
その夜のことは、今でも時々思い出す。
十月の中旬だったと思う。
残業が終わったのは夜の十一時過ぎで、最寄り駅から歩いて帰る途中、いつも寄るコンビニに立ち寄った。
その日は特別なことは何もなかった。上司に書類を直された、昼に食べた定食が油っぽかった、帰りの電車でどこかの駅を一つ乗り過ごした。そのくらいの一日だった。
弁当とビールを一本、それとアイスを買って、レジで会計を済ませた。
店員はいつものアルバイトの女の子ではなく、見知らぬ中年の男だった。
それだけは覚えている。
レジを打ちながら、男は一言も話さなかった。俺が「袋もらえますか」と言ったときだけ、小さくうなずいた。
ビニール袋をもらい、自動ドアを押して外に出た。
※
最初に気づいたのは、においだった。
秋の夜の、ほんの少し湿った空気のはずが、潮のような、土のような、うまく言えない別のにおいがした。
道路を見た。
アスファルトの色がちがう。
ほんの少し、濃すぎる。まるで雨のあとのような光り方をしていたが、この日は一日中晴れていた。
向かいのビルを見た。
ドラッグストアがあるはずの場所に、シャッターの下りた店があった。
シャッターは錆びていて、表面に何かが落書きされていたが、読めなかった。暗すぎて、というより、文字の形がおかしかった。記号とも字とも区別のつかない線が、均等な間隔で並んでいた。
俺はすぐに振り返った。
コンビニはそこにあった。
ガラス張りの、明るい照明の。看板には「MART」という文字があった。
「MART」。
俺がいつも使っているコンビニの名前は、もう少し長い。チェーン名がついた、四文字か五文字の名前だ。
でも、その夜の看板には「MART」とだけ書かれていた。
フォントも、サイズも、色も、よく似ていた。でも同じではなかった。
俺がいつも買う缶ビールのメーカーは決まっている。
でもその夜、袋に入れてもらったのを家で開けると、見慣れないラベルのものが出てきた。
ビールには違いないが、メーカー名も商品名も見覚えがなかった。
飲んだら普通の味がした。
※
戻ればいいと思った。
店の中に戻れば、さっきまでいた場所に戻れる気がした。
自動ドアに近づいた。
開かなかった。
センサーに手をかざしても、足を踏み入れても、ドアは動かなかった。ガラス越しに店内を見ると、明かりはついていたが、人の姿がなかった。
さっきまで立っていたレジの前に、誰もいなかった。
商品棚には品物が並んでいた。照明は明るかった。でもどこを見ても、動くものがなかった。
ガラス越しに、あのレジを打っていた男の姿を探した。いなかった。どこにも。
ビニール袋を持ったまま、俺はその場に立っていた。
心臓がやけに静かだった、と後から思う。怖いとか、逃げなければ、という気持ちより先に、「ここはどこだ」という単純な疑問があった。
※
歩くことにした。
自分の家の方角はわかっていたので、まずそちらへ向かった。
街並みは、おおよそ見知ったものだった。
でも、細かいところがちがった。
自転車置き場がない。電柱の位置がずれている。ガードレールの色が白ではなく、くすんだ灰色だ。
一台の車も通らなかった。
人の影もなかった。
十一時を過ぎた平日の夜に、こんなに何もない街というのが、それ自体おかしかった。
五分ほど歩いたところで、公園の前を通った。
ブランコが三台あるはずの公園だが、その夜はブランコが一台しかなかった。
そのブランコが、風もないのに揺れていた。
俺は足を止めずに歩き続けた。
振り返らないようにした。
どこかで鳥の声がした。夜中に鳴く鳥の声だったが、聞いたことのない鳴き方だった。
※
角を曲がったところで、見覚えのある自動販売機が目に入った。
少し前に新しくなった、緑色の飲み物の機械だ。ラインナップも、表示の文字も、いつも見ているものと同じだった。
なぜかそれで、すこし落ち着いた。
そのまま歩いていくと、街並みが少しずつ、見慣れたものに戻っていった。
ドラッグストアが現れた。ガードレールが白くなった。電柱の位置が正しくなった。
どこかで車の音がした。遠くから人の声も聞こえた気がした。
俺は家のマンションの前に着いた。
エントランスを通り、エレベーターで六階へ。鍵は普通に開いた。
弁当を温めて食べた。ビールを飲んだ。
あのコンビニには、それ以来寄っていない。
別の道を通るようにしているから、実際に前を通ったことはないが、行こうと思えば行ける距離にある。
でも、行く気になれない。
あのレジの男と、もう一度目が合うのが嫌だ。
※
一つだけ、気になっていることがある。
帰宅した翌朝、スマートフォンの連絡先を確認していたとき、自分の名前の登録があった。
俺は自分の番号を自分の端末には登録していない。
でも、そこには確かに自分の名前があった。
よみがなが、少しちがっていた。
どう読んでも、俺の名前の読み方ではない並びで、ひらがなが並んでいた。
電話をかけてみようかと思ったが、やめた。
今もその連絡先は消していない。
消すのが、なんとなく怖いから。