深夜のコンビニを出たら

静かな夜の街角

その夜のことは、今でも時々思い出す。

十月の中旬だったと思う。

残業が終わったのは夜の十一時過ぎで、最寄り駅から歩いて帰る途中、いつも寄るコンビニに立ち寄った。

その日は特別なことは何もなかった。上司に書類を直された、昼に食べた定食が油っぽかった、帰りの電車でどこかの駅を一つ乗り過ごした。そのくらいの一日だった。

弁当とビールを一本、それとアイスを買って、レジで会計を済ませた。

店員はいつものアルバイトの女の子ではなく、見知らぬ中年の男だった。

それだけは覚えている。

レジを打ちながら、男は一言も話さなかった。俺が「袋もらえますか」と言ったときだけ、小さくうなずいた。

ビニール袋をもらい、自動ドアを押して外に出た。

最初に気づいたのは、においだった。

秋の夜の、ほんの少し湿った空気のはずが、潮のような、土のような、うまく言えない別のにおいがした。

道路を見た。

アスファルトの色がちがう。

ほんの少し、濃すぎる。まるで雨のあとのような光り方をしていたが、この日は一日中晴れていた。

向かいのビルを見た。

ドラッグストアがあるはずの場所に、シャッターの下りた店があった。

シャッターは錆びていて、表面に何かが落書きされていたが、読めなかった。暗すぎて、というより、文字の形がおかしかった。記号とも字とも区別のつかない線が、均等な間隔で並んでいた。

俺はすぐに振り返った。

コンビニはそこにあった。

ガラス張りの、明るい照明の。看板には「MART」という文字があった。

「MART」。

俺がいつも使っているコンビニの名前は、もう少し長い。チェーン名がついた、四文字か五文字の名前だ。

でも、その夜の看板には「MART」とだけ書かれていた。

フォントも、サイズも、色も、よく似ていた。でも同じではなかった。

俺がいつも買う缶ビールのメーカーは決まっている。

でもその夜、袋に入れてもらったのを家で開けると、見慣れないラベルのものが出てきた。

ビールには違いないが、メーカー名も商品名も見覚えがなかった。

飲んだら普通の味がした。

戻ればいいと思った。

店の中に戻れば、さっきまでいた場所に戻れる気がした。

自動ドアに近づいた。

開かなかった。

センサーに手をかざしても、足を踏み入れても、ドアは動かなかった。ガラス越しに店内を見ると、明かりはついていたが、人の姿がなかった。

さっきまで立っていたレジの前に、誰もいなかった。

商品棚には品物が並んでいた。照明は明るかった。でもどこを見ても、動くものがなかった。

ガラス越しに、あのレジを打っていた男の姿を探した。いなかった。どこにも。

ビニール袋を持ったまま、俺はその場に立っていた。

心臓がやけに静かだった、と後から思う。怖いとか、逃げなければ、という気持ちより先に、「ここはどこだ」という単純な疑問があった。

歩くことにした。

自分の家の方角はわかっていたので、まずそちらへ向かった。

街並みは、おおよそ見知ったものだった。

でも、細かいところがちがった。

自転車置き場がない。電柱の位置がずれている。ガードレールの色が白ではなく、くすんだ灰色だ。

一台の車も通らなかった。

人の影もなかった。

十一時を過ぎた平日の夜に、こんなに何もない街というのが、それ自体おかしかった。

五分ほど歩いたところで、公園の前を通った。

ブランコが三台あるはずの公園だが、その夜はブランコが一台しかなかった。

そのブランコが、風もないのに揺れていた。

俺は足を止めずに歩き続けた。

振り返らないようにした。

どこかで鳥の声がした。夜中に鳴く鳥の声だったが、聞いたことのない鳴き方だった。

角を曲がったところで、見覚えのある自動販売機が目に入った。

少し前に新しくなった、緑色の飲み物の機械だ。ラインナップも、表示の文字も、いつも見ているものと同じだった。

なぜかそれで、すこし落ち着いた。

そのまま歩いていくと、街並みが少しずつ、見慣れたものに戻っていった。

ドラッグストアが現れた。ガードレールが白くなった。電柱の位置が正しくなった。

どこかで車の音がした。遠くから人の声も聞こえた気がした。

俺は家のマンションの前に着いた。

エントランスを通り、エレベーターで六階へ。鍵は普通に開いた。

弁当を温めて食べた。ビールを飲んだ。

あのコンビニには、それ以来寄っていない。

別の道を通るようにしているから、実際に前を通ったことはないが、行こうと思えば行ける距離にある。

でも、行く気になれない。

あのレジの男と、もう一度目が合うのが嫌だ。

一つだけ、気になっていることがある。

帰宅した翌朝、スマートフォンの連絡先を確認していたとき、自分の名前の登録があった。

俺は自分の番号を自分の端末には登録していない。

でも、そこには確かに自分の名前があった。

よみがなが、少しちがっていた。

どう読んでも、俺の名前の読み方ではない並びで、ひらがなが並んでいた。

電話をかけてみようかと思ったが、やめた。

今もその連絡先は消していない。

消すのが、なんとなく怖いから。

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