坂の下の灯りに届ける夜

雨夜の月明かり、坂道の集落

雨が上がった晩は、配達アプリを開かないようにしている。

仕事なので、本当はそんなわけにいかない。

それでも、去年の六月からずっとそうしている。

坂の下の灯りを、もう見たくないからだ。

私は三十四歳で、フードデリバリーの配達員をしている。

前は事務機の修理をしていた。

会社が畳まれて、次を探しているうちに、こちらのほうが長くなった。

歩合なので、走った分だけになる。

それが性に合っていた。

去年の春に、家賃の安い部屋へ移った。

市の北の外れにある、二階建てのアパートだ。

建ってから四十年は経っている。

風呂は追い焚きができない。

それでも、家賃は前の半分だった。

アパートは、丘のふもとにある。

丘といっても山ではない。

宅地にするために、なだらかにされた土地だ。

上へ行くほど新しい家が並び、下へ行くほど古くなる。

私の部屋は、いちばん下にあたる。

そこから北へ向かうと、長い坂がある。

勾配はきつくない。

ただ、とにかく長い。

電動アシストのバッテリーが、この坂だけで二割減る。

逆に、下りは危ない。

ブレーキを握りっぱなしにしていないと、途中で手がしびれてくる。

配達を始めた最初の月に、一度それで転んだ。

手のひらの傷は、いまも白く残っている。

坂を上がりきったあたりが、配達範囲のいちばん端だ。

そこから先は、造成したまま放ってある更地が広がっている。

土が段になって積まれ、上に雑草が生えている。

街灯だけが等間隔に立っていて、夜になると律儀に点く。

家は一軒もない。

注文が入るはずのない場所だった。

この仕事を始めてから、雨の日が嫌いではなくなった。

降ると注文が増え、報酬に上乗せがつく。

濡れた路面に街灯が縦に伸びて映るのも、悪くないと思っていた。

雨が上がった直後の一時間は、特に静かだ。

道に人がいない。

信号も、どこか間延びして見える。

私はその時間帯が好きだった。

一日の配達は、平均して二十件ほどになる。

駅前の飲食店と、坂の下側にある団地との往復がほとんどだ。

顔を覚えられて、名前を呼ばれることもある。

悪くない仕事だと思っていた。

隣の部屋には、七十を過ぎた男性が一人で住んでいる。

昔は土木の会社にいたと聞いた。

私が帰ってくる時間に、よく外で煙草を吸っている。

挨拶をすると、天気の話を短くして、それで終わる。

その程度の付き合いだった。

去年の六月九日の夜だった。

夕方まで降っていた雨が、九時を過ぎて上がった。

その日は注文が少なく、駅前で待機ばかりしていた。

十時十二分に、端末が鳴った。

駅前のラーメン店から、北へ四キロ。

報酬は、普段の三倍近くついていた。

距離が出ると、そういうことはある。

受け取りの店は、いつも使っている店だった。

店主とは軽口を叩く程度の間柄だ。

袋を渡されるとき、遠いね、と言われた。

私は、報酬がいいので、と答えた。

地図にない六丁目

住所を見て、指が止まった。

見たことのない丁目だった。

私の担当する区は、五丁目までしかない。

画面には、六丁目と出ていた。

打ち間違いだろうと思った。

そういう注文は、月に何度かある。

行ってみて違えば、サポートに連絡すればいい。

商品を受け取って、坂へ向かった。

坂を上りきって、更地の手前まで来た。

地図では、ここから先に道はない。

そのはずだった。

けれど、画面の中で、細い道が一本伸びていた。

更地の縁を回り込むように、線が引かれている。

顔を上げると、実際にそこにアスファルトがあった。

センターラインのない、車一台ぶんの道だ。

入口に、反射板の付いたポールが二本立っていた。

ポールの根元に、真新しい白線が引かれていた。

雨に洗われて、濡れて光っていた。

そのときは、おかしいとは思わなかった。

新しくできたのだろう、と思っただけだった。

この一帯は、まだ工事が続いていることになっていた。

道が一本増えることくらい、あるだろうと。

道に入ると、すぐに下りになった。

思っていたよりも急だった。

両側は土の斜面で、草が伸びている。

下るほどに、空気が湿ってくるのがわかった。

二分ほどで、下りきった。

そこに、家が並んでいた。

十軒ほどだったと思う。

どれも平屋に近い低い家で、瓦が黒く濡れていた。

生垣があり、門灯がついている。

坂の下の灯りは、どの家も同じ明るさだった。

明るすぎず、暗すぎない。

そういう灯りだった。

指定された家は、いちばん手前だった。

呼び鈴を押すと、五十代くらいの男性が出てきた。

白い半袖のシャツを着ていた。

「遠いところを、すみません」

そう言って、両手で袋を受け取った。

支払いは現金だった。

釣りはいらないと言われ、千円札を一枚多く渡された。

帰りがけに、もう一度だけ振り返った。

どの家の窓にも灯りがついていた。

時刻は十一時前だった。

その時間に、十軒すべてが起きているのは、少し珍しいと思った。

それだけだった。

それからも、注文は入った。

必ず、雨が上がった晩だった。

週に一度か、二度。

降らない週は、一度もなかった。

坂の下の灯りに通うのは、悪い仕事ではなかった。

報酬がいい。

受け取る人はみな穏やかで、こちらを急かさない。

玄関先で二言三言、言葉を交わすこともあった。

「いつも同じ方ですね」

三度目のとき、最初の家の男性にそう言われた。

ええ、このあたりは私の担当なので、と答えた。

男性は少し笑って、こう言った。

「うちは、上から来る人がいちばん遠いんですよ」

意味がよくわからなかった。

坂の上から下りてくるのだから、遠いのは当たり前だ。

そう思って、聞き流した。

坂の下の灯り

別の家では、老夫婦が二人で出てきたこともある。

二人とも、私の後ろのほうを見ていた。

坂の上のほうだ。

「今日は、降らんかったね」

そう言われて、降りましたよ、夕方まで、と答えた。

すると二人は顔を見合わせて、そうか、と小さく言った。

それきり、何も聞かれなかった。

支払いは、どの家も現金だった。

アプリの決済を使う家は、一軒もなかった。

これは珍しい。

私の担当区では、九割が事前決済だ。

現金払いの注文は、月に数えるほどしかない。

札はどれも古かった。

折り目がついて、端が柔らかくなっている。

財布に入れるとき、指の腹に紙の毛羽立ちが残った。

それでも、枚数はいつも正しかった。

一度、釣り銭を用意しようとして、札を確かめたことがある。

番号の並びが、どれもよく似ていた。

銀行で下ろした新札のような揃い方ではない。

同じ場所に長くあったものが、まとめて出てきたような揃い方だった。

注文の内容にも、共通点があった。

温かいものばかりだった。

ラーメン、うどん、鍋の具材、揚げたての惣菜。

冷たいものは、一度も運んだことがない。

夏に入ってからも、それは変わらなかった。

一度、アイスクリームの店から注文が入ったことがある。

住所は六丁目ではなく、坂の上の別の家だった。

そのときに気づいた。

坂の下の灯りへ運ぶものは、いつも湯気が立っていた。

六月が終わる頃には、あの道を目をつぶっても走れるようになっていた。

ポールの位置も、生垣の切れ目も、覚えた。

一軒だけ表札のない家があることも知った。

その家からの注文は、一度もなかった。

雨の予報が出ると、少しだけ落ち着かなくなった。

待っているような気持ちがあった。

そのことを、私はあまり考えないようにしていた。

最初に妙だと思ったのは、バッグの底だった。

七月の初めだった。

配達を終えて部屋に戻り、保温バッグを開けた。

底に、水が溜まっていた。

薄く、指の腹が濡れる程度だ。

その晩は雨が上がっていて、走っている間は一滴も降られていない。

商品も汁物ではなかった。

拭いて、そのまま寝た。

翌朝、バッグを日に当てて乾かした。

夕方に取り込むと、底に細かいものが残っていた。

砂だった。

つまんでみると、指の間で崩れなかった。

角のない、丸い粒だ。

川の砂に似ていた。

私の走る道に、川はない。

いちばん近い川でも、四キロは離れている。

その砂は、一度だけではなかった。

雨上がりの配達の翌日には、必ず溜まっていた。

量は、いつも同じくらいだった。

小さじ半分ほど。

私はそれを、空き瓶に入れて溜めるようになった。

理由があったわけではない。

捨てるのが、なんとなく気持ち悪かった。

瓶は、台所の窓辺に置いた。

日が当たると、中の粒が薄い灰色に光った。

窓の光にかざした瓶

隣の部屋の男性に、それを見せたことがある。

土木の仕事をしていたと聞いていたからだ。

男性は瓶を窓の光にかざして、しばらく黙っていた。

そして、こう言った。

「これは、山の砂じゃないな」

「谷の底のやつだ」

どういう意味ですか、と聞いた。

男性は瓶を返して、煙草に火をつけた。

「水が長いこと通ったところの砂は、角が取れる」

「このへんは、昔は谷だったからね」

そう言って、丘のほうを顎で示した。

私は、丘は削って作ったものだと思っていた。

造成というのは、そういうものだと。

男性は首を振った。

「削るのは、高いところだけだ」

「低いところは、埋める」

このあたりが谷だったという話は、初めて聞いた。

男性の話では、丘は削られたのではなく、逆に積まれたのだという。

谷を土で埋めて、平らにして、宅地にした。

四十年近く前のことだ。

「あんたの部屋の下も、元は水が流れとった」

それだけ言って、男性は部屋に戻っていった。

八月に入って、店で妙なことを言われた。

いつものラーメン店だった。

商品を受け取るとき、店主が伝票を見て首をかしげた。

「この住所、うちの配達範囲の外ですよ」

範囲外の注文は、そもそも表示されないはずだという。

けれど、注文は現に通っている。

店主は端末を叩いて、確認して、もう一度首をかしげた。

「六丁目って、ありましたっけ」

同じ週に、同業の配達員とも話した。

待機場所で顔を合わせる、二十代の男だ。

北の坂の上に行ったことがあるか、と聞いてみた。

男は笑って、行くわけがないと言った。

「あそこ、更地しかないでしょう」

「注文、一回も入ったことないですよ」

三年やっていて、一度もない、と。

私は、自分の端末の履歴を見せようとした。

そこで手が止まった。

履歴に、六丁目の配達が一件も残っていなかった。

その週だけで、三回は行っている。

けれど、リストに並んでいるのは、駅前と団地の注文ばかりだった。

家に帰って、市のサイトを開いた。

都市計画の図面が、誰でも見られるようになっている。

北の造成地の区画を拡大した。

市の図面にも、五丁目から先は引かれていなかった。

更地には、事業中止という文字が重ねてあった。

日付は、二十二年前だった。

それから、古い航空写真を探した。

市が公開している、造成前のものだ。

丘のあたりに、細長い影が写っていた。

谷だった。

底に、三軒だけ屋根が見えた。

その三軒の並び方に、見覚えがあった。

私が毎回止まる、手前の三軒だった。

写真の中では、屋根が谷の底にある。

周りは、両側から迫る斜面だ。

日が差す時間は短かっただろうと思った。

私は画面を閉じた。

その晩は、雨が降らなかった。

押したことになっとる

翌日、隣の男性にもう一度話を聞いた。

谷の底に家があったのか、と。

男性は、あったと言った。

三軒だけの在所で、移転の話が出たのは造成の前だという。

「みんな判子は押したよ」

「押したことになっとる」

では、その人たちはどこへ行ったんですか、と聞いた。

男性は、灰を落としてから答えた。

「どこにも行っとらんよ」

「行かんでも、上から土が来たからね」

その言い方が、少し引っかかった。

けれど、それ以上は聞かなかった。

次に行ったのは、八月の終わりだった。

夕立が上がって、路面から湯気が立っていた。

注文は、いちばん手前の家からだった。

坂を上がり、ポールの間を抜け、細い道を下った。

下りきると、いつもの十軒が並んでいた。

その晩、私は初めて、灯りをまともに見た。

坂の下の灯りは、全部が同じ高さにあった。

どの家も二階建てなのに、光っているのは一階の窓だけだ。

二階の窓は、一つも点いていない。

カーテンも見えない。

ガラスの奥が、ただ黒い。

一軒ずつ、目で追った。

十軒とも同じだった。

二階の高さから上は、家の形はあるのに、中身がないように見えた。

そのとき、風が吹いた。

生垣が鳴った。

音は、下からではなく、上から降ってきた。

頭の上のほうで、木の葉がこすれている。

けれど、見上げても、そこには何もない。

空だけだった。

そこで初めて、足の裏に違和感があった。

アスファルトのはずの地面が、わずかに沈む。

踏み込むと、靴の裏が半拍遅れて戻ってくる。

土の上に薄く舗装を敷いたような感触だった。

配達を終えて、坂を戻った。

部屋に着いて、端末で走行の記録を開いた。

その日の走行距離が、六キロと出ていた。

店から現場まで、片道四キロある。

往復なら八キロだ。

計算が合わない。

私は最初、アシストの計測がずれたのだと思った。

けれど、翌週も同じだった。

その次も。

六丁目へ行った日だけ、距離が短く出る。

決まって、往復の半分より少しだけ多い数字だった。

行きの分は、記録されている。

帰りの分が、半分しか入っていない。

そういう数字だった。

私は、その数字をノートに書き写すようになった。

六月から数えて、十一回。

日付と、距離と、雨が上がった時刻。

並べてみると、ばらつきがなかった。

どの日も、帰りの記録は行きのちょうど半分だった。

機械の誤差にしては、揃いすぎていた。

その晩から、ノートを枕元に置くようになった。

眠れない夜が増えた。

目を閉じると、坂を下る二分間の感覚が戻ってくる。

あの二分間だけ、耳の奥が詰まったようになる。

高いところへ上がったときの、あの感じだった。

九月十二日。

その晩も、雨が上がっていた。

注文は、表札のない家からだった。

六月から一度もなかった家だ。

坂を上がった。

ポールは、いつもの位置にあった。

細い道に入り、下りはじめた。

そこで、手に違和感があった。

ブレーキを握っていなかった。

握る必要がなかったのだ。

自転車は、ペダルを漕がなければ止まりそうになっていた。

ペダルは重かった。

下っているのに、アシストが働いていた。

そのことに、私はそのとき気づかなかった。

振り返った道

私は足を止めて、後ろを振り返った。

来た道が、上へ続いていた。

確かに上っている。

正面に向き直ると、道はやはり下っている。

両方が上りに見えた。

目の錯覚だと思って、また漕ぎ出した。

家は、いつもの十軒だった。

表札のない家の前で止まった。

呼び鈴はなかった。

声をかけると、戸が内側から開いた。

出てきたのは、年配の女性だった。

袋を渡すと、両手で受け取って、深く頭を下げた。

そして、こう言った。

「もう来なくていいですよ」

私は、意味を聞き返した。

女性は、私の顔を見ずに答えた。

「あなたは、上に住んでいるでしょう」

「うちは、下だから」

何か言おうとして、言葉が出なかった。

女性の手の甲に、細かい砂が乾いてついていた。

私のバッグの底に溜まるものと、同じ色だった。

戸が閉まった。

そのあと、十軒の灯りが、順番に消えていった。

手前から奥へ、一軒ずつ。

最後の一軒が消えると、あたりは本当に暗くなった。

街灯は、一本もなかった。

それまで街灯があると思っていたのは、家の灯りだった。

私は自転車を押して、道を戻った。

乗る気になれなかった。

足元の土は柔らかく、タイヤが半分ほど沈んだ。

押している間、砂を踏む音がずっと続いていた。

その音だけが、はっきりしていた。

部屋に戻ったのは、二時過ぎだった。

端末を見ると、その日の走行距離は四キロと出ていた。

片道分だけだった。

私は地図を開いて、指でなぞった。

アパートから、坂の上まで。

坂の上から、あの道を通って、家の並びまで。

そこで、手が止まった。

帰り道は、行きとまったく同じ道で、ただずっと上りだった。

行きも、上りだった。

あの道で、私は一度もブレーキを握っていなかった。

下ったつもりでいた二分間、私はずっと上っていた。

それが何を意味するのか、私はいまも言葉にできない。

ただ、谷は埋められて、丘になった。

埋められたものは、丘の高さにはならない。

そういうことだと思っている。

航空写真の三軒の屋根は、いまも保存してある。

拡大すると、一軒だけ表札の位置が空いて見える。

気のせいかもしれない。

確かめる方法はない。

隣の男性には、あれから一度も砂の話をしていない。

瓶は、押し入れに入れたままだ。

中身は、いつのまにか半分に減っていた。

蓋は閉めてある。

雨が上がった晩、私はいまも配達アプリを開かない。

六丁目の注文が、まだ入るのかどうかは知らない。

知らないままでいるつもりだ。

先週、隣に新しい人が入った。

挨拶に来たのは、二十代くらいの男だった。

背中に、四角い保温バッグを背負っていた。

私は、この坂は下りが危ないですよ、とだけ言った。

男は、笑って礼を言った。

その晩、雨が降った。

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