
もう三十年、同じ机に向かっている。
都心のはずれの、古い分譲住宅の一室である。
建ってから四十年を越えた。
壁の漆喰は薄く灰を帯び、窓の桟には雨の名残がいつも滲んでいる。
廊下を歩けば、床板がひそやかに鳴る。
その軋みの一つひとつを、私はもう家族のように覚えている。
私はものを書いて暮らしてきた。
若い時分に雑誌の片隅から始めて、気づけば白髪の目立つ年になった。
連れ合いは数年前に、長い眠りについた。
子はない。
この部屋には、私と、書きかけの紙の束しかいない。
原稿は今でも万年筆で書く。
画面の白さよりも、紙の上を滑るインクのほうが、私の言葉を信じてくれる気がするのだ。
机は連れ合いが選んでくれた、古い楢の一枚板である。
角はすっかり丸くなり、私の肘の形に、わずかにくぼんでいる。
その机に向かう時間だけが、私にとっての一日の背骨だった。
この建物には、私のような古い住人が、まだ幾人か残っている。
皆、口数の少ない、夜の長い人たちである。
互いの暮らしには立ち入らず、廊下で会えば、ただ会釈を交わす。
そういう静かな距離が、私には心地よかった。
朝は決まった刻に起き、珈琲を淹れ、窓を細く開ける。
昼は短い散歩に出て、夜にようやく筆を執る。
その繰り返しが、私の老いをやさしく支えてくれていた。
夜半、雨の音だけが部屋を満たす。
遠くで電車の通る低い響きが、地の底のように届く。
その静けさが、私には何よりの仕事場だった。
梅雨の明けきらぬ、蒸した晩のことである。
窓を細く開けると、濡れた土と、どこかの家の夕餉の匂いが流れこんできた。
私は新しい小説の三章までを書き終え、紙を揃えて机の隅に伏せた。
枚数を数える癖がある。
四十年ものあいだ、一日の終わりに紙を数えてきた。
その夜は、ちょうど四十二枚だった。
インクの乾きを確かめ、万年筆の蓋を閉じた。
灯りを消し、私は床についた。
雨はやがて小やみになり、軒の滴る音だけが残った。
何も、起こるはずのない夜だった。
※
翌朝、机の上の束が、わずかに厚いように思えた。
気のせいだろうと、私は珈琲を淹れた。
窓の外は、洗ったような晴れだった。
けれど数えてみると、紙は四十三枚あった。
一枚、多い。
私は二度、三度と数え直した。
やはり、四十三枚である。
最後の一枚に、見覚えのない文字が並んでいた。
私の筆跡だった。
右上がりの癖も、はねの弱さも、まぎれもなく私の手のものだ。
だが、私はそれを書いた覚えがない。
内容は、私の小説の続きだった。
主人公の女が、雨の街を歩いて、古い写真館の前で足を止める場面である。
私の構想には、写真館などなかった。
それでも文章は、私の癖をそのまま写したように、なめらかに続いていた。
句読点の打ち方まで、私のものだった。
疲れているのだ、と私は思った。
夜中に半分眠りながら書き、忘れているのだろう、と。
年を取ると、そういうこともあると聞く。
私はその一枚を束に挟み、仕事を続けることにした。
昼下がり、ごみを出しに降りた折に、管理人さんと玄関で行き会った。
古くからこの建物にいる、物静かな人である。
「お早うございます」と私が言うと、相手は丁寧に頭を下げた。
何気ない世間話のあとで、管理人さんがふと言った。
「あの角の部屋は、ずいぶん古うございますからね」
何の話かと思えば、私の部屋のことだという。
「前にいらした方も、ものを書く方でした」
初めて聞く話だった。
私がここを買ったのは、すでに空き家になってからである。
仲介の者からは、前の住人のことなど、何も聞いていなかった。
「どんな方だったのですか」と尋ねると、管理人さんは少し言葉を選んだ。
「女のかたで、夜通し灯りを点けて、何か書いていらした」
「ええ、それはもう、根を詰めて」
「いつのまにか、お見かけしなくなりましてね」
それきり、相手は会釈をして去っていった。
私は妙に胸がざわついて、しばらく玄関に立っていた。
建物の壁を見上げると、私の部屋の窓だけが、午後の光を鈍く跳ね返していた。
※
その晩も、私は四章にかかった。
主人公の女に、写真館の場面を書かせるつもりはなかった。
だが筆は、いつのまにかその写真館の扉を開けていた。
自分の手が、自分の意志より少しだけ先を行く。
そんな感覚を、初めて覚えた。
書き終えて数えると、紙はまた一枚、増えていた。
私が書いた覚えのない一枚である。
そこには、写真館に入った女が、古い肖像写真の束を繰る場面が記されていた。
束の中に、女自身の写真が混じっている――。
その不穏な一行で、頁は終わっていた。
背筋に、細い水のような冷たさが走った。
私はその一枚を、今度は抽斗の奥にしまった。
鍵をかけ、見なかったことにしたかった。
その夜は、抽斗のほうばかりが気になって、筆が進まなかった。
翌日、私は近所の古書店に寄った。
この界隈に長くいる、白髪の店主のいる店である。
黴と古い紙の匂いが、店の奥までしみついている。
棚を眺めるふりをして、私はそれとなく尋ねた。
「昔、この先の住宅に、ものを書く女のかたがいたそうですね」
店主は顔を上げ、しばらく私を見た。
「あの作家のかたですか」
名は出さなかったが、店主は誰のことか分かっているようだった。
「ずいぶん前に、未発表のまま筆を擱かれたと聞きます」
「原稿だけが、行李いっぱいに残ったそうで」
「それも、ご本人が書いたものかどうか、怪しいと言う人もいましてね」
私は何も言えず、ただ頷いた。
店主は古い帳面を繰り、独り言のように続けた。
「あの原稿、一度は世に出る話もあったそうですよ」
「けれど、刷り上がりを待たずに、出版の話は立ち消えたとか」
「関わった編集者が、皆そろって、筆を折ってしまったと聞きます」
私の背を、また冷たいものが伝った。
「あなたも、ものを書く方でしたか」と店主は言った。
「それなら、気をつけなさることです」
何にですか、とは聞けなかった。
店を出ると、空が翳り、夕立が来ていた。
私は傘を持っていなかった。
濡れて帰るほかなかった。
肩を濡らしながら、私はあの『行李いっぱいの原稿』のことばかり考えていた。
その晩、私は浅い夢を見た。
見知らぬ女が、私の机に向かって、一心に筆を走らせている夢である。
顔は見えない。
ただ、その背中は、どこか私自身に似ていた。
女の手元から、紙が一枚ずつ、音もなく床へ滑り落ちていく。
床はやがて、白い紙で埋め尽くされた。
目が覚めると、枕が汗で湿っていた。
窓の外は、まだ夜の色だった。
私は灯りもつけず、しばらく天井を見つめていた。
翌日、私は本棚の裏を探ってみた。
前の住人が、何か残してはいないかと思ったのだ。
棚と壁の隙間に、古い便箋が一枚、落ちていた。
褪せたインクで、たった一行だけ記されていた。
『これは、わたしが書いているのではありません』
その筆跡が、私のものと、よく似ていた。
※
その夜、私は増える頁を確かめずにはいられなかった。
抽斗を開け、束を机に広げた。
四十五枚目に、新しい文字があった。
そこに書かれていたのは、小説の続きではなかった。
私自身のことだった。
『女は古書店で雨に降られ、傘を持たずに帰った』
その一行から、頁は始まっていた。
今日の私の、そのままだった。
私は傘を持たずに出て、夕立に濡れて帰ってきたのだ。
誰も、それを知らない。
頁はさらに続いていた。
『女は夜、机の前で、増えてゆく原稿を読み返す』
私は今、まさにそれを読んでいた。
手が震えて、紙が乾いた音を立てた。
明日の私が、昨夜のうちに書かれていた。
私はまだ、その明日を生きてさえいなかった。
それなのに、私の手は、私より先を歩いていた。
喉の奥が、からからに渇いた。
指の先から、血の気が引いていくのが分かった。
窓の外で、雨がいっそう強くなった。
硝子を伝う雨筋が、誰かの指のあとのように見えた。
部屋のどこかで、紙の擦れる微かな音がした。
机の上の束が、ほんのわずか、息をするように上下した気がした。
見間違いだと、私は自分に言い聞かせた。
けれど、紙の山の天辺の一枚だけが、めくれかけたまま止まっていた。
風など、入ってはいないのに。
振り返っても、束は机の上で、じっと動かずにいた。
その晩は、一睡もできなかった。
※
翌朝、私は最後の頁を、おそるおそる読んだ。
『女は、増える原稿を捨てようと決める』
私は実際、そう決めかけていた。
見透かされている。
私の決意までもが、すでに紙の上にあった。
私はその束を抱え、台所へ運んだ。
流しの前で、火をつけようとして、手が止まった。
束のいちばん下に、まだ読んでいない一枚があった。
そこには、こうあった。
『女は紙を焼こうとして、最後の一枚に気づく』
私は、紙を取り落とした。
床に散った紙の上で、インクの文字だけが、濡れたように黒く光っていた。
そのとき、電話が鳴った。
心の臓が、跳ねた。
受話器を取ると、担当の編集者だった。
「先生、続きは順調ですか」と、明るい声が言った。
「写真館の章、とてもいいですね」
私は、その章のことを誰にも話していなかった。
原稿を、まだ一枚も渡してはいなかった。
「どこで、それを」と、私はようやく声を絞り出した。
「いえ、先生がそうおっしゃっていたじゃないですか。昨夜、お電話で」
私は昨夜、誰にも電話などしていない。
「次の章も、楽しみにしています」
相手はそう言って、機嫌よく電話を切った。
受話器を置いたあとも、指先が冷たいままだった。
※
私は結局、紙を焼かなかった。
焼いたところで、明日になればまた一枚、増えているに違いなかったからだ。
その夜から、私は机に向かうのをやめた。
一行も書かなければ、続きも増えまい、と思った。
万年筆には蓋をして、抽斗の奥へ押しこんだ。
けれど朝になると、束はやはり厚くなっていた。
私が書かなくても、頁は書かれていた。
昨夜の私の、眠りの様子までが、そこに記されていた。
『女は、書くことをやめた。けれど、書くことは、女をやめなかった』
私はその一行を、長いあいだ見つめていた。
ある晩、ごみ置き場で、隣の老婦人と行き会った。
この階でいちばん古くから住む人である。
「夜中に、お部屋の灯りが点いておりましたよ」と、その人は言った。
私は灯りを消して休んでいたはずだった。
「机に向かって、何か書いていらしたでしょう」
私は、何も書いてなどいなかった。
「前の方も、ちょうどそんなふうでしたよ」と、老婦人は懐かしそうに言った。
「お元気そうで、何よりです」
そう言って、老婦人は微笑んだ。
その微笑みが、なぜか私には、ずっと昔の、別の誰かのもののように思われた。
私は一度、この部屋を出ようと考えた。
荷をまとめ、机だけを置いて、どこか遠くへ移ろうと。
けれど、不動産の人に電話をかけようとした朝、束に新しい一枚が増えていた。
そこには、こうあった。
『女は部屋を出ようとして、思いとどまる』
私は受話器を、静かに戻した。
出ていくことさえ、すでに書かれてしまっていた。
この部屋は、私を手放すつもりがないのだ。
あるいは、この机が。
あるいは、この机を選んでくれた、もうここにいない人が。
※
今も、原稿は増えている。
私はもう、数えるのをやめた。
ただ、いちばん新しい一枚には、いつも私の明日が書かれている。
私はそれを読み、そのとおりに一日を過ごす。
逆らうことの無益さを、私はもう知っている。
頁に書かれた通りに生きると、不思議と一日は静かに過ぎていく。
それはどこか、用意された台本を読み上げる役者の心地に似ている。
私はいつから、自分の人生の作者ではなくなったのだろう。
ただの登場人物に、なってしまったのだろう。
逆らってみたこともある。
頁が外出を記せば、私は家にこもった。
すると翌朝、頁には『女は逆らって家にこもった』と、ただそう書き足されていた。
何をしても、先回りされる。
自分の人生を、自分より先に生きている手が、どこかにある。
前にこの部屋にいた女のかたも、こうして書かされていたのだろうか。
未発表のまま筆を擱いたのではなく、擱くことを、許されなかったのではないか。
行李いっぱいの原稿は、その人が書いたものだったのか。
それとも、その人を書いていた、何かの手のものだったのか。
そう思うと、私はこの机から、もう離れられない気がする。
原稿の束は、今朝、四十九枚あった。
その最後の一枚に、私はまだ目を通していない。
通せば、きっとそこには、私の明日が待っている。
――読まずにいられたら、どんなにいいだろう。
けれど、気づけば私の手は、もう万年筆の蓋を、そっと外しはじめている。