
これは、私が人の順番を一つ繰り上げてしまった話だ。
二十数年前の冬のことで、いまさら誰かに確かめる術もない。
関わった人のうち、話せる者はもうあらかた残っていない。
だから、起きたことを順に述べるしかない。
私はいまでも、自分の名前を書くのが少し遅い。
二十四のとき、書いてはいけない場所に書いたからだ。
平成十四年の冬、私は私鉄のターミナル駅の地下二階にいた。
遺失物取扱所という、窓のない部屋だった。
本当は車掌になるはずだった。
採用の年の健康診断で耳の具合を指摘され、内勤に回された。
不服はあったが、口には出さなかった。
地下二階には季節がなかった。
空調の音が、一日じゅう同じ高さで鳴っている。
夏も冬も、そこだけは十九度だった。
外の天気を知るには、朝いちばんに届く傘の本数を数えればよかった。
仕事そのものは単純だった。
沿線の各駅から、その日の忘れ物が段ボールで届く。
品名を台帳に書き写し、緑色のプラスチックの番号札を紐で結わえ、棚に置く。
三か月経って引き取り手がなければ、規定に従って処分する。
それだけの部屋だ。
台帳は横長の帳面で、罫は六段に切ってあった。
左から、受理日、受理駅、品名、特徴、受取人氏名、受渡日。
万年筆ではなく、事務用の黒いボールペンで書く決まりだった。
訂正するときは二重線を引いて、その上に判を押す。
番号札の付かない品は、この取扱所には一つもないはずだった。
忘れ物というのは、思っているより人間くさい。
傘は毎日、三十本前後届く。
鞄も届くし、眼鏡も届く。
義歯が届いたこともあるし、鮒が一匹、ビニール袋の水ごと届いたこともある。
夏には、蝉の抜け殻がぎっしり詰まったランドセルが届いたこともある。
台帳の品名の欄に何と書けばいいのか分からず、結局「学用品一式」と書いて塚原さんに笑われた。
そういう日は、窓のない部屋の空気が少しだけ軽くなる。
毎月十日に来る老婦人がいた。
黒い骨の洋傘を、必ず月に一度どこかへ置き忘れる。
そして必ず十日に取りに来る。
「あなた、まだ若いのねえ」といつも同じことを言った。
私は「はい」と、いつも同じように答えた。
一度だけ、傘を渡すときに「前の方は、もっと年配でしたね」と言われたことがある。
私が入る前は塚原さんが窓口に立っていたはずだが、どうもその人ではないらしい。
「もっと前の、指の綺麗な方」
塚原さんの指も綺麗だった。
そう言おうとして、なぜかやめた。
塚原さんは、その部屋に三十年いた。
四十八歳で、無口で、指がやけに綺麗な人だった。
爪の先まで、いつも同じ長さに整っている。
昼は決まって、駅ビルの脇の喫茶店から出前を取った。
「みなと」という古い店で、玉子サンドと、砂糖を三つ入れた珈琲だった。
私が入った年、教わったことは三つしかない。
紐は必ず二重に結ぶこと。
判は必ず罫の内側に押すこと。
そして、棚の一番下の段に手を伸ばす前には、必ず一度しゃがんで目の高さを合わせること。
最後の一つだけは、理由を教わらなかった。
一番下の段には脚がなく、棚板がじかに床へ触れている。
戦後すぐに据えたもので、外そうにも壁の躯体に呑み込まれているのだと聞いた。
だから掃除機の先が入らず、その段の下だけは誰も掃いたことがない。
塚原さんには癖があった。
台帳に一行書くと、必ず次の行を一つあけて書きはじめる。
はじめは、詰めて書けばいいのにと思った。
紙がもったいない、と口に出したこともある。
一度だけ、理由を聞いた。
「詰めて書くと、読みにくいから」
それだけ言って、塚原さんはまた手元に目を落とした。
私は納得したふりをして、自分の分は詰めて書いた。
もう一つ、塚原さんには妙なところがあった。
届いた品を手に取ると、「これは来る」「これは来ない」と、ひとりごとのように言う。
来る、というのは、引き取り手が現れるという意味だった。
外れたところを、私は見たことがない。
安物の折り畳み傘を「これは来る」と言い、二日後に若い母親が取りに来た。
革の手帳を「これは来ない」と言い、三か月後、規定どおり処分された。
一度、面白半分に聞いてみたことがある。
「どうして分かるんですか」
塚原さんは少し考えてから答えた。
「持ち主のほうが、まだこっちを向いてるかどうか」
意味は分からなかったが、聞き返さなかった。
その日の塚原さんの顔が、冗談を言う顔ではなかったからだ。
※
十二月に入って、最初の月曜だった。
朝、棚の一番下の段に、覚えのない包みがひとつあった。
鼠色の風呂敷で、四隅がきちんと結んである。
そして、番号札が付いていなかった。
私は台帳を繰った。
前の週の受理分を全部たどったが、その包みの記録がない。
各駅から届く搬送票にも載っていない。
どこの駅からも来ていない品が、棚にあった。
包みを解くと、真鍮の札が一枚出てきた。
名刺よりひとまわり小さく、厚みは三ミリほど。
角が丸く削れていて、長く手で触られたもののように見えた。
表に、細い彫りで何か入っている。
擦れていて、私には読めなかった。
裏は無地だった。
持ち上げると、見た目より重い。
指の腹に、まだ人肌のような温みが残っていた。
地下二階は十九度だから、そんなはずはない。
塚原さんに見せた。
塚原さんは覗き込んだが、手を出さなかった。
両手を膝の上に置いたまま、しばらく札を見ていた。
「それは、来ないほうだ」
そう言って、椅子を半分ずらした。
札から遠ざかるように見えたのは、気のせいだと思った。
「番号を振っておきますか」
私が聞くと、塚原さんは首を横に振った。
「載せなくていい。棚の隅に置いておけ」
規定にはない指示だった。
私はそのとおりにした。
その夜、私は札のことを忘れて帰った。
忘れたつもりでいた。
家に着いて上着を脱いだとき、右の袖口が汚れていた。
白っぽい、乾いた砂だった。
指でつまむと、さらさらと落ちた。
※
翌週の金曜、月次の締めをした。
台帳の行数と、搬送票の枚数が合わない。
台帳のほうが、一行多かった。
最初は数え間違いだと思って、三度数え直した。
やはり一行多い。
その一行は、私が水曜に書いた行の、すぐ上にあった。
受理日の欄は空白。
受理駅の欄も空白。
品名の欄に、ひらがなで四文字だけ書いてある。
「あずかり」
特徴の欄も、受取人氏名の欄も空だった。
筆跡は、私のものによく似ていた。
似ていたが、私の字ではなかった。
「り」の最後の払いが、私よりずっと長い。
私は自分の手を見た。
それから、その行を二重線で消して、判を押した。
翌朝、二重線は消えていた。
消えていたというより、はじめから引かれていなかった。
判の跡もない。
「あずかり」の四文字だけが、白い罫の中にあった。
私は塚原さんに言わなかった。
言えば、あの人が困ると思ったからだ。
なぜそう思ったのかは、いまでも説明できない。
その週から、字が書けなくなった。
正確に言えば、書けなくなったのは自分の名前だけだ。
姓の二画目で、手が止まる。
止まるというより、止められる。
指先から肘のあたりまで、細い針金を差し込まれたようになる。
品名は書ける。
受理駅も書ける。
数字も書ける。
自分の名前だけが書けない。
病院に行った。
神経も、骨も、何も出なかった。
医者は「書痙でしょう」と言った。
ストレスですね、と付け加えた。
私は、そうですかと答えた。
帰りに駅の券売機の前で、指が普通に動くことを何度も確かめた。
それから待合の椅子に座って、裏紙に自分の名前を五十回ほど書こうとした。
書けたのは、姓の一画目だけだった。
紙の同じ場所に、短い縦棒が五十本たまった。
遠目には、細い雨が降っているように見えた。
受取人氏名の欄には、担当者の名を添えることになっている。
私が書けないので、塚原さんが代わりに書いた。
塚原さんは、私の名前を一度も間違えなかった。
そして、書き終えると必ず一行あけた。
砂は毎朝ふえた。
袖口だけではなく、靴の縁にもたまるようになった。
白っぽくて、粒がそろっている。
指で潰しても割れない。
清掃の担当者に聞いた。
「うちは砂は使いませんよ」
研磨材も、床の粉も、色が違うという。
地下二階に、砂の出るところはないはずだった。
それから、匂いに気づいた。
制服の襟のあたりから、かすかに線香が匂う。
洗っても、二日で戻る。
当時の私は一人で暮らしていたから、誰にも指摘されなかった。
自分だけが知っている匂いだった。
※
昼に「みなと」へ行った。
出前ではなく、自分の足で店に入った。
天井の低い、煙草の脂で飴色になった店だった。
老いた主人が、砂糖壺をこちらへ滑らせた。
このあたりは昔どうだったんですか、と聞いた。
主人は少し考えてから答えた。
「川だったよ」
地下線を通すときに暗渠にしたのだという。
「もう川はないよ」
そこは川だったんですか、と私が重ねると、主人は首を振った。
「川より、橋のほうを覚えてる」
送り橋という名だったという。
木の橋で、渡ると少し撓んだ。
「渡ると鳴るんだ。ぎい、ぎい、って」
子どもは日が暮れてから渡るなと言われていたそうだ。
理由は誰も説明しなかった。
橋の袂に堂があったことも、そのとき聞いた。
主人は堂の名を言わなかった。
言わなかったのか、忘れたのかは分からない。
私は珈琲を飲み干して、店を出た。
翌日、駅の資料室に入った。
昭和四年の地下線工事の平面図があった。
いまの取扱所のあたりに、鉛筆で小さく「堂」と書き込んである。
図面の余白に、別の手で「移設せず」とあった。
どこへ移設しなかったのかは、書いてない。
商店会の記念誌にも、二行だけ載っていた。
預け堂といったらしい。
身内が向こうへ渡るとき、その人の持ち物を一つ、堂に納める。
そして、まだこちらに残る者の名を一つ書いて帰る。
納めた物と、書いた名は一対で扱われた。
記念誌には、そこまでしか書いていない。
書いた者が誰なのか、名を書くとどうなるのかは載っていなかった。
資料室の隅に、古い台帳の綴りがまとめて置いてあった。
昭和三十年代のものから順に、紐で括ってある。
私は自分でも理由の分からないまま、それを一冊ずつ開いた。
古いものは、どれも行を詰めて書いてあった。
罫が余っていないほど、びっしり詰めて書いてある。
変わったのは、昭和四十七年の綴りの、途中の頁からだった。
そこから先が、すべて一行おきになっている。
筆跡が変わったわけではない。
書き手が増えても減っても、一行おきだけは途切れていなかった。
私は綴りを紐で括り直し、資料室の明かりを消した。
その週、受付印の日付が合わなくなった。
押すと、一日先の日付が出る。
輪を回して戻し、押し直す。
翌朝、また一日進んでいる。
そういえば塚原さんは、毎朝いちばんに日付印を確かめていた。
三十年、毎朝だ。
私はそれを、几帳面な人の癖だと思っていた。
札の彫りも、読めるようになっていた。
名前だった。
知らない名前だった。
次の日、別の名前になっていた。
その次の日は、隣の部署の若い同僚の名前だった。
四日目、彫りは消えて、無地に戻っていた。
私は札を風呂敷に包み直し、棚の一番下に押し込んだ。
しゃがんだとき、膝が床につかなかった。
床とのあいだに、薄く砂が敷いてあった。
その月の十日、いつもの老婦人が傘を取りに来た。
私は窓口に出るとき、うっかり札を手に持ったままだった。
老婦人は傘を受け取らずに、私の手のほうを見ていた。
「それは、まだ書いちゃいけないよ」
何をですか、と聞いた。
老婦人は答えずに、傘だけ取って帰った。
その月から、老婦人は来なくなった。
翌月の十日も、その次の十日も、黒い骨の洋傘は届かなかった。
塚原さんが休んだ。
三日休んだ。
四日目、私は同僚に「塚原さん、どうしたんですかね」と聞いた。
「三日前から来てないよ」
私は昨日、地下二階で塚原さんと話している。
玉子サンドの話をした。
砂糖を三つ入れるのは多すぎませんかと言って、笑われた。
確かに話した。
※
金曜の夕方、私は決めた。
規定どおりにすればいい。
番号を振り、台帳に載せ、三か月後に処分する。
それだけのことだ。
規定に載っていないものが怖いのなら、規定に載せてしまえばいい。
そう考えた自分を、いまでも許していない。
私は台帳を開いた。
受理日を書いた。
受理駅の欄には斜線を引いた。
品名の欄に「真鍮札」と書いた。
特徴の欄に「彫り、判読不能」と書いた。
受取人氏名の欄に、保管責任者として自分の名を書く。
一画目は書けた。
二画目で手が止まった。
私は左手で右の手首を掴んで、押した。
十分ほどかかって、名前が書けた。
汗が台帳に落ちて、丸い染みになった。
書き終えて顔を上げると、部屋の空気が変わっていた。
空調の音は同じ高さで鳴っている。
それだけなのに、耳が軽い。
私はしばらく座っていた。
その夜、砂はつかなかった。
線香も匂わなかった。
翌朝、自分の名前がすらすら書けた。
三度書いて、三度とも書けた。
私は救われたと思った。
規定に載せてしまえばいい、という自分の考えが正しかったのだと思った。
そう思えたのは、その一日半だけだった。
その週末、久しぶりに友人と酒を飲んだ。
何がおかしいのか分からないくらい笑った。
帰りの電車で、吊り革につかまって眠った。
土曜、塚原さんは来なかった。
日曜も来なかった。
月曜の朝、私は取扱所の鍵を一人で開けた。
明かりをつける前に、砂の匂いがした。
台帳を遡って調べた。
私が金曜に書いた行の、一つ上。
「あずかり」の行が、まだそこにあった。
空白だったはずの受取人氏名の欄に、名前が入っていた。
塚原さんの名前だった。
塚原さんの字ではなかった。
私はそこでようやく分かった。
塚原さんは、読みやすさのために一行あけていたのではない。
自分の名の下に、誰の名も来ないようにしていたのだ。
私は椅子から立てなかった。
足の裏で、乾いた砂が鳴った。
地下二階の、川のない場所で。
塚原さんの机の抽斗を開けた。
鍵はかかっていなかった。
中に、市販の帳面が積んであった。
三十冊近くあった。
一冊目の表紙に、昭和四十七年と書いてある。
開くと、台帳と同じ形式で罫が引いてあった。
日付と、品名と、名前。
すべて塚原さんの筆跡だった。
どの頁も、一行おきに書かれていた。
名前の多くは、私の知らない人のものだった。
何人かは、この駅で長く働いていた人の名だった。
私は最後の一冊を開いた。
残りの頁が、ほとんど白いままの一冊だった。
最後の行には私の名があり、その上から、細い線が一本引かれていた。
二重線ではなかった。
訂正の判も押していない。
ただ、一本だった。
書いた日付は、金曜になっていた。
私が自分の名を台帳に書いた、あの金曜だ。
私は積んであった一冊目に手を伸ばした。
昭和四十七年の、いちばん古い帳面だ。
最初の行の品名は「あずかり」と書いてあった。
受取人氏名の欄に、十八歳の塚原さんの名前がある。
そのすぐ上の行には、別の人の名前があった。
線が一本、引いてあった。
風呂敷の包みを解いた。
真鍮の札に、彫りが戻っていた。
塚原さんの名前だった。
※
塚原さんは、自宅の座敷で見つかった。
布団に入ったまま、眠るような姿だったという。
医者は心臓のことを言った。
外に傷はなかったと聞いた。
枕元に、玉子サンドの包み紙が畳んで置いてあったそうだ。
通夜は、駅から三つ目の駅の近くの寺であった。
私は制服のまま行った。
参列者は少なかった。
塚原さんの姉という人が、私に頭を下げた。
弟は十八でこの会社に入りました、と言った。
最初の冬に、番号札の付いていない包みを一つ拾ったのだと。
「それから三十年、一日も休まなかったんですよ」
姉は、几帳面な子でしたと言って笑った。
私は何も言えなかった。
帰り道、寺の門を出たところで、姉に呼び止められた。
「弟は、あなたのことをよく話していました」
何と話していたのかは、聞けなかった。
札は処分できなかった。
三か月後、規定どおり処分業者に渡した。
渡したはずだった。
受領書に、その品目だけが載っていない。
業者に問い合わせたが、預かった覚えはないと言われた。
翌朝、棚の一番下の段に、鼠色の包みがあった。
私は春に願い出て、地上の部署に移った。
それから何度か会社を変えて、いまは駅とは関係のない仕事をしている。
砂はもうつかない。
線香も匂わない。
名前も書ける。
ただ、書くのが少し遅い。
二画目のところで、いまでも一度、手が止まる。
止まるだけで、書ける。
それだけのことだ。
「みなと」は五年ほど前に閉まった。
主人はもう店にいない。
送り橋の話を確かめられる人は、たぶんもういない。
暗渠の上には、いま自転車の駐輪場がある。
夕方に通ると、下から水の音がする気がする。
気のせいだと思う。
私の机の抽斗には、いまも番号札の付かない品が一つある。
鼠色の風呂敷は、いつのまにか新しいものに替わっていた。
誰が替えたのかは分からない。
彫りは、いまのところ無地のままだ。
私はいまでも、帳面に何かを書くとき、必ず一行あけてから書く。
その一行に、誰の名も来ないように。