廊下の三枚の板は鳴らない

旅館

大学の友人と四人で、海へ旅行に行ったときの話だ。

いま思い返して引っかかるのは、廊下の三枚の板のことになる。

着いた日の昼には、もう見ていたはずのものだ。

仲のいい四人で、ずっと前から楽しみにしていた。

行きの車では、いつもの雑談が普段より面白かった。

意味の分からない看板や建物を見るたびに、笑い話にしていた。

そんな調子だったから、着いた民宿がひどく古びていたときも、かえって盛り上がった。

「やべ、費用おさえすぎた」

玄関で靴を脱ぐと、板張りの床が大きな音で鳴った。

女将らしい婆さんが出てきて、部屋まで案内してくれた。

他の客も、従業員の姿も見えない。

玄関の横に、鍵箱が掛かっていた。

札の付いた鍵が、ほとんど全部そこに残っている。

埋まっているのは、俺たちの部屋の分だけだった。

こんな古い宿なら、夏でも客はいないのかもしれないと思った。

廊下は歩くたびにきしんだ。

一歩ごとに、違う高さで鳴る。

部屋にトイレはなく、廊下の突き当たりが共同便所だった。

しかも和式だ。

上から下がった裸電球は、盛大に埃をかぶっていた。

掃除ぐらいしろよ、と毒づきたくなる。

ただ、便所から離れた俺たちの部屋は、案外きれいにしてあった。

メインは昼間の海だ。

まあいいか、という空気になった。

荷物を置きに行く途中で、一つだけ気になったことがある。

便所の手前で、床板の色が変わっていた。

三枚だけ、明るい色の板が入っている。

前後の板は、飴色に黒ずんでいた。

張り替えたのだろう。

そのときの俺は、水回りだから傷むんだろうな、としか思わなかった。

友人の一人が、その上で軽く跳ねた。

「ここだけ鳴らへん」

「ほんまや」

「新しいからやろ」

それで話は終わった。

廊下の三枚の板の話を、俺たちはその日のうちに忘れた。

板張りの廊下

荷物を置いて、すぐ泳ぎに出た。

日が暮れるまで、さんざん遊んだ。

素泊まりだったので、夕飯は外で食べた。

漁港の近くの定食屋に入り、四人とも黙って食べた。

民宿に戻ったのは、二十一時ごろだったと思う。

缶ビールを買い込んで、だらだら話した。

窓を開けると、海の音が入ってきた。

波の音というより、地面が低く唸るような音だった。

誰かが「近いな」と言った。

海は歩いて七、八分の距離だったはずだ。

泳ぎ疲れと移動の疲れで、日付が変わる頃には全員が落ちていた。

適当な雑魚寝だった。

ふと目が覚めたのが、何時ごろだったかは分からない。

そんなに長く眠った感じはしないから、午前二時くらいだろう。

友人のいびきが聞こえる。

豆電球が点いたままで、畳の目まで見えた。

三人とも、行儀の悪い格好で転がっている。

一人は布団から半分落ちていた。

俺以外は、全員ぐっすりのようだった。

目が覚めた理由は、すぐに分かった。

便所に行きたかったのだ。

そういえば、宿に戻ってから一度も行っていない。

こんな夜中に、あの便所か。

何か出るぞ、などと、ぼんやりした頭で思った。

友人を踏まないように気をつけて、そろそろと部屋を出た。

廊下は真っ暗だった。

片手で壁を探りながら進む。

一歩ごとに、板がきしむ。

音の高さが一歩ずつ違うのが、妙に耳につく。

途中で、一度だけ音が途切れた。

足が沈まない場所を踏んだのだ。

廊下の三枚の板だと、そのときは思い当たらなかった。

ただ、床がしっかりしているな、と感じただけだった。

明かりのスイッチは、便所の外側にあった。

あの裸電球の様子を思い出して、点かなかったらどうしようかと思った。

押すと、パチンと音がした。

無事に明かりが点いた。

予想どおり、弱々しい光だった。

それでも、用は足せる。

壁の下半分は、木の板が縦に張ってあった。

上は白い漆喰で、雨染みが何本も走っている。

窓は磨りガラスで、外は何も見えない。

天井の隅に、蜘蛛の巣が張ったままになっていた。

戸を閉めて、内鍵をかけた。

耳が痛くなるような静けさだった。

自分の息づかい以外、何の音もしない。

和式で長くしゃがんでいると、足が痛くなる。

早く部屋に戻りたかった。

海で焼けた肩が、しゃがむと引きつる。

昼間の波の音が、まだ耳の奥に残っていた。

明日は何時に起きて、どこで昼を食うか。

そんなことを、とりとめもなく考えていた。

最初にそれが聞こえたとき、一瞬、何かと思った。

勘違いではなかった。

また聞こえた。

廊下が、きしんでいる。

こちらに向かって歩いている音だ。

この奥に客室はない。

手前の部屋にも人はいなかった。

だとすれば、目的地はこの便所しかない。

友人の誰かが起きたのだろう。

そう考えた。

俺が部屋にいないうえに、便所の明かりも点いている。

空いていないことくらい、分かりそうなものだ。

腹でも下したのかもしれない。

切羽詰まっているのだろうか。

足音は止まらずに近づいてくる。

ギシ、ギシ、と一歩ずつ鳴る。

歩幅が一定だった。

慌てている人の足音ではない。

腹を下した人間の歩き方でもなかった。

近づいてくるのに、速さが変わらない。

歩数も数えられた。

六歩で、音が一段大きくなる。

また六歩。

廊下の長さを考えると、歩幅が合わない気もした。

それが、少しだけ引っかかった。

内鍵が掛かっているのを確かめた。

早く出てやらないと、と思った。

ついに、誰かが戸の前に立った。

この体勢では、ノックを返すのも難しい。

先に入っていることを知らせようと、声をかけた。

「誰だ? ○○か?」

「入ってんのは俺だよ」

「わりぃな、もう済むから」

「それとも民宿の人?」

返事はなかった。

そして、パチンと音がした。

便所の明かりが消えた。

回らないドアノブ

自分の手も見えない、完全な闇になった。

「はぁ? おい何だよ」

「つまらねーイタズラやめろよな」

声が裏返っていた。

「お前らマジしゃれになんねーって」

「このトイレ超こえーんだから」

返事はない。

戸の向こうに突っ立ったまま、動く気配もない。

出たらぶん殴ってやる。

そう思いながら、暗闇の中で急いで支度を済ませた。

紙の場所を思い出して、手探りで巻き取る。

その間、戸の向こうで何かが、ぼそぼそと呟き始めた。

声が小さすぎて、何を言っているのか分からない。

それどころか、友人の誰なのかも見当がつかない。

悪戯にしては、演出が凝りすぎている。

そう思ったら、怒りのほうが先に消えた。

よくやるわ、と苦笑いが出たくらいだ。

手探りで水を流し、立ち上がった。

壁に手をつきながら、内鍵を探す。

かんぬきが指に触れた。

外した。

「おい、もう出るぞ」

「お疲れさん。マジびびったわ」

「戸を開けるから、ちょっと離れてろ」

ノブに手を掛けた。

回らない。

意味が分からなかった。

便所に外鍵などあるはずがない。

壊れたのかと思って、両手で力を込めた。

それでも回らない。

両手でノブを握って、体ごと捻った。

手のひらが滑って、ノブの金属が汗で温かくなった。

その温かさで、余計に嫌な気持ちになった。

そこで理由が分かった。

戸の外に立っている何かが、ものすごい力でノブを押さえている。

「へへ、まいった。もう降参だわ」

「勘弁してくれ」

おどけて言ったが、顔は笑っていなかったと思う。

ぼそぼそという声

水の流れる音が止んだ。

闇と、ぼそぼそという声だけが残った。

そこで、はっきり分かった。

声が、大きくなっている。

内容は聞き取れないままだ。

けれど、水の音の前は消え入りそうな囁きだった。

いまは、肉声がちゃんと届く。

男とも女ともつかない、低い声だった。

その声を聞いた瞬間、頭の中が真っ白になった。

明らかに、友人の誰でもない。

聞いたことのない声だ。

かといって、友人でなければこんなことをする理由がない。

こいつは誰なんだ。

なぜこんなことをする。

さっきから何を言っている。

突然、声が止んだ。

強烈に嫌な予感がして、俺は内鍵を閉め直した。

その途端、ガツッとノブが鳴った。

鍵を掛けたから、回せなかったのだ。

何度かガンガンと揺さぶられた。

その音を聞きながら、俺は考えを変えた。

戸の向こうにいるのは、人ではないのかもしれない。

それはまた、ぼそぼそと呟き始めた。

さっきより声が大きい。

思い出したように、戸を叩く。

そのとき、理屈ではなく分かったことがある。

この声は、尋常でなく恐ろしいことを言っている。

脅し文句とか、恨み言とか、そういう類ではない。

もっと事務的な、知らせのようなものだと感じた。

知らせを受け取った側が、それで終わりになる類のものだ。

そして、何が何でも聞いてはいけない。

正確に言えば、意味を理解してはいけない。

そう自分が知っているような感じだった。

根拠はない。

高いところから飛び降りてはいけないのと同じくらい、当たり前に分かった。

理解した時点で、取り返しのつかないことになる。

分かったところで、どうしようもない。

声は、むしろ段々大きくなる。

このままでは、聞きたくなくても聞いてしまう。

それが日本語なら、理解したくなくても理解してしまう。

耳をふさいだ隅

いつの間にか、俺は泣いていた。

友人の名前を大声で呼んだ。

助けて、助けて、と叫んだ。

南無阿弥陀仏、とも言った気がする。

正しく言えていたかどうかは分からない。

覚えているのは、途中から言葉になっていなかったことだ。

音だけを出していた。

自分が叫べば、向こうの声を打ち消せると思ったのだ。

それにしても、おかしい。

深夜にこれだけ大声を出しているのだ。

友人も、民宿の人も、起きてきていいはずだった。

誰も来なかった。

声はどんどん大きくなり続ける。

叫び続けていないと、何を言っているのか分かってしまうところまで来た。

この声を聞いてはいけないと知っている自分を、俺は恨んだ。

知らなければ、ただの気味の悪い夜で済んだはずだ。

片手でノブを押さえ続けていたが、もう限界だった。

叫びすぎて、喉が焼けるようだった。

中指を耳の奥に突っ込んで、さらに手のひらで耳をふさいだ。

便所の隅に頭を向けて、背中を丸めてうずくまった。

暗くて、どこに顔を突っ込んでいるかも分からない。

汚いなどと言っていられる状況ではなかった。

叫ぶ力はもう残っていない。

それでも何か喋っていないと、耳をふさいでも意味が入ってきそうだった。

何を言っていたかは覚えていない。

たぶん、神様助けてください、だったと思う。

そのとき、頭を誰かに触られた。

びくりとして顔を上げた。

ついに入ってきたのかと思った。

違った。

戸の向こうでは、まだ呟いている。

呟きというより、もう怒鳴り声だ。

一瞬、意味が分かりかけて、慌てて自分も叫んだ。

一語も聞かないうちだったが、発音は間違いなく日本語だった。

どうすればいいのか、まるで分からない。

疲れきって、どうでもよくなった。

理解したらどうなるのかは知らない。

もう好きにしてくれ、と思った。

耳から手を離した。

その瞬間、暗闇の中で手を強く握られ、引っ張られた。

えっ、と思う間に、壁があるはずのところを抜けていた。

その間に、俺は向こうからの声を聞いてしまっている。

聞こえているのに、頭に入ってこない。

意識は全部、俺を引く手のほうに吸い寄せられていた。

前後左右も、上も下もない闇の中を、引かれるままにどこまでも走れた。

床の感触だけは、便所の床のままだった。

段々、あの声が遠くなっていく。

ついには聞こえなくなった。

走り疲れて、よろめいた。

派手に倒れて、尻餅をついた。

体より、頭のほうが参っていた。

助かったのだと分かった時点で、俺は気を失った。

廊下の三枚の板

目を覚ましたとき、俺は便所にいた。

戸を誰かがどんどん叩いている。

またパニックになりかけたが、俺の名を呼ぶ声は友人たちのものだった。

「大丈夫か」

何より、便所は明るかった。

裸電球が、ちゃんと点いている。

鍵を開けた瞬間、勢いよく戸が開いた。

三人の顔が並んでいた。

心配そうな顔をしていたが、俺が立っているのを見て安心したらしい。

「お前何してんの夜中に大声出して」

「巨大トカゲでも出たのか」

顔を見たときの嬉しさは、その軽口で吹き飛んだ。

無性に腹が立った。

「何だよ今頃」

「っていうか、あれ本当にお前らじゃねーのかよ」

三人は、揃って不思議そうな顔をした。

「今頃って」

「お前が助けてとか叫ぶもんだから、俺ら飛び起きてすぐ来たぞ」

「呼んでも返事ないし」

「騒ぎで民宿の人も、今来たとこ」

見ると、昼間に部屋を案内してくれた婆さんが、少し離れて立っていた。

困ったような顔で言う。

「お客様、何かありましたんか?」

何かを隠している様子ではなかった。

虫か爬虫類でも出たのかと、管理を心配している顔だった。

「いや、何でもないです。すみません」

取り繕って、部屋に戻った。

翌朝、俺は一人で早く起きた。

明るい廊下を、便所まで歩いてみた。

飴色の板は、一歩ごとにきしんだ。

そして、あの三枚の前で止まった。

明るい色の、張り替えられた板だ。

片足を乗せた。

音がしない。

両足を乗せて、体重をかけて揺すってみた。

やはり音がしない。

新しい板は、しっかり打ち付けてある。

きしむはずがない。

前後の板を踏むと、また鳴った。

手前の一枚を踏むと、高い音。

奥の一枚を踏むと、低い音。

廊下の三枚の板だけが、そのあいだで黙っていた。

何度やっても同じだった。

三枚のところだけが、無音だった。

昨夜、足音は途切れなかった。

廊下の奥からこの戸の前まで、ギシ、ギシ、と一歩ずつ続いていた。

鳴らないはずの三枚の上を、あれは鳴らしながら来た。

俺は、その場から後ろ向きに離れた。

板の色が変わる境目を跨ぐとき、わざと強く踏んだ。

手前も奥も、ちゃんと鳴った。

部屋に戻る途中で、もう一度だけ振り返った。

朝の光が入って、廊下はただの古い板の廊下に見えた。

明るい三枚だけが、そこに嵌め込まれたまま光っていた。

チェックアウトのとき、婆さんに廊下の板のことを聞こうとして、やめた。

聞いて答えが返ってきたら、もう来られなくなると思ったからだ。

もっとも、二度と行くつもりはない。

帰りの車で、友人の一人が言った。

「昨日の夜、お前の叫び声、二回聞こえた」

「二回?」

「最初は遠かった。二回目は近かった」

「遠いって、どこから」

「知らん。廊下の向こうのほう」

運転していた友人が「やめろって」と言って、その話は終わった。

便所は、廊下の突き当たりだ。

向こうのほうなど、ない。

あの便所での体験を思い出すたびに考える。

戸の向こうの何かは、何だったのか。

俺を引いて走った何かは、何だったのか。

その土地の因縁話も、民宿の由来も、俺は何も知らない。

調べてもいない。

便所で眠って悪夢を見ただけ、という可能性はある。

友人の悪戯だった可能性も、ゼロではない。

それでも、手を引かれて走った感触は本物だった。

壁がないのに、床はどこまでも便所の床だった。

同じくらい、あの声を聞いていたらまずかったという確信も本物だ。

同じような夜の話は、ほかにもあるらしい(幹線道路の電話ボックス)。

古い建物の水回りには、何かが残りやすいのかもしれない(地下の浴槽だけ焦げていない)。

助けてくれた何かには、まだ礼を言っていない。

この話を書いたついでに、ここで言っておく。

今更こんなところで言っても、伝わるわけはないけれど。

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