空き家の内側から閉まる鍵

雨夜の灯籠と町家並み

今でも、家の戸締まりは決まった順でしかできない。

玄関、勝手口、掃き出し窓、雨戸。

この順でなければ、布団に入っても目が冴えたままになる。

順番を違えたと気づくと、起き上がって最初からやり直す。

三年前の秋までは、そんな癖はなかった。

私は鍵屋に勤めている。

名刺には錠前技師と刷ってあるが、やっているのは地味な作業ばかりだ。

玄関のシリンダーを外して、新しいものに入れ替える。

建て付けの狂った扉のラッチを、少しずつ削って合わせる。

車の中に鍵を置いたまま扉を閉めてしまった人のところへ行って、十分で開けて帰る。

入ったのは二十四のときで、あの秋は二十七だった。

女で鍵屋というのは珍しいらしく、現場に着くと必ず一度、家の人の顔に間があく。

その間には、もう慣れていた。

教わったのは社長と、五十を過ぎた先輩の二人だけだ。

先輩は口数の少ない人で、教え方も雑だった。

ただ、一つだけ繰り返し言われたことがある。

「鍵屋の腕は、開けるほうじゃない」

「閉めるほうだ」

開けるのは誰にでもできる、と先輩は言った。

時間さえかければ、素人でもいつかは開く。

だが、閉めたものを確かに閉まったと言い切るのは、資格のいる仕事だと。

そのときは職人の言い回しだと思って、聞き流していた。

その家の依頼が来たのは、十月の終わりだった。

頼んできたのは買い取り再販の不動産会社で、担当は佐久間さんという三十代の男性だった。

物件は埼玉の北のほうで、最寄り駅から車で二十分ほど走った先にある。

昭和五十年代に畑を潰して造られた分譲地で、四十軒ほどが同じ形で並んでいた。

屋根の勾配も、門柱の位置も、玄関ポーチの段の高さも同じだ。

違うのは、庭に何を植えたかと、いつ手入れをやめたかだけだった。

その一軒が売りに出て、佐久間さんの会社が買い取った。

リフォームして売り直すので、その前に鍵を全部替えてほしい、という話だった。

よくある仕事だ。

前の持ち主が誰に合鍵を渡していたか分からない以上、権利者が変われば錠は替える。

見積もりのために、私は一人で下見に行った。

着いたのは午後三時過ぎで、日はまだ屋根の上にあった。

家は角地の一つ手前に建っていて、門柱の表札だけが外されていた。

外したあとの四角い跡が、モルタルの色の違いで残っている。

庭はほとんど土で、隅にサツキが二株、刈られないまま丸くなっていた。

雨戸は一階も二階も、全部閉まっていた。

空き家では珍しくない。

この分譲地には、同じように売りに出ている家が三軒あった。

同じ年に建った家は、同じころに人がいなくなる。

そういうものだと、この仕事をしているとだんだん分かってくる。

それより先に、私は玄関の鍵穴を見た。

これは癖で、家の人が見ていようがいまいが必ずやる。

鍵穴の周りには、その家の暮らしが出るからだ。

毎日使う家の鍵穴は、鍵を挿す角度の癖で、片側だけが摩耗する。

そこにあったのは、擦り傷だった。

鍵穴の下に、縦に三本。

鍵を挿し損ねて、刃の先でシリンダーの面を撫でた跡だ。

目が悪くなった人の家によくある。

三本というのは、多いほうだ。

私は手帳に、玄関シリンダー面キズ三本、と書いた。

あとから思えば、あれを書いたのがいけなかったのかもしれない。

玄関を開けると、空き家の匂いがした。

畳と埃と、水の抜けた排水口の匂いが混ざった、あの匂いだ。

電気は止まっていたので、懐中電灯をつけて上がった。

廊下、洋間、和室、台所。

家具はほとんど残っていなかった。

残っていたのは、和室の押入れの前に敷かれた座布団が一枚。

それと、台所の流しに伏せられたコップが一つ。

あとは、白いプラスチックのフックが四つだけだった。

玄関の内側、勝手口の内側、掃き出し窓の脇、そして縁側の戸袋の横。

どれも同じ高さで、同じ向きに打ってあった。

鍵を掛けておくためのフックだ。

四つとも、何も掛かっていなかった。

錠は思っていたより多かった。

玄関に主錠と補助錠、勝手口に一つ、掃き出し窓に面付けの補助錠が二つ。

縁側の雨戸には、内側から落とす締まり金具が三箇所。

二階の窓にも、後付けの錠が全部に入っていた。

空き巣に入られた家か、そうでなければ、入られるのを極端に怖がった家だ。

見積書の行数が増えるのは、うちにとって悪い話ではない。

私は部屋を回って、型番と本数を控えていった。

二階は六畳が二間で、どちらも空だった。

窓は雨戸で塞がれているので、昼でも懐中電灯がいる。

片方の部屋の壁には、家具を置いていた跡が長方形に残っていた。

日に焼けなかった部分だけが、白いまま残っている。

もう片方には、その跡さえなかった。

何年も、何も置かれていなかったのだと思う。

この家で使われていたのは、一階の和室と台所だけだったのだろう。

下見を終えて外に出ると、佐久間さんの車が門の前に停まっていた。

「どうでした」

「思ったより多いです」

「錠だけで十一箇所ありました」

佐久間さんは苦笑いして、そうでしょうね、と言った。

「前の持ち主の方、そういう方だったらしくて」

私が聞き返すと、佐久間さんは近所で聞いた話を教えてくれた。

住んでいたのは八十を過ぎた男性で、十年ほど一人暮らしだったという。

娘さんが遠くにいて、去年の春、施設へ移ることになった。

家財はそのときに大方引き払った。

「戸締まりに、ものすごく厳しい方だったそうです」

「毎晩、決まった順で見て回っていたと」

「玄関、勝手口、掃き出し窓、雨戸」

「その順でないと、駄目だったらしくて」

隣の家の方が笑いながら話してくれました、と佐久間さんは言った。

私は白いフックのことを思い出していた。

四つ。

数も、順番も合っている。

「あと、これは笑い話なんですけど」

佐久間さんは車のドアに手をかけたまま続けた。

「引き払うとき、鍵を一本だけ持って行かれたそうです」

「施設の方が返してくださいと言っても、それだけは渡さなかったと」

娘さんも、どの鍵かは分からないと言っているらしい。

「まあ、鍵を全部替えれば済む話ですから」

そうですね、と私は答えた。

実際、それで済む話のはずだった。

作業は二日に分けた。

初日に玄関と勝手口、二日目に掃き出し窓と雨戸と二階、という段取りだ。

十一月の頭の、よく晴れた日だった。

電気が止まっているので、投光器を回すための発電機を積んでいった。

玄関の主錠から始めた。

扉の側面のプレートを外し、ビスを抜いて、シリンダーを引き抜く。

古いシリンダーは、思ったより軽かった。

手のひらに載せて、傷の三本をもう一度見た。

新しいシリンダーを差し込み、カムの向きを合わせて、ビスを締める。

鍵を挿して、二回、三回と回す。

空回りも引っかかりもない。

いい仕事をしたと思う。

続けて勝手口に移った。

こちらの錠は、思っていたより古い型だった。

ビスが一本なめていて、ドライバーが噛まない。

ドリルで頭を飛ばし、残った軸をペンチで掴んで抜いた。

それだけで十分ほど余計にかかった。

その音がしたのは、ちょうどその頃だった。

カチャン。

遠くで、ラッチの落ちる音だ。

扉の枠に舌が収まるときの、あの短い金属音。

家の中を風が抜けて、扉が動いたのだろうと思った。

だが、次にもう一つ鳴った。

さっきより近い。

それから、また一つ。

音は、玄関の方から順にこちらへ寄ってきていた。

私は手を止めて、廊下の奥を見た。

玄関、勝手口、掃き出し窓、雨戸。

その順だと気づくのに、少し時間がかかった。

気づいたとき、音は縁側のあたりで止まっていた。

家じゅうの扉は、全部開け放してある。

作業のために、私が朝いちばんに開けたのだ。

開いている扉のラッチは、落ちない。

私は一度、外へ出た。

車のところで缶コーヒーを飲んで、五分ほどぼんやりしていた。

隣の家の塀の上に三毛猫がいて、こちらを見ていた。

猫は私が缶を置くと欠伸をして、瓦の向こうへ降りていった。

来がけに買ったおにぎりを、運転席で食べた。

ラジオは、明日から冷えるという話をしていた。

昼の光の下では、さっきの音がひどく馬鹿らしく思えた。

空き家で音がするのは当たり前だ。

建具が乾いて動くし、鼠もいる。

私は工具箱を提げて、家へ戻った。

その日は残りの作業を終えて、暗くなる前に引き上げた。

外した古いシリンダーは、まとめてビニール袋に入れ、工具箱の底に放り込んだ。

錠は産業廃棄物になるので、社に持ち帰って処分する決まりになっている。

異変に気づいたのは翌朝だった。

現場に着いて工具箱を開け、袋を出したときだ。

玄関の主錠から抜いた古いシリンダーが、施錠の位置になっていた。

カムが、九十度回ったところで止まっている。

外したときは開錠の位置だった。

私はそうやって外す。

施錠位置のまま抜くと、カムが枠に当たって傷が付くからだ。

袋の中で他の錠とぶつかって回ったのだろう、と思うことにした。

実際、そう思うほかなかった。

二日目は掃き出し窓の補助錠からだった。

面付けの錠を二つ外して、新しいものを付ける。

ビスの位置が合わないので、木部を少し彫った。

木屑を掃いていると、庭の向こうから声をかけられた。

隣の家の、七十くらいの女性だった。

「ご苦労さま」

「売れるの、あの家」

「これから直して、来年には出すそうです」

女性は塀に手をついて、しばらく家を見上げていた。

それから、こう言った。

「あそこね、夜になると音がするのよ」

私は木屑を掃く手を止めた。

「音、ですか」

「戸締まりの音」

「毎晩、十時ごろ」

女性は、当たり前のことを言うような調子だった。

「ずっとしてたのよ、あの人がいた頃から」

「引っ越したあとも変わらないのねって、主人と話してたの」

「ご主人も、聞かれるんですか」

「うちの人はね、聞こえないの」

「聞こえるのは私だけ」

女性はそう言って笑い、家に入っていった。

私は木屑をちりとりに集めた。

集め終わるまで、ずいぶん時間がかかった気がする。

昼に、先輩から電話があった。

別件の在庫の話で、そのついでだった。

私は音のことを話した。

半分は笑い話のつもりだった。

先輩は最後まで黙って聞いて、それから短く聞いた。

「その家、戸締まりの順は聞いたか」

私は、聞きました、と答えた。

「玄関、勝手口、掃き出し窓、雨戸です」

電話の向こうで、先輩が息を吸うのが分かった。

「なら、その順で閉めろ」

「順を聞いてしまったなら、その順で閉めるんだ」

どういう意味ですか、と聞いた。

「閉めた順が違うと、閉めたことにならん家がある」

先輩はそれだけ言って、在庫の話に戻した。

職人には、この手の言い伝えを持っている人がいる。

建具屋にも、井戸屋にもいる。

私はそう思うことにして、電話を切った。

二階の窓の錠を替え終えたのは、四時を回った頃だった。

日が短くなっていて、廊下はもう薄暗かった。

一階に降り、雨戸の締まり金具を三箇所、新しいものに替えた。

それで十一箇所、全部が終わった。

道具をまとめ、投光器を畳み、発電機を車に積んだ。

最後の戸締まりは、先輩の言葉どおりにすることにした。

玄関、勝手口、掃き出し窓、雨戸。

順に、内側から。

雨戸を落とし、掃き出し窓の面付け錠を掛け、勝手口の鍵を回した。

最後に玄関から出て、新しい鍵で施錠した。

鍵は三本、私の手にあった。

予備を含めて、この家の玄関を開けられる鍵は、その三本しかない。

車に乗ってから、手帳を上がり框に置いてきたことに気づいた。

型番を控えた手帳で、これがないと請求書が書けない。

私は舌打ちして、車を降りた。

玄関の前に立って、鍵を挿した。

回らない。

いや、回らないのではない。

空回りしている。

私は鍵を抜いて、扉を引いた。

開かない。

サムターンを回したときの手応えを、指はまだ覚えていた。

私は間違いなく、外から鍵で閉めた。

外から鍵で閉めた錠は、外から鍵で開く。

それが、この錠の仕組みだ。

空回りするのは、内側のサムターンが、鍵の位置と食い違っているときだけだ。

私は膝をついて、懐中電灯を新しいシリンダーの面に当てた。

二日前に、私が自分の手で入れたものだ。

鍵穴の下に、縦に三本、細い擦り傷が入っていた。

指でなぞると、縁が立っていた。

付いたばかりの傷だった。

玄関の錠は、内側から掛かっていた。

手が冷たくなるのが分かった。

私はしばらく、ドアノブを握ったまま立っていた。

逃げるという考えは、なぜか浮かばなかった。

手帳がいる、とだけ思っていた。

私は裏へ回り、勝手口の鍵を開けた。

こちらは、ふつうに開いた。

中は暗かった。

懐中電灯だけをつけて、上がり框まで行った。

手帳はそこにあった。

拾って、そのまま出ればよかったのだと思う。

だが、玄関の内側のサムターンを見てしまった。

縦になっている。

施錠の位置だ。

私は指を伸ばして、それを横に倒した。

倒したところで、家の奥で音がした。

カチャン。

遠くではなかった。

和室のほうだ。

私は懐中電灯を向けた。

和室の押入れの襖が、十センチほど開いていた。

前に敷かれた座布団は、初日に見たときと同じ場所にある。

私は襖に手をかけた。

引くと、中は押入れではなかった。

中段が外され、天井まで抜かれていた。

内側の三面に合板が貼ってあって、床には薄い敷物が敷いてある。

人が一人、膝を抱えて座れるくらいの、四角い空間だった。

素人の仕事ではあるが、丁寧だった。

合板の継ぎ目には、パテまで詰めてある。

中の空気は、家のほかの場所と匂いが違った。

埃ではなく、布と、古い整髪料のような匂いだった。

合板の一面だけ、腰の高さに帯のような艶が出ている。

何度も背中を預けた跡だ。

敷物の毛も、真ん中だけが寝ていた。

座る場所が決まっていたのだと分かる。

私が息を止めたのは、その造作のせいではない。

襖の内側に、面付けの締まり金具が付いていた。

内側からしか掛からない、あの金具だ。

押入れの内側に、鍵を掛ける必要のある人間はいない。

懐中電灯を下に向けた。

敷物の上に、鍵が一本落ちていた。

この家の玄関の、古いほうの鍵だった。

私が二日前に、自分の手で用済みにした鍵だ。

そして、合板の壁に、白いプラスチックのフックが一つ打ってあった。

家のほかの四つと、同じ高さで、同じ向きに。

五つ目だった。

そこから先は、あまり順序よく覚えていない。

押入れの前から立ち上がったところまでは覚えている。

廊下を走ったのも覚えている。

勝手口を出て、庭を回って、車に乗った。

エンジンをかけて、しばらく動かなかった。

手が震えて、シフトに入らなかったからだ。

玄関を見ると、扉は閉まっていた。

雨戸も、掃き出し窓も、私が閉めたとおりに閉まっている。

順番どおりだ。

玄関、勝手口、掃き出し窓、雨戸。

そして、押入れ。

五つ目のフックの意味が、車の中でようやく分かった。

あの家の戸締まりは、四つでは終わらない。

最後に一つ、内側から掛けるものがある。

内側から掛ける以上、中に人がいなければ、その手順は終わらない。

前の持ち主が、鍵を一本だけ持って行った理由も、分かった気がした。

あの人は、鍵を持って行ったのではない。

置いていくわけには、いかなかったのだ。

手順を終わらせられる人間が、自分しかいないと思っていたのだろう。

それとも、終わらせないために持って行ったのか。

そこは、今も分からない。

翌日、私は佐久間さんに電話をして、押入れのことだけを伝えた。

改造されているので、リフォームの見積もりに入れたほうがいいと。

音のことも、玄関のことも言わなかった。

言っても仕方がないと思ったし、言葉にすると本当になる気がした。

佐久間さんは、分かりました、と言った。

三ヶ月ほどして、あの分譲地の別の家の仕事が入った。

帰りに前を通ると、あの家はもう外壁が塗り替えられていた。

明るいベージュになって、庭には砂利が敷かれ、雨戸は開いていた。

売れましたよ、と佐久間さんはあとで教えてくれた。

若い夫婦と、小さい子どもが二人だという。

私は、よかったですね、と答えた。

それ以上は、何も聞かなかった。

押入れをどうしたかも、聞かなかった。

先輩にも、その後は何も聞いていない。

一度だけ、飲みの席であの電話の話を持ち出したことがある。

先輩は、そんなこと言ったかな、と笑った。

目は笑っていなかった。

それきり、私もその話はしていない。

それから三年になる。

私は今も同じ鍵屋にいて、同じ仕事をしている。

変わったのは、自分の家の戸締まりだけだ。

玄関、勝手口、掃き出し窓、雨戸。

この順でしか閉められない。

順番を違えると、起き上がってやり直す。

それだけなら、ただの癖で済んだと思う。

だが去年の暮れから、順が一つ増えた。

全部を閉め終えたあと、寝室の押入れの前に立つようになった。

襖を開けて、中を確かめる。

中には何もない。

布団と、季節外れの扇風機があるだけだ。

それでも、確かめないと眠れない。

玄関、勝手口、掃き出し窓、雨戸、そして押入れ。

この頃は、その襖を閉めるとき、外側から閉めている手応えがしない。

それでも、朝にはいつもの寝室で目が覚める。

今のところは。

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