地下の浴槽だけ焦げていない

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六年ほど前、私がまだ十代だった頃の話です。

あの晩のことで、いまも折に触れて思い出すのは一つだけです。

山奥の廃墟の、地下の浴槽の縁にあった跡のことです。

友人と私、それに二つ上の先輩が二人。

男四人で、深夜に地元で有名な心霊スポットへ行くことになりました。

むさ苦しい面子ですが、言い出したのは先輩たちです。

友人がそういうものを極端に苦手にしていて、からかうつもりだったのだと思います。

「今から○○行こうぜ」

車で一時間ほどの、山奥にある建物でした。

昔は山の作業員の寮だったと聞いています。

昭和の終わりに火が出て、それきり使われていません。

地下で火の手が上がり、何人かが外に出られなかった。

建物の裏手の崖から、落ち武者が昇ってくる。

噂は、そのあたりのものでした。

どこまで本当かは、誰も知りません。

地元では、名前を出すだけで場が静かになる場所でした。

実際に入ったという人の話は、聞いたことがありませんでした。

行く前から、先輩たちは楽しそうでした。

「もちろん地下行くよな」

「行くに決まってるやん」

そう言っていたのに、現地に着くと車から降りませんでした。

「うお。マジで怖っ」

窓越しに外観を眺めているだけです。

私が聞きました。

「降りひんのか」

「じゃあお前降りろよ」

そういう流れになりました。

友人は、着いてからずっと私のTシャツの裾を握っていました。

「降りるわ」

そう言って離してもらおうとすると、怯えた顔で首を振ります。

「やばい。ここはやばいて」

「何が」

「絶対やばい」

それ以上は言いませんでした。

言葉にできないから、裾を握っていたのだと思います。

あとで知ったことですが、友人の家系にはそういう話がいくつかあるそうです。

姉が一時期おかしくなって、拝み屋を呼んだとか。

本人は詳しく話しませんでした。

苦手なのには理由があったのだと、そのときは思いませんでした。

先輩たちが急かすので、私は友人の手をほどいて車を降りました。

建物の周りを一周しました。

コンクリートの二階建てで、窓にガラスは一枚も残っていません。

外階段の手すりが赤く錆びて、触ると粉が手につきました。

裏手の崖も覗きました。

下は木が茂っていて、底は見えません。

崖の縁に、コンクリートの土台のようなものが残っていました。

物干し台の跡かもしれません。

金具だけが、錆びて曲がったまま突き出ていました。

落ち武者どころか、風の音もしませんでした。

車の前に戻ると、先輩たちが身を乗り出してきました。

「なんか出た?」

「いや、なにも」

それでも誰も降りてきません。

「お前らが行こうって言うたんやろ」

「降りろって。地下見るんやろ」

先輩の片方が、窓の隙間から顔を出しました。

「お前、怖くないんか」

「あんまり」

そこで先輩Aが、妙なことを言い出しました。

「じゃあ明日までここで泊まってみろ」

「なんでこんなとこで寝にゃあかんのよ」

真っ当な返事だと、いまでも思います。

「怖くないんやろ。十万やるって言うたら泊まるか」

「前金で今払うんならやるわ」

「ええで」

先輩Aは財布から、一万円札を十枚出しました。

「なんでこんなに持ってんの」

その日の昼、パチンコで大勝ちしたと言っていたのを思い出しました。

「後で返せゆうても返せへんで」

「返せとか言わへんわ」

「ほんまに?」

「男に二言はない」

「朝まで、やろ」

「朝までや」

念を押して、金を受け取りました。

「あほやこいつ」

「十万も出すほうもアホやろ」

友人は何も言わず、後部座席でうずくまっていました。

先輩たちは、私を置いていく前にもう一つ注文をつけました。

「地下行って来い」

十万円をもらった手前、断る理由もありませんでした。

地下の浴槽の縁

地下へは、建物の奥の階段から下ります。

一段が高くて、幅が狭い。

懐中電灯の光を足元に落としながら、一段ずつ降りました。

火事があったのは本当でした。

壁も天井も、真っ黒に焦げています。

光を当てると、焦げた面が油を塗ったように光りました。

地下は、思ったより広くありません。

コンクリートの部屋が二つ。

奥のほうに、浴場だったらしい場所がありました。

目につくものは、一つだけです。

地下の浴槽が、床に据え付けられたまま残っていました。

タイル張りで、幅は二メートルほど。

中は空で、底に泥と枯葉が溜まっています。

妙だと思ったのは、そこでした。

地下の浴槽だけ、焦げていないのです。

壁は真っ黒なのに、浴槽の内側だけが白いタイルのままでした。

火の日に、水が張られていたのだろうと思いました。

湯を落とさずに置く風呂は、いまでも田舎の家にはあります。

朝までそのままにして、翌日に洗う。

山の寮なら、なおさらでしょう。

水を運ぶのが仕事のうちだった時代です。

水があれば、そこだけ焼けません。

理屈としては通ります。

光を縁に沿って動かしました。

縁の上面に、擦れて色の変わった場所がありました。

指の幅くらいの跡です。

それが、等間隔に並んでいました。

長く使われた風呂なら、縁は全体が擦れるはずです。

この跡は、一か所ずつ離れていました。

そのときは、深く考えませんでした。

タイルの目地に、指を入れてみました。

土が詰まっていて、爪の先が黒くなります。

擦れた跡のところだけ、目地の土が浅い。

何度も手が置かれれば、そうなるのだろうと思いました。

数えはしませんでした。

数えなかったことを、あとで悔やみました。

懐中電灯を消してみました。

完全な闇になるかと思いましたが、階段の上のほうがわずかに明るい。

目が慣れてくると、浴槽の縁の線だけが、ぼんやり浮かんで見えました。

白いタイルだからです。

理屈は分かっているのに、あまりいい気分ではありませんでした。

五分ほどで、私は地下を出ました。

車の前に戻って報告しました。

「壁が真っ黒だった。火事でなんやらゆうてたやん」

「おー」

先輩たちは嬉しそうに聞いていました。

「明日の朝九時に迎えに来る」

そう約束して、四人のうち三人が山を降りていきました。

山の上の一晩

残された私は、廃墟でいちばんましな場所を探しました。

一階の、元は食堂らしい部屋です。

床の埃を手で払って、壁に背をつけて座りました。

時刻は深夜一時過ぎ。

携帯電話をいじりましたが、電波は一本立つか立たないかでした。

誰かに電話をして時間を潰すにも、時間が時間です。

諦めて、電源を切りました。

こういう山奥で怖いのは、幽霊より野犬ではないか。

本気でそう考えていました。

地下は汚れがひどく、さすがに気味が悪い。

一階は壁が抜けていて、外と変わりません。

うかつに寝ると危ないな、と思いました。

あまりに暇だったので、もし幽霊が出てきたらどうするか、などと考えました。

まあ、びっくりはするだろう。

そのくらいの気持ちでした。

一度だけ、外で物音がしました。

枝を踏むような音です。

立ち上がって壁の穴から覗きましたが、何も見えません。

野犬ならもっと足音が続くはずだと思い、また座りました。

音はそれきりでした。

明け方に一度、寒くて目が覚めました。

夏でも山は冷えます。

上着を持ってこなかったことを後悔しました。

膝を抱えて、また眠りました。

そのとき、地下から水の音が聞こえた気がしました。

気がした、というだけです。

朝になってから確かめには行きませんでした。

考えているうちに眠っていました。

目を覚ますと、午前五時を過ぎていました。

夏で、もうかなり明るくなっています。

私は迷わない程度に、山を散歩しました。

野うさぎがいて、少し感動しました。

こういう自然もいいものだ、と思ったのを覚えています。

廃墟に戻って、九時を待ちました。

待つあいだ、建物の正面をあらためて見ました。

玄関の上に、金属の看板の枠だけが残っています。

文字板は外されたのか、落ちたのか、ありません。

枠の下に、ビスの跡が六つ。

均等ではなく、右の二つだけ間隔が狭い。

何が書いてあった枠なのか、いまも分かりません。

九時になっても、誰も来ませんでした。

電波の立つ場所を探して電話をかけました。

『すまん寝てた』

友人の家に泊まった先輩二人は、寝起きの声でそう言いました。

大体予想どおりです。

「ええからはよ来い」

迎えが来たのは、十一時半を過ぎてからでした。

車には先輩二人と友人、それに先輩Aの彼女が乗っていました。

「なんかあったか?」

「特に何も」

ありのままを話しました。

「野うさぎおったで」

「は?」

「朝な。散歩しとったら」

「お前、何しに行ったん」

「泊まりに」

先輩Aの彼女が後ろで笑っていました。

つまらなさそうでしたが、まあそんなものだろうという結論になりました。

車の足元の手

山を降りるため、車が発車しました。

間もなく、私は自分の足元に違和感を覚えました。

誰かに掴まれています。

後部座席は端から私、友人、先輩Aの彼女の順でした。

二人とも、両手は見えています。

総毛立ちました。

同時に、『ええ? このタイミング?』とも思いました。

少し可笑しくなったほどです。

夏で、私は膝までのパンツでした。

直に、素足を掴まれていました。

掴むというより、爪を立てて食い込ませてくる感触です。

痛みがありました。

声を出せば、車内がパニックになります。

この山道で事故を起こしたら、それこそ取り返しがつきません。

もしかすると、それが狙いなのかもしれない。

そんなことまで考えました。

いちばん見られてはいけないのは、隣の友人です。

私は前のめりに座り、影で足元を隠しました。

そのまま、十分ほど耐えました。

爪は、左足のふくらはぎに食い込んでいました。

四本です。

親指にあたるものはありませんでした。

つまり、掴んでいる手は下から回っていることになります。

座席の下から伸びていると考えるしかありません。

私はそこで、考えるのをやめました。

窓の外を見ることにしました。

カーブのたびに、ガードレールの向こうに谷が見えます。

先輩Aの彼女が、途中で窓を開けました。

「なんか匂わへん?」

「何が」

「焦げたような」

先輩Aが「気のせいやろ」と言って、窓を閉めさせました。

山を降りる手前で、掴む感触が消えました。

ガソリンスタンドに寄ったあと、先輩Aの彼女が言いました。

「ミニストップでポテト食べたい」

店に寄ることになりました。

私は皆が降りたあと、先輩Aだけをこっそり呼びました。

「どないしたん」

「危なかったでぇ」

血のにじんだ足を見せました。

爪の痕が、四つ並んでいました。

先輩Aの顔が、見る間に青くなりました。

「マジか。自分でやったとかじゃないんか」

私は短く切った自分の爪を見せました。

「こんな爪でどうやってすんな痕つけれんねん」

「……」

「まあどっちでもええけど焦ったわ」

「お前、なんで黙ってんのん。そん時言えよ」

「言うたらパニックになって事故るかもしれへんやないか」

「あ、そうか」

「ナイス判断やろ」

「おお」

「あの二人には言うなよ。トラウマなるで」

「分かってるけど、俺にも言うなよ。怖いわ」

「いや、誰かに言いたいやんかやっぱり」

そういうやりとりをして、買い物を済ませました。

レジに並んでいるとき、友人が私の後ろに立ちました。

ポテトを二つ持っています。

「これ、お前の」

「頼んでへんけど」

「いいから」

友人は私の顔を見ませんでした。

車に戻るまで、一言も話しませんでした。

思えば、友人はあの日ずっとそうでした。

山でも、車の中でも、店でも。

うつむいて、誰とも目を合わせない。

私はそれを、寝不足のせいだと思っていました。

友人宅に戻り、私はそのまま自宅へ帰りました。

戸棚の中の顔

当時、私はワンルームのマンションに住んでいました。

四階の角部屋です。

鍵を開けて中に入ると、部屋に人がいました。

坊主頭で、ひどい猫背。

紺のジャージを着た男でした。

四階なので、逃げるには私を押しのけて玄関から出るしかありません。

私はその場から動かずに声をかけました。

「空き巣?」

振り向きません。

「じゃあ幽霊? 足あるけど」

やはり振り向きません。

しばらく見ていましたが、ぴくりとも動きませんでした。

仕方なく近づきました。

「どっちでもええけど、土足やめてや」

そう言うと、男はベランダのほうへ静かに歩いて、私と距離を取りました。

手には何も持っていません。

私はベッドに腰を下ろしました。

「盗るもんなんかなんもないし、警察も呼ばへんから、とりあえず出て行ってよ」

返事はありません。

「しゃあないから叩き出すよ」

それにも反応しませんでした。

ふと掛け時計に目をやって、男に向き直ったときです。

男は、顔だけをこちらに向けていました。

初めて目が合いました。

目が細く、口がわずかに開いています。

生気があるように見えました。

幽霊にしては、はっきりしすぎている。

私はそのとき、八割がたは人間だと思っていました。

立ち上がって、腕を掴みました。

掴んだ感触が、異様でした。

どっしりと中身の詰まった段ボールを掴んだような手応えです。

人の腕の柔らかさが、まるでありませんでした。

温度もありませんでした。

冷たいのではなく、温度そのものが無い。

掴んだ場所に、体温が移ってこないのです。

その感触は、いまでも指に残っています。

男は腕を少し振り払うように動かしました。

私は思わず手を離しました。

男はとぼとぼと玄関へ歩き、ドアを開けて出て行きました。

下の様子を見ようとドアへ向かうと、途中のトイレの扉が鳴りました。

ドォン、と激しい音でした。

警戒しながら開けましたが、中は普段どおりです。

次に、流しの上の小さな戸棚から同じ音がしました。

ドォン。

開けてみました。

四十手前くらいの男の顔が、そこにありました。

こちらをじっと見ています。

私も、しばらく見返しました。

どうせ何か言っても黙っているのだろう。

そう思って、戸を閉めました。

閉めてから、五秒ほど手を離せませんでした。

中でまた音がするのではないかと思ったからです。

音はしませんでした。

もう一度開ける気にはなりませんでした。

その戸棚は、引っ越すまで使いませんでした。

食器は、流しの下の棚に移しました。

事務室で鳴る携帯

夕方まで何も起きませんでした。

少し寝てから、当時働いていた店に出ました。

そこに、自分は霊感が強いとよく言っている大学生のアルバイトがいました。

Hさんとしておきます。

「Hさん、○○って行ったことあります?」

「あるよぉ。あるけどもう絶対行きたぁない」

「やばいんですか」

「やばいやばい、絶対やばい。あそこ行くん?」

「行かないですけど、地下がやばいとかって聞いたんですけど」

「だって地下で火ぃ出たんやろ」

Hさんは、そこの由来も知っていました。

昔は山仕事の人が寝泊まりする寮で、冬場は町から出られなくなる。

だから地下に浴場を作って、大人数で入れるようにしてあった。

火の日は冬で、地下に湯が張ってあった。

そこまでは聞いた話で、確かなことは分からない、という言い方でした。

「なんでそんなに詳しいんですか」

「昔、親戚がおったんよ。あの山の仕事」

「え」

「もう誰も残ってないけどね」

Hさんはそこで話を切り上げました。

いつもは自分から長く話す人でした。

私は、焦げていなかった地下の浴槽を思い出しました。

仕事中、携帯電話は事務室に置いています。

アルバイトが呼びに来ました。

「なんかずっと鳴ってますよ」

確かに、机の上で震え続けていました。

先輩Aからでした。

『あ、つながった』

『なんかあいつがずっとおかしいねん』

『頼む、ちょっと来てくれ、頼む』

後ろから、叫び声が途切れずに聞こえていました。

ただごとではないと思い、オーナーに電話で許可を取りました。

他の従業員に頭を下げて、友人の家へ向かいました。

三十分弱で着きました。

部屋には五人いました。

叫び続けている友人。

それを抱えている先輩B。

泣きはらした顔の先輩Aの彼女。

水の入ったコップを握りしめた先輩A。

そして、知らないおばさん。

あとで聞くと、隣に住む大家さんでした。

私は先輩Aに詰め寄りました。

「こいつ知らん所でクスリでもやってたんか」

「そんな事するわけないやろ」

先輩Aは半ばパニックでした。

「とり憑かれたんちゃうんかこれ。なんとかなれへんのか」

そう言われても、私に分かるはずがありません。

先輩Bに代わって、友人の肩を掴みました。

「どないしたんや。落ち着け」

声は届いていないようでした。

叫び声を上げるだけです。

口の端が泡立っていました。

私は名前を呼び続けました。

肩を両手で押さえて、顔を近づけて、何度も呼びました。

十回目か二十回目かで、友人の声が変わりました。

「ふぅぅ、ううっ」

甲高い声を上げたかと思うと、私の腕に顔をうずめてきました。

「もう大丈夫なんか」

首を横に振ります。

「とりあえず水飲もう」

離れようとすると、また叫びました。

私の名前を二度叫んで、泣き声で言いました。

「離れんといてくれえ」

その姿勢のまま、三十分ほどじっとしていました。

暗い地下で謝る

ある程度落ち着いてから、先輩Aの彼女に代わってもらいました。

先輩二人と大家さんを連れて、部屋の外に出ました。

大家さんにひとしきり詫びて、三人で話しました。

私は、車で足を掴まれたことを話しました。

部屋のジャージの男と、戸棚の顔のことも話しました。

先輩Bが言い出しました。

「お前が怒らせたからちゃうんか」

「怒らせたって、泊まったから?」

「なんかしたんちゃうんか」

「寝ただけやがな」

「それで怒ってんのちゃうんか」

「幽霊を?」

私が笑うと、先輩Bは急に頭を抱えてタバコを吸い出しました。

「もういやや」

先輩Aに聞きました。

「どうする」

「お祓いしてもらうしかないんちゃうんか」

「あんなもんアテになるんかいな」

「だってそれしかないやろうが」

「怒ってんねやったら、謝ったらええんちゃうん」

「誰によ」

「○○行って」

「おい、また行くんか」

「だって家かえって、ジャージがまた出てくるかどうか分からんし」

「絶対嫌や。行くんだったら一人で行けや」

「別に来いゆうてへんがな」

そういうやりとりをして、私は自宅へ車を取りに戻りました。

夜中の山道は、自分で運転すると一層際どく感じました。

ヘアピンが続き、ガードレールのない区間もあります。

一度道を間違えて、引き返しました。

廃墟に着いてから、ライトを持ってきていないことに気づきました。

外から声をかけました。

「すいませんでしたー」

何も返ってきません。

「なんか反応してよ」

独り言です。

俺は何をやっているのだろう、と少し気恥ずかしくなりました。

携帯電話の明かりをあてながら、一階を歩き回りました。

「一晩泊まったからって、そんな怒らいでもええやんかー」

「帰れーゆうてくれたら、歩いてでも帰ったのにー」

誰もいないのに、言い聞かせるように話しました。

正直、明かりもないのに降りるのは嫌でした。

それでも、やっぱり地下だろうと思いました。

階段を降りると、前の晩には感じなかった気配がありました。

空気の密度が違うとしか言いようがありません。

「おおっ、これは。おるなあ」

わざと口に出しました。

「いきなり後ろに立ってるとかはやめてね」

地下の真ん中あたりまで歩きました。

ほとんど何も見えません。

「もう来えへんから。ごめんね」

誰かに言うように言って、少し待ちました。

何も起きませんでした。

携帯の明かりが弱くなり、私は壁を探して手をつきました。

手が触れたのは壁ではなく、地下の浴槽の縁でした。

タイルの冷たさで分かりました。

そのまま、明かりを手元に向けました。

自分の指が置かれている場所が、色の変わったあの跡でした。

指の位置が、ぴたりと合っていました。

縁の擦れた跡は、指の幅で、いくつも並んでいました。

一人が繰り返し掴んだのなら、跡は一か所に重なるはずです。

並んでいるということは、そういうことでした。

私はそこで、もう一度だけ言いました。

「出てくるんはええけど、俺のとこだけにしてね」

そして、階段を上がりました。

後部座席の剣幕

車に戻り、廃墟の外観を少し眺めてから、山を降りました。

運転中に足を掴まれてはかないません。

できるだけ速度を落として走りました。

すると今度は、後部座席から肩を掴まれました。

最初は掴むだけでした。

それがだんだん、爪を立ててきます。

「いったぁ」

それでも、安全に走ることだけを考えました。

爪が食い込む力は、どんどん強くなりました。

広い道路の脇に車を止めました。

「ちゃんと謝ったやんけ、調子のんなハゲェ」

怒鳴って、後ろを振り向きました。

暗い車内に、ものすごい剣幕の女性の顔がありました。

私の肩へ、手を伸ばしています。

心の中では、うわぁ、こっわぁ、と思っていました。

それでも目を逸らさずに言いました。

「なんやねん」

爪を立てる力が、すっと緩みました。

やがて、触れられている感触もなくなりました。

「いや、ホントすみませんでした」

「もうあそこ行かないですから」

「じゃあ僕前向くんで、その間にどっか行ってね。お願い」

前を向いて、車を走らせました。

曲がり道が減ってから、後ろを振り返りました。

誰もいませんでした。

二日後、また先輩Aから電話がありました。

友人が叫び出したというので、友人宅へ向かいました。

横になって叫ぶ友人を見下ろしながら、私は言いました。

「もうええってお前。落ち着け」

やみません。

「お前ホンマ、静かにせえへんと水かけるでー。はい五、四、三」

カウントすると、友人は静かになりました。

「何やお前それ、くだらん演技すなよ」

「演技じゃない。急に意識が戻った」

友人は、まっすぐ私の目を見てそう言いました。

私にはどちらでもよいことでした。

その後、友人が叫び出すことはなくなりました。

私はいまでも、あの縁の跡のことを考えます。

水の中は焼けません。

だから、あの浴槽だけが白いままだったのでしょう。

では、縁を掴んでいた手は、どちら側から掴んでいたのか。

中から外へ出ようとした手なのか。

外から中へ入ろうとした手なのか。

暗くて、それだけは分かりませんでした。

似たような場所の話は、ほかにもあるようです(真夜中の厠)。

山の中で起きたことは、山を降りると輪郭がぼやけます(謎の駅と老人の地図)。

あの廃墟は、数年前に取り壊されたと聞きました。

土地は造成されて、いまは何もありません。

取り壊しの話を聞いたとき、私が最初に思ったのは浴槽のことでした。

据え付けのタイル張りです。

重機で割るしかなかったでしょう。

割ったときに、縁はどうなったのか。

跡ごと粉になったのなら、それでいいと思います。

話は以上です。

いまでもたまに、おかしなものが見えたりします。

それでも、私は元気です。

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