
水利組合の夜間点検は、毎月第一土曜日の夜におこなう。
私が組合員になったのは三十三歳のころで、以来二十二年間、ほぼ欠かさず参加してきた。
夜間点検というと大げさに聞こえるかもしれないが、実際は水路沿いの道を懐中電灯とヘッドランプを持って歩き、各分岐点の水門の開閉状態と水量を記録するだけだ。
組合員は私を含めて六名で、二人ひと組になって担当区間を分けて歩く。
農閑期でも水路は生きている。
冬の間も地下の水圧を管理しておかないと、春先の田植えのときに支障が出る。
二時間ほどかけて全区間を歩いて戻る、それだけの仕事だった。
夜の点検は独特の静けさがある。
昼間は田んぼで働く人の声や機械の音でにぎやかな集落も、夜の十時を過ぎると家の灯りが消え、虫の声と水の流れる音だけになる。
夏は湿った土の匂いが立ち込め、冬は霜が草の葉をぱりぱりにして、足元から音がする。
二十年以上同じルートを歩いていると、季節や天候の変化が体に染みついてくる。
担当するのは集落の南側を流れる農業用水路で、全長はおよそ二キロ半ある。
中でも一番の確認ポイントは、第四分岐点と呼ばれる場所だ。
そこだけは旧来の石積み護岸が残っていて、コンクリートで固めた他の区間とは異なり、水の流れが川底の石のかたちに沿ってわずかに屈曲している。
夜に懐中電灯を向けると、水面の揺れが護岸の石に複雑な影を作る。
冬場は川霧が出て、向こう岸がぼやけることもある。
石積みが古く、苔の生えたその区間は、昼間でも少し薄暗い。
夜間はなおさらで、ヘッドランプの光が届かない向こう岸の様子は、いつもあいまいにしか見えなかった。
それが普通の景色だったので、最初に見たときも、さほど気にしていなかった。
※
最初にそれを見たのは、三年ほど前の夏だった。
時刻は夜の十一時を過ぎていたと思う。
第四分岐点の手前に差しかかったとき、川向こうの岸に人影があった。
ヘッドランプをそちらに向けたが、ちょうど灌木の影になっていてよく見えなかった。
残業している農家の人か、夜の散歩をしている住民だろうと思い、声をかけようとした瞬間、後ろから先輩の山田さんが追いついてきた。
「向こう岸に誰かいませんか」と言うと、山田さんは懐中電灯を向けて、「どこに」と言った。
灌木の向こうは、空だった。
見間違いかと思い、そのまま点検を続けた。
翌月の点検でも、第四分岐点の手前に来たとき、同じ場所に人影があった。
今度は一人で来ていた。
ヘッドランプを消してもう一度見ると、やはりいる。
川向こうの草むらとコンクリートブロックの境目あたりに、こちらに背を向けた人が立っていた。
厚手の上着のようなものを着ていて、川の方を向いているようでもあった。
三十秒ほど見ていたが、動く気配がなかった。
「すみません」と声をかけた。
返事はなかった。
川の幅はそこで八メートルほどある。
川向こうに回り込むには、百メートル先の橋まで行かなければならない。
そこまでする理由も見つからなかったので、私はそのまま点検を続けることにした。
戻る際に同じ場所を通ると、人影はなかった。
橋の方に歩いて行ったにしては、足音も何も聞こえなかった。
夜の水路沿いは静かで、人が草むらを歩けば必ず音がするはずだった。
三回目は、その翌月だった。
今度は点検の往路には人影がなく、帰りに通ったときに見えた。
同じ場所に、同じ向きで立っていた。
ヘッドランプをわざと消して、月明かりだけで確認した。
人の輪郭に見えた。
身長は私と同じくらいか、少し低いくらいだった。
川の水面を向いて、微動だにしなかった。
「もしもし」と声をかけると、次に目を向けたときにはもういなかった。
消えた、というよりは、視野から外したほんの一瞬のうちに、姿が見えなくなっていた。
翌日、組合の他のメンバーに話そうかと思ったが、やめた。
何を見たのか自分でも説明できなかったし、気のせいだと言われればそれまでだと思った。
ただ、気のせいではないだろうという気持ちも、同じくらいあった。
※
四回目か五回目のとき、私はようやくはっきりと気づいた。
毎回、同じ場所に、同じ向きで立っているということに。
位置を正確に言うと、川向こうの岸の、護岸ブロックが途切れてむき出しの石積みになっている一角だった。
幅にして一メートルもない、水際のごく狭い区間だ。
そこに、毎月、誰かが立っていた。
向きは川上、つまり私が歩いてくる方向とは逆を向いていた。
厚手の上着を着ていることも、毎回同じだった。
ダウンジャケットか、それに似たもの、というのが私の印象だった。
ただ、こちらが声をかけると、次に通ったときにはいなくなっている。
声をかけなかった月は、帰りにも同じ場所に立っていることがあった。
ヘッドランプの光が届かない距離だったので、顔はわからなかった。
背格好と服装だけが、毎回、ほぼ同じだった。
点検記録の帳面には「第四分岐点・異常なし」と毎回書いてきたが、何が「なし」なのかは、もはや自分でもよくわからなかった。
それでも、何かを書かないわけにはいかない。
私は毎回、同じ四文字を書きつけた。
翌週、先輩の丹羽さんにその話をした。
丹羽さんは七十代で、組合員の中では最年長だった。
長年この地で農業を営んでいて、集落の歴史については私よりずっと詳しい人だった。
縁側でお茶を飲みながら話した。
「第四分岐点の向こう岸に、毎月誰かが立っているんです」と言い始めたとき、丹羽さんはお茶を持った手を止めた。
「どのへんに」と聞くので、石積み護岸が残っている区間だと答えた。
「毎回、同じ場所ですか」と丹羽さんは言った。
はい、と答えると、丹羽さんはしばらく何も言わなかった。
縁側の外で、蛙の声がしていた。
「気にしなくていい」と丹羽さんは言った。
「あそこはもともと、あまり近づかない方がいいと言われてきた場所だ」
そう言ったきり、話を変えた。
来月の水門の点検日程の話になり、そのまま帰ることになった。
それ以上は聞けなかった。
丹羽さんには続きを話す気がないのが、はっきりとわかった。
帰り道、自転車をこぎながら、「あそこはもともと」という言葉の意味を考えた。
もともと、というのは、昔からそうだという意味なのか、それとも何か出来事があったという意味なのか。
どちらとも取れる言い方だった。
翌月の点検のとき、私はいつもより少し早足で第四分岐点を通り過ぎた。
人影はあった。
同じ場所に、同じ向きで。
点検記録には、その夜も「第四分岐点・異常なし」と書いた。
ペンを走らせながら、この文字を何度書いてきたのかを、ぼんやりと考えた。
※
その年の秋のことだった。
点検ルートの途中、第四分岐点のすぐ手前に、いつも通り過ぎていた小さな祠があることに初めてきちんと気がついた。
高さは私の腰ほどしかない、木製の小さな祠だ。
普段は草が伸びていて、夜間点検のルート上にあっても視界に入っていなかったのだと思う。
その日は草刈りの直後で、周囲の視界が開けていた。
祠の扉は少し開いていた。
中を覗くと、白黒の写真が一枚、水のしみた木板に立てかけてあった。
男性の写真だった。
四十代か、五十代くらいに見えた。
右半身をこちらに向けた姿勢で、川の方を向いていた。
首元から胸にかけて、厚みのある上着を着ていた。
モノクロの写真だったが、胸元のあたりがキルティング状になっていて、ダウンジャケットのような生地であることは読み取れた。
祠の横には小さな花が一輪、プラスチックの容器に差してあった。
水は干上がっていて、花はとうに枯れていた。
誰かが、定期的に来ているのかもしれなかった。
私はスマートフォンを取り出して、写真を撮影した。
その場で画像を拡大すると、男の立ち位置が気になった。
写真の背景には、石積みの護岸が写っていた。
コンクリートブロックが途切れる箇所、むき出しの石積みになっているあの区間に、男は立っていた。
こちらに背を向けて、川の方を向いていた。
写真の中の男は、私が三年間ずっと見てきた場所に、同じ向きで立っていた。
どのくらいそこに立っていたかわからない。
気がつくと、水路を流れる水の音だけがしていた。
写真を元の場所に戻して、祠の扉を閉めた。
その夜、第四分岐点の向こう岸に人影はなかった。
あれ以来、その月だけは一度も見えなかった。
翌月は、また見えた。
私はもう、声をかけなかった。
※
翌年の春、丹羽さんに撮影した画像を見せた。
丹羽さんは画面をしばらく見たまま動かなかった。
「この方は」と私が言うと、丹羽さんは「昔、あそこで亡くなった人だ」とだけ言った。
「三十年以上前のことだ」と丹羽さんは続けた。
溺れたのか、転落したのかは聞けなかった。
丹羽さんはスマートフォンを返して、しばらく別の話をした。
その後は二度と、この話には触れなかった。
私もそれ以上聞かなかった。
聞いたところで、何かが変わるとも思えなかった。
丹羽さんに話した翌月から、第四分岐点の向こう岸に人影を見ることはなくなった。
月に一度の夜間点検は今も続いている。
ルートも変わっていない。
第四分岐点の手前に来ると、私はいつも向こう岸をひとわたり見る。
誰もいない。
石積み護岸の黒い輪郭が、ヘッドランプの光の中に浮かぶだけだ。
川の水は変わらず流れている。
丹羽さんは去年の冬に亡くなった。
葬儀に参列したとき、仏壇の脇に数枚の古い写真が飾られていた。
家族の思い出として遺族が用意したものらしかった。
受付を済ませて席に着いたとき、ふと目に留まった。
その中の一枚に、見覚えのある顔があった。
「兄です」と喪主の息子が言った。「ずいぶん昔に、用水路のそばで亡くなりまして」
私はそれ以上、何も言えなかった。
祠の中の写真と、仏壇に飾られていた顔が、同一人物であるかどうかを確かめる術は私にはなかった。
それでも、似ていた。
それだけが、今も私の中に残っている。
それが何を意味するのかは、今もわからない。
今月も、第一土曜の夜になれば、私は水路沿いの道を歩く。