その地図は、今も俺の机の引き出しにある。
五年前の秋、俺は勤めていた設計事務所を休職した。
残業が月に百五十時間を超えていた頃だ。
ある朝、駅の階段で足が上がらなくなった。
上がらない、という感覚が自分でも意味がわからなかった。
病院で、しばらく休めと言われた。
一人で暮らすのは無理だろうという話になり、俺は実家へ帰ることにした。
中国地方の、山あいの町だ。
※
都市部のK駅を出たのは、十月の夜七時過ぎだった。
その日は、朝から雨が降っていた。
ホームの屋根から落ちる水が、線路の砂利を叩いていた。
車両は空いていた。
乗客は、俺のほかに三人。
三人とも、離れた席に座っていた。
一人はスーツの男で、二人は年配の女だった。
俺は、いちばん後ろの、扉の横に座った。
鞄には、二週間分の着替えと、病院でもらった薬が入っていた。
電車が動き出すと、雨の匂いが車内に入ってきた。
窓に、自分の顔が映っていた。
頬が、こけていた。
自分の顔だと、すぐには思えなかった。
窓の外は、駅を過ぎるごとに暗くなっていった。
やがて、家の明かりが途切れ始めた。
実家の最寄りはY駅という。
そこまでは、途中のT駅で一度だけ乗り換える必要があった。
何度も帰省している路線だ。
間違えるはずがなかった。
※
俺は予定通り、T駅で降りた。
降りるとき、車内を見た。
三人とも、いなかった。
どこかの駅で降りたのだろう。
そう思った。
だが、俺はその二十分のあいだ、扉が開く音を一度も聞いていない。
だが、乗り換えるはずの電車がなかった。
掲示板を見ても、Y駅方面の表示がない。
時刻表の紙が、そこだけ剥がされたように白かった。
困り果てて、改札の駅員に聞いた。
「Y駅へ行く電車は、何番線ですか」
駅員は、俺の切符を見て首を傾げた。
「この駅では、乗り換えられませんよ」
「え」
「Y駅なら、S駅で乗り換えです」
そんな駅は知らなかった。
「S駅って、どこですか」
「二つ先です。この電車で行けます」
おかしい、と思った。
十年、この路線を使っている。
S駅などという駅を、俺は一度も聞いたことがない。
だが、体がだるかった。
言い返す気力がなかった。
俺は、駅員の言う電車に乗った。
※
S駅に着いたのは、二十分ほど経ってからだ。
扉が開いた瞬間、俺は動けなかった。
山の中だった。
ホームの両側に、黒い斜面が迫っている。
ホームは、木の板だった。
コンクリートではない。
踏むと、たわむ音がした。
明かりは、裸電球がひとつだけだ。
それが、風で揺れていた。
線路は、一本しかなかった。
乗り換える、と駅員は言った。
一本の線路で、どこへ乗り換えるのか。
背中を、電車の風が押した。
振り返ると、電車はもう闇の中だった。
※
時刻表を探した。
ホームの柱に、板が打ち付けてあった。
だが、そこには何も書かれていなかった。
削られたのでもない。
最初から、白いままだった。
雨は上がっていた。
かわりに、土の匂いがした。
濡れた土と、腐った葉と、そのもっと奥に、線香に似た匂いがあった。
斜面の向こうに、家の明かりがまばらに見えた。
田んぼが、水を張ったまま黒く光っている。
十月に、水を張る田はない。
※
駅舎へ向かった。
無人駅だろうと思っていた。
だが、駅員はいた。
真っ暗な駅舎の中で、受付の窓口にだけ、黄色い光が灯っていた。
その中に、一人。
着ているものが、妙だった。
今の制服ではない。
詰め襟の、厚い生地の上着だ。
肩に、金色の線が入っている。
帽子を、目の高さまで深く被っていた。
「すみません」
返事はなかった。
「Y駅へ行く電車は、いつ来ますか」
駅員が、顔をこちらへ向けた。
帽子の陰で、目のあたりが見えない。
そして、喉の奥から音を出した。
「ぐ、ごご」
声ではなかった。
音だった。
※
俺は、もう一度同じことを聞いた。
駅員は、同じ音を出した。
そして、手のひらを上に向けて、こちらへ差し出した。
何かを、寄越せという仕草だった。
切符か、と思った。
俺は、Y駅までの切符を渡した。
渡した瞬間に、後悔した。
駅員は、切符を受け取ると、何も言わずに鋏を入れた。
かちん、と音がした。
Y駅までの切符だ。
まだ、Y駅に着いていない。
「待ってください」
俺は窓口に手をかけた。
「それは、まだ切る切符じゃない」
駅員は、切った切符をこちらへ戻した。
そして、また同じ音を出した。
「ぐ、ごご」
それから、駅舎の外を指さした。
出て行け、という仕草に見えた。
俺は、切符を握って外へ出た。
出てから、気づいた。
あの窓口には、椅子がなかった。
あの駅員は、立ったままだ。
たぶん、ずっと。
※
駅の外は、道が一本あるだけだった。
街灯はない。
携帯を見た。
圏外だった。
その表示を、俺は三度確かめた。
実家の町でも、圏外になることはない。
そこは、そういう場所ではないはずだった。
引き返そうかと思った。
だが、あの駅員に、もう一度会う気にはなれなかった。
その時、音が聞こえた。
遠くから、笛と太鼓だ。
祭囃子だった。
十月の、夜十時近くにだ。
音のほうへ、俺は歩き出した。
囃子は、近づいても、大きくならなかった。
同じ距離を、保っていた。
一軒だけ、明かりのついた家があった。
障子が、内側から橙色に光っている。
人影が、二つ映っていた。
座って、向かい合っている。
俺は、その家の前で足を止めた。
声をかけようとした。
その時、影が二つとも、こちらを向いた。
障子は、閉まったままだ。
俺は、歩き出した。
振り返らなかった。
※
十分ほど歩いた。
家はあるのに、明かりのついている家がない。
軒先に、洗濯物が干してある家があった。
白い、大きな布だ。
それが、風もないのに、ゆっくり動いていた。
家は、どれも古かった。
茅葺きの上に、トタンを被せてある。
戦後すぐの直し方だ。
設計の仕事をしていたから、それはわかった。
どの家も、その一度きりで、後の手が入っていない。
七十年、誰も触っていない家だ。
それなのに、傾いてもいなかった。
それどころか、庭の草が刈ってあった。
刈ったばかりの、青い匂いがした。
向こう側から、人影が来た。
初めて見る人間だった。
老人だった。
歩くたびに、こつ、こつ、と硬い音がする。
近づいて、わかった。
右足が、義足だった。
金属の、古い型のものだ。
「すみません」
俺は、事情を全部話した。
乗り換えを間違えたこと。
駅員が話せないこと。
Y駅へ行きたいこと。
老人は、黙って最後まで聞いた。
それから、言った。
「この十字路を真っ直ぐ行って、突き当たりを左に行くと、トンネルがあるけえ」
「トンネル」
「そこを抜けて、次の角を右に。その次の次の角に、バス停があるけえな」
「そこから、Y駅に行けるんですか」
「行けるけえ」
方言が、実家のあたりのものと、少しだけ違った。
古い言い方だった。
祖父が使っていたのを、聞いた覚えがある。
※
道順が、頭に入らなかった。
俺が黙っていると、老人が言った。
「地図を、書いてやろうか」
「お願いします」
老人は、上着の内側から手帳を出した。
黒い、布張りの手帳だ。
角が、丸くすり切れていた。
めくると、どのページにも、びっしりと文字が書いてある。
その文字を見て、俺は手が止まった。
ひらがなでもない。
漢字でもない。
アルファベットでも、ハングルでもない。
強いて言えば、子供が線を引いた落書きに近い。
だが、規則があった。
同じ形が、何度も出てくる。
文字だ。
俺の知らない文字だ。
老人は、余白を探して、そこに地図を書いた。
線は、驚くほどまっすぐだった。
「この通りに行けば、間違いはないけえ」
そう言って、そのページを破いて、俺に渡した。
※
「あの」
「なんじゃ」
「この文字は、なんですか」
老人は、手帳を上着に戻しながら答えた。
「バスの、出る時間や」
それだけだった。
聞き返す前に、老人は歩き出していた。
こつ、こつ、と音が遠ざかった。
振り返ると、老人の姿はもう見えなかった。
道は、まっすぐだった。
隠れる場所など、どこにもなかった。
※
言われた通りに歩いた。
トンネルがあった。
素掘りの、古いものだ。
中に、明かりはなかった。
壁に手をついて進んだ。
指が、湿った岩をなぞった。
その岩に、彫り跡があった。
文字だ。
あの、手帳の文字と同じ形だった。
祭囃子は、トンネルの中でも聞こえていた。
前からなのか、後ろからなのか、わからなかった。
歩数を、数えていた。
設計の癖だ。
入口から出口まで、二百二十歩あった。
後日、地図で測った。
そのトンネルは、百四十メートルしかない。
俺の歩幅なら、二百歩には届かない。
抜けると、空気が変わった。
土の匂いが消えて、乾いた埃の匂いになった。
※
角を右に曲がり、次の次の角に、バス停があった。
本当にあった。
錆びた鉄の標識が、傾いて立っている。
時刻表の板は、あの駅と同じで、白かった。
ベンチに、女が一人座っていた。
年配の女だ。
和服のような、暗い色の服を着ている。
そして、夜なのに、サングラスをかけていた。
「こんばんは」
女は、こちらを向いた。
「こんばんは」
声は、普通だった。
「このバス、Y駅に行きますか」
「行きますよ」
「あと、どのくらいですか」
女は、少し首を傾げた。
「もうすぐ」
「時刻表が、白いんですが」
「ええ」
女は、それだけ言って、前を向いた。
「あの」
「はい」
「この辺りの方ですか」
「昔はね」
「今は」
女は、答えなかった。
かわりに、こう言った。
「あなた、駅で切符を切られたでしょう」
息が止まった。
そんな話は、していない。
「なんで、それを」
「音がしたから」
女は、前を向いたまま言った。
「かちん、って」
バス停から駅までは、歩いて二十分はある。
トンネルも、挟んでいる。
その音が、ここまで届くはずがなかった。
その時、気づいた。
女の頭が、俺の声のするほうへ、正確に向いていた。
目を使っていない動き方だった。
※
バスを待つ間、俺は地図をポケットにしまおうとした。
二つに折ろうとして、手が止まった。
紙の裏に、文字があった。
表の地図は、線だけだ。
裏は、あの文字で、隙間なく埋まっていた。
老人は、余白を探して地図を書いた。
余白は、表にしかなかったのだ。
つまり、老人はこの紙の裏に、先にこれを書いていた。
バスの出る時間を、一枚の紙の裏いっぱいに。
何本のバスが、この山に来るというのか。
※
バスは、十時過ぎに来た。
古い型の、床が木のバスだった。
乗ったのは、俺と、あの女の二人だけだ。
運転手は、こちらを見なかった。
女は、途中のバス停で降りた。
降りるとき、ステップを杖で探っていた。
やはり、目が見えていなかった。
俺は、つつがなくY駅に着いた。
拍子抜けするほど、あっさりと。
実家には、一時間ほど遅れて着いた。
母は、電車が遅れたのだと思っていた。
俺は、何も話さなかった。
話せば、休職のことと結びつけられる気がしたからだ。
※
二年で、体は元に戻った。
仕事にも復帰した。
あの夜のことは、疲れていたからだと思うことにした。
そう思うことにして、忘れた。
本当に、忘れていた。
去年の大晦日、実家の自分の部屋を片付けていた。
押し入れの奥から、古いコートが出てきた。
五年前、帰省したときに着ていたコートだ。
そのポケットから、一枚の紙が出てきた。
地図だった。
線は、まっすぐだった。
裏を返して、俺は座り込んだ。
※
その足で、俺は町の郷土資料館へ行った。
路線の古い地図を見せてもらった。
S駅は、あった。
ただし、昭和十九年に廃止されていた。
戦時中に、線路が別の場所へ運ばれたのだという。
今は、その区間の線路そのものが存在しない。
存在しない線路の駅に、俺は降りた。
そして、その集落の祭は、昭和十七年を最後に、途絶えていた。
資料館の人が、写真を見せてくれた。
祭のときに使う、祠の写真だ。
祠の柱に、彫り跡があった。
あの文字だった。
「これ、なんの文字ですか」
「わかりません」
資料館の人は、そう言った。
「調べた人がいたそうですが」
「そうですが」
「その人も、わからなかったそうです」
※
※
帰りぎわ、資料館の人が、もう一枚の写真を出してきた。
祭の日に撮ったものだという。
昭和十五年。
集落の者が、二十人ほど並んでいる。
その端に、老人がいた。
杖をついて、右足を少し前に投げ出している。
義足だった。
金属の、古い型のものだ。
「この人は」
「わかりません」
資料館の人は、写真の裏を返した。
「名前が、書いてないんです」
「他の人は」
「他の人は、全員書いてあります」
この一人だけ、名前がなかった。
昭和十五年に、すでに老人だった男が、五年前の夜に、俺に道を教えた。
こつ、こつ、と音を立てながら。
※
その地図は、今も俺の机の引き出しにある。
一度だけ、あの道を車で辿ってみた。
トンネルはあった。
今はコンクリートで固めてあって、壁の彫り跡は見えない。
バス停は、なかった。
そのかわり、道の脇に、錆びた鉄の棒が一本、地面から出ていた。
それだけだ。
俺は、地図を出して、裏の文字を数えた。
数えるつもりなど、なかった。
ただ、目についたから、数えた。
そして、部屋に戻って、五年前に撮っておいた写真と見比べた。
気になって、あの夜のうちに撮っていた写真だ。
あの夜より、文字が増えている。
三つ。
たった三つだ。
だが、増えている。
※
バスの出る時間や、と老人は言った。
それが本当なら、この五年で、あの山にバスが三本、増えたことになる。
存在しない線路の、存在しない駅へ向かうバスが。
写真のことは、誰にも話していない。
話しても、疲れていたんだろうと言われる。
五年前は、実際そうだった。
だが、今は違う。
今の俺は、健康だ。
毎朝、走っている。
残業もしない。
薬も、もう飲んでいない。
それでも、文字は増えている。
俺の体調とは、関係がない。
それが、いちばん、こたえる。
俺は、その紙を捨てられない。
捨てたら、次に誰かの手に渡る気がする。
だから、引き出しに入れてある。
時々、数える。
数えるたびに、少しずつ、増えている。