
俺は東京郊外の大型物流倉庫で、夜勤のフォークリフトオペレーターをしている。
仕事は単純で、二十二時から朝六時まで、ハイラックの棚を上下しながら、トラックに積まれてきた段ボールを所定の番地に納める。
納め終わったら、その日のうちに翌朝の出荷分を、一階のピッキングエリアに下ろしておく。
倉庫は鉄骨造で、棚は八段、最上段の床面までは地面からおよそ八メートル半ある。
夜勤に入って二年目になるが、最上段の作業は毎回少し緊張する。
リフトの爪に体を載せて、ロックの音だけを頼りに、暗い中で番地のシールを確認していく仕事だ。
夜の倉庫は思っているより暗い。
節電のため通路灯は半分しか点いていなくて、棚の奥の方は、リフトのヘッドランプの光が届くところだけが、ぼんやり浮かんでいる。
最初に「あれ」を見たのは、去年の十一月、夜中の二時過ぎだった。
P列の最上段に、グリーンの作業着の人影が、こちらに背を向けて立っていた。
うちの作業着はオレンジで、夜勤のオペレーターは俺と先輩の二人だけのはずだった。
遠目に見た瞬間は、別棟から応援が入ったのかと思った。
俺は別棟の応援要請の連絡を聞いていなかったので、無線で「いま誰か応援入ってますか」とだけ事務に問い合わせた。
事務の返事は、いない、だった。
もう一度P列の最上段を見ると、人影はもう消えていた。
気のせい、と片付けて仕事を続けた。
八メートルの高さの暗がりは、視覚的に騙されることが多い。
段ボールの積み方一つで、人影に見えることくらいはある。
その日はそれで終わった。
※
次にあれを見たのは、年が明けた一月の半ば、同じP列だった。
場所はP列の最上段、八番地の前。
最初のときよりも、棚の真ん中寄りに立っていた。
グリーンの作業着、こちらに背を向けたまま、両手を体の前で組んでいるような姿勢だった。
頭にはヘルメットらしき影もあったが、色までは判別できなかった。
俺は静かに無線を切って、リフトを下ろし、休憩室で水を飲んだ。
先輩は俺より十歳上のおじさんで、夜勤歴は十二年だ。
「先輩、P列の上の方に人いません?」と訊いた。
先輩は缶コーヒーを置いて、少し間を置いた。
「いねえよ。誰もいねえ」
「グリーンの作業着で、背中向けて立ってるんですけど」
先輩は俺の顔を見て、もう一度コーヒーを口に運んでから言った。
「気にすんな。たまに新人が言うんだ。最上段の暗がりは、見間違いが多い」
新人扱いされたのが少し癪だったが、そう言われると、確かに気のせいかもしれないと思った。
三十二歳の俺は、もう新人ではないつもりだったが、夜勤に関してはまだ二年目だ。
その夜は、P列の上を見ないように気をつけながら、淡々と作業を終えた。
※
二月になって、影を見る回数が増えた。
多いときは一晩に三回。
場所は最初のうちはP列だけだったが、徐々にQ列、R列、S列と、こちらの作業列に近い方へ移ってきた。
影は常に最上段にいて、こちらに背を向けて立っていた。
振り返ろうとする気配はなかった。
ただ、立っているだけだった。
俺は無線で先輩を呼ばなくなった。
呼んでも「いねえよ」しか返ってこないからだ。
その代わり、休憩中に、防犯カメラの映像を見せてもらえないか、事務に頼むことにした。
うちの倉庫は最上段の通路にも防犯カメラがついていて、過去二週間の映像はサーバーに残っている。
窃盗対策で導入されたものだが、夜勤者がチェックすることは滅多にない。
事務の主任は怪訝そうな顔をしたが、「棚卸前の確認で、商品の動きを見たい」と言ったら、見せてくれた。
主任が選んでくれたのは、前週の水曜、午前二時四十分、S列最上段のカメラ映像だった。
俺がちょうど影を見た、と日報に書いた時間帯だった。
モニタの中の最上段は、思っていたよりはっきり映っていた。
暗視カメラのモードで、緑色がかった粗い映像だったが、棚の床と段ボールの輪郭は判別できた。
俺のリフトが映像のフレームに入ってきたのは、午前二時三十八分。
そして、フレームに入る前から、最上段の通路にはすでに人影が立っていた。
※
主任は最初、リプレイのバグかと思ったらしい。
もう一度、十分前から再生してもらった。
午前二時二十分、影はもう立っていた。
二時十分、立っていた。
二時、立っていた。
一時四十分、まだ立っていた。
主任は早送りをやめて、無言になった。
俺は無言の主任の横顔を見ていた。
主任の眉間に、深い縦皺が一本だけ寄っていた。
その皺は、たぶん最近できたものではないように見えた。
「これ、いつから」と俺は訊いた。
「お前が気にし始めたとき、ってことか」と主任は言った。
俺は黙って頷いた。
主任は早送りをさらに進めて、その夜の二十二時、つまり俺たちが出勤してくる前の時間まで、映像を戻した。
二十二時、影はまだ最上段に立っていた。
二十一時、立っていた。
二十時、立っていた。
主任は早送りをそこで止めて、再生を切った。
「これ以上は、見ない方がいい」と言った。
俺は何も訊かず、休憩室に戻った。
戻る途中、廊下の蛍光灯のうち、一本だけ、ジジ、ジジと小さく明滅していた。
その明滅のリズムは、なぜか俺のリフトが最上段で揺れるときの揺れ幅と、似ているような気がした。
※
翌週の月曜、棚卸の補助で、最上段の番地シールの貼り直し作業があった。
うちは半年に一度、番地シールを新しいものに更新する。
古いシールの上から新しい白いシールを貼っていくのだが、その日、P列八番地のシールを貼り直しているときに、古いシールが角からめくれて、その下にもう一枚、さらに古いシールがあるのに気づいた。
四角い角は黄ばんでいて、印字も今のフォーマットと違っていた。
うちの倉庫は十五年前に建てられたと聞いていたから、それくらい前のシールが、ずっと下に残っていたとしてもおかしくはなかった。
めくれたシールを爪で少しだけ剥がしてみた。
そこには、番地の数字と一緒に、横に小さく社員番号らしき六桁の数字が手書きで書いてあった。
昔は番地ごとに担当者を割り振っていたらしい、ということは先輩から聞いていた。
六桁の番号は、夜の冷えた倉庫の光のなかで、薄く、しかしはっきりと読めた。
三、八、二、九、一、四。
俺の社員番号は、四、五、三、八、二、九、一、四だ。
会社のシステムが変わって、ずいぶん前に七桁化されたと聞いている。
古い六桁番号が、いまの番号の末尾六桁と一致していた。
※
その夜、休憩室で、先輩に、十五年前の話を訊いた。
先輩は最初、嫌そうな顔をして、缶コーヒーを開けるのに少し時間をかけた。
「あったよ。あった」と言った。
十五年前、夜勤のフォークリフトオペレーターが、P列最上段で立ち往生して、リフトが急に油圧を失って、八メートルから落ちた。
救急が来るまでに、二十分以上かかったらしい。
担当の番地は、八番地だった。
俺がシールの下を見た、あの番地だった。
「お前と同じくらいの歳だった、と思う」と先輩は言った。
「名前までは、覚えてねえけどな」
俺は名前は訊かなかった。
訊いて、もし聞き覚えのある名字だったら、それはもう、戻れない場所まで行ってしまう気がしたからだ。
※
その夜から、影はずっと、俺の作業列の真上に立つようになった。
P列、Q列、R列のときは背を向けていたが、S列以降、つまり俺の作業ローテーションが進むほど、影は少しずつ、こちらへ顔を向けかけているように見えた。
でも、最後まで、こちらを正面で見ることはなかった。
たぶん、見たら、お互いに困るからだと思った。
三月の最後の夜勤で、俺は最上段に上がった。
T列の八番地、棚卸の最終確認で、シールの位置だけ撮影する仕事だった。
リフトを上げて、棚に近づいたとき、影はもう、俺の真横に立っていた。
距離にして、二メートル足らずだった。
影は、こちらに少しだけ顔を向けて、口を動かしたように見えた。
声は聞こえなかった。
ただ、口の動きだけが、確かに二音か三音、何かを言っていた。
俺は手を振らなかった。
振り返したら、こちらの作業着の色が、たぶんゆっくり、緑に変わってしまうような気がしたからだ。
俺はリフトの操作レバーをまっすぐ下げて、ゆっくり地上まで下ろした。
その夜の作業はそこで終わらせた。
翌週、俺は人事に夜勤を外してほしいと申し出た。
体調を理由にしたら、すぐに通った。
四月から、俺は朝勤のピッキング担当に異動になった。
※
異動してから二ヶ月、最上段に上がる仕事はもうない。
ピッキングは一階の地上作業で、足元のコンクリの感触だけで仕事ができる。
影を見ることもなくなった。
ただ、退職した先輩から、先月、短いメールが届いた。
「P列の最上段、新しい夜勤の子が、また見てる、と言ってる」
「色は、オレンジだそうだ」
先輩は俺が辞める前の作業着の色だけを書いて、それ以上は何も書かなかった。
俺は返信をしなかった。
家のロッカーの奥には、退職時に返さなかった古い社員証が、いまも入れたままだ。
裏面の磁気テープの隅に、油性ペンで小さく書かれた番地番号がある。
P列、八番地。
俺はその番地に、入社以来、一度も担当として割り振られたことはないはずだった。
誰がいつ書いたのかも、覚えていない。
これを誰かに怖い話として話すのは、たぶんこれが初めてだ。
夜遅くにフォークリフトのエンジン音が遠くで響くと、いまも、最上段で、何か言いかけて止めた、あの口の動きだけを、毎晩思い出している。