
孫に、おばあちゃんの若い頃の仕事の話をしてくれと頼まれました。
学校で、この土地の昔の産業を調べる宿題が出たのだそうです。
私は昭和二十六年の秋から、上州の山あいにあった製糸場で働いておりました。
繭から糸を挽く仕事です。
そのことを七十年、誰にも話さずにきました。
話してはいけないと言われたからではありません。
どこから話せば筋が通るのか、いまだに分からないからです。
ですから、宿題の役には立たないと思います。
それでも、聞かれましたので申し上げます。
※
糸には糸口があり、終わりがあります。
繭というものは、蚕が口から出した一本の糸を、体のまわりにぐるぐると巻きつけて作った玉です。
ほどけば必ず一本に戻る。
一粒からとれる長さは、よくて千五百メートルほどでしょうか。
それが尽きれば、その繭の糸は終わりです。
谷で最初に教わったのが、そのことでした。
最後に思い知ったのも、そのことでした。
※
父と母は、戦争のあとの数年のうちにいなくなりました。
私は十九から、前橋の叔母の家に置いてもらっておりました。
二十二になった夏、その家の外塀に一枚の紙が貼ってあったのです。
女工募集、寄宿あり、経験を問わず、簗瀬製糸。
その紙を誰が貼ったのか、いま思うと誰も知りませんでした。
叔母は「あんたが持ってきたんだろう」と言い、私は叔母が貼ったのだと思っておりました。
紙は少し湿っていて、糊がまだ乾いておりませんでした。
指で押すと、へこんだところがそのまま残りました。
私はその足で、荷を作りました。
なぜそんなに急いだのか、うまく言えません。
働き口が要ることは確かでしたが、その紙でなくてもよかったはずなのです。
※
汽車と乗合を乗り継いで、祖父沢という谷に入りました。
川が一本、山を削って落ちてくるだけの谷です。
両側の斜面が、上のほうまで桑でした。
桑は毎年刈り込まれて背が低く、遠くから見ると、土そのものが波打っているように見えます。
その波の底に、簗瀬という在がありました。
四十一戸あると聞きました。
製糸場は在のいちばん川下、水を引きやすい場所に建っておりました。
木造の平屋で、屋根は瓦ではなく鉄板でした。
雨が降ると、中の声が聞こえなくなるほど鳴りました。
※
着いた日の夕方、私は工場の裏手にある小さな塚へ連れて行かれました。
土を高く盛って、まわりを石で囲っただけのものです。
蛹塚と呼ばれておりました。
糸を取ったあとの蛹を、代々そこへ埋めてきたのだそうです。
一年で何十万という数になります。
それを百年近く続けたのですから、塚の下がどうなっているのか、私には見当がつきませんでした。
塚のまわりだけ、桑の葉が厚く、色が濃うございました。
「ここの桑は摘まないよ」と、賄いのトメさんが言いました。
理由は言いませんでした。
私も、その日は聞きませんでした。
※
谷に入ってすぐ、私は蚕室の手伝いにも回されました。
掃き立てのころの蚕は、胡麻粒ほどの黒い虫です。
それが桑を食んで、三度眠って三度起きるたびに、白く大きくなっていきます。
蚕室に籠っていると、桑を食む音がずっと聞こえます。
細かい雨が屋根を打つ音に、よく似ておりました。
夜、その音を聞きながら眠るのが、私は好きでした。
上蔟のころになると、谷じゅうが桑と繭のにおいになります。
甘いような、埃っぽいような、青いにおいです。
七十年経って、いまだにそのにおいだけは思い出せます。
検番というのは、女工さんの手元を見て回る係です。
私は数と目盛りを読むのが早いというだけで、その役をあてがわれました。
繰糸というのは、煮た繭を湯に浮かべ、藁の箒でかき回して糸口を起こし、何粒かの糸を合わせて一本にし、枠に巻き取る仕事です。
一本に見えますが、中身は何粒もの繭の糸が寄り合わさっています。
挽いているうちに繭が尽きて糸が細くなれば、新しい繭の糸口を継いで足す。
太くなりすぎれば、一粒抜く。
検番の仕事は、その太さを一日じゅう同じに保つことです。
ですから、一本に見える糸の中身は、朝から晩まで入れ替わり続けているのです。
糸そのものは、朝からずっと切れずに続いている。
それが、繰糸というものでした。
※
簗瀬には、他所では聞かない決まりが一つございました。
その日の糸を、工場の中で切ってはいけない。
夕方、枠から外した糸の端を持って塚まで行き、そこで鋏を入れる。
切り落とした短い端は、塚の土に指で穴を開けて埋める。
それだけです。
「切り口は塚で返す。それだけ守れば、あとは何をしてもいい」
トメさんはそう言って、あとは漬物の話をしました。
毎日、日の落ちる前に、女工さんが列を作って塚へ歩いていきます。
手に糸の端を持って、誰も喋らずに。
私はその列を、最初はきれいだと思って見ておりました。
※
寄宿は工場の二階で、十六人が二部屋に分かれて寝ました。
冬が近づくと湯たんぽの取り合いになります。
年嵩のキヨさんという人が強く、いつも二つ抱えて寝ておりました。
取られたほうが文句を言うと、キヨさんは寝たふりをするのです。
ラジオが一台あって、日曜の晩だけ皆で聞きました。
初めての給料で、私は麓の町へ下りて櫛を買いました。
柘植の、安いものです。
その櫛は今も持っております。
そういう、どこにでもある秋でした。
※
おかしいと思ったのは、十月に入ってすぐの晩です。
厠へ起きて、階下の繰糸場の前を通ったのです。
枠の回る音がしておりました。
ころころ、ころころと、水を含んだ糸が巻かれていく音です。
ただ、湯を打つ音がしませんでした。
繰糸には、必ず釜の音がついてまわります。
湯が沸き、繭を落とし、箒でかき回す音です。
その音が一つもないまま、枠だけが回っている。
戸の隙間から覗きましたが、灯は消えておりました。
暗い中で、音だけが続いておりました。
私は部屋へ戻って、布団を頭からかぶりました。
怖いとは思いませんでした。
ただ、朝まで足の指に力が入ったままでした。
※
翌朝、いちばんに繰糸場へ下りました。
釜の湯は、使ったあとの濁り方をしておりました。
繭の毛羽が浮いて、縁に湯垢の輪が新しくついている。
指を入れると、氷のように冷たいのです。
火は前の晩のうちに落としてありました。
湯垢の輪は、湯が減ったときにできるものです。
冷めた湯は減りません。
私はその日、誰にも言いませんでした。
言えば、自分がおかしいことになると思ったのです。
※
帳場に、三田村さんという年寄りがおりました。
帳面と算盤だけを預かって、あとは一日じゅう座っている人です。
その人が、雪の降った晩に、火鉢の前で谷の昔のことを話してくれました。
簗瀬は、江戸の終わりまで糸で身を立てる在ではなかったのだそうです。
桑はよく育つのに、蚕が必ず途中で当たらなくなる。
掃き立てて三度眠るまではよくても、上蔟の前に、そろって糸を吐かなくなるのだと。
それで谷の者は、桑を作っては他所の在へ売っていた。
ある年、上方から流れてきた蚕師の女が、谷に留まって一つだけ作法を教えたそうです。
糸を、谷の外で切るな。
それだけだったと三田村さんは言いました。
翌年から、簗瀬の蚕は当たるようになりました。
明治のなかごろには、郡でいちばんの繭を出す在になったのだそうです。
蚕師の女は谷を出ず、そのまま塚の下におります、と三田村さんは言いました。
蛹と一緒にですかと私が聞くと、三田村さんは火箸で灰をならして、しばらく黙っておりました。
それから「あれは蚕のための作法じゃないんだ」と言って、帳面を閉じました。
※
十一月、工場に機械が二台入りました。
多条繰糸機というものです。
一人で二十本ばかりを一度に挽けます。
据付に来た技師は町の人で、谷の作法を聞いて笑いました。
「糸の切れっ端を毎日土に埋めていたら、一年でどれだけの手間になりますか」
もっともな話です。
機械の糸は、機械の中で切れます。
切り落としたくずは箱にまとめて、月の終わりにまとめて焼く決まりになりました。
塚へ歩く列は、その月からなくなりました。
誰も文句を言いませんでした。
トメさんだけが、夕方になると裏口の戸を開けて、しばらく外を見ておりました。
何を見ているのですかと聞くと、「風だよ」と言いました。
その日は風のない日でした。
※
七番の釜がおかしくなったのは、十二月の初めです。
検尺器という道具があります。
決まった周りの長さの車に糸を巻きつけて、回した数で長さを出すものです。
毎日、釜ごとに巻き取った糸の長さを測って帳面に書きます。
七番の枠だけ、いつまでたっても糸が細くならないのです。
細くならないということは、繭がまだ尽きていないということです。
けれど鍋の中の繭は、朝から一粒も減っていない。
私は自分の目を疑って、繭を数えました。
十七粒。
昼にもう一度数えました。
十七粒。
夕方も十七粒でした。
そしてその日、七番から巻き取った糸は、検尺で二万六千メートルを超えておりました。
十七粒からとれる長さは、多く見積もっても二万五千ほどです。
私は帳面に、二万五千と書きました。
数を書き換えたのは、生まれて初めてでした。
※
次の日曜、私は塚へ行きました。
誰も行かなくなって、ひと月が経っておりました。
土の上に、指で開けた新しい穴の跡がありました。
一つではありません。
数えると、十一ありました。
穴の一つをほじると、糸の端が出てきました。
機械の糸ではありません。
手で挽いた糸は、指の癖でわずかに撚りが甘くなります。
持てば分かります。
その切れ端は湿っていて、握ると生ぬるうございました。
十二月の、霜の降りた朝です。
顔を上げると、塚のまわりの桑だけが、白い霜の中で新しい芽を吹いておりました。
他の桑は、どれも枯れ枝でした。
※
十二月の第二日曜は、皆で麓の町へ下りました。
年に何度もない外出の日で、朝から寄宿がやかましくなります。
映画館で洋画を一本観て、食堂で汁粉を食べました。
帰りの乗合で、スエさんが眠って私の肩にもたれてきました。
キヨさんが「重いだろう」と笑って、代わりに自分の肩を貸しました。
窓の外は、もう暗くなっておりました。
谷の口に入ると、桑畑が黒い波のように見えました。
あの日のことは、いまも楽しかったこととして憶えております。
それが最後の、何も起きなかった一日でした。
※
その晩、トメさんに聞きました。
塚に、誰か行っていますかと。
トメさんは味噌を溶く手を止めて、こう言いました。
「あんた、切り口は返したかい」
返しておりませんと答えました。
トメさんは「そうかい」と言って、また味噌を溶きました。
それだけです。
※
隣の在から通っていた、スエさんという女工さんがおりました。
歳は私と同じくらいで、いちばん親しくしていた人です。
昼のあいだ、二人で干し芋を分けて食べておりました。
そのスエさんが、あるとき何気なく言ったのです。
「うちの在ではね、簗瀬へ嫁いだ娘の、生家の名を呼ばないことになってるの」
なぜですかと聞きました。
「呼ぶと、足りなくなるから」
何が足りなくなるのですかと聞くと、スエさんも知りませんでした。
「お婆がそう言うから、そうしてるだけ」
そう言って、干し芋の端を私にくれました。
※
月に一度、薬を売りに来る行商の男がおりました。
帳場の前で風呂敷を広げて、胃の薬や膏薬を並べる人です。
その男が、湯呑みを持ったままこう言いました。
「この谷は、いつ来ても人が同じくらい居るね」
「よその在は、若いのがどんどん出ていって、来るたびに減っていくのに」
私は、いい谷ですねと答えました。
男は「そうだねえ」と言って、風呂敷を結びました。
結びながら、もう一度だけ、外の桑畑のほうを見ました。
※
事務所の棚に、供養帳という古い帳面がありました。
塚に切り口を返した日を、一日一行ずつ、代々書き継いだものです。
初めのほうは筆で、途中から鉛筆になっておりました。
私は十一月の頁を開きました。
機械の入った日で、記録は止まっておりました。
その次の行から先は白紙です。
ただ、帳面のいちばん最後の頁に、一行だけ日付が書いてありました。
三月十四日。
年は書いてありません。
その日は、まだ来ていない日でした。
※
機械の据付は十一月の半ばで終わりました。
技師は町へ帰ったはずです。
けれど十二月の半ば、私は工場の脇でその人を見かけました。
同じ鞄を提げて、同じ紺の作業着でした。
まだいらしたんですかと声をかけると、その人はこう答えました。
「昨日の続きをやってるんですよ」
翌日も見かけました。
「昨日の続きをやってるんですよ」
その次の日も、同じ場所で、同じ言い方でした。
三度目に、私は続きとは何ですかと聞きました。
技師は少し考えてから、「何でしたかね」と言って、鞄を提げ直しました。
帳場に聞くと、据付の代金はとうに支払い済みで、書類も判も揃っているとのことでした。
※
十二月の二十日過ぎ、夜業がありました。
年末に納める分が足りず、二人ずつ交代で残ることになったのです。
私は十時から、七番の釜を見ておりました。
機械は止めてあり、動いているのは手挽きの釜が三つだけでした。
鉄板の屋根に霰が当たって、細かい音を立てておりました。
川の音が、いつもより近く聞こえました。
湯気が上がって、天井の梁が白く曇っておりました。
十一時を過ぎたころ、隣の釜のキヨさんが手を止めました。
「あんた、七番に何粒入れた」
十七粒ですと答えました。
「今日、一粒も足してないね」
足しておりませんと答えました。
キヨさんは立ってきて、検尺器を回しました。
回して、止めて、また回しました。
それから、目盛りを二度読みました。
検尺器の目盛りが十万を回っても、その糸はまだ細くなりませんでした。
キヨさんは何も言わずに自分の下駄を履いて、外へ出ていきました。
戸は開けたままでした。
その晩、キヨさんは寄宿に戻りませんでした。
翌朝、寝床はきちんと畳んであり、湯たんぽが二つ、隅に並べて置いてありました。
誰も、キヨさんの話をしませんでした。
※
私はひとりで七番の前に残りました。
糸は、まだ出ておりました。
枠を止めて、糸を指に掛け、どこから来ているのかを辿ってみました。
釜の中の十七粒は、どれも糸口が起きたままで、そこから糸が出ています。
けれど繭は、朝に数えたときと同じ大きさでした。
私は一粒をつまみ上げました。
軽くも重くもありませんでした。
その繭から出ている糸は、私の指の中で、まだ動いておりました。
引かれていたのです。
私が巻いていたのではありませんでした。
目で追うと、糸は釜から出て、窓の桟の隙間を抜けて、外へ続いておりました。
※
私は角灯を持って外に出ました。
霰は止んで、月が出ておりました。
糸は桑畑の上を、地面から一尺ほどのところで、真っ直ぐに張られておりました。
張られている、という言い方しかできません。
たるみが一つもないのです。
私はその下を歩きました。
糸は塚まで続いておりました。
そして塚の土に、吸い込まれるように入っておりました。
入っているのは、一本ではありませんでした。
角灯を上げると、数えきれないほどの糸が、塚の斜面から生えて、谷のあちこちへ伸びておりました。
在の家々のほうへ。
山の上の桑畑へ。
川下の、工場の窓へ。
どれも、たるんでおりませんでした。
※
そこで私は、自分がいつも女工さんに説明していたことを思い出しました。
一本に見えても、中身は何粒もの繭の糸が寄り合わさっている。
細くなれば足し、太くなれば抜く。
そうして、太さを同じに保つ。
簗瀬は四十一戸だと聞いておりました。
着いた日も四十一戸で、その冬も四十一戸でした。
けれどキヨさんの寝床は空いて、次の月には知らない娘が入りました。
私が来る前の秋にも、一人抜けたのだと後で聞きました。
糸の太さは、変わらないのです。
私は、細くなった糸に足された一粒でした。
前橋の外塀に貼ってあった、糊の乾いていない紙のことを思いました。
指で押したへこみが、そのまま残っていたことを思いました。
あれは、貼られたばかりだったのです。
※
塚の前に、トメさんが立っておりました。
いつからいたのかは分かりません。
下駄も履かず、足袋のままでした。
「切り口は返したかい」
三度目でした。
私は首を横に振りました。
トメさんは、少し困ったような顔をしました。
「返さないと、終わらないよ」
それから、こう言い足しました。
「終わらないほうが、いいこともあるけどね」
私はその晩のうちに荷物をまとめました。
櫛と、給料袋と、着替えだけです。
※
糸の切り口は、返しませんでした。
返し方を知らなかったのではありません。
返せば、その日が閉じてしまう気がしたのです。
夜明け前に谷を出て、乗合の始発に乗りました。
窓から見た桑畑は、霜で白く、波打っておりました。
糸は、もう見えませんでした。
乗合が谷の口を出たとき、運転手が独り言のように「今年は早いね」と言いました。
何がですかと聞くと、返事はありませんでした。
※
簗瀬製糸は、昭和四十年代のはじめに畳んだと聞いております。
建物はもう無く、蛹塚だけが桑の跡地の隅に残っているそうです。
行ったことはありません。
スエさんとは何度か文のやりとりをしましたが、そのうち返事が来なくなりました。
最後の便りには、簗瀬の在は今も四十一戸だと書いてありました。
キヨさんの消息は、誰からも聞いておりません。
あの技師の名も、とうとう分かりませんでした。
※
私には、いまだに一つ癖があります。
袖口や裾のほつれた糸を見つけると、途中で切ることができないのです。
鋏を持ってきても、手のほうが先に動いて、端まで引いてしまう。
引ききって、糸が縫い目から全部抜けてしまってから、ようやく手が止まります。
七十年、そうです。
着物を何枚も駄目にしました。
娘には、年寄りの癖だと言ってあります。
※
糸には糸口があり、終わりがあります。
私はそう教わって、そう教えてまいりました。
けれど、あの釜の糸には終わりがありませんでした。
いまでも指がそれを探しているのだと思います。
宿題には、蚕は人が飼わなければ生きられない虫だ、と書けばよいと思います。
それは、本当のことですから。
ただ、飼われているほうが、いつも蚕だとは限りません。
あの晩の糸を、私はまだ切っておりません。