曳かれ続ける島の残念石

海

これは、県に出した報告書には書かなかったことです。

昭和六十三年の秋、私は瀬戸内の小さな島で、二週間ほどの調査に加わっていました。

当時、私は三十一でした。

県の文化財調査班に、写真記録の係として雇われていた身です。

測量の人が寸法を測り、古文書の人が墨の文字を読み、私はその横で写真を撮るだけの役でした。

島の名は、ここでは石浦としておきます。

本土の港から連絡船で四十分。

住んでいる人は、そのとき六人でした。

郵便は週に二度、船で届きます。

店はありません。

船頭さんは本土に家があって、朝に一便、夕に一便だけ通ってきます。

私たちが乗った日、船に載っていたのは、私たちの機材と、味噌の樽が一つでした。

島の六人は、みな七十を越えていました。

畑が少しと、磯で採るものと、船で運ばれてくるもので暮らしていました。

昼間、集落を歩いても、人の声はほとんど聞こえません。

聞こえるのは、風で戸が鳴る音と、鶏の声くらいでした。

島の南の斜面に、江戸のはじめに開かれた丁場の跡があります。

丁場というのは、石を切り出す場所のことです。

城の石垣を積むために、この島の花崗岩が船で運ばれていったのだと、事前の資料にはありました。

私たちの仕事は、その丁場跡に残っている石を一つずつ測り、写真に収め、番号を振ることでした。

斜面を登ると、藪の中に、四角い石が唐突に現れます。

切り出したまま、運ばれなかった石です。

そういう石を、この土地では残念石と呼んでいました。

名前のわりに、石そのものは堂々としています。

大きなものは長さが三間、高さは人の背丈を超えます。

表面には、鑿を入れた筋がまだ残っていました。

どの石にも、腹のあたりに浅い彫りがありました。

丸の中に一の字を入れたもの。

三角を二つ重ねたもの。

井桁のようなもの。

刻紋といって、その石をどの組が扱い、どこへ納めるかを示す印だそうです。

宛名のようなものだ、と古文書の三神先生は言いました。

班は四人でした。

測量の坂田さん、三神先生、記録の私。

それに、本土から通ってくる臨時の作業員で、二十歳を少し過ぎたばかりの浜口という青年です。

浜口くんは島の出ではなく、夏のあいだは本土の造船所にいたと言っていました。

藪を払い、石を掘り出し、私たちが測りやすいように足場を作るのが彼の仕事でした。

宿は、空いていた分校を借りました。

分校は十年前に閉じていて、教室の黒板には、当時の日直の名前がそのまま残っていました。

夜は電気が来ますが、九時を過ぎると発電の音が止まります。

あとは、自分の懐中電灯だけです。

初日、島に一人だけ残っていた古い家の女性が、丁場を案内してくれました。

ヨシノさんという、七十をいくつか過ぎた方でした。

ヨシノさんの家は、丁場が動いていたころ、石工たちに飯を炊く役を代々していたそうです。

藪の入口に着くと、ヨシノさんは一度立ち止まりました。

それから、両手を背中に回して組みました。

そのまま、私たちの先を歩いていきます。

細い道でしたから、手を組んだほうが歩きやすいのだろうと、私はそのときは思いました。

丁場の平場に出ると、視界が急に開けます。

海が下に見えて、風がまともに当たりました。

その平場に、草の生えていない筋が一本ありました。

幅は二尺ほど。

山の側から浜の側へ、まっすぐに伸びています。

前の晩に雨が降っていたのに、その筋の上にだけ水が溜まっていませんでした。

昔の道でしょうか、と訊きました。

ヨシノさんは、そうですね、とだけ答えました。

私は写真を一枚撮りました。

その一枚が、後になって意味を持つことになります。

最初の三日は、何もありませんでした。

天気がよく、光がよくまわり、写真はきれいに撮れました。

私はカメラを二台使っていました。

記録用の大きいほうは、一枚撮るたびに暗い布をかぶってピントを合わせなければなりません。

その布の中は、いつも少し暑くて、外の音が遠くなります。

昼は分校の台所で、ヨシノさんが炊いてくれた握り飯を食べました。

夕方になると、海が金色になりました。

悪くない現場だと思っていました。

四日目の午後、私は十七番と番号を振った石の前で、三脚を立てていました。

背中の側から、砂利を擦る音が聞こえました。

坂田さんが歩いてきたのだろうと思って、私はファインダーを覗いたままでいました。

音は、一定の間隔で近づいてきました。

そして、私の背後で止まりました。

振り向くと、誰もいませんでした。

坂田さんは平場の反対の端で、浜口くんと一緒に杭を打っていました。

気のせいだと思いました。

ただ、そのとき私が聞いたのは、足音ではなかったのです。

息を継ぐ音でした。

重いものを持ち上げるときに、人が短く息を吸って止める、あの継ぎ目だけが、いくつも重なって聞こえていました。

翌朝、十七番の石に、縄の跡が一周ついていました。

濡れた縄を巻いて、しばらく置いたときにできる跡です。

石の表面の埃が、ちょうど一周ぶん、帯になって拭き取られていました。

前の晩に雨は降っていません。

私たちの道具の中に、そんな太さの縄はありませんでした。

坂田さんは、島の人が何かの用で来たのだろうと言いました。

島に残っている六人のうち、丁場まで登れる人は、ヨシノさんの他にいません。

そのヨシノさんは、その朝、浜で網を繕っていました。

三神先生は、島の家に残っていた帳面を読んでいました。

元和のはじめ、この島からは大坂の普請のために石が切り出されていたそうです。

帳面には、切り出した石の数と、刻紋と、浜へ下ろした日付が並んでいました。

浜に着いた石には、日付の下に小さな丸が打たれています。

その丸は、刻紋を潰した印だと先生は言いました。

石が船に載って島を出るとき、宛名はもう要らなくなります。

だから鑿で刻紋を消してしまう。

紋消し、というそうです。

帳面の後ろのほうは、丸のない行ばかりが続いていました。

普請が途中で止まって、切り出した石が宙に浮いたのです。

数えると、丸のない石は二百と七つありました。

私たちが藪の中で見つけた石の数と、ほぼ合っていました。

つまり島に残っている石は、いまも宛名を彫られたまま、届いていないということになります。

先生は面白がっていました。

私は、あまり面白いとは思えませんでした。

ヨシノさんは、夕方になると分校まで上がってきて、私たちに茶を持ってきてくれました。

石はどうやって浜まで下ろしたんですか、と私が訊いたときのことです。

ヨシノさんは、修羅という橇に載せて、綱で曳いたのだと言いました。

綱は藤の蔓を縒ったもので、一本の石に何十人と付いたそうです。

曳く日は、日和を見て決めました。

海が凪いで、浜に船が着けられる日でなければ、石を動かさない。

動かした石を途中で止めるのが、いちばんいけないことだったそうです。

どうしてですか、と訊きました。

ヨシノさんは湯呑みを両手で持ったまま、少し黙りました。

「途中で止めた石は、まだ曳いとる最中ですから」

それだけ言って、あとは笑って、茶の話に変えてしまいました。

別の日には、飯の話をしてくれました。

ヨシノさんの家は、曳きの日には朝の暗いうちから釜に火を入れたそうです。

組の人数ぶんの握り飯を、山の中腹の小屋まで運ぶのが役目でした。

その日は、必ず一人ぶん多く炊いたのだと言います。

どうしてですか、と私は訊きました。

そういうものだと教わっただけです、とヨシノさんは答えました。

多く炊いた分は、誰が食べるんですか。

ヨシノさんは、少し困ったような顔をして、笑いました。

「残っとったことは、いっぺんもなかったそうですよ」

六日目の朝、ヨシノさんが分校に来て、ゆうべは賑やかでしたね、と言いました。

私たちは顔を見合わせました。

ゆうべ、丁場のほうに灯りがいくつも見えて、三十人ばかりで上がっていかれたと思った、と言うのです。

私たち四人は、九時前には分校で寝ています。

連絡船の船頭さんにも、後で訊きました。

昨日の便で島に降りたのは、あんたら以外に一人もおらん、と言われました。

浜口くんが、そういえば、と口を開いたのはそのときです。

一昨日の夜、便所に立ったときに、藪の上のほうに灯りが揺れていたそうです。

私たちの誰かが忘れ物でも取りに行ったのだろうと思って、彼はそのまま寝たと言いました。

灯りは、揺れながら、山の側から浜の側へ、ゆっくり動いていたそうです。

七日目から、坂田さんの様子がおかしくなりました。

測った数字が合わない、と言うのです。

十七番の石の位置を、平場に打った基準の杭から測ると、前の日より二寸ほど浜の側に寄っている。

坂田さんは杭のほうが動いたのだと考えて、杭を打ち直しました。

翌朝、今度は杭のほうが山の側に寄っていました。

石と杭の、どちらが動いても、石は浜へ二寸ずつ近づく計算になります。

地盤が動くような島じゃないんだけどな、と坂田さんは笑いました。

笑いながら、その日は野帳を三回引き直していました。

私も、自分の記録で妙なことに気づいていました。

写真の袋に書いた日付と、野帳の日付が、途中から一日ずれているのです。

どちらかを書き間違えたのだろうと思って、私は写真の袋のほうを直しました。

いま思えば、直すべきではありませんでした。

八日目、私は平場の筋をもう一度撮りました。

四日前に撮った写真と見比べてみます。

筋の先が、少しだけ浜の側へ伸びているように見えました。

写真の写りの違いだろうと思いました。

そのころから、私の左の肩に、細い擦れができていました。

斜めに、鎖骨のあたりから背中へ抜ける線です。

重い荷を背負い縄で担いだときにできる跡に似ていました。

私は何も背負っていません。

カメラは首から下げていましたが、線の位置が違いました。

その晩、三神先生が帳面の別の綴りを見つけました。

石の数ではなく、人の数を書いた綴りでした。

曳きに出た組の名と、その日の人数が並んでいます。

ところどころに、朱で小さく「欠」と書き足されていました。

欠けた者がいた、ということですかと私が訊くと、先生はそうだろうねと言いました。

ただ、と先生は続けました。

欠と書かれた日の人数は、どれも減っていないのです。

むしろ、一人ずつ多いのだそうです。

十日目は、朝から気持ちの悪いほど良い日和でした。

海が平らで、島の音がよく通りました。

ヨシノさんは分校の前まで来て、今日は丁場に上がるのはやめておきなさい、と言いました。

理由を訊くと、日和が良すぎる、と言いました。

良い日和のほうが写真も撮れるでしょう、と坂田さんが笑いました。

ヨシノさんはそれ以上は止めませんでした。

ただ、藪の入口で、私の手をじっと見ていました。

その日の作業は、十七番の石の実測でした。

石が大きく、巻尺だけでは腹の周りが測れません。

坂田さんが、麻縄を石に回して印をつけ、その縄を伸ばして測ろうと言いました。

浜口くんが縄の端を持って石の向こう側へ回り、私が手前で受け取ることになりました。

縄が石の腹を一周して、私の手に戻ってきました。

握った瞬間に、縄が重くなりました。

音が消えました。

正確には、風の音と波の音だけが消えて、人の音だけが残りました。

私の前に、綱がありました。

麻ではありません。

藤の蔓を縒った、腕ほどの太さの綱です。

綱は私の手から、坂の下へ向かって長く伸びていました。

その綱に、いくつもの背中が並んでいました。

腰を落として、同じ角度に傾いた背中が、下へ下へと続いています。

私も同じ格好をしていました。

足の裏に、砂利の一粒ずつの形が伝わってきました。

掌が熱くて、それが痛みだと気づくのに、少し時間がかかりました。

後ろを見ました。

石がありました。

私の背丈の三倍ほどの石が、木の橇に載って、すぐ後ろにいました。

石の腹には、丸の中に一の字が彫ってありました。

十七番の石の刻紋と同じものです。

前のほうで、誰かが声を出しました。

言葉ではなく、拍でした。

その拍に合わせて、綱が引かれ、私の腕が引かれ、足が半歩だけ前に出ました。

半歩でした。

それを何度繰り返しても、半歩ずつしか進みません。

陽は高いまま、動きませんでした。

私は綱から手を離そうとしました。

指が開きませんでした。

握っているのではなく、掌のほうが綱の形に固まっていました。

前のほうから、また声が来ました。

今度は数でした。

「あと二町」

その声は、しばらくしてまた聞こえました。

「あと二町」

何度聞いても、あと二町でした。

そのあいだに、私は隣にいる者の横顔を見ました。

日に焼けた、痩せた男でした。

額に、色の褪せた手拭いを巻いていました。

男は私を見ませんでした。

綱と、その先の坂しか見ていません。

匂いがありました。

汗と、藤の蔓の青くさい匂いと、それから、炊いた米の匂いです。

坂の下のほうから、風に乗って上がってきていました。

綱の並びは、私のいるところから前に十人ほど、後ろに三人ほど見えました。

後ろの三人の先には、橇の枠と石の腹があるだけでした。

つまり私は、この組の、後ろから四番目でした。

私は、この人たちがいつからここにいるのかを考えました。

そして、考えるのをやめました。

そのときになって、私はヨシノさんのことを思い出したのです。

ヨシノさんは、丁場に入るとき、いつも両手を背中に回して組んでいました。

細い道だからだと、私は思っていました。

違いました。

あれは、この丁場では手を前に出さない、という作法だったのです。

綱に手を掛けた者が、その日の組に数えられる。

数えられた者は、石が浜に着くまで、そこにいる。

石は着きません。

二百年、一つも着いていません。

私の名前を呼ぶ声が、遠くでしました。

浜口くんの声でした。

それから、背中に人の重みがかかって、私の身体が持ち上がりました。

坂田さんが私を背負って、丁場の外へ運び出したのだと、あとで聞きました。

私は縄を握ったまま、指が開かなかったそうです。

坂田さんは私を背負ったまま、浜口くんに縄の反対側を切らせました。

藪を抜けて、平場が見えなくなったところで、ようやく私の指が開いたそうです。

私が覚えているのは、坂田さんの背中の、汗の匂いだけです。

分校に戻ると、ヨシノさんが土間に立っていました。

私の掌を取って、しばらく見ていました。

掌には、握った覚えのない縄の跡が、はっきりとついていました。

藤の蔓を縒った、太い縄の跡でした。

ヨシノさんは、その跡から目を上げて、丁場のほうを見ました。

「……まだ、着いとらんのですね」

そう言いました。

その日のうちに、私たちは調査を打ち切りました。

坂田さんは、島の地盤に不安があるという理由で、県に中止を申し入れました。

本当の理由は、誰も書きませんでした。

書いたところで、報告書には載らないからです。

掌の跡は、三日で消えました。

肩の擦れは、ひと月ほど残りました。

現像した写真のうち、十日目の分は、一枚も使えませんでした。

どれも露出が足りず、ほとんど真っ黒だったのです。

機械の不調ではありませんでした。

その前後の日の分は、きちんと写っていましたから。

陽が高くて、島の音がよく通る日だったのに、と私はいまでも思います。

三神先生は、帳面の写しを県に納めました。

朱で「欠」と書かれた綴りだけは、写しから外したそうです。

理由は訊きませんでした。

浜口くんは、その後、造船所に戻ったと聞きました。

彼だけは、あの日、何も見ていません。

縄の向こう側にいたからだと、私は思っています。

向こう側から持っているかぎり、縄は縄のままで、綱にはならないのでしょう。

坂田さんとは、その後も何度か仕事をしました。

島の話は、一度もしませんでした。

ただ一度だけ、酒の席で、あのとき重かったですかと私が訊いたことがあります。

坂田さんは、少し考えました。

それから、こう言いました。

「二人ぶんだった」

ヨシノさんは、その二年後に島を出て、本土の親戚のところへ移ったそうです。

移る前に、一度だけ手紙をくれました。

丁場には近づかんように、とだけ書いてありました。

島には、いま誰も住んでいません。

石は二百と七つ、そのまま残っています。

刻紋も、彫られたままです。

平場の、あの草の生えない筋のことを、私はときどき思い出します。

去年、島へ渡った人から、写真を見せてもらいました。

筋は、前より少しだけ浜のほうへ伸びていました。

残りは、あと二町ほどでした。

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