エレベーター

終電を逃した夜のエレベーターには、ときどき、知らない階が混ざる。

そう思うようになったのは、今から五年前の体験のせいだ。

当時、私は五反田の編集プロダクションに勤めていた。

社員九人の、小さな会社だった。

求人情報誌の下請けで、毎月決まった日に校了が来る。

派手さのない、締切だけが確かな仕事だった。

入っていたのは、駅から七分ほど歩いた裏通りの雑居ビル。

第三常盤ビルという、築三十六年の六階建てだ。

一階が不動産屋、二階が税理士事務所、四階がうち。

三階は、私が入社した年に会社が出て行って、それきり空いていた。

理由は、誰も教えてくれなかった。

家賃の問題だろうと、思っていた。

五階と六階は、ずっと空きテナントだった。

エレベーターは一基だけ。

扉の塗装が剥げて、定員六名の古い箱だった。

中の鏡は曇っていて、自分の顔が一拍遅れて映る気がした。

操作盤の「閉」のボタンだけ、文字が擦り切れて消えていた。

みんな、そこばかり押すからだ。

非常階段は外付けで、防犯のため夜十一時に施錠される。

つまり深夜は、エレベーター以外に降りる手段がない。

最初の頃は、それが少し怖かった。

火事になったらどうするんだ、と同僚に言ったら、笑われた。

「このビルで一番古いのは配線じゃなくて、あの箱だよ」

今思えば、笑えない冗談だった。

管理人は週三日しか来ない。

かわりに、夜は警備会社の老人が一階の小部屋に詰めていた。

皺の深い、無口な人だった。

挨拶をすると、帽子のつばに指を当てて返す。

それだけの関係が、二年続いていた。

小部屋には、小さなテレビと、湯呑みと、古い日誌があった。

日誌の表紙が何代も色違いで重ねてあるのを、窓口越しに見たことがある。

ずいぶん長く、この人はここにいるらしかった。

うちの業界は、月末が地獄になる。

校了前は、終電がなくなるまで机に向かう。

オフィスに私一人、ということも珍しくなかった。

深夜のビルは、昼間とは別の建物になる。

廊下の蛍光灯は半分落とされ、自販機の音だけが響く。

そして、あのエレベーターには、妙な癖があった。

最初に気づいたのは、入社して半年の頃だ。

四階から一階へ降りるとき、階数表示が「2」「1」と来て、そこでひと呼吸、止まるのだ。

かくん、と小さく沈んでから、扉が開く。

沈む距離は、ほんの数センチだと思う。

ただ、その数センチの間だけ、箱の中の音が全部消える。

ファンの音も、ワイヤーの軋みも。

耳が詰まったような、変な静けさだった。

古いビルだから、と思っていた。

そのうち、沈む夜と沈まない夜があることに気づいた。

沈むのは、決まって深夜だった。

一度、点検に来た保守の人に訊いてみたことがある。

「ああ、段差ですか。調整しときます」

次の月も、箱は沈んだ。

調整で直るものでは、なかったのだと思う。

それから、匂いだ。

夜中にあの箱に乗ると、ときどき、青い匂いがした。

草の匂いだ。

雨上がりの夏の夕方みたいな、湿った青草の匂い。

五反田の裏通りに、草むらなんてない。

芳香剤だろうと思うことにしていた。

ただ、変なのは、匂いの濃さが日によって違うことだった。

気のせいで済む夜と、思わず箱の中を見回す夜があった。

あとから考えれば、あれは天気でも季節でもなく、時刻だった。

零時を回った夜ほど、匂いは濃かった。

噂も、あった。

前にいた営業の人が、深夜に一階へ降りたら、外が真っ暗だったと言ったことがある。

向かいのコンビニの灯りが、見えなかったそうだ。

「停電かと思って、もう一回ボタン押して扉を閉めて、開け直したら普通だった」

飲み会の席の笑い話だった。

誰も本気にしなかったし、本人も酔っていた。

五階と六階の空きテナントにも、噂はあった。

誰もいないはずの上の階で、ときどき、床を擦るような音がするという。

ただこれは、古いビルならどこにでもある話だ。

私も、本気にしていなかった。

あの夜までは、全部を「古いビルだから」の箱に放り込んでいた。

それから、葛西さんのことだ。

私の教育係だった先輩で、私が入って一年半で辞めた。

最終出社の日、ビルの前で段ボールを抱えたまま、葛西さんは妙なことを言った。

「おまえ、残業はいいけどさ。終電過ぎたら、あのエレベーター、なるべく乗るなよ」

「何ですか、それ」

「いや。……古いから、閉じ込められるぞ、って話」

「閉じ込められたら、非常ボタンを押せばいいじゃないですか」

「ボタンね」

葛西さんは、段ボールを抱え直した。

「押しても、つながらない相手だっているさ」

葛西さんは笑ったが、目は笑っていなかった。

その意味を訊き直す前に、タクシーが来てしまった。

あの夜のことは、今でも順番に思い出せる。

十月の末。校了明けの、月のない夜だった。

夕方から雨が降って、夜半にやんだ。

窓の外の路地は濡れて、コンビニの看板が路面に滲んでいた。

オフィスには、私一人だった。

デスクの灯りと、サーバーのファンの音だけが残っていた。

最後のデータを入稿し終えると、零時を回っていた。

肩を回すと、骨が鳴った。

コートを着て、ふと、葛西さんの言葉を思い出した。

終電過ぎたら、なるべく乗るな。

思い出して、笑った。

六階建てに、ほかの降り方はないのだ。

オフィスの鍵を閉め、エレベーターのボタンを押す。

箱が上がってくる音が、夜は妙に大きい。

乗り込んで、「1」を押した。

扉が閉まる間際、青草の匂いがした。

今夜は濃いな、と思った。

それだけだった。

慣れというのは、本当に恐ろしい。

四、三、二、一。

かくん、と沈んだ。

ああ、今夜は沈む夜か、と思った。

扉が開いた。

ドアが開いた先に、夜の野原が広がっていた。

最初は、意味が分からなかった。

ロビーの白い床がない。

管理ポストの灯りがない。

かわりに、腰の高さまである草が、見渡す限り続いていた。

風が、草を撫でていた。

ざわ、ざわ、と波みたいに音が寄せてくる。

箱の中の蛍光灯だけが、現実の続きだった。

白い光が、扉の前の草を数十センチだけ照らしていた。

草の先が、光の縁で揺れていた。

夢なら、こんな細部まで見えるはずがない。

虫が鳴いていた。

秋の虫だ。それも、ものすごい数だった。

空は曇りなのか、星はなかった。

なのに、野原全体が、薄く明るかった。

どこにも光源がないのに、草の一本一本が見えた。

空気は、ひんやりと冷たかった。

ビルの一階の、埃っぽい空気ではなかった。

山の朝みたいな、洗われた冷たさだった。

頬に当たる風には、かすかに土の匂いが混じっていた。

あの明るさを、何と呼べばいいのか、今でも分からない。

遠くに、大きな木が一本、立っていた。

楠のような、こんもりした影だった。

その木の下の暗がりが、一瞬、人の形に見えた。

こちらに背を向けて、立っているように見えた。

見えただけだ。

そう思いたい。

なぜなら、その影は、こちらが見ていることに気づいたように、わずかに動いたからだ。

首だけを、回しかけるような動きだった。

私はそこで、目をそらした。

見てはいけない、と身体の方が先に決めた。

青草の匂いが、どっと箱の中に流れ込んできた。

いつもの、あの匂いだった。

ここの匂いだったのか、と、場違いに冷静な自分が思った。

足は、動かなかった。

一歩出てみよう、という考えが、頭の隅をかすめたのは覚えている。

そのとき、虫の声が、ぴたりとやんだ。

野原ぜんぶが、こちらに気づいたような静けさだった。

扉が、閉まった。

私は、ボタンを押していない。

閉まる直前、虫の声が一斉に戻ったのを覚えている。

まるで、何かの合図が解けたみたいに。

扉は自分で閉まり、箱はどこへも動かないまま、静かに止まっていた。

心臓の音だけが聞こえた。

どれくらいそうしていたのか、三十秒か、五分か。

震える指で、もう一度「1」を押した。

扉が開いた。

白い床。管理ポストの灯り。ガラス越しのコンビニの看板。

いつもの一階だった。

気の抜けた膝で、私はロビーに転がり出た。

振り返ると、箱の中の蛍光灯が、何事もなかったように灯っていた。

床に、草の一本も落ちていなかった。

警備の老人が、小部屋から顔を出して、こちらを見ていた。

私はたぶん、ひどい顔をしていたのだと思う。

会釈もできずに、ビルを出た。

タクシーの中でも、ずっと手が冷たかった。

運転手に行き先を告げた自分の声が、他人の声みたいに掠れていた。

部屋に帰って、靴を脱いで、それから気づいた。

コートの裾に、草の種が二つ、付いていた。

ひっつき虫と呼んでいた、あの棘のある種だ。

私は、野原には一歩も出ていない。

種は、ティッシュにくるんで捨てた。

捨ててから、取っておくべきだったかと、少しだけ思った。

二日ほど休んで、次の出社の夜、私は警備の老人に話しかけた。

話さずには、いられなかったのだ。

缶コーヒーを二本買って、小部屋の窓口に置いた。

「夜中に、変なものを見たんです。エレベーターで」

老人は、驚かなかった。

帽子を直して、それから、静かに訊いた。

「野っ原ですか」

即答だった。

何年も前から、その質問を待っていたような即答だった。

心臓が、跳ねた。

「……知ってるんですか」

「降りましたか」

「いえ。降りてません。扉が閉まって、それで」

老人は、長く息を吐いた。

安堵の息に、聞こえた。

「降りなかったんなら、よかった」

「あれは、何なんですか」

老人は缶コーヒーを両手で包んで、しばらく黙っていた。

それから、ひとりごとみたいに言った。

「降りた人はね、いるんですよ」

詳しいことは、教えてくれなかった。

ただ、ぽつりぽつりと、こんな話をした。

ずっと前、このビルで夜中まで働いていた人が、いなくなった。

鞄も上着も机に残したまま、出入りの記録もないまま。

エレベーターだけが、一階で扉を開けて止まっていた。

「警察も来ましたがね。建物から出てないんだから、どうにもならんですよ」

いなくなったのは、三階に入っていた会社の経理の人だったという。

几帳面で、靴を磨くのが癖の、おとなしい人だったそうだ。

机には、翌日の会議の資料が、きちんと揃えて置いてあった。

いなくなる支度をした人の机では、なかった。

「その人は、それきりですか」

「それきりです」

「ただね」と、老人は少しだけ声を落とした。

「半年くらいして、夜中にあの箱が、ひとりでに四階へ上がったことがありましてね」

「誰も呼んでないのに、ですか」

「ええ。扉が開いて、しばらくして、閉まりました。それきりです」

迎えに来たのか、帰ってきたのか。

老人は、どちらとも言わなかった。

老人は窓口の外の、エレベーターの扉を見た。

「私はね、夜はあれに乗らんのです。階段の鍵を、持ってますから」

それから老人は、窓口の日誌に目を落として、こう付け加えた。

「あれが開くのはね、決まって、雨上がりの晩です」

あの夜も、夕方まで雨だった。

私はもう、何も訊けなかった。

笑っていいのか分からない顔で、老人は笑った。

葛西さんに連絡を取ったのは、その週末だ。

電話口で野原の話をすると、葛西さんは長いこと黙った。

「……開いたか」

「葛西さんも、見たんですね」

「俺のときは、夏だった。草いきれがすごくてな」

葛西さんが見たのは、入社して七年目の夜だったという。

「最初はな、きれいだと思ったんだよ。ずっと見てたいくらいだった」

「分かります」

「だろ。それが一番まずいんだ」

葛西さんは、降りなかった。

ただ、木の下の影が、自分のときは「少し近かった」と言った。

「だから辞めたんですか」とは、訊けなかった。

「いいか、もう夜中に乗るな。あれはたぶん、回数なんだよ」

「回数?」

「開く回数が増えるほど、近くなる。気がする。それだけだ」

電話は、それで切れた。

回数、という言葉が、しばらく耳に残った。

思えば私は、二年間、月末のたびに深夜のあの箱に乗っていた。

あと何回で「近く」なるのかは、誰にも分からない。

確かめる気には、なれなかった。

私はその後、半年で転職した。

残りの半年は、どんなに遅くなっても、二十三時前にビルを出た。

施錠前の非常階段を、わざわざ使って帰る夜もあった。

四階分の鉄の段々を、靴音を立てて降りるたび、自分が何から逃げているのか、考えないようにした。

理由は他にもあったが、あれが背中を押したのは間違いない。

最終日、警備の老人に菓子折りを渡した。

老人は帽子のつばに指を当てて、「お疲れさまでした」とだけ言った。

第三常盤ビルは、三年前に取り壊された。

当時の同僚が教えてくれて、見に行った。

跡地は、コインパーキングになっていた。

解体のとき、業者が妙なことを言っていたと、その同僚は教えてくれた。

エレベーターの竪穴の底から、土が出てきたそうだ。

コンクリートの上に、黒くて柔らかい土が、薄く積もっていた。

どこから入ったのかは、分からずじまいだったという。

土の中には、草の種が混じっていたらしい。

精算機の白い光が、アスファルトを照らしていた。

六階分の窓も、剥げた扉も、もうどこにもない。

あの竪穴があった場所に、ちょうど一台、車が停まっていた。

車を停めて外に出ると、足元で、虫が鳴いていた。

十月だった。季節として、おかしくはない。

おかしくはないが、アスファルトのどこで鳴いているのか、最後まで分からなかった。

あの野原が何だったのか、考えない日の方が多くなった。

それでも、初めて行くビルでエレベーターに乗ると、癖で階数表示を見てしまう。

「1」の手前で、かくんと沈む箱に、たまに当たる。

そういうときは、扉が開いても、すぐには顔を上げないことにしている。

白い床が見えるまでは。

同僚にこの話をしたのは、一度だけだ。

「疲れてたんだよ」と笑われて、それきり話していない。

それでいいと思っている。

信じてもらうための話では、ないのだ。

ただ、葛西さんと、あの警備の老人と、私。

少なくとも三人が、同じ野原を知っている。

それだけは、確かなことだ。

あの夜、一歩でも踏み出していたら。

私は今も、あのどこでもない野原を、歩いていたのかもしれない。

怖い話・不思議な体験・都市伝説まとめ|ミステリー

ミステリーを応援する

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
当サイトは個人で運営しており、いただいたご支援はサーバー代やドメインの維持費に大切に使わせていただきます。

月額 150円(初月無料)または 480円 の買い切りで、
広告のない、静かな読書体験をお届けします。

プランを見る
メンバーなのに広告が表示される方

ブラウザを変えた・Cookieを削除した場合は、登録のメールアドレスを入力してください。

読んでいただけるだけで、十分に励みになります。
それでも応援したいと思ってくださる方へ、心より感謝いたします。