

沼の水面が、ゆっくりと揺れた。

風はなかった。

その晩、私と弥吉爺は、村の男たちを集めた。

役場の許しを待つ暇はなかった。

事情を話しても、半分の者は信じなかった。

それでも、藁苞と葬式を見てきた者は、黙って鍬を担いだ。

私たちは、壊された遣り水の跡を、夜通し掘り返した。

提灯と懐中電灯の明かりだけが頼りだった。

泥は重く、掘っても掘っても水が湧いた。

途中、鍬の先に、幾つもの藁苞が引っかかった。

掘り返した土の中から、次々と古い藁苞が出てきた。

どれも、芯まで濡れていた。

男たちは、それを黙って一箇所に積み上げた。

誰も、それを開こうとはしなかった。

積み上げた藁苞は、朝日が差す頃には、ひとつ残らず消えていた。

流れが変わった水路の方へ、消えていったのだと、私は思うことにした。

新しい暗渠の口を、古い落とし口の向きへ、無理やり付け替えた。

水を、もう一度、村の外へ落とすためだった。

弥吉爺は、抜かれた樋の板をどこからか運んできて、沼の縁へ据え直した。

板を撫でる手つきは、あの朝と同じだった。

爺は板の前で、何か低く唱えていた。

言葉は、私の知らない土地の言葉だった。

夜が明ける頃、水路の流れが、ゆっくりと向きを変えた。

黒い水は、田を越え、村の外の川へと落ちていった。

浮いていた藁苞も、ひとつ、またひとつと、流れに乗って消えていった。

男たちは、泥まみれのまま、しばらく水路を見つめていた。

誰も、何も言わなかった。

それきり、戸口に藁苞が置かれることは、なくなった。

夜の水の音も、聞こえなくなった。

桶の水が戻ることも、なくなった。

村の不幸も、そこで止まった。

けれど、なぜそれで止まったのかを、私はきちんと説明できない。

役場の技師は、水の逆流を勾配のせいだと言った。

図面の引き方がまずかったのだと、頭を下げた。

沈めたものの話は、誰も帳面には書かなかった。

私も、調書には「原因不明」とだけ記した。

ほかに、書きようがなかった。

水が坂を上ったとも、沈めた念が戻ったとも、帳面には書けない。

それでも、あの村で起きたことは、確かに起きたのだ。

樋を据え直したあの朝、村は静けさを取り戻した。

だが、私はどこかで、それが一時のことだと感じていた。

ただ、村の年寄りだけが、樋の据え直された沼を見て、静かに手を合わせた。

弥吉爺は、その年の冬に、眠るように向こうへ渡った。

最後まで、多くは語らなかった。

沼のことを訊いても、「入れちゃならんもんは、入れちゃならん」と言うだけだった。

私はやがて村を離れ、別の土地を転々とし、そのまま歳を取った。

それから何十年も経った、ある雨の日のことだ。

駅の待合で、偶然、あの村の出だという初老の男と隣り合った。

話のはずみで、隠り沼のことを訊いてみた。

男は少し黙ってから、こう言った。

「あの沼を埋めた年から、また、藁苞が出るようになったそうだ」

戸口にではなく、田の畦に、ぽつりぽつりと。

私はそれ以上、何も訊かなかった。

ただ、その夜から、私はまた、桶の水位を確かめるようになった。

圃場整備は終わり、隠り沼も、今はもうないと聞く。

埋め立てられ、田になったそうだ。

沈めた藁苞が、どこへ行ったのかは、誰も知らない。

その田で、何か起きているのかどうか、私は知らない。

知りたいとも、思わない。

水は、村から出ていくもんだ。

弥吉爺の言葉の意味を、私はあの夜、ようやく知った。

今も、雨の夜に桶へ水を汲むと、私はつい、翌朝の水位を確かめてしまう。

撒いた水が、戻っていないことを確かめて、ようやく眠る。

戻ってくる水は、水じゃねえ。

あの老人の低い声だけが、雨の音に混じって、今も耳の奥に残っている。

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