
3年前の秋の話をする。
私はインフラ点検の会社に勤めている。
橋の桁やトンネルの覆工、ダムの護岸を見て回る仕事だ。
要するに、数える仕事だと思っている。
ひび割れを数え、ボルトを数え、杭を数える。
数えたものは記録に残り、記録に残らなかったものは、無かったことになる。
その年、中国地方の山間にあるダム湖が、記録的な渇水になった。
水位計の目盛りは、下から7つ目まで出ていた。
目盛りが出るということは、それだけ水が減ったということだ。
湖の底から、沈んだはずの道が出てきていた。
その道の先にあったものを、地元の人は湖底の帳面と呼んでいた。
依頼は、護岸の点検だった。
水が引いている間にしか見られない部分がある。
管理所からすれば、渇水は災害であると同時に、またとない機会でもあった。
本来は2人1組で入る現場だ。
その日は同僚の高梨が別の現場に取られていた。
管理所の職員が立ち会うので、単独でも構わないという話になった。
作業記録の署名欄には、私ひとりの名前しかない。
湖に着いたのは、朝の7時前だった。
霧が出ていた。
湖というより、大きな水たまりの跡だった。
岸のコンクリートが、地層のように何段も露出している。
そこから下は、灰色の泥だった。
泥の上を、一本の道が横切っていた。
アスファルトではない。
砂利と、縁石のようなものが続いている。
ダムができる前の、村の道だと聞いた。
縁石の上に、白い線の名残があった。
センターラインだったのだと思う。
車が走っていた道なのだと、そこで初めて実感した。
管理所の職員は、佐分利さんという人だった。
50代の、無口な人だった。
「ここ、出るんですか」と私は冗談のつもりで聞いた。
佐分利さんは笑わなかった。
「出るというより、戻るんです」
そう言って、長靴の先で泥を軽く叩いた。
「数えんといてくださいね」
意味がわからなかった。
聞き返したが、佐分利さんはもう歩き出していた。
私の仕事道具は、ドローンと記録用のタブレットだ。
護岸の高いところは足場が組めない。
だから飛ばして撮る。
その日は風がほとんどなかった。
飛ばすには良い日だった。
泥の上に降りると、長靴が5センチほど沈んだ。
水を含んだ泥は、冷たいというより重かった。
匂いがした。
魚でも枯れ草でもない、鉄錆に似た匂いだった。
湖の底というのは、こういう匂いがするのかと思った。
長靴を引き抜くと、泥が離れたがらない音を立てた。
一歩ごとに、その音がした。
静かな場所だった。
鳥の声も、車の音もしない。
山が湖を囲んでいるせいで、外の音が入ってこないのだと思った。
佐分利さんは道の上を歩いていた。
泥に沈まないのは、下に砂利があるからだろう。
私も道に上がった。
道は、湖の奥へ向かってまっすぐ続いていた。
途中で霧に呑まれて、先が見えない。
「この先に、集落があったんです」
佐分利さんが言った。
「箱瀬といいます」
「今は誰も住んでいない」
「当たり前ですね。沈んでるんだから」
佐分利さんは自分の言葉に少しだけ笑った。
その日、初めて見せた表情だった。
点検そのものは、順調だった。
ひび割れが3か所。
目地の劣化が1か所。
どれも急ぐほどのものではない。
午前中で終わる見込みだった。
予定が狂ったのは、道の脇に杭を見つけたからだ。
泥から、黒い木の杭が突き出していた。
頭が平らに削られていて、何か彫ってある。
一本ではなかった。
道に沿って、等間隔に並んでいる。
霧の向こうまで続いていた。
泥から出た杭の列
私は道を外れて、杭に近づいた。
頭の部分に、浅く線が彫ってあった。
正の字だった。
横線が五本で一つになる、あの数え方だ。
一本の杭に、正の字がいくつも並んでいた。
指でなぞると、溝に泥が入り込んでいた。
爪で掻くと、黒い木の地肌が出た。
腐ってはいない。
水に浸かっていた木が、かえって硬くなることがある。
この杭も、そうなっているようだった。
彫られた正の字は、一本ごとに数が違った。
多い杭では、三十を超えていた。
少ない杭は、横線が二本だけだった。
何を数えたものかはわからない。
「佐分利さん」と私は呼んだ。
「これ、なんですか」
佐分利さんは道の上から見ただけで、近づいてこなかった。
「数え札です」
「数え札」
「箱瀬の人が立てたものです」
「何を数えてたんですか」
佐分利さんは少し黙った。
「山から取ったもんを」
「取ったもん、というと」
「木とか、獣とか、水とか」
「取ったら、その分を札に刻む」
「そういう決まりがあったそうです」
私は写真を撮った。
点検の記録とは関係がない。
ただ、珍しいと思っただけだ。
そのとき佐分利さんが、初めて強い声を出した。
「数えんといてください」
朝と同じ言葉だった。
私は写真を撮る手を止めた。
「数えると、どうなるんですか」
佐分利さんは答えなかった。
代わりに、こう言った。
「昼までに上がりましょう。霧が濃くなる」
ドローンを飛ばしたのは、10時過ぎだった。
護岸を左から右へ、一定の高さで撮っていく。
画面には湖底と、杭の列が映っていた。
上から見ると、杭の列は道に沿って弧を描いていた。
集落を囲むように立っていたのだと思う。
画面の端に、四角い影が並んでいるのも見えた。
家の土台だろう。
基礎のコンクリートだけが、泥の上に残っている。
屋根も柱も、とうに無い。
それでも、道と土台があれば、町の形はわかる。
人が住んでいた場所は、上から見るとよくわかるものだ。
私は、数えてしまった。
意識してではない。
画面に映るものを数えるのは、癖のようなものだ。
ひび割れを数え、ボルトを数える。
それと同じだった。
37本あった。
私はタブレットに「杭37」と書き込んだ。
点検記録の、余白の部分だった。
バッテリーの警告が出たので、ドローンを戻した。
飛行時間は18分。
いつもと同じだった。
霧は、佐分利さんの言ったとおり濃くなっていた。
帰り道、道の上を歩きながら、後ろで水の音がした気がした。
振り返ったが、湖の水面はずっと先だった。
音が届く距離ではない。
泥を踏む自分の足音が、反響しているのだろうと思った。
その日は、それだけだった。
乾かない靴底
異変というほどのものではなかった。
最初は、音だった。
事務所に戻って、ドローンの映像を確認していたときだ。
ヘッドホンをつけると、風切り音の下に、別の音があった。
低くて、規則的な音だった。
拍子を取るように、同じ間隔で繰り返される。
水の中で誰かが手を叩いているような音、と言えば近い。
再生速度を落とすと、それは声に聞こえた。
言葉は聞き取れない。
ただ、同じ長さの音が、等間隔に並んでいた。
数を唱えているときの、あの抑揚だった。
高梨にも聞かせた。
「なんも聞こえないですけど」
「ここ、ここです」と私はスライダーを動かした。
「風の音じゃないですか」
高梨はヘッドホンを外して、それきり興味をなくした。
スピーカーで鳴らすと、確かに何も聞こえない。
ヘッドホンでしか拾えない音だった。
波形を表示してみた。
山が等間隔に並んでいた。
間隔は、きっかり1.2秒だった。
機械の音なら、もっと正確に揃う。
人の声なら、もっとばらつく。
そのどちらでもない揃い方だった。
18分の映像の、最初から最後まで、その音は続いていた。
途切れる場所はなかった。
靴に気づいたのは、翌朝だ。
安全靴を玄関で洗って、干しておいた。
朝、履こうとしたら、靴底が濡れていた。
溝に、灰色の泥が残っていた。
洗ったときに落としきれなかったのだろうと思った。
もう一度洗って、今度はブラシで溝をこすった。
次の朝も、同じだった。
溝に泥があった。
湿っていた。
鼻を近づけると、あの匂いがした。
鉄錆に似た、湖の底の匂いだ。
私はその週、現場に出ていない。
事務所で図面を引いていただけだ。
泥がつくはずがなかった。
玄関のたたきにも、泥の跡があった。
外から中へ向かう、一方向だけの跡だった。
出ていった跡はなかった。
その週は、夜中に何度も目が覚めた。
物音がしたわけではない。
静かすぎて目が覚めるということが、初めてあった。
台所の給湯器の音も、冷蔵庫の音も聞こえない。
耳が水の中にあるような感じだった。
起き上がると、その感じは消えた。
妻には言わなかった。
言えば、掃除の話になる。
そういう話にしたくなかった。
代わりに、タブレットを開いた。
あの日の記録を見返した。
余白に書いた文字は、「杭37」ではなかった。
「杭38」と書いてあった。
私は自分の字を疑った。
7と8を書き間違えるような書き方はしていない。
写真を数えた。
やはり37本だった。
記録だけが、1本多かった。
箱瀬から出た人
佐分利さんに電話をした。
点検報告の体裁を借りて、杭のことを聞いた。
佐分利さんは、少しの間、黙っていた。
「数えましたか」
「数えました」
「何本でした」
「37本です」
電話の向こうで、椅子が軋む音がした。
「会わせたい人がいます」
週末に、湖から車で20分ほどの集合住宅へ行った。
河内さんという男性だった。
80を過ぎていると聞いたが、背筋がまっすぐだった。
箱瀬で生まれて、ダムができる前に出た人だという。
部屋には、古い写真が額に入れて飾ってあった。
谷の底に、屋根が並んでいる写真だった。
「数え札を見たんやて」
河内さんは、こちらを見ずにそう言った。
「見ました」
「あれはな、借りたもんを書く札や」
「借りた」
「山も水も、人のもんやない」
「取ったら、借りや」
「借りたら、帳面につける」
「帳面」
「祠に置いてあった」
河内さんは、湯呑みを両手で包んだ。
「うちらは、湖底の帳面とは呼ばんかった」
「沈んでから、よそが言い出した名や」
「元は、ただの帳面や」
私は、聞きたいことを一つだけ聞いた。
「数えると、何が起きるんですか」
河内さんは、初めてこちらを見た。
「数えた者が、書くことになる」
「何を」
「借りを」
「僕は、何も借りていません」
「数えたやろ」
湯呑みが、机に置かれた音がした。
「数えるいうのは、帳面を開けることや」
「開けたら、閉めなあかん」
「閉め方は」
河内さんは答えなかった。
代わりに、写真を指した。
「この谷はな、数が合うてる間は静かやった」
「合わんようになると、増えるんや」
「何が」
「数えるもんが」
河内さんは、そこで話を止めた。
私が黙っていると、湯呑みに茶を足した。
「昔な、数が合わんようになった年があった」
「合わない」
「札の数と、帳面の数が違うた」
「誰かが書き間違えたんじゃないですか」
「そう言うた人も、おった」
河内さんは窓の外を見た。
「その年は、谷に霧が降りん日がなかったそうや」
「霧ですか」
「わしが生まれる前の話や」
「聞いただけや」
それ以上は、何を聞いても同じ答えが返ってきた。
聞いただけや、と河内さんは繰り返した。
帰りに、管理所へ寄った。
佐分利さんが、建設当時の資料を出してくれた。
水没した戸数、移転先、補償の記録。
事務的な数字が並んでいた。
その中に、一枚だけ手書きの紙があった。
「祠移設ニ関スル件」と書いてある。
谷の祠は、移設されていなかった。
「移設先未定ノママ湛水」と、鉛筆で書き足されていた。
日付は、私が生まれるより前だった。
「沈めたんですか」
「沈んだんです」と佐分利さんは言い直した。
「誰も、沈めたとは書かんのですよ」
資料の最後に、移転者の名簿があった。
世帯ごとに、人数が書いてある。
合計の欄が、二度書き直されていた。
消した跡の上から、新しい数字が書かれている。
私は、その数字を読まないようにして紙を閉じた。
湖底の帳面と数え札
湖底の帳面という言い方を、私はそれから何度も聞いた。
地元の人は使わない。
使うのは、渇水を見に来た人たちだった。
湖の底が出ていると、人が来る。
道が見える、家の土台が見えると、写真を撮っていく。
そのうちの誰かが言い出した言葉らしい。
言葉というのは、そうやって増える。
増えたものは、誰も数えない。
翌週、私は自分の作業記録を印刷した。
あの日の分だ。
署名欄を見て、手が止まった。
作業記録の署名欄には、2人分の署名があった。
一つは私の名前だ。
もう一つは、読めなかった。
崩した字ではない。
正の字のような、線の集まりだった。
正の字が七つと、あまりの線が二本。
数えると、37だった。
私はその紙を裏返した。
裏返してから、意味のない動作だと気づいた。
ドローンのログを開いたのは、その夜だ。
飛行時間は18分だったはずだ。
バッテリーの残量からも、それは間違いない。
ログに残っていた飛行時間は、47分だった。
軌跡を表示した。
護岸を左から右へ撮ったはずの線は、そこになかった。
代わりに、円があった。
杭の列に沿った、いびつな円だ。
その円を、機体は何周もしていた。
周回数の表示は、37だった。
私は高梨に見せた。
「これ、周回のモードですよ」
「そんなモード、使ってない」
「じゃあ誰かが設定したんでしょ」
高梨は悪気なく言った。
「あの現場、先輩ひとりでしたよね」
私は、うなずかなかった。
高梨は画面を覗き込んだまま言った。
「この円、きれいすぎません?」
「どういう意味だ」
「手で飛ばしたら、こんなに同じ形になりませんよ」
「何かをなぞってるみたいです」
私は画面を閉じた。
なぞるものが何かは、わかっていた。
その夜から、数が増え始めた。
タブレットの余白の数字だ。
朝に見ると、前の日より1つ多い。
39、40、41。
消しても、翌朝また書いてある。
私の字だった。
書いた覚えはない。
妻が、玄関の床を気にするようになった。
「拭いても、朝になると濡れてる」
「雨漏りじゃないか」
「二階が濡れてないのに」
私は返事をしなかった。
妻はそれきり、その話をしなくなった。
代わりに、玄関に置いていた靴を全部しまった。
50を超えたころ、私は佐分利さんに電話をかけた。
「返しに行きます」
「何をですか」
「数えた分を」
佐分利さんは、長く黙った。
「明後日、水を戻します」
「放流を止めるんです」
「湖底が見えるのは、明日までです」
水を戻す前の日
翌日は、朝から雨だった。
霧ではなく、細かい雨だった。
泥はいっそう重くなっていた。
長靴が、膝の下まで沈む場所もあった。
佐分利さんは道の上で待っていた。
「僕は行きません」
「わかってます」
私はドローンを持っていかなかった。
タブレットだけを、防水の袋に入れて持った。
杭の列に沿って歩いた。
数えないように歩くのは、難しかった。
目は勝手に数える。
私は杭を見ないで、足元だけを見て歩いた。
それでも、視界の端で杭は動いた。
歩くたびに、一本ずつ後ろへ流れていく。
その流れが、歩数と合わなかった。
三歩進んで、四本過ぎることがあった。
私は歩数を数えるのをやめた。
やめてからのほうが、早く着いた気がした。
列の終わりに、石が積んであった。
膝ほどの高さの、崩れかけた石積みだ。
祠の土台だと、すぐにわかった。
上に載っていたものは、何もなかった。
石の隙間に、泥が詰まっていた。
私は手で掻き出した。
爪の中に泥が入った。
冷たいというより、粘りついた。
出てきたのは、木の板だった。
厚みのある黒い板が、何枚か重ねてある。
紐で綴じられていた形跡があった。
表面に、線が彫ってある。
正の字だった。
一枚に、びっしりと並んでいた。
これが帳面なのだと思った。
紙ではなく、木だった。
水の底に置くなら、紙では残らない。
板は全部で六枚あった。
指で数えてしまってから、しまったと思った。
一枚ずつ、泥を落としていった。
彫られた線は、板によって深さが違った。
古い板ほど浅く、新しい板ほど深い。
最後の板だけ、線がまだ白かった。
彫ったばかりの木の色だった。
私は、タブレットを取り出した。
写真を撮るためではない。
余白の数字を、消すつもりだった。
画面をつけた。
雨が、画面に落ちた。
余白の数字は、消えていた。
代わりに、あの日の作業記録の署名欄が表示されていた。
私は、いちばん下の板を裏返した。
そこだけ、正の字ではなかった。
湖底の帳面の最後の行には、私の作業員番号が、私の字で書かれていた。
雨は強くなっていた。
私は板を元の位置に戻した。
石を積み直して、泥を被せた。
数えないように、急いだ。
道に戻ると、佐分利さんが傘を差し出した。
何も聞かれなかった。
その夜から、放流が止まった。
雨は一週間降り続いた。
湖の水位は戻った。
道も、杭も、石積みも、また沈んだ。
タブレットの余白に、数字が書かれることはなくなった。
靴底の泥も、乾くようになった。
先月、その湖の近くを通る仕事があった。
雨の多い年で、水は満ちていた。
私は車を停めて、岸から水位計を見た。
水位計の目盛りは、下から8つ目まで出ていた。
私は数えなかった。
あの杭は、いまも私の記録の中にだけ、37本ある。
湖の底のほうは、まだ増えているのだと思う。