謎の駅と老人の地図

その地図は、今も俺の机の引き出しにある。

五年前の秋、俺は勤めていた設計事務所を休職した。

残業が月に百五十時間を超えていた頃だ。

ある朝、駅の階段で足が上がらなくなった。

上がらない、という感覚が自分でも意味がわからなかった。

病院で、しばらく休めと言われた。

一人で暮らすのは無理だろうという話になり、俺は実家へ帰ることにした。

中国地方の、山あいの町だ。

都市部のK駅を出たのは、十月の夜七時過ぎだった。

その日は、朝から雨が降っていた。

ホームの屋根から落ちる水が、線路の砂利を叩いていた。

車両は空いていた。

乗客は、俺のほかに三人。

三人とも、離れた席に座っていた。

一人はスーツの男で、二人は年配の女だった。

俺は、いちばん後ろの、扉の横に座った。

鞄には、二週間分の着替えと、病院でもらった薬が入っていた。

電車が動き出すと、雨の匂いが車内に入ってきた。

窓に、自分の顔が映っていた。

頬が、こけていた。

自分の顔だと、すぐには思えなかった。

窓の外は、駅を過ぎるごとに暗くなっていった。

やがて、家の明かりが途切れ始めた。

実家の最寄りはY駅という。

そこまでは、途中のT駅で一度だけ乗り換える必要があった。

何度も帰省している路線だ。

間違えるはずがなかった。

俺は予定通り、T駅で降りた。

降りるとき、車内を見た。

三人とも、いなかった。

どこかの駅で降りたのだろう。

そう思った。

だが、俺はその二十分のあいだ、扉が開く音を一度も聞いていない。

だが、乗り換えるはずの電車がなかった。

掲示板を見ても、Y駅方面の表示がない。

時刻表の紙が、そこだけ剥がされたように白かった。

困り果てて、改札の駅員に聞いた。

「Y駅へ行く電車は、何番線ですか」

駅員は、俺の切符を見て首を傾げた。

「この駅では、乗り換えられませんよ」

「え」

「Y駅なら、S駅で乗り換えです」

そんな駅は知らなかった。

「S駅って、どこですか」

「二つ先です。この電車で行けます」

おかしい、と思った。

十年、この路線を使っている。

S駅などという駅を、俺は一度も聞いたことがない。

だが、体がだるかった。

言い返す気力がなかった。

俺は、駅員の言う電車に乗った。

S駅に着いたのは、二十分ほど経ってからだ。

扉が開いた瞬間、俺は動けなかった。

山の中だった。

ホームの両側に、黒い斜面が迫っている。

ホームは、木の板だった。

コンクリートではない。

踏むと、たわむ音がした。

明かりは、裸電球がひとつだけだ。

それが、風で揺れていた。

線路は、一本しかなかった。

乗り換える、と駅員は言った。

一本の線路で、どこへ乗り換えるのか。

背中を、電車の風が押した。

振り返ると、電車はもう闇の中だった。

時刻表を探した。

ホームの柱に、板が打ち付けてあった。

だが、そこには何も書かれていなかった。

削られたのでもない。

最初から、白いままだった。

雨は上がっていた。

かわりに、土の匂いがした。

濡れた土と、腐った葉と、そのもっと奥に、線香に似た匂いがあった。

斜面の向こうに、家の明かりがまばらに見えた。

田んぼが、水を張ったまま黒く光っている。

十月に、水を張る田はない。

駅舎へ向かった。

無人駅だろうと思っていた。

だが、駅員はいた。

真っ暗な駅舎の中で、受付の窓口にだけ、黄色い光が灯っていた。

その中に、一人。

着ているものが、妙だった。

今の制服ではない。

詰め襟の、厚い生地の上着だ。

肩に、金色の線が入っている。

帽子を、目の高さまで深く被っていた。

「すみません」

返事はなかった。

「Y駅へ行く電車は、いつ来ますか」

駅員が、顔をこちらへ向けた。

帽子の陰で、目のあたりが見えない。

そして、喉の奥から音を出した。

「ぐ、ごご」

声ではなかった。

音だった。

俺は、もう一度同じことを聞いた。

駅員は、同じ音を出した。

そして、手のひらを上に向けて、こちらへ差し出した。

何かを、寄越せという仕草だった。

切符か、と思った。

俺は、Y駅までの切符を渡した。

渡した瞬間に、後悔した。

駅員は、切符を受け取ると、何も言わずに鋏を入れた。

かちん、と音がした。

Y駅までの切符だ。

まだ、Y駅に着いていない。

「待ってください」

俺は窓口に手をかけた。

「それは、まだ切る切符じゃない」

駅員は、切った切符をこちらへ戻した。

そして、また同じ音を出した。

「ぐ、ごご」

それから、駅舎の外を指さした。

出て行け、という仕草に見えた。

俺は、切符を握って外へ出た。

出てから、気づいた。

あの窓口には、椅子がなかった。

あの駅員は、立ったままだ。

たぶん、ずっと。

駅の外は、道が一本あるだけだった。

街灯はない。

携帯を見た。

圏外だった。

その表示を、俺は三度確かめた。

実家の町でも、圏外になることはない。

そこは、そういう場所ではないはずだった。

引き返そうかと思った。

だが、あの駅員に、もう一度会う気にはなれなかった。

その時、音が聞こえた。

遠くから、笛と太鼓だ。

祭囃子だった。

十月の、夜十時近くにだ。

音のほうへ、俺は歩き出した。

囃子は、近づいても、大きくならなかった。

同じ距離を、保っていた。

一軒だけ、明かりのついた家があった。

障子が、内側から橙色に光っている。

人影が、二つ映っていた。

座って、向かい合っている。

俺は、その家の前で足を止めた。

声をかけようとした。

その時、影が二つとも、こちらを向いた。

障子は、閉まったままだ。

俺は、歩き出した。

振り返らなかった。

十分ほど歩いた。

家はあるのに、明かりのついている家がない。

軒先に、洗濯物が干してある家があった。

白い、大きな布だ。

それが、風もないのに、ゆっくり動いていた。

家は、どれも古かった。

茅葺きの上に、トタンを被せてある。

戦後すぐの直し方だ。

設計の仕事をしていたから、それはわかった。

どの家も、その一度きりで、後の手が入っていない。

七十年、誰も触っていない家だ。

それなのに、傾いてもいなかった。

それどころか、庭の草が刈ってあった。

刈ったばかりの、青い匂いがした。

向こう側から、人影が来た。

初めて見る人間だった。

老人だった。

歩くたびに、こつ、こつ、と硬い音がする。

近づいて、わかった。

右足が、義足だった。

金属の、古い型のものだ。

「すみません」

俺は、事情を全部話した。

乗り換えを間違えたこと。

駅員が話せないこと。

Y駅へ行きたいこと。

老人は、黙って最後まで聞いた。

それから、言った。

「この十字路を真っ直ぐ行って、突き当たりを左に行くと、トンネルがあるけえ」

「トンネル」

「そこを抜けて、次の角を右に。その次の次の角に、バス停があるけえな」

「そこから、Y駅に行けるんですか」

「行けるけえ」

方言が、実家のあたりのものと、少しだけ違った。

古い言い方だった。

祖父が使っていたのを、聞いた覚えがある。

道順が、頭に入らなかった。

俺が黙っていると、老人が言った。

「地図を、書いてやろうか」

「お願いします」

老人は、上着の内側から手帳を出した。

黒い、布張りの手帳だ。

角が、丸くすり切れていた。

めくると、どのページにも、びっしりと文字が書いてある。

その文字を見て、俺は手が止まった。

ひらがなでもない。

漢字でもない。

アルファベットでも、ハングルでもない。

強いて言えば、子供が線を引いた落書きに近い。

だが、規則があった。

同じ形が、何度も出てくる。

文字だ。

俺の知らない文字だ。

老人は、余白を探して、そこに地図を書いた。

線は、驚くほどまっすぐだった。

「この通りに行けば、間違いはないけえ」

そう言って、そのページを破いて、俺に渡した。

「あの」

「なんじゃ」

「この文字は、なんですか」

老人は、手帳を上着に戻しながら答えた。

「バスの、出る時間や」

それだけだった。

聞き返す前に、老人は歩き出していた。

こつ、こつ、と音が遠ざかった。

振り返ると、老人の姿はもう見えなかった。

道は、まっすぐだった。

隠れる場所など、どこにもなかった。

言われた通りに歩いた。

トンネルがあった。

素掘りの、古いものだ。

中に、明かりはなかった。

壁に手をついて進んだ。

指が、湿った岩をなぞった。

その岩に、彫り跡があった。

文字だ。

あの、手帳の文字と同じ形だった。

祭囃子は、トンネルの中でも聞こえていた。

前からなのか、後ろからなのか、わからなかった。

歩数を、数えていた。

設計の癖だ。

入口から出口まで、二百二十歩あった。

後日、地図で測った。

そのトンネルは、百四十メートルしかない。

俺の歩幅なら、二百歩には届かない。

抜けると、空気が変わった。

土の匂いが消えて、乾いた埃の匂いになった。

角を右に曲がり、次の次の角に、バス停があった。

本当にあった。

錆びた鉄の標識が、傾いて立っている。

時刻表の板は、あの駅と同じで、白かった。

ベンチに、女が一人座っていた。

年配の女だ。

和服のような、暗い色の服を着ている。

そして、夜なのに、サングラスをかけていた。

「こんばんは」

女は、こちらを向いた。

「こんばんは」

声は、普通だった。

「このバス、Y駅に行きますか」

「行きますよ」

「あと、どのくらいですか」

女は、少し首を傾げた。

「もうすぐ」

「時刻表が、白いんですが」

「ええ」

女は、それだけ言って、前を向いた。

「あの」

「はい」

「この辺りの方ですか」

「昔はね」

「今は」

女は、答えなかった。

かわりに、こう言った。

「あなた、駅で切符を切られたでしょう」

息が止まった。

そんな話は、していない。

「なんで、それを」

「音がしたから」

女は、前を向いたまま言った。

「かちん、って」

バス停から駅までは、歩いて二十分はある。

トンネルも、挟んでいる。

その音が、ここまで届くはずがなかった。

その時、気づいた。

女の頭が、俺の声のするほうへ、正確に向いていた。

目を使っていない動き方だった。

バスを待つ間、俺は地図をポケットにしまおうとした。

二つに折ろうとして、手が止まった。

紙の裏に、文字があった。

表の地図は、線だけだ。

裏は、あの文字で、隙間なく埋まっていた。

老人は、余白を探して地図を書いた。

余白は、表にしかなかったのだ。

つまり、老人はこの紙の裏に、先にこれを書いていた。

バスの出る時間を、一枚の紙の裏いっぱいに。

何本のバスが、この山に来るというのか。

バスは、十時過ぎに来た。

古い型の、床が木のバスだった。

乗ったのは、俺と、あの女の二人だけだ。

運転手は、こちらを見なかった。

女は、途中のバス停で降りた。

降りるとき、ステップを杖で探っていた。

やはり、目が見えていなかった。

俺は、つつがなくY駅に着いた。

拍子抜けするほど、あっさりと。

実家には、一時間ほど遅れて着いた。

母は、電車が遅れたのだと思っていた。

俺は、何も話さなかった。

話せば、休職のことと結びつけられる気がしたからだ。

二年で、体は元に戻った。

仕事にも復帰した。

あの夜のことは、疲れていたからだと思うことにした。

そう思うことにして、忘れた。

本当に、忘れていた。

去年の大晦日、実家の自分の部屋を片付けていた。

押し入れの奥から、古いコートが出てきた。

五年前、帰省したときに着ていたコートだ。

そのポケットから、一枚の紙が出てきた。

地図だった。

線は、まっすぐだった。

裏を返して、俺は座り込んだ。

その足で、俺は町の郷土資料館へ行った。

路線の古い地図を見せてもらった。

S駅は、あった。

ただし、昭和十九年に廃止されていた。

戦時中に、線路が別の場所へ運ばれたのだという。

今は、その区間の線路そのものが存在しない。

存在しない線路の駅に、俺は降りた。

そして、その集落の祭は、昭和十七年を最後に、途絶えていた。

資料館の人が、写真を見せてくれた。

祭のときに使う、祠の写真だ。

祠の柱に、彫り跡があった。

あの文字だった。

「これ、なんの文字ですか」

「わかりません」

資料館の人は、そう言った。

「調べた人がいたそうですが」

「そうですが」

「その人も、わからなかったそうです」

帰りぎわ、資料館の人が、もう一枚の写真を出してきた。

祭の日に撮ったものだという。

昭和十五年。

集落の者が、二十人ほど並んでいる。

その端に、老人がいた。

杖をついて、右足を少し前に投げ出している。

義足だった。

金属の、古い型のものだ。

「この人は」

「わかりません」

資料館の人は、写真の裏を返した。

「名前が、書いてないんです」

「他の人は」

「他の人は、全員書いてあります」

この一人だけ、名前がなかった。

昭和十五年に、すでに老人だった男が、五年前の夜に、俺に道を教えた。

こつ、こつ、と音を立てながら。

その地図は、今も俺の机の引き出しにある。

一度だけ、あの道を車で辿ってみた。

トンネルはあった。

今はコンクリートで固めてあって、壁の彫り跡は見えない。

バス停は、なかった。

そのかわり、道の脇に、錆びた鉄の棒が一本、地面から出ていた。

それだけだ。

俺は、地図を出して、裏の文字を数えた。

数えるつもりなど、なかった。

ただ、目についたから、数えた。

そして、部屋に戻って、五年前に撮っておいた写真と見比べた。

気になって、あの夜のうちに撮っていた写真だ。

あの夜より、文字が増えている。

三つ。

たった三つだ。

だが、増えている。

バスの出る時間や、と老人は言った。

それが本当なら、この五年で、あの山にバスが三本、増えたことになる。

存在しない線路の、存在しない駅へ向かうバスが。

写真のことは、誰にも話していない。

話しても、疲れていたんだろうと言われる。

五年前は、実際そうだった。

だが、今は違う。

今の俺は、健康だ。

毎朝、走っている。

残業もしない。

薬も、もう飲んでいない。

それでも、文字は増えている。

俺の体調とは、関係がない。

それが、いちばん、こたえる。

俺は、その紙を捨てられない。

捨てたら、次に誰かの手に渡る気がする。

だから、引き出しに入れてある。

時々、数える。

数えるたびに、少しずつ、増えている。

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