
今でも、夜明け前に雪を掃く音がする朝は、雨戸を開けない。
昭和四十四年の秋、私は二十四歳で、越後の山あいにある奥津分校へ代用教員として赴任した。
本校からは谷をひとつ越え、歩いて二時間かかった。
バスは麓の郵便局までしか来ず、そこから先は自分の足で登るしかなかった。
荷物は行李がひとつと、布団袋がひとつ。
坂の途中で振り返ると、麓の屋根はもう見えなかった。
道は沢に沿って折れ曲がり、栗の木の下には去年の毬がまだ黒く残っていた。
谷にはまだ雪はなく、稲を刈り終えた棚田が段になって上へ続いていた。
この谷はもともと炭焼きと木挽きで食ってきた土地で、若い者から順に麓へ降りていったのだと、後で聞いた。
集落は十九軒。
その十九軒から集めて、子どもは十三人だった。
教員は私と、校長を兼ねた戸倉先生の二人きりだった。
校舎は木造の平屋で、廊下は歩くたびに乾いた音を立てた。
職員室の隅に古い達磨ストーブがあり、冬のあいだ、その前だけが人の居場所だった。
赴任した日、戸倉先生は宿直日誌を私に手渡した。
表紙をめくると、校舎の見取り図が薄い鉛筆で描かれていた。
宿直日誌の表紙には、教室の数が四つと書かれていた。
かつては六十人からの子どもがいて、四つとも使っていたのだという。
いまは二つを使い、残りの二つには机と椅子が積み上げられていた。
戸倉先生は、宿直の作法をひとつだけ教えてくれた。
宿直の晩は、夜明け前に雪を掃く音がする。
「雪を掃く音が聞こえても、雨戸は開けなくてよろしい」
校務員の六郎さんが、暗いうちから校庭を掃くのだと先生は言った。
それだけを言って、先生はストーブの蓋を閉じた。
私はその言葉を、ごく当たり前の申し送りとして受け取った。
山の学校には、山の学校の決まりがあるのだろうと思った。
十一月の末に、初雪が降った。
谷は一晩で白くなり、あとは春まで白いままだった。
冬囲いの板が校舎をぐるりと囲い、教室の窓は下半分が塞がれた。
子どもたちは長靴で雪を踏み固めながら、細い列になって通ってきた。
教室は、濡れた毛糸と、ストーブで焼いた餅の匂いがした。
昼の給食は脱脂粉乳と、集落の家が持ち寄る漬物だった。
戸倉先生は、子どもの前でだけよく笑った。
職員室に戻ると、日誌に細かい字を書きつけて、ほとんど口をきかなかった。
私は先生のことを、雪の深い土地に長く勤めた人特有の寡黙さだと思っていた。
先生は宿直の晩に限って、日誌のほかにもう一冊、古い綴りを机の端に置いていた。
背表紙に年号だけが書かれた、大学ノートを紐で束ねたようなものだった。
私が近づくと、先生はそれを引き出しに滑らせ、鍵をかけるでもなく、ただ手のひらで押さえていた。
三年のサヨは、いつも列のいちばん後ろを歩いてきた。
色の白い、口数の少ない子だった。
帳面の字が、ひどく古めかしい書き方をしていた。
私はそれを、祖父母に習ったのだろうと思っていた。
授業のあいだ、サヨは窓の外ばかり見ていた。
窓の外には、校庭と、その向こうに黒く盛り上がった裏山があった。
何を見ているのと聞くと、サヨは首を振って、また窓の外を見た。
他の子どもたちは、サヨを避けもせず、特別に構いもしなかった。
給食を配るときも、掃除の班を決めるときも、サヨの分は当たり前のようにそこにあった。
私だけが、この子の家がどのあたりなのかを、最後まで教えてもらえなかった。
十二月の半ばに、初めての宿直が回ってきた。
宿直室は職員室の隣で、畳が四畳半、火鉢がひとつあった。
夜になると、雪が屋根を滑る音のほかは何も聞こえなかった。
私は日誌を書き終え、火鉢の灰をならして横になった。
山の夜は、耳のなかで血の巡る音がするほど静かだった。
眠りが浅いのは、枕が変わったせいだと思った。
明け方、まだ暗いうちに目が覚めた。
しゃり、しゃり、と音がした。
雪を掃く音だった。
硬く締まった雪の上を、竹の先が撫でていく音。
一定の間隔で、律儀に、少しずつ遠ざかっていく。
私は布団の中で、戸倉先生の言葉を思い出した。
雨戸は開けなくてよろしい。
私は開けなかった。
音はしばらく続き、やがて聞こえなくなった。
それだけのことだった。
音が止んでからも、私はしばらく天井の木目を見ていた。
掃く音というのは、本来もっと投げやりな音であるはずだと、後になって思った。
あの音には、決められた歩幅で仕事を進める者の、几帳面さがあった。
朝、雨戸を開けると、校庭は青白い雪で埋まっていた。
その雪の上に、掃かれた跡が一本ついていた。
一本だけだった。
掃除なら、行って戻り、また行って戻るはずだと思った。
跡は校舎の軒下から始まり、校庭をまっすぐ横切り、裏山の杉林の手前で消えていた。
まるで、誰かが歩くための道をこしらえたようだった。
私はその跡の上を、少しだけ歩いてみた。
幅は一尺ほどで、竹箒の筋が細かく残っていた。
杉林の手前で跡は途切れ、その先には足あとがひとつもなかった。
雪はやわらかく、私の長靴だけが深く沈んだ。
昼になって、私は六郎さんに礼を言った。
六郎さんは、便所の汲み取り口を直しながら顔を上げた。
「わしゃ、日が昇ってからしか掃かんよ」
そう言って、また下を向いた。
私は、自分が聞き違えたのだと思うことにした。
その日の午後、私は物置から竹箒を探した。
校舎にあった箒は三本で、どれも穂先が擦り減り、雪を掃けば折れそうなものばかりだった。
校庭に残っていた筋は、もっと新しく、穂の腰の強い箒の跡だった。
その夜、私は宿直日誌をさかのぼって読んだ。
前任の代用教員は、二年前の二月に辞めていた。
最後の頁には、日付と天気のほかに、一行だけ書いてあった。
「扉を数えないこと」
筆跡は、震えていた。
私はその頁に指を置いたまま、しばらく動けなかった。
同じ頁の下に、戸倉先生の几帳面な字が短く添えられていた。
本人の希望により退職、とだけ書いてあった。
※
年が明け、雪は軒に届いた。
一月の宿直の晩も、明け方に音がした。
しゃり、しゃり。
私は雨戸を開けなかった。
朝、跡はやはり一本、裏山へ向かって伸びていた。
集落の何軒かでも、明け方に音を聞いたという話が出た。
蔵の前を掃く音、屋根の上を掃く音。
誰も、雨戸は開けなかった。
開けたのは、麓から来た郵便配達の若い男だけだった。
その人は春に配達区を替えられ、谷には来なくなった。
集落の者は、その話をするとき、必ず声を落とした。
その若い配達員が何を見たのかは、誰も言わなかった。
ただ、話が終わるたびに、誰かが必ず「掃くだけなら、悪いもんじゃねえ」と言い添えた。
悪いもんじゃねえ、という言い方が、私にはかえって恐ろしかった。
二月に入って、教室で数が合わなくなった。
朝の会で人数を数える。
十四人いた。
出席簿は十三人。
もう一度数えると、十三人だった。
数え間違いだと思った。
次の日も、最初に数えたときだけ十四人だった。
その次の日も同じだった。
私は数えるのをやめ、名前を呼ぶことにした。
名前を呼べば、十三人しか返事をしなかった。
返事をしないもう一人が、どこに座っているのかは、どうしてもわからなかった。
サヨに、ふと聞いてみたことがある。
「教室に、知らない子がいると思ったことはない」
サヨは窓の外を見たまま、短く答えた。
「せんせ、数えたらいかん」
それきり、何も言わなかった。
廊下の扉を数えるようになったのは、その頃からだ。
校舎は東から西へ一本の廊下が通り、片側にだけ部屋が並んでいる。
職員室、宿直室、教室、教室、物置、物置。
宿直日誌の表紙は、教室は四つだと書いている。
使っている教室が二つ、机を積んだ教室が二つ。
数は合っている。
それなのに、廊下を歩いて扉を数えると、扉は一つ多かった。
私が数えた教室は、いつも五つだった。
数え直すと、四つになった。
目を離し、また数えると、五つになった。
五つ目の扉には、把手のところに縄が巻かれていた。
縄は古く、雪の湿気で黒く縮んでいた。
その扉を開けたことは、一度もない。
開けようとして把手に手を伸ばすと、それは四つ目の物置の扉になっていた。
私は誰にも言わなかった。
言えば、雪に閉じ込められた若い教員の話として、麓まで運ばれてしまう気がした。
職員室の壁には、昭和のはじめに撮った分校の写真が額に入れて掛かっていた。
校舎の前に子どもと教員がずらりと並び、右端に竹箒が一本、立てかけてある。
誰かが手を離した箒が、地面に落ちずに、まっすぐ立っているように見えた。
写真の説明書きには、教室四、児童六十二名、とだけ書かれていた。
駐在の山口さんが、雪下ろしの見回りに来たときに、それとなく聞いた。
「分校の校庭を、朝早く掃く人はいますか」
山口さんは長靴の雪を落としながら答えた。
「あそこは、朝いちばんに寄る」
「掃いた跡なら、毎年見とるよ」
「箒を持った人は、見たことがない」
そう言って、山口さんは笑わなかった。
手帳に何かを書きつけて、帰っていった。
あとで思えば、あれは記録を取っていたのだと思う。
山口さんは、帰りぎわに一度だけ振り返って、校庭の跡を指さした。
「先生、あれ、去年より校舎に近い」
言われて見ると、跡の始まりは軒下ではなく、廊下の掃き出し窓のすぐ下から伸びていた。
二月の終わり、集落のいちばん奥に住むキヨさんの家に呼ばれた。
九十を越えて、目はほとんど見えないという人だった。
囲炉裏の煙が、天井を飴色に光らせていた。
キヨさんは、私の顔ではなく、火を見て話した。
明治十七年の春先に、この谷で大きな雪崩があったのだという。
沢沿いの六軒が、屋根まで雪に沈んだ。
掘り出そうにも、雪は締まって鉄のようになっていた。
そういうとき、村では掃き手を出した。
掃き手は、雪の上に道をつける役目の者だ。
竹箒で雪を掃き、掘るべき場所まで、一本の道をこしらえる。
道ができれば、あとの者はその上を歩いて、埋まった家まで行ける。
掃いた道は、まっすぐでなければならなかった。
曲がると、道の先が別のところへ繋がるのだと言った。
別のところがどこなのかは、キヨさんも聞かされていなかった。
だが掃き手は、必ず一人だけ、春まで見つからなかった。
谷の雪が緩んで、皆が家へ戻る頃になっても、掃き手だけは戻らなかった。
「そういう役目だすけな」
キヨさんはそう言って、火箸で灰を掻いた。
明治十七年の掃き手は、十六の娘だったという。
名は、キヨさんも知らなかった。
「名を呼べば来るすけ、誰も呼ばんかった」
それから、こう続けた。
「掃く音がしたら、雨戸は開けんな」
私は、戸倉先生と同じ言葉を、別の人の口から聞いた。
帰りぎわ、キヨさんは私の袖を掴んだ。
見えないはずの手が、正確に私の袖口を探り当てた。
「名前を、書いてやったらいかんよ」
何の名前ですかと聞いたが、キヨさんはもう火を見ていた。
帰り道、月が出ていて、雪の上に自分の影が濃く落ちた。
集落の道は、誰かが毎朝きれいに掃いてあった。
そのときは、それを親切だと思っていた。
翌日、子どもたちに掃き手を知っているかと聞いた。
六年の男の子が、鉛筆を転がしながら答えた。
「ハキサマだろ」
教室が、少し静かになった。
一年の子までが、その名を知っていた。
大人は誰も、その名を口にしなかった。
私が知らなかっただけだった。
「せんせ、ハキサマは道つくるだけだよ」
「悪いことしないよ」
「連れてくのは、道の先にいるやつだよ」
子どもたちは口々にそう言い、そして急に黙った。
サヨだけが、窓の外を見ていた。
その日の帰り、私は職員室で戸倉先生に尋ねた。
先生は日誌から目を上げず、同じことを言った。
「あれは校務員だと思っておけばよい」
先生の万年筆は、そのあいだ一度も動かなかった。
インクの玉が、紙の上で少しずつ広がっていくのを、私は見ていた。
その夜、私は職員室の引き出しを開けた。
先生がいつも手のひらで押さえていた、あの古い綴りが入っていた。
頁の多くは白紙で、数年に一度だけ、短い記述があった。
昭和十九年、二月、扉五つ。
昭和三十一年、三月、扉五つ、名簿一名増。
そのあとに続く名は、どれも一文字だけ、墨で塗り潰されていた。
※
三月の初めに、その冬いちばんの雪が降った。
三日降り続き、集落は谷ごと沈んだ。
分校は休校になり、宿直だけが残った。
その晩、戸倉先生は麓の会合で山を下りていた。
校舎には私一人だった。
火鉢の炭が尽きた頃、廊下で音がした。
しゃり、しゃり。
屋外ではなかった。
廊下の板の上を、竹の先が撫でていた。
私は起き上がり、宿直室の障子を細く開けた。
廊下の突き当たりに、雪明かりが差していた。
扉を数えた。
五つあった。
五つ目の扉の縄が、解けて床に落ちていた。
扉は、人ひとりぶんだけ開いていた。
私は、そこまで行った。
なぜ行ったのかは、今もわからない。
足が動いたので、動くほうへついていっただけだった。
教室の中には、机が四列並んでいた。
使われていない教室のはずが、机の上に埃はなかった。
いちばん奥の机の上に、それは正座していた。
蓑を着て、菅笠を目深に被っていた。
こちらに背を向け、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
膝の上に、竹箒を横たえて抱いていた。
蓑の縁から、雪の粒がぱらぱらと落ちていた。
部屋の中なのに、その周りだけ、息が白かった。
膝から下が、他人のものになったようだった。
息を吸うと、喉の奥に凍った鉄の味がした。
私は動けなかった。
声を出してはいけない、と思った。
思ったのに、喉の奥から音が出た。
「あ」というだけの、意味のない音だった。
笠が、ゆっくりとこちらを向いた。
笠の下に、顔はなかった。
顔のあるべきところに、固く搗き固められた雪が、きっちりと嵌め込まれていた。
目の窪みも、鼻筋もなく、ただ横に一本、口だけが刻んであった。
その口が、ゆっくりと開いた。
「道はできた」
声は、雪を踏む音に似ていた。
「あんたも、この学校の子らも、みんな置いていかれる」
私は後ずさろうとして、廊下の板に踵をとられた。
指先の感覚がなく、床が遠かった。
倒れる寸前、机の上のそれが、竹箒を持ち直すのが見えた。
掃く構えだった。
私に向かって、ではなかった。
私の後ろの、暗い廊下に向かって、掃く構えだった。
そこから先の記憶がない。
覚えているのは、廊下の雪明かりが、ゆっくりと畳まれていくように暗くなったことだけだ。
※
気がつくと、宿直室の布団の中にいた。
障子は閉まり、火鉢には新しい炭が足されていた。
炭を足した者が誰なのかは、聞かなかった。
朝、廊下の扉は四つだった。
縄はどこにもなかった。
校庭には、掃かれた跡が一本、裏山へ伸びていた。
昼過ぎに山を登ってきた戸倉先生に、私はすべてを話した。
先生は最後まで黙って聞き、それから同じことを言った。
「あれは校務員だと思っておけばよい」
私は、六郎さんの宿直の記録を見せてくださいと頼んだ。
先生は、少しのあいだ私の顔を見て、日誌の綴りを持ってきた。
校務員は、あの冬のあいだ一度も宿直に入っていなかった。
六郎さんは十一月に腰を痛め、雪が消えるまで麓の娘の家にいた。
掃いていたのは、六郎さんではなかった。
では、戸倉先生は何を知っていて、あの言葉を私に渡したのか。
先生は日誌を閉じ、それきり何も言わなかった。
その閉じ方が、あまりに手慣れていた。
先生は最後に、私の湯呑みに茶を注ぎ足した。
「この学校に来る先生は、みんな一度は同じ話をされる」
「話したあとは、たいてい辞めていかれる」
「あなたは、三月まではいてくださるでしょう」
それは頼みではなく、日程の確認のような言い方だった。
三月の終わり、私は名簿を清書していた。
十三人の名前を、一人ずつ丁寧に書き写していく。
書き終えて数えると、十四人あった。
名簿の十四人目は、私の字で書かれていた。
サヨ、と書いてあった。
私は、その名前を書いた覚えがなかった。
出席簿を繰った。
サヨの欄は、四月から三月まで、一日も欠けていなかった。
私は集落の名簿を借りて、十九軒すべてを調べた。
サヨという名の子は、この谷のどこにもいなかった。
子どもたちに聞くと、皆、サヨちゃんを覚えていた。
列のいちばん後ろにいた子。
窓の外を見ていた子。
それ以上のことは、誰も言えなかった。
キヨさんの言葉を思い出したのは、その晩だった。
名前を、書いてやったらいかんよ。
私は、書いてしまっていた。
そして、書いたのがこの三月なのか、去年の四月なのかも、わからなくなっていた。
去年の四月に私が受け取った出席簿には、はじめから十四人分の欄が引いてあった。
十四人目の欄だけ、罫線が一本、他より薄かった。
四月、私は本校へ移された。
奥津分校は、その五年後に閉じた。
校舎は取り壊され、いまは杉が植わっている。
戸倉先生の消息は知らない。
六郎さんも、キヨさんも、とうに谷を離れた。
私は結局、教員を四十年勤めて、雪の少ない町に家を建てた。
子どもも孫もいる。
それでも冬になると、時々、夜明け前に目が覚める。
枕元の時計は、決まって四時を少し過ぎている。
布団の中で息を殺していると、家の外で、硬い雪を撫でる音が始まる。
今朝も、夜明け前に雪を掃く音がした。
この町には、掃くほどの雪は降らない。
私は雨戸を、開けなかった。