
その日も、いつも通りの配達だった。
朝の六時前に局へ入り、区分棚から自分の受け持ちを抜く。
輪ゴムで束ね、順路の通りに並べ替え、鞄へ詰める。
それだけで一時間近くかかる。
手が覚えているので、頭は使わない。
使わないから、余計なことを考える。
三十年経った今でも、私はあの冬のことばかり考えている。
先に言っておく。
私は雁木の下で、知らない人に物を手渡した。
この町では、それをしてはいけないことになっていた。
※
平成四年の冬だった。
私は二十六で、越後のある城下町の郵便局に勤めていた。
外務、つまり配達の係である。
雪の多い土地だ。
十二月の半ばには根雪になる。
三月の彼岸まで地面を見ない年もあった。
だから町の造りが、よその土地とは少し違っていた。
雁木というものがある。
通りに面した家が、それぞれの軒を道の側へ長く差し出す。
差し出した軒が隣の軒とつながり、庇の下に一本の細い通路ができる。
それが雁木だ。
軒は個人の持ち物である。
だが軒の下の道は、町の者みなの通り道になる。
自分の家の一部を、他人のために差し出す。
そういう仕組みが、二百年ばかり続いていた。
私の受け持ちは本町から鍛冶町までで、雁木はおよそ八百間、途切れずに続いていた。
足元は幅の広い杉の板で、真ん中だけが人の足で磨り減って白くなっていた。
頭の上には、家ごとに違う古さの梁が並んでいる。
戦前のものと、戦後に継ぎ足したものが、境目もなくつながっていた。
雁木の下は、昼でも夕方のような明るさである。
外の雪明かりが板戸の隙間から筋になって差し込み、その筋の中だけ、埃がゆっくり回っていた。
雪がどれだけ降っても、雁木の下だけは乾いていた。
だから、この町の者は雁木の下で傘を差さない。
差す必要がないからだ。
子どもの頃からそう教わってきたし、差している者を見たこともなかった。
よその土地から来た人が雁木の下で傘を開くと、店の者がすぐに出てきて畳ませた。
行儀の問題だと、私は思っていた。
※
母と二人で暮らしていた。
父は私が高校へ上がる年に病を得て、それきり戻らぬ人になった。
母は町の縫製工場で働いていた。
朝、私が家を出る前に、母は必ず鞄へ懐炉をひとつ入れた。
白い紙袋に入った、揉むと熱くなるやつだ。
懐炉は、いつもひとつきりだった。
二つ入っていたことは、ただの一度もない。
「一日に一つで足りるでしょう」
母はそう言って、三和土に立ったまま私を見送った。
実際、一つで足りた。
雁木の下を歩いている限り、風には当たらない。
手がかじかむのは、雁木の切れる家並みの端と、脇道へ入るときだけだ。
私はその一つを、腹に当てたり、右の掌で握ったりしながら、一日を歩いた。
※
雁木には、いくつも決まりがあった。
雪下ろしの順番。
間口の分だけ軒の高さを揃えること。
家を建て替えるときも、軒を引っ込めてはならないこと。
そういう、実務の決まりが多かった。
ただ、実務とは思えないものが二つだけあった。
ひとつ。
雁木の下で、知らない人に物を手渡してはいけない。
ひとつ。
雁木の下へ、外から来た人を招き入れてはいけない。
理由は誰も言わなかった。
局の先輩に聞いても、笑って「昔からや」と答えるだけだった。
年寄りに聞くと、少し困った顔をして話を変えた。
その程度のものだと、私は思っていた。
迷信というのは、たいてい理由を失ってから長く残る。
残っているうちは、守っておけばいい。
その程度に考えていた。
※
ひとつだけ、先に書いておかねばならないことがある。
雁木の途中に、二間ばかり軒の途切れている場所があった。
本町と横町の境である。
昔そこに家が一軒あって、それが無くなったまま、建て替えられずにいるのだという。
両隣は軒を伸ばして塞ごうとしなかった。
塞げば済む話だと、子どもの頃の私は思っていた。
だが、誰も塞がなかった。
雨の日も雪の日も、その二間だけは空が見えた。
町の者は、そこを「あき」と呼んでいた。
空き地の「あき」なのか、開いているの「あき」なのか、私は今も知らない。
私はいつも、そこを走って抜けた。
濡れるのが嫌だったからだ。
そう思っていた。
※
一月十八日だった。
その冬いちばんの大雪で、朝から一尺五寸ほど積もっていた。
局長が「今日は無理をするな」と言い、外務の全員が笑った。
無理をしないという選択肢は、この町の配達には無い。
年賀の残りと、確定申告の書類と、農協の広報。
いつもより二割ほど重い鞄を担いで、私は本町へ出た。
雁木の下は、やはり乾いていた。
外の音が庇に吸われて、通りの向こうの除雪車の音だけが遠く鳴っていた。
私は順路の通りに投函し、判をもらい、書留を渡した。
昼前に本町を配り終え、横町へ抜けるところで、「あき」に差しかかった。
「あき」の下に、人が立っていた。
女だった。
紺の、綿入れらしい上着を着ていた。
傘は差していない。
頭にも肩にも雪が積もって、輪郭が白く膨らんでいた。
どれだけそこに立っていたのか、見当がつかなかった。
大雪の日というのは、音が無い。
除雪車の音も、屋根から雪の落ちる音も、その二間の中だけは届いていなかった。
私は足を止めた。
止めるつもりはなかった。
気づくと、止まっていた。
「寒いでしょう」
と私は言った。
返事はなかった。
女はこちらを見なかった。
横顔だけが見えた。
若いのか年寄りなのか、そこがどうしてもわからなかった。
皺があるようにも、無いようにも見えた。
目だけは動いていた。
雁木の、私が来たほうの奥を見ていた。
私は鞄に手を入れた。
懐炉があった。
朝、母が入れたものだ。
掌で揉んで、女の手のあたりへ差し出した。
雁木の下で、知らない人に物を手渡してはいけない。
その決まりを、忘れていたわけではない。
ただ、そこは「あき」だった。
軒の無い場所だ。
雁木の下ではない。
だから決まりの外なのだと、私は自分に説明した。
説明できてしまったことが、いけなかったのだと思う。
女の手が動いた。
受け取った。
指の先が、私の指に触れた。
冷たくはなかった。
雪の中に立っていた人の手が、私の手より温かかった。
私は会釈をして、その場を離れた。
三軒ほど配ってから、振り返った。
「あき」には誰も居なかった。
雪の上に、足跡も無かった。
降り続いていたから消えたのだと、そのときは考えた。
だが私が離れてから、まだ二分と経っていなかった。
※
異変は、その日の夕方に始まった。
最初は音だった。
配達を終えて局へ戻る道で、私は雁木の下を歩いていた。
長靴が板を踏む音が、一定の間隔で鳴る。
その音に、半拍遅れて、もう一つ音が混じっていた。
私は立ち止まった。
音も止まった。
ただし、私が止まってから、わずかに遅れて止まった。
振り返った。
誰も居ない。
雁木の板の上に、私の足跡が雪を落とした跡だけが点々と続いていた。
私はまた歩き出した。
音は、また半拍遅れてついてきた。
雁木を出て、局の駐車場の雪の上へ踏み出したところで、音は消えた。
反響だと思うことにした。
庇の下は音がよく響く。
実際、そういうことはある。
私はその晩、母の作った粕汁を食べ、風呂に入り、よく眠った。
※
翌朝、二つ目の異変があった。
音ではなく、痕だった。
私は配達の順路を、いつも通りに歩いていた。
「あき」に差しかかったとき、雪の上に足跡が二列あった。
一列は、私が前日に踏んだものだ。
雪が浅く積もって、輪郭がぼやけていた。
もう一列は、その隣に、まっすぐ並んで続いていた。
長靴ではなかった。
指の形があった。
大人の足の、素足の跡だった。
二列は「あき」を出たところで、雁木の下へ入って消えていた。
雁木の下は乾いているから、跡は残らない。
私はしゃがんで、その素足の跡を指でなぞった。
縁が凍って硬くなっていた。
一晩そこにあったということだ。
私は、なぜか、鞄の中を確かめた。
懐炉はひとつ入っていた。
朝、母が入れたものだ。
当たり前のことに、私は少し安心した。
安心したことを、あとで思い返して背中が冷えた。
※
三つ目は、人の口から来た。
一月の終わりだったと思う。
鍛冶町の岩淵さんという一人暮らしの婆さまに、書留を届けた。
印鑑をもらって帰ろうとしたら、婆さまが引き戸のところで、私の後ろのほうを見ながら言った。
「今日は、二人で来なさったんかね」
私は振り返った。
雁木の下に、誰も居ない。
「一人ですよ」
と私は言った。
婆さまは「そうかね」と言って、笑わずに戸を閉めた。
その週のうちに、局でも似たことを言われた。
同期の田代という男が、区分棚の向こうから声をかけてきた。
「お前、最近ひとりで喋っとるろ」
「喋っとらん」
「喋っとる。雁木の下で。俺、本町で二回見た」
私は覚えがなかった。
本当に、まったく覚えがなかった。
田代は「疲れとるがだ」と言って、それきりその話をしなかった。
私は自分が疲れているのだと考えることにした。
年賀の後始末が続いていたし、実際よく眠れていなかった。
※
二月に入って、少し雪が緩んだ。
屋根の雪が落ちて、道端に山ができた。
局の裏の甘味屋が笹団子を出す時期で、田代と二人で立ち食いをした。
田代は餡が歯についたまま喋る男で、私はそれがおかしくてよく笑った。
横町の畳屋の犬に、その冬だけで四回吠えられた。
吠えられるたびに畳屋の主人が出てきて、犬より大きな声で謝った。
そういう日が半月ばかり続いた。
音も、足跡も、無かった。
私は忘れかけていた。
正確に言えば、忘れたことにしていた。
※
四つ目は、時間だった。
二月の十九日である。
私は本町の端から鍛冶町の端まで、雁木の下を通しで歩いた。
八百間。
途中で投函をしながらでも、五十分あれば抜ける。
私は十年近く、その道を歩いていた。
身体が時間を覚えている。
その日、鍛冶町の端へ出て腕時計を見た。
一時間五十二分が経っていた。
私は時計が狂ったのだと思い、局へ戻って壁の時計と合わせた。
合っていた。
局の日報も、私の腕時計と同じ時刻を指していた。
狂っていたのは、私の一日のほうだった。
その日、私は残りの配達を終えられず、初めて持ち戻りを出した。
局長には「雪だすけ仕方ない」と言われた。
雪ではなかった。
その日は、朝から一片も降っていなかった。
※
五つ目は、私の身体に出た。
右手だった。
雁木の下に入ると、右の掌の感覚が薄くなる。
痛みも痺れもない。
ただ、冷たさを感じなくなる。
手袋を外して雪をつかんでも、右手だけは何も感じなかった。
雁木を出ると、じんと痛みが戻ってくる。
私は医者に行った。
町医者は私の右手を握って、しばらく黙っていた。
「冷えとらんね」
と医者は言った。
「左は冷たい。右だけ、こっちより温い」
医者の掌より、私の右手のほうが温かかったのだ。
異常はない、と言われた。
その通りだった。
血の通った人の手が温かいのは、異常ではない。
私は「あき」で触れた指の温度を思い出した。
思い出して、初めて怖くなった。
怖いというより、順番が入れ替わっていくような感じがした。
※
三月の初めに、私は鍛冶町の平井という老人を訪ねた。
雁木の世話役を長く務めた人で、軒の高さの寸法をすべて頭に入れているという話だった。
私は書留を届けたついでに、上がって茶をもらった。
座敷は障子越しの雪明かりで白く、火鉢の炭が時々小さく鳴った。
火鉢の前に座って、私は「あき」のことを聞いた。
平井さんは、湯呑みを持ったまま、しばらく私の顔を見ていた。
それから、こう言った。
「あんた、何か渡したね」
私は答えられなかった。
平井さんは湯呑みを置いた。
「明治三十四年の大雪の話や」
そう言って、話しはじめた。
その年、雪は二丈近く積もったのだという。
雁木の下だけが辛うじて生きていて、町の者は屋根まで届いた雪の下を、もぐるようにして行き来していた。
汽車も止まり、街道も塞がり、町は十日ほど外と切れた。
そのさなかに、外から来た女が一人、本町と横町の境まで歩いてきた。
どこから来たのか、誰も知らなかった。
雪の中に立って、動かなかった。
境の家の者が、見かねてその女を軒の下へ入れた。
「入れただけや。飯も食わせとらん。ただ、軒の下へ入れた」
平井さんは、そこで一度、言葉を切った。
「次の朝、その家の娘が居らんようになった」
娘は雪の中へ出ていったきり、戻らなかった。
春になって雪が消えても、見つからなかった。
家の者は町を出て、家は残り、やがて潰れた。
それが「あき」である。
「両隣が塞がんのは、意地悪でも横着でもない」
平井さんはそう言った。
「塞いだら、次はそこが境になるすけ」
私は黙っていた。
平井さんは火箸で灰をならしながら、続けた。
「雁木ちゅうのは、うちの軒を人に貸す仕組みや。貸し借りの帳面と同じでな」
「借りたもんは、返さんばならん」
「一人入れたら、一人出す」
「そういう帳面や」
私は、自分の右手を見ていた。
「物も同じや」
と平井さんは言った。
「雁木の下で知らん者に物を渡したら、その物は、渡した家の物になる」
「あんたが渡したがは、あんたの物やったかね」
私は答えられなかった。
懐炉は、私が買ったものではない。
母が毎朝、鞄に入れるものだった。
ひとつきり、入れるものだった。
※
三月九日の夜だった。
私が局から帰ると、家に母が居なかった。
工場の夜勤ではない日だった。
台所に、作りかけの汁が置いてあった。
火は消してあった。
玄関の三和土に、母の長靴が無かった。
傘立ての傘が、一本足りなかった。
母の、大きな黒い蝙蝠傘である。
父が使っていたもので、母には大きすぎるといつも言っていた。
その晩は、朝から降っていた。
私は工場へ電話をかけた。
来ていないという返事だった。
近所を二軒回った。
見ていないと言われた。
私は雁木へ出た。
本町の端から歩いた。
庇の下は乾いていて、雪だけが外で降っていた。
私は母の名を呼びながら歩いた。
店はもう閉まっていて、板戸の隙間から明かりが漏れていた。
誰も出てこなかった。
三百間ほど歩いたところで、私は自分の足音を聞いた。
半拍遅れて、もう一つ鳴っていた。
私は走った。
もう一つの音も、走った。
「あき」の手前で、私は足を止めた。
二間先に、人影があった。
雪の中に立っていた。
その人は、傘を差していた。
黒い、大きな蝙蝠傘だった。
雪が傘の面に積もって、白く盛り上がっていた。
庇の下には、雪など一片も落ちてこないはずだった。
私は動けなかった。
おかしい、と頭のどこかが言っていた。
何がおかしいのか、少し遅れて追いついた。
その人は、雁木の下で傘を差していた。
この町の者は、雁木の下で傘を差さない。
私は近づいた。
傘が、ゆっくりと上がった。
母だった。
母は私を見て、少し困ったような顔をした。
「軒を、貸してもろたすけ」
と母は言った。
「返さんばならんろ」
私は母の腕をつかんだ。
左手でつかんだ。
右手は、感覚が無かった。
母の右手に、白い紙袋が握られていた。
揉みしだかれて、紙が柔らかくなっていた。
懐炉だった。
まだ、温かかった。
一月十八日に「あき」で渡した、あの一つである。
母が朝、私の鞄に入れる懐炉は、いつもひとつきりだった。
あの日私が渡したのは、母の分だったのだ。
私は母を引いて家へ帰った。
途中、後ろを見なかった。
足音が二つ鳴っていたのか、三つだったのか、確かめなかった。
※
母は、何もなかったように翌朝から工場へ出た。
前の晩のことを聞いても、覚えていないと言った。
汁を作っていたところまでは覚えている、と。
私はそれ以上聞かなかった。
その冬から、母には癖がついた。
家の中で、傘を差すようになったのである。
いつもではない。
雨や雪の音が屋根に当たりはじめると、母は玄関へ行って、あの黒い蝙蝠傘を持ってくる。
そして茶の間に座り、傘を開いて、その下で繕い物をした。
「雨漏りでもするか」
と私が聞くと、母は天井を見上げて、こう答えた。
「軒が、もう無いすけ」
雁木は、その翌々年に取り払われた。
県道の拡幅で、本町から鍛冶町まで、軒がすべて切り落とされた。
反対する人は、思ったより少なかった。
雪が昔ほど降らなくなっていたからだ、と説明されていた。
私は、そうではない気がしている。
誰かが、帳面を閉じたかったのだと思う。
私は三十を前に町を出て、それきり戻っていない。
母は十年前に、眠るように先へ逝った。
最後まで、雨の音がすると傘を探した。
病室では傘が無かったので、私が畳んだタオルを手に握らせた。
母は「これでええ」と言って、それを頭の上に載せようとした。
※
今でも、わからないことがいくつもある。
「あき」に立っていたのが誰だったのか。
明治の娘だったのか、それとも、外から来たほうの女だったのか。
私が渡した懐炉が、どういう順路をたどって母の手に戻ったのか。
一人入れたら一人出す、というのなら、出されたのは誰だったのか。
母は帰ってきた。
帳面は、まだ合っていないはずだ。
私の右手は、あの冬が終わってから、普通に冷たくなるようになった。
ただ一度だけ、母の葬式の日に、また感覚が無くなった。
その日は雪だった。
斎場の軒の下に立っていたときだけ、右手が温かかった。
私は今も、雨の日に人へ物を手渡すとき、少し考える。
庇の下かどうかを確かめてから渡す。
それだけの癖である。
誰にも説明したことはない。
母の傘は、私が持っている。
大きな、黒い蝙蝠傘だ。
一人で差すには、やはり大きすぎる。
差すと、いつも右側に、誰か一人ぶんの空きができる。
雨の日も、雪の日も。
母の傘の下だけが、いつも乾いていた。