柳の向こうの旅館

夜の山村の灯篭道

あれは三年ほど前の、秋の終わりのことだった。

私は岡山から鳥取にかけて担当エリアを抱える営業職で、月に何度か日帰りでは辛い移動をこなしていた。その日は朝から取引先を三軒回り、最後の一軒でのやり取りが長引いて、解放されたのは夕方の六時を過ぎていた。帰りの高速に乗りかけたところで、体の重さに改めて気づいた。翌日は午前中に一件だけ訪問があるが、それ以外は予定がなかった。どうせなら途中で一泊して、翌朝ゆっくり帰ってもいい。そう思って、ずっと気になっていた温泉地に立ち寄ることにした。

国道から山あいに折れて十五分ほど走ると、「奥深津温泉」という小さな温泉地がある。出張のたびに道路の案内標識を横目で見ながら通り過ぎてきた場所だった。スマホで調べると「松葉屋」という旅館が評判が良く、一人泊も受け付けていた。電話で空き室を確認して、そのまま向かった。

山を登るにつれて、車の外気温はどんどん下がっていった。木々はすでに葉を落とし始めていて、ヘッドライトに照らされた坂道は少し寂しかった。対向車もほとんどなく、道は細くなっていった。山の中にいるのだという感覚がじわりと染みてきた。それでも不安よりは期待の方が上回っていた。温泉に浸かりたかった。ただそれだけだった。

温泉街に着いたのは夜の九時を過ぎた頃だった。石畳の路地沿いに旅館が数軒並んでいて、川べりの宿から窓明かりが漏れていた。あちこちの玄関先に小さな提灯が下がっていて、その灯りが石畳を橙色に染めていた。川の水音が静かに聞こえた。人通りはほとんどなかったが、決して廃れた感じではなかった。静かで落ち着いた、いい温泉街だと思った。

駐車場に車を止めて、スマホの地図を開いた。松葉屋は温泉街の入口から右に折れてすぐのはずだった。

しかし地図を確認しようとした瞬間、アプリが固まった。

電波は問題ない。アンテナは三本立っていた。にもかかわらず地図だけが動かなくなり、現在地を示す青い点が、私の実際の位置とは少し離れた場所で点滅し続けていた。何度かタップしてみたが、画面はまったく反応しなかった。アプリを再起動しようとしても、そもそも終了ボタンが効かなかった。

「まあいいか」と思った。温泉街の案内図は入口の看板にも出ていたし、大した規模ではない。カンで歩けばすぐ見つかるだろう。スマホをポケットに押し込んで、石畳を歩き始めた。

右手にいくつか旅館の入口を見送りながら進んでいくと、やがて石畳の路地から一本引っ込んだ細い通りが左手に分かれていた。メインの通りからは外れていて、入口に古い石灯籠が立っていた。柳が数本、灯籠の灯りに揺れていた。黄色く色づいた葉の一部がまだ残っていて、夜風にふわりと舞っていた。

松葉屋はもっと手前のはずだった。しかしなんとなく足が向いた。疲れていたのかもしれない。あるいは、柳の向こうに感じた温かさのようなものに引き寄せられたのかもしれない。石畳よりも細い路地は、苔で少し湿っていた。歩くたびに冷たい空気が足元から上がってくる感じがした。川の音が遠くなり、温泉街の気配もすっかり薄れていった。

路地の突き当たりに、古い木造の建物があった。

玄関先に提灯がひとつ下がっていて、橙色の光が、「橘屋」と書いた板を照らしていた。

松葉屋ではなかった。それはわかっていた。電話で確認した松葉屋の住所とも、方角が違う気がした。しかし距離感からすると、ここを通り過ぎたらもう旅館らしいものはないような気がした。それに提灯の灯りがあって、玄関の引き戸の向こうに人の気配がして、このまま引き返す気力も残っていなかった。引き戸を引くと、すぐに奥から人が出てきた。

五十代と思しき女性で、グレーの割烹着を着ていた。髪は後ろでまとめていて、表情は穏やかだった。私の顔を見るなり、「お待ちしておりました」と言った。

一瞬、言葉の意味がわからなかった。予約は松葉屋に入れた。橘屋には連絡していない。そもそも橘屋という名前を今日まで知らなかった。

「あの、予約はしていないのですが……一人、泊まれますか」と聞くと、女将は柔らかく微笑んで、「ええ、お部屋はご用意しております。どうぞお上がりください」と言った。

疲れていた。深く考える気力がなかった。結果として私は靴を脱いで玄関に上がった。

廊下は暗くて細く、古い木が軋む音がした。二階に案内された部屋は六畳ほどで、床の間に松の掛け軸が一幅かかっていた。窓にはカーテンが引かれていて、外の様子はわからなかった。布団はすでに敷かれていた。畳の匂いがした。ずっとそこにあったような、深い匂いだった。荷物を下ろすと、少しだけ肩の力が抜けた。

浴衣に着替えて風呂へ向かった。女将に言われた通り、廊下の突き当たりから階段を下りると地下に浴場があった。脱衣所は広くも狭くもなく、古い木の棚に竹籠が並んでいた。洗い場には石造りの浴槽が一つ。湯は白濁していて、かすかに硫黄の匂いがした。熱め。指を入れた瞬間、肌がじわりと反応した。

肩まで沈んで、天井を見上げた。低い。むき出しの梁が数本通っていて、湯気がゆっくりと漂っていた。他に客はいなかった。水音だけが響いていた。体の節々がほぐれていくのがわかった。こういう湯に浸かることが、仕事をしていく上での原動力のひとつなのだと思った。このまま眠れそうだと思った。それくらい、力が抜けていた。

十五分ほど浸かって浴場から出た。脱衣所で体を拭きながら、ふと廊下の方が気になった。引き戸の磨りガラス越しに、廊下に人が立っているのが見えた。足元まで真っ直ぐな姿で、動いていない。

女将だろう、と思った。風呂上がりに何か持ってきてくれているのかもしれない。着替えを済ませて引き戸を開けると、廊下には誰もいなかった。左右どちらを見ても、ただ暗い廊下が続いているだけだった。足音もしなかった。誰かが立っていたなら、こんなに静かに消えられるはずがなかった。しばらく廊下に立って耳を澄ませたが、何も聞こえなかった。

部屋に戻ると、食事の膳が出ていた。

焼き魚に小鉢が三つ、椀に汁物、奥には炊き込みご飯の釜が小さく置いてある。料亭のような盛り付けではないが、丁寧だった。漆塗りの膳に、白い器が並んでいた。思わずスマホを取り出して写真を撮った。旅館の外観と浴場への階段も撮ってあって、それらがきちんとフォルダに残っていることを確認した。

食事をしながら、窓が気になって少し開けてみた。カーテンを引くと、外は暗かった。灯りが一つも見えなかった。

奇妙だった。来るときに石畳の路地を歩いてきたとき、温泉街の旅館の窓明かりが川べりに並んでいた。賑やかではないにしろ、人の気配のある通りだった。それが今、窓の外からはまったく届いてこない。暗い、というより、光というものが存在しない暗さだった。空も見えなかった。星もなかった。ただ黒い壁のようなものがそこにあった。

「裏手に面しているからだろう」と自分に言い聞かせて、カーテンを閉めた。

食事を終えて、しばらくぼうっとしていると女将が片づけに来た。「お口に合いましたか」と尋ねてくれた。合いました、と答えながら、ふと女将の目元を見た。笑んでいる。だが目線がわずかにずれている気がした。私の顔を見ているようで、私の顔のすぐ横、あるいは私の少し後ろを見ているような目だった。何かを見ているのだろうか。振り返ろうとして、やめた。

疲れのせいで気のせいに見えているだけだろう、と思った。そう思おうとした、というほうが正確かもしれない。「ゆっくりお休みください」と言って女将は下がった。

布団はすでに敷いてあった。その夜は珍しく、横になるとほぼ即座に意識が途絶えた。眠りに落ちる直前、廊下でかすかに板が鳴った気がした。そしてどこかで、うとうとと何かが動くような音がした気がした。しかしそのことを考え始める前に、意識がなくなった。

目が覚めたとき、私は車の中にいた。

後部座席を倒して横になっていた。体の下に、昨夜着ていたジャケットが敷いてあった。外は朝の光で、時刻を見ると七時を少し過ぎていた。窓に結露がついていた。温泉街の駐車場だった。昨夜車を止めたのと同じ場所だった。

最初の数秒、何が起きているのかわからなかった。旅館に泊まった。女将がいた。風呂に入った。食事をした。布団に入った。それらの記憶は鮮明にある。なのに今、自分は車の中にいる。浴衣は着ていなかった。昨夜の服のままだった。財布も鞄も、すべてそのまま車の中にあった。チェックアウトした覚えはなかった。支払いをした覚えもなかった。

スマホを開いた。昨夜の写真が残っていた。

旅館の外観を撮った写真、浴場への階段を撮った写真、食事の膳を撮った写真。確かに撮影した覚えがあるものが、フォルダに並んでいた。

外観の写真を拡大した。

提灯はなかった。屋根の一部が崩れ落ちていた。玄関先の板は腐って割れており、引き戸はなかった。柳の木だけが変わらず写っていて、その向こうに建っているのは、誰も住んでいない廃屋だった。昨夜あそこに灯っていたはずの橙色の光は、どこにもなかった。

食事の写真を開いた。

膳はあった。漆塗りの膳に、白い器が並んでいた。ただ、器の上には何も乗っていなかった。焼き魚も、小鉢も、汁物の椀も。最初から何も出されなかったかのように、空の器がきれいに並んでいるだけだった。

午前中に温泉街の入口近くの土産物屋で、老いた店主に話しかけた。橘屋という旅館を知っているかと聞いた。

店主はしばらく考えてから、「橘屋さんか。あそこは二十年近く前に廃業されたよ」と言った。「建物は随分前に解体されたはずだ。柳の木だけ残ってるはずだけど、今もあるかね」

私は何も言えなかった。二十年、か。と心の中で繰り返した。

温泉街を一巡りして、昨夜歩いた路地を確かめた。柳は確かにあった。その奥に宿があったはずの場所は、雑草の生えた空き地になっていた。基礎の石だけが残っていて、かつて建物があったことをかろうじて示していた。石の一つ一つは、ずいぶん古くて苔むしていた。提灯を下げていたはずの玄関先は、ただの空白だった。

松葉屋には、改めて電話をかけた。昨夜は急遽別の宿に泊まることになったので、予約をキャンセルしてほしいと伝えた。フロントの人はすんなり対応してくれた。「そういうことでしたら問題ございませんよ」と言われた。そういうこと、が何を指すのかわからなかったが、深く聞けなかった。

私はそのまま帰路についた。高速道路を走りながら、何度か昨夜のことを頭の中で整理しようとした。しかし整理できるものは何もなかった。女将の笑顔は覚えている。風呂の湯の温度も。食事の膳の美しさも。それらがすべて存在しなかったのか、あるいは別の何かだったのか、私にはわからない。

ただ、あの白濁した湯の感触だけが、今でも指先に残っている。浴槽の縁を両手で支えたときの、ひんやりとした石の感触も。湯が肌に触れたときのじわりとした熱も。それらはすべて、この体が確かに経験したものだと感じている。あれが幻だったとは、どうしても思えない。

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