憩いの館

いなくなった犬や猫が、なぜか必ず見つかる家が、町にあった。

私が小学生だった頃の話だ。

北関東の、旧街道沿いの古い町だった。

蔵の残る米屋があって、夏は店先に打ち水がしてあった。

夕方になると、豆腐屋のラッパが鳴る。

そういう時代の、そういう町だ。

うちは街道から一本入った通りにあって、その並びの角に、その家は建っていた。

二階建ての日本家屋。

板張りの外壁に、瓦屋根。

築六十年は経っていたと思う。

持ち主が亡くなって、もう二十年も空き家だと聞いていた。

それなのに、荒れていなかった。

雨樋は外れていないし、窓ガラスは一枚も割れていない。

空き家というより、留守の家。

玄関の表札は外されていたが、木の壁にその形だけ、白く残っていた。

郵便受けに、チラシが溜まっているのを見たことがない。

誰かが抜いているのか、そもそも入れる気にならないのか。

配達の人も、あの家の前では自転車を停めなかった気がする。

町の子どもはみんな、そう感じていたと思う。

敷地をぐるりと、大人の背丈ほどの大谷石の塀が囲っていた。

玄関は道路に面していて、家の裏が庭になっている。

家の両脇と塀のあいだは、数センチの隙間しかない。

猫なら、入れなくもない。

犬には、無理だ。

それが、この話の要点になる。

もうひとつ、妙なことがあった。

子どもというのは、空き家と見れば肝試しをしたがるものだ。

でも、あの家でやったという話は、一度も聞かなかった。

怖かったからではない。

なんとなく、悪さをする気にならない家だったのだ。

よその家の仏間で騒げないのと、同じ感覚だった。

最初は、同級生のヤマグチの子猫だった。

四年生の、梅雨明けの頃だ。

飼い始めて二週間の三毛が、網戸を破って逃げた。

町内総出とまではいかないが、子どもらで三日探した。

画用紙にポスターを描いて、電柱に貼った。

ヤマグチは「みけ いなくなりました」の字を、何度も書き損じた。

似顔絵の三毛は、何度描いてもただの丸に縞だった。

それでも貼った晩、ヤマグチの母ちゃんは電柱ぜんぶに頭を下げて回ったらしい。

三日目の夕方には、半分泣きながら用水路を覗いていた。

見つけたのは、ヤマグチの兄ちゃんだった。

「あの空き家の庭にいた」

塀によじ登って覗いたら、庭の真ん中にちょこんと座っていたという。

逃げた猫が空き家に迷い込む。

それ自体は、何もおかしくない。

おかしかったのは、その続きだ。

三毛は、三日も外にいたのに、毛づやひとつ乱れていなかった。

腹も、減っていなかった。

ヤマグチの家の飯を、その晩は残したくらいだ。

「どっかで飼われてたみたいだったよ」

三毛を抱き上げたとき、毛から薄荷のような匂いがしたとも言っていた。

動物病院の待合室の匂いに、似ていたそうだ。

もっとも、当時の私たちは動物病院など行ったこともなく、それが何の匂いなのか、誰も分からなかった。

ヤマグチは、そう言って笑っていた。

そのときは、誰も深く考えなかった。

次は、うちの柴犬だった。

コロという、芸のない名前の雄犬だ。

台風の晩に、犬小屋の鎖が外れた。

朝、犬小屋が空なのを最初に見つけたのは私だった。

鎖の金具が、まっすぐ伸びて外れていた。

あんな外れ方は、その後も見たことがない。

母は「車にだけは轢かれないでよ」と何度も言った。

私は学校を休むと言って、叱られた。

授業のあいだも、窓の外ばかり見ていた。

あの犬は、雷が苦手なくせに、強がりなのだ。

どこかで濡れて震えているかと思うと、給食の味もしなかった。

家族で手分けして、雨の上がった町を探し回った。

見つかったのは、やっぱりあの庭だった。

父が塀を乗り越えて、抱えて連れて帰った。

帰り道、父は何度も首をひねっていた。

「どっから入ったんだ、あいつ」

父は懐中電灯で塀をぐるりと一周して、首をひねり続けた。

「猫ならまだしも、こいつの図体でなあ」

コロは父の腕の中で、妙にすっきりした顔をしていた。

嵐の夜を外で明かした犬の顔ではなかった。

コロは、中型犬だ。

数センチの隙間は、頭も通らない。

塀に、崩れはない。

門は施錠されたまま。

玄関も窓も、傷ひとつない。

それでも、コロは庭にいた。

泥だらけのはずの台風の晩を越えて、乾いた毛で、座っていた。

「軒下にでもいたんだろ」と父は言った。

あの家の軒は、庭に面した縁側の上にしかない。

つまりコロは、律儀に縁側の前で夜を明かしたことになる。

嵐の晩に、よその家の戸口で。

それからも、続いた。

逃げた文鳥が、庭の松の枝に止まっているのが見つかった。

籠ごと消えたわけではない。鳥だけが、あの庭にいた。

文鳥の飼い主は、商店街の時計屋の娘さんだった。

「窓は閉めてたんです」と、何度も言っていた。

閉めた窓から出た鳥が、屋根を越え、通りを越えて、あの庭の松に止まっていた。

猫の多い町で、三日間、無事のままで。

隣町から逃げてきたという老犬が、庭で見つかったこともある。

足が悪くて、長くは歩けないはずの犬だった。

飼い主は車で三十分の距離を、どうやって来たのか分からないと言った。

老犬を迎えに来たのは、白髪のおばあさんだった。

庭から抱え出された犬を受け取ると、おばあさんは塀に向かって、深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」

誰に言ったのか、私たち子どもには分からなかった。

おばあさんは、もう一度だけ庭の方を見て、それから帰っていった。

町の犬猫の失踪は、たぶん多かったのだと思う。

ただ、騒ぎにはならなかった。

いなくなったら、まずあの家を見に行く。

「また館か」が、町の合言葉のようになっていた。

うちの母などは、コロの皿を洗いながら「今度いなくなったら、先に館を見なさい」と言うようになった。

順番が、おかしいのだ。

普通は、近所を探して、最後に空き家だろう。

この町では、空き家が最初だった。

それで、だいたい片が付いたからだ。

大人たちはいつからか、あの家をこう呼んでいた。

憩いの館。

半分は冗談で、半分は、冗談にしておきたかったのだと思う。

不動産屋が持ち主の親戚に売却を持ちかけて、断られたという話もあった。

「あそこはまだ、使っとる人がいるから」

断りの文句が、そうだったらしい。

使っている人とは誰なのか、不動産屋は訊けなかったそうだ。

私が初めて塀の中に入ったのは、五年生の冬だ。

またコロが消えて、今度は私が見つける番だった。

父に肩車をしてもらい、塀の上から庭へ降りた。

庭は、不思議な場所だった。

塀の内側に降りた瞬間、音が変わった。

すぐ向こうの通りの、車の音がしない。

自分の靴が土を踏む音だけが、やけにはっきり聞こえた。

土は黒くて、ふかふかと柔らかかった。

誰かが今朝、掃き清めたばかりのような庭だった。

二十年も人の手が入っていないのに、荒れていない。

草は伸びているのに、枯れた感じがしない。

白い飛び石が、玄関とは反対の、縁側の方へ続いている。

そして、冬だというのに、どこかから金木犀の匂いがした。

金木犀は、秋の花だ。

庭の隅に確かに古い木はあったが、花は一つも付いていなかった。

それなのに、匂いだけがした。

あの庭の時間は、外と少しずれているのかもしれない。

今でも、金木犀の匂いをかぐと、あの冬の庭を思い出す。

コロは、縁側の前に座っていた。

縁側の板は、二十年分の風雨に晒されたはずなのに、白く乾いてはいなかった。

つい昨日まで、誰かが雑巾をかけていたような色をしていた。

私が呼んでも、すぐには来なかった。

「コロ」

もう一度呼ぶと、耳だけがこちらを向いた。

身体と目は、縁側に向いたままだった。

飼い犬が、飼い主より優先する何かが、あの雨戸の奥にあった。

閉め切った雨戸を、じっと見上げていた。

それで気づいた。

ヤマグチの三毛も、文鳥も、老犬も。

庭で見つかった動物は、みんな同じだったと。

鳴かず、騒がず、座って、雨戸を見上げている。

塀の方は、見ない。

逃げてきた動物が、帰り道ではなく、家の戸を見ている。

まるで、開くのを待っているみたいに。

気づいてしまうと、もう、そうとしか見えなかった。

コロの首輪をつかんだとき、それは聞こえた。

雨戸の内側で、ことり、と音がした。

木の床に、何か小さな物を置いたような音だった。

コロが、ぱたりと尻尾を振った。

私は犬を抱えて、夢中で塀を越えた。

塀を越える瞬間、背中の方で、もう一度、ことり、と鳴った気がした。

振り向けなかった。

父には、音のことは言わなかった。

布団に入ってからも、あの音のことばかり考えていた。

怖くなかったと言えば、嘘になる。

でも、それ以上に引っかかったのは、コロの尻尾だった。

あの音を聞いて、コロは喜んだのだ。

言えば、もうコロを探しに入れなくなる気がした。

中学に上がった年の夏、米屋の隠居に聞いたことがある。

あの家は何だったのか、と。

隠居は、店先の縁台で麦茶を飲みながら教えてくれた。

「ありゃあ、先生の家だよ」

隠居は、遠くを見る目になった。

昔、あの家には獣医がいたのだという。

町でただ一人の、動物の先生だった。

戦後すぐから、五十年のあいだ、犬も猫も鳥も、何でも診た。

金のない家からは、金を取らなかった。

捨て猫を引き取っては、庭で日向ぼっこをさせていた。

夜中に戸を叩いても、先生は明かりをつけてくれたそうだ。

治せなかった犬を、一晩中抱いて夜明かしした話も聞いた。

「うちの先代の猫もな、最期は先生に看取ってもらった」

隠居の麦茶のグラスが、からんと鳴った。

「順番待ちの犬猫がな、あの庭にずらっと座っとった。行儀よくな。みんな、自分の番が来るのを知っとるんだ」

「不思議とな、喧嘩にならんのだ。犬と猫が隣に座っとってもな」

「先生が縁側の雨戸を開けてな、一匹ずつ、名前を呼ぶんだよ」

名前のない捨て猫や野良には、先生がその場で名前を付けた。

「呼ばれた名前は、ちゃんと覚えるんだ。次から、その名前で来るんだよ」

呼ばれた一匹だけが、すっと立って、縁側に上がる。

隠居は子どもの頃、その光景を何度も見たという。

先生は三十年前に死んだ。

身寄りは遠くにいて、家は手放されないまま、留守になった。

「動物らはな、具合が悪うなると先生とこへ行くんだ。昔っからそうだった。……今でも、そうなんだろ」

「人間はな、死んだ人間の家には近寄らん。けど、動物は別だ」

「あいつらにとっちゃ、先生が生きとるか死んどるかより、診てくれるかどうかが大事なんだろうよ」

麦茶の氷が解ける音だけが、しばらく続いた。

私は、ことり、というあの音のことを、隠居にだけ話した。

隠居は驚かなかった。

「ああ。器具を置く音だな」

と、当たり前のように言った。

「先生はな、診察の前に、トレイに器具を並べるんだ。ことり、ことりってな。あの音がすると、次は自分の番だと、犬猫は知っとるんだ」

腕の鳥肌が、しばらく引かなかった。

隠居は、笑わずに言った。

私はその夏、何度か塀の外から庭を覗いた。

一度だけ、夜に行ったこともある。

中学の友達と三人、自転車で乗りつけた。

度胸試しのつもりだった。

塀の上から懐中電灯で照らすと、庭に猫がいた。

一匹ではなかった。

三匹、間を空けて、行儀よく並んでいた。

三匹とも、こちらを見もしなかった。

雨戸だけを、見ていた。

誰かが「帰ろう」と小さく言って、私たちは黙って自転車を漕いだ。

帰り道、誰も一言も喋らなかった。

怖い物を見たからではない。

見てはいけない順番待ちに、割り込んでしまった気がしたからだ。

誰もいない日が、ほとんどだった。

一度だけ、知らない白猫が、縁側の前に座っているのを見た。

猫は私を見なかった。

雨戸だけを、見ていた。

あの庭で見つかる動物たちは、迷い込んでいるのではない。

通っているのだ。

動物たちは今も、あの庭で、診察の順番を待っているのだ。

そう思った瞬間、真夏なのに、腕に鳥肌が立った。

怖い、というのとは少し違う。

ただ、人間の知らないところで、人間の知らない約束が、まだ続いている。

その事実に、足元が少しだけ揺れた。

コロは、十五年生きた。

私が小四の春に来て、私が二十歳になる年まで生きた。

成人式の写真には、写真嫌いの父のかわりに、コロが写っている。

最後の年は目も耳も弱って、散歩も短くなった。

ある朝、庭先から消えた。

老犬が死に場所を探しに行くという話は、聞いたことがあった。

でも私には、探す前から行き先が分かっていた。

あの庭にいた。

十一月の、霜の朝だった。

庭の土にだけ、霜が降りていなかった。

あの庭だけ、季節がひとつ、ぬるいのだ。

縁側の前で、伏せをして、雨戸を見上げていた。

私が塀を越えても、コロは動かなかった。

ただ、尻尾だけが、ぱたり、ぱたりと揺れていた。

診察は、終わったのだろうか。

それとも、順番はまだだったのだろうか。

連れて帰って、三日後の朝、コロは犬小屋で眠るように死んでいた。

前の晩、コロは私の手のひらを、ずいぶん長いこと舐めた。

今思えば、あれが挨拶だったのだろう。

苦しんだ様子は、なかった。

最後にあそこへ行けてよかったのだと、今では思っている。

高校を出て、私は町を離れた。

数年前、法事で帰ったとき、あの角を通った。

米屋はコンビニになり、豆腐屋のラッパはもう鳴らない。

それでも、あの角を曲がる手前で、足が勝手にゆっくりになった。

家は、あった。

板壁は古びていたが、やはりガラスは一枚も割れていなかった。

表札の白い跡も、そのままだった。

相変わらず、留守の家の顔をして建っていた。

塀の上に、見たことのない猫が二匹、並んで座っていた。

二匹とも、通りではなく、庭の方を向いていた。

順番待ちは、まだ続いているらしい。

猫たちの毛づやは、よかった。

この町の動物たちは、今も困っていないのだ。

多分、あの家はまだある。

近所では今も、憩いの館と呼ばれている。

もし、あなたの飼っている子がふいに姿を消して、数日後、妙にさっぱりした顔で戻ってきたら。

あなたの町にも、ああいう家が一軒、あるのかもしれない。

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