八つ目の外湯へ降りた夜

雪夜温泉街を見下ろす旅人

去年の12月の話です。

雪の降る晩は、湯の音がよく通ります。

それを知ったのは、小板という町に行ってからでした。

外湯が七つある町だと、宿のおかみは言いました。

けれどわたしはその晩、八つ目の外湯に入りました。

そのことを、今も誰にも話していません。

9月に会社を辞めました。

東京で五年、服を売る仕事をしていました。

辞めた理由は、うまく言えません。

ある朝、駅の階段の途中で足が止まって、それきりでした。

実家に戻って、10月と11月をほとんど寝て過ごしました。

母は何も聞きませんでした。

ただ、食卓にわたしの箸を出し続けていました。

12月に入って、急に遠くへ行きたくなりました。

行き先はどこでもよかったのだと思います。

乗り換えの多い路線を選んで、いちばん奥の駅で降りました。

駅前からバスが出ていました。

一日に三本でした。

その最終に乗りました。

バスは川に沿って登っていきました。

窓の外は、途中から白いだけになりました。

運転手のほかに、乗客はわたし一人でした。

終点でドアが開くと、雪の匂いがしました。

冷たいというより、少し甘い匂いです。

バス停には屋根がなくて、時刻表の板が雪で半分隠れていました。

坂の下のほうから、低い音が続いていました。

川の音かと思いましたが、川はもっと遠くにありました。

あとで、あれが湯の落ちる音だと知りました。

宿は、バス停から歩いて三分ほどのところにありました。

自炊のできる古い宿で、冬の平日は客が少ないと聞いていました。

玄関に入ると、土間の隅で猫が寝ていました。

ストーブの上で、大きな薬缶が鳴っていました。

廊下の板は、歩くと決まった場所で軋みました。

おかみは六十くらいの、小柄な人でした。

宿帳に名前を書くと、わたしの顔を見ずに鍵を出しました。

それから、下駄を一足、揃えて土間に置きました。

おかみは、わたしの下駄をいつも先に外へ向けて出しておいてくれました。

そのときは、ただの気遣いだと思いました。

部屋は二階の、川側の六畳でした。

窓を開けると、雪が斜めに落ちていました。

下の通りに、湯気の上がる小屋がいくつか見えました。

板壁で、屋根が低くて、入口に短い暖簾が下がっています。

あれが外湯なのだと、あとで知りました。

屋根の上の湯気は、風がないのでまっすぐ立っていました。

その柱が、通りに沿って点々と並んでいます。

数えると、六つでした。

一つは、坂の折れた先にあるのだろうと思いました。

おかみが茶を持ってきて、紙を一枚くれました。

町の案内図でした。

湯の印が、七つ押してありました。

七つと書かれた案内図

一の湯から七の湯まで、番号がついています。

どれも町の人が管理していて、宿の客は鍵一本で全部に入れるそうです。

「順番は決まってませんよ」とおかみは言いました。

「ただ、上から下へ降りていくほうが楽です」

町は細長い坂の両側にありました。

いちばん上に一の湯があって、いちばん下に七の湯があります。

坂は途中で二度折れていて、下のほうは宿からは見えません。

その晩、わたしは一の湯に行きました。

雪はやんでいましたが、道の端に膝くらいまで積んでありました。

下駄の歯が、雪を噛む音がしました。

通りには、わたしのほかに人がいませんでした。

家々の窓には灯りがついていて、中から茶碗の音がしました。

雪の照り返しで、夜なのに足元がよく見えました。

一の湯は、思ったより小さい建物でした。

引き戸を開けると、番台におじいさんが座っていました。

八十近いと思います。

湯銭はいらないと言われました。

鍵を見せると、黙ってうなずきました。

湯は熱くて、少し濁っていました。

鉄のような匂いと、卵のような匂いが混ざっています。

湯船の縁は木でできていて、長年の湯で黒く光っていました。

天井は高く、梁がむき出しになっています。

その梁から、水滴が一定の間隔で落ちていました。

窓の外は真っ暗で、何も見えません。

体が芯から温まるまで、しばらくかかりました。

出るとき、わたしは番台に「あがりました」と言いました。

子どものころ、祖母の家で言わされていた言葉です。

番台のおじいさんは、わたしが湯から出るたび、こちらを見ずに「はい」とだけ答えました。

それがこの町の決まりなのだろうと思いました。

二の湯も、三の湯も、同じでした。

番台に人がいて、鍵を見せて、湯に入って、出るときに声をかける。

どの番台も、わたしの顔を見ませんでした。

三の湯では、地元の女の人と一緒になりました。

六十代くらいの、髪を上げた人でした。

その人は、湯に入る前に湯船の縁を二度叩きました。

挨拶のようなものですかと聞くと、笑って「癖です」と言いました。

その人も、上がるときに「あがりました」と番台へ声をかけていました。

三の湯を出たとき、時計は九時を回っていました。

その日はそこで宿に戻りました。

翌日は朝から雪でした。

昼のあいだ、部屋で本を読んで過ごしました。

読んでいるというより、同じ行を何度も見ていました。

夕方、おかみが廊下で「今晩は冷えますよ」と言いました。

「冷えると、湯がよく効きます」

その晩、四の湯に行きました。

坂を一つ折れた先です。

暖簾をくぐる前に、中から音が聞こえました。

湯を掻き回す音でした。

板で湯をゆっくり混ぜる、あの音です。

先客がいるのだと思って、少し待ちました。

音は止みませんでした。

五分ほど待って、戸を開けました。

脱衣所には誰もいませんでした。

湯殿にも、誰もいませんでした。

湯の面は、鏡のように静かでした。

湯を掻き回す音

そのときは、隣の家の音だろうと思いました。

木の建物は、音がよく回ります。

湯に浸かって、十分ほどで出ました。

番台に「あがりました」と言うと、「はい」と返ってきました。

外に出て、下駄を履こうとして、手が止まりました。

わたしは、下駄を戸口に向けて脱いだはずでした。

その下駄が、きれいに揃って、外を向いていました。

誰かが直してくれたのだと思いました。

番台のおじいさんは、ずっと座ったままでした。

引き戸の内側から、わたしの下駄には手が届きません。

それに、わたしが湯に入っているあいだ、戸の開く音はしませんでした。

雪は止んでいました。

道には、わたしが来たときの足跡が残っていました。

下駄の歯の跡が、二本の筋になって坂の上へ続いています。

その横に、もう一本、同じ筋がありました。

行きの跡と、帰りの跡と、もう一本。

わたしはまだ帰っていませんでした。

しゃがんで、三本の筋を順に見ました。

二本は、まだ縁が立っていました。

もう一本は縁が丸く、少し雪をかぶっていました。

わたしが来るより前についた跡でした。

けれど昼のあいだ、この道に足跡は一つもありませんでした。

宿に戻って、おかみに聞きました。

「四の湯に、誰か先に入っていましたか」

おかみは少し考えて、「今夜はお客さん一人ですよ」と言いました。

それから、湯呑みを拭きながらこう続けました。

「湯は、空けておかないもんです」

意味がわかりませんでした。

聞き返しましたが、おかみは笑って台所へ行ってしまいました。

その夜、通りの雑貨屋でカイロを買いました。

店の女の人が、わたしの顔を見て「今日で三日目ですね」と言いました。

その日はまだ二日目でした。

言い間違いだと思って、訂正しませんでした。

三日目は、五の湯と六の湯に行きました。

五の湯の番台には、前に一の湯にいたおじいさんが座っていました。

町の人が交代で番をしているのだと、そのとき知りました。

鍵を見せると、おじいさんは言いました。

「二度目ですね」

わたしが五の湯に来るのは、初めてでした。

そう言うと、おじいさんはうなずきました。

「そうですか」

それだけでした。

湯に入っているあいだ、ずっとその言葉が引っかかっていました。

出るときに、もう一度聞きました。

「さっきの二度目って、どういう意味ですか」

おじいさんは、天井のほうを見たまま答えました。

「先に来られた方が、もうお帰りになりましたから」

わたしは、その人の顔を見ましたかと聞きました。

おじいさんは首を振りました。

「顔は見ないことになっとります」

二度目ですねと言われて

宿に戻る途中で、時計を見ました。

六の湯を出たのが八時四十分でした。

宿までは、歩いて七分ほどです。

玄関の時計は、九時九分を指していました。

二十二分かかったことになります。

途中でどこにも寄っていません。

手を髪にやると、まだ濡れていました。

七分歩いたぶんの濡れ方でした。

その晩は、なかなか寝つけませんでした。

窓を少し開けて、外を見ていました。

湯気が、屋根の上をゆっくり流れていきます。

坂の下のほうは、雪と闇でよく見えません。

それでも、灯りの数は数えられました。

一の湯から七の湯まで、七つ。

そのさらに下に、もう一つありました。

案内図をもう一度見ました。

湯の印は七つです。

七の湯より下には、川しか描かれていません。

窓から見える灯りは、明らかにその先にありました。

橙色の、小さな灯りです。

滲まず、揺れず、ただそこにありました。

雪が風で流れても、その灯りだけは形が変わりませんでした。

しばらく見ていると、灯りの手前を何かが横切りました。

人の背丈ほどの、細い影でした。

影は坂を登る方向ではなく、灯りのほうへ入っていきました。

翌朝、おかみに聞きました。

「七の湯の下に、もう一つ湯があるんですか」

おかみは、味噌汁をよそう手を止めませんでした。

「昔の湯です」

今も使っているんですか、と聞きました。

「使う人がおれば」

そう言って、わたしの前に椀を置きました。

その日の昼、町の郷土資料館に行きました。

資料館といっても、公民館の一室です。

係の人はいなくて、電気だけがついていました。

壁に、古い写真と年表が貼ってありました。

写真の一枚は、外湯の前に並んだ町の人たちを写したものでした。

全員が下駄を履いていて、その下駄が、一足残らず外を向いていました。

脱いで並べたのではなく、履いたまま撮った写真です。

それなのに、つま先の向きだけが揃いすぎていました。

明治のおわりに、この町で大きな雪崩があったと書いてありました。

坂の下の家が、何軒も押し流されたそうです。

そのとき、湯に出ていた人たちが戻りませんでした。

年表にはそれだけで、人数は書いてありませんでした。

その下に、一行だけ手書きの紙が貼ってありました。

墨で書かれたものを、あとから誰かが写したもののようでした。

「以後、湯を絶やさぬこと」

その横に、もっと薄い字で、こうありました。

「番は顔を見ず、客は名を言わず」

資料館を出てから、ずっとその一行を考えていました。

わたしは宿帳に名前を書きました。

けれど外湯の番台では、一度も名前を聞かれていません。

その晩、七の湯に行きました。

これで七つ全部です。

湯から出て暖簾の外に立ったとき、坂の下の灯りが見えました。

宿の窓から見たときより、ずっと近くにありました。

石段が、その灯りまで続いていました。

昼に通ったときには、石段などありませんでした。

七の湯の裏は、雪の積もった斜面だったはずです。

わたしは、暖簾の下でしばらく立っていました。

番台のおじいさんが出てきて、わたしの横に並びました。

そして、坂の下を見ませんでした。

「上へお戻りですか」

そう聞かれて、わたしは答えませんでした。

名を言わず、顔を見せない。

そういう場所なのだと、そのときはまだ、作法の話だと思っていました。

坂の下の八つ目の外湯

わたしは、八つ目の外湯へ降りました。

怖くなかったといえば、うそになります。

ただ、そのときのわたしには、引き返す理由のほうが薄かったのです。

石段は二十段ほどでした。

雪が払われていて、下駄でも滑りませんでした。

降りながら、八つ目の外湯の暖簾を数えました。

ほかの外湯には、白い暖簾が二枚下がっています。

ここは一枚でした。

建物は、ほかの外湯とよく似ていました。

板壁で、屋根が低くて、短い暖簾が下がっています。

違うのは、番号がないことでした。

暖簾には、何も染めてありませんでした。

戸を開けると、番台に誰も座っていませんでした。

そのかわり、湯銭を入れる木の箱が置いてありました。

箱の中は空でした。

ほかの外湯の箱には、小銭が少し入っていました。

ここだけ、底の木目が見えるほど空でした。

番台の脇には、湯を掻き回す板が立てかけてありました。

その板は濡れていました。

脱衣所は、六畳ほどの広さでした。

棚が並んでいて、そのうちの一つに服が畳んでありました。

先客がいるのだと思いました。

けれどその服は、わたしがその日の昼に着ていたものでした。

同じ色の、同じ形のコートです。

袖口のほつれまで同じでした。

わたしはそのコートを、宿の部屋に置いてきていました。

触ってみると、布はぬるく、少し湿っていました。

着ていた人が、たった今脱いだような温度でした。

下駄箱を見ました。

いちばん端の、いちばん下に、下駄が一足入っていました。

宿の焼き印が押してありました。

わたしが今、履いてきたものと同じ焼き印でした。

帰ろうと思いました。

戸に手をかけて、引きました。

戸は動きませんでした。

押しても引いても、ただ木の鳴る音がするだけでした。

わたしは、湯殿のほうを見ました。

湯気が、板戸の下から流れてきていました。

服を脱ぎました。

そうするよりほかに、思いつかなかったのです。

湯殿は、ほかの外湯より少し広く感じました。

湯は、熱くも冷たくもありませんでした。

肌と同じ温度でした。

入っているのかどうか、わからないくらいでした。

窓はありませんでした。

湯の面は動きませんでした。

音もしませんでした。

あれだけ町に満ちていた湯の音が、ここだけありませんでした。

耳の奥が、圧されるように痛くなりました。

自分の呼吸の音だけが、やけに近く聞こえます。

湯の面に顔を近づけても、揺れは起きませんでした。

手を沈めると抵抗はあるのに、波紋が立たないのです。

どれくらいそうしていたのか、わかりません。

板戸の向こうで、人の気配がしました。

脱衣所に、誰かが入ってきたのです。

畳まれた服を、たたみ直すような音がしました。

それから、声がしました。

板戸の向こうの声

「あがりました」

わたしの声でした。

高さも、癖も、語尾の下がり方も、わたしのものでした。

この三日間、外湯を出るたびにわたしが言っていた言葉です。

番台に向かって言う言葉を、その声は板戸に向かって言いました。

番台に座っているのは、いつのまにかわたしのほうでした。

指先から、力が抜けていきました。

返事をしなければ、と思いました。

「はい」と言うのが、この町の決まりのはずでした。

口を開きかけたとき、板戸が開きました。

湯気の向こうに、一の湯の番台のおじいさんが立っていました。

板戸を開けたおじいさんは、そのとき初めてわたしの顔を見ました。

そして、首を横に振りました。

何も言いませんでした。

わたしは口を閉じました。

脱衣所のほうで、戸の開く音がしました。

誰かが出ていったのだと思います。

下駄の歯が石を打つ音が、石段を登っていきました。

その音は、わたしの歩き方とまったく同じ間隔でした。

おじいさんは、わたしが湯から上がるまでそこに立っていました。

棚の服は、なくなっていました。

下駄箱の下駄も、なくなっていました。

わたしの服と下駄だけが残っていました。

戸は、押すとあっさり開きました。

石段を上がると、坂の上に宿の灯りが見えました。

振り返ると、下には何もありませんでした。

灯りも、暖簾も、石段さえありませんでした。

雪の斜面が、川まで続いているだけでした。

足跡も残っていませんでした。

自分が降りた二十段が、どこにも見当たりませんでした。

翌朝、始発のバスで町を出ました。

玄関で下駄を返すとき、おかみが土間に立っていました。

おかみの下駄だけは、一度も内を向いていませんでした。

「お気をつけて」とだけ言われました。

わたしは、昨夜のことを何も話しませんでした。

おかみも、何も聞きませんでした。

バスの窓から町を見ると、湯気の柱は七つ立っていました。

八つ目のあった場所には、雪の斜面があるだけでした。

それから10か月が経ちました。

小板の町のことは、地図で一度だけ確かめました。

外湯は七つと書いてありました。

実家の近くの店で、週に四日だけ働いています。

湯に入るのは平気です。

ただ、湯から出るとき、声を出さなくなりました。

誰かに返事をされるのが、こわいのだと思います。

八つ目の外湯が何であったのか、今もわかりません。

今年の秋のことです。

朝、玄関を開けると、見たことのない下駄が一足、外を向いて置いてありました。

母が台所から「昨日、お客さん来たでしょう」と言いました。

誰も来ていません。

わたしは下駄を裏返しました。

その下駄の裏には、小板の宿の焼き印が押してありました。

わたしはそれを外へ向け直して、玄関を閉めました。

雪の降る晩は、今でも湯の音がよく通ります。

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