廃村の先に続く、低い石扉のこと

霧深い森の中の鳥居

その場所のことを、帰ってから一度だけ人に話した。相手は「山の中でひとりでいると感覚がおかしくなることはあるよ」と言った。私もそれ以上深くは話さなかった。

五年前の八月の終わりのことだ。

私は当時、出版社の編集部に勤めていて、繁忙期が明けてまとまった休みが取れた。せっかくだからどこかに行こうと思ったが、人の多い観光地に行く気分でもなかった。三十代になってからの私の数少ない趣味は、廃村と集落跡を歩くことだった。なぜそういう場所が好きなのかはうまく説明できない。人がいなくなった場所には、それでも何かが残っている、という感覚がずっとあった。残ったものを見ていると、時間の感覚が平らになるような気がした。怖いとは思わなかった。少なくとも、その日までは。

山梨県の北西部にあるA集落を選んだのは、SNSで写真を見たからだった。林道を奥まで進むと礎石と石垣だけが残る集落跡があるという投稿で、写真には薄暗い林の中に苔むした石垣が連なっていた。投稿の末尾に一文だけ、「奥にまだ神社があるらしいが、地元の人には近づかないよう言われた」と書き添えてあった。

深い意味は持たず、私はその集落跡に向かった。

中央道から降りて県道を一時間ほど走り、さらに細い林道に入った。舗装はじきに途切れて砂利道になった。木々が両側から迫ってきて、昼前なのに車内が薄暗くなった。すれ違える幅は辛うじてあったが、対向車が来たら困ると思いながらゆっくり進んだ。対向車はとうとう一台も来なかった。

行き止まりの空き地に車を停めて外に出ると、熱さがなかった。

八月末の山梨だ。平地では三十五度を超える日が続いていた。山中とはいえ、昼前のこの時間に体が冷えるような涼しさがあるのはおかしかった。日差しが木々に遮られているせいかとも思ったが、それだけではない気がした。空気の質が違うというか、重みが夏のそれとは異なった。蝉の声は聞こえたが、どこか遠くから届くような感じで、すぐそばの林の中からは聞こえなかった。

入山届を書く場所も看板もなかった。私はリュックを背負い、水を確認して歩き始めた。

石垣の跡を辿りながら奥へ進んだ。礎石がいくつか並んでいる場所があって、かつてここに家が建っていたことがわかった。石垣の高さと段々になった地形から、小さな棚田もあったことが見当がついた。家の数はそれほど多くない。全盛期でも二十戸には満たない集落だったのかもしれない。

庭だったと思われる場所に庚申塔が残っていた。三猿が浮き彫りになっているはずだが、風化が進んでいてはっきりしない。台座の周りに、青々とした雑草が密生していた。雑草だけがよく育っていた。

水場の跡もあった。細い水路が切られていて、今も水は流れていた。水の音だけが、あたりで唯一、生きているような音だった。私はその水路のそばにしゃがみ込んで、しばらく水が流れるのを見ていた。水は透き通っていて、底の砂が少し揺れていた。

林の中では、ときどき鳥が鳴いた。遠くで、一度だけ何かが動く音がしたが、振り返っても何もいなかった。私はそういう場所に来て不安を感じるタイプではなかった。だが、ここでは何かが少し違う気がして、立ち止まる回数が自然に増えた。

三十分ほど歩いたところで、石畳の残骸を見つけた。

苔と落ち葉に半分以上埋もれていたが、それは明らかに人の手で敷かれたものだった。幅はひとりがゆっくり歩ける程度、見えている範囲で三十メートルほどか。杉と広葉樹の混じる薄暗い林の中へ、緩やかな上り勾配で続いていた。

SNSの投稿者が言っていた「神社」がその先にあるのかもしれなかった。私は少し立ち止まってから、石畳の道に足を踏み入れた。

道は思ったより長かった。急な傾斜ではなかったが、じわじわと高度が上がっていく感じがした。落ち葉が厚く積もっていて、石畳の輪郭はほとんどわからないところもあった。

五分ほど歩いたところで、道の脇に地蔵が並んでいるのに気づいた。

六体。いずれも風化していて顔はほとんどわからない。首のあたりが欠けているものもあった。その前に花が供えてあった。

白い小菊だった。茎の切り口が乾いていなかった。

花瓶も器もなく、石の台に直接置いてあった。水には浸かっていないのに、花びらはまだしっかりしていた。誰かが今日、もしくは昨日、ここに来て供えていった。

廃村跡で、今も誰かがここに来て花を供えている。それだけのことだったが、その事実が私の足を少し遅くさせた。誰が来るのか、という疑問ではなかった。ただ、自分がここに来た理由が一瞬だけぼやけたような気がした。そしてそれと同時に、この場所をSNSで調べていた自分の行動が、遡って何かに導かれたものだったのではないかという、根拠のない感覚が生じた。

私はその感覚をすぐに打ち消した。

さらに進むと、木々の間から鳥居の影が見えた。

石造りの、小さな鳥居だった。根元まで蔓草に覆われていて、笠木には苔が厚く乗っていた。かなり古い。柱の足元が地面に沈んでいて、全体が数センチほど傾いていた。扁額はなかった。

私はスマートフォンを出して写真を撮った。ファインダー越しに鳥居を確認したとき、少しおかしなことに気づいた。

その鳥居は、私が歩いてきた参道側ではなく、山の奥の方を向いていた。

鳥居というものは、参拝者を迎えるために参道に向かって建てられる。しかしこの鳥居は、参道から来た私に背中を向けるように立っていた。参道と鳥居の向きが、正反対だった。

参道から来る人を迎えるためではなく、奥の何かを外に向けないために建てられた鳥居というものが、ないわけではないという話を読んだことがある。たしかそういう記述を、民俗学の本で見た。違うのかもしれないが、この鳥居を見たとき、その記述を思い出した。

それが何を意味するのかはわからなかった。私は鳥居の正面、つまり山奥に向いている側から、くぐった。

鳥居を抜けると、小さな広場があった。

草の生え方がまばらで、地面はかつて踏み固められていたのか、ほかの場所より歩きやすかった。中央に低い石の台座が残っていた。何かが乗せられていたのかもしれないが、今は空だった。台座の周囲に、白い小さな花が咲いていた。雑草の花だと思うが、その白さが目についた。

広場の奥に、石を積んだ壁があった。

壁の中央に、開口部があった。

頭を下げれば通れる高さで、幅は肩幅ほどか。石を削って作られた枠のようなものが残っていて、扉板はなく、内側は暗かった。スマートフォンのライトを向けると、奥は一メートルほどで天井が低くなっていて、その先はさらに暗かった。土の匂いがした。古い土の匂いというか、長く日が当たらなかった場所のあの匂いだった。

開口部の幅はちょうど一人が入れる程度だった。枠の石の表面には、小さな文字のような形のものが刻まれていた。文字かどうかはわからなかった。削れてかなり不明瞭だった。ただ、それが人の手によって刻まれたものであることは、わかった。

私はその開口部の前に立って、中を覗いた。

そのとき、開口部の向こうから音がした。

低い、流れるような音だった。トンネルの中を風が吹き抜けるような、あの音に近かった。山中だから風の通り道があっても不思議ではないと思った。だが音はゆっくりと変化していって、ある瞬間から、それが風の音だけではないように聞こえ始めた。

遠くから、誰かが何かを言っているような質の音だった。

言葉としては聞き取れなかった。向きがある音だった、とでも言うか。どこかから何かが、こちらに向かって流れてくるような。私はその方向に引かれるように、もう一歩、開口部に近づいた。

足を踏み出しかけたとき、スマートフォンが振動した。

姉からの電話だった。

反射的に出た。姉は「なんか急に連絡したくなって」と言った。特別な用件はなかった。仕事の話、実家の猫の話、そういうことを十分ほど話した。電話を切ると、開口部の中の音は止んでいた。

それ以上、中に入る気にはなれなかった。

私はいくつか写真を撮って、来た道を戻った。

車に戻って時計を見ると、午後三時十五分だった。

林道の行き止まりを歩き始めたのは、たしか午前十一時半ごろだったはずだ。廃村の跡を三十分歩いて、石畳の道を十分ほど歩いて、鳥居と広場を見て、電話を十分してから戻った。それで三時間四十五分というのは、計算が合わない。

私はもう一度、行程を思い返した。別の場所に寄り道した記憶はなかった。ただ来た道を戻っただけのはずだった。

時計が狂っているのかと思ったが、スマートフォンの時刻も同じだった。

帰りの高速道路を走りながら、私はその時間の行方をずっと考えていた。考えても、何も出てこなかった。電話の前後の記憶が、どうしても鮮明に思い出せなかった。自分があの開口部の前で、どのくらい立っていたのか。開口部の中の音が聞こえてからスマートフォンが振動するまでの間に、何があったのか。

帰宅して、風呂に入りながら、私は自分がもう一歩踏み込んでいたとしたら、どうなっていたかを考えた。

そこで考えるのをやめた。

その夜、夢を見た。林の中を歩いている夢だった。夢の中では、私は石畳の道ではなく、落ち葉が積もった斜面を下っていた。前に誰かがいた。小さな人影だった。振り向かなかった。夢の中の私は、その人影の後をついていこうとしていた。目が覚めたのは、その人影が木々の間に消えかけたところだった。

翌日、A集落に関する記録を調べた。

昭和四十年代の無人化に関する記事と、簡単な集落の概要はいくつか見つかった。ほとんどは過疎化の経緯を記したものだった。

その中に、昭和三十一年の地方紙記事のマイクロフィルム記録があった。

「A村の七歳男児が行方不明、捜索続く」

それだけの短い記事だった。続報は見当たらなかった。発見されたという記録も、捜索が打ち切られたという記録も、なかった。男児の名前は漢字四文字だった。その名前が、何の理由もなく、頭の中に残り続けた。

その翌日、私は図書館で山梨県の郷土史資料を探した。A集落の記述は乏しかったが、昭和初期の地図に「○○神社」という記載があった。場所は集落の奥、林の中だった。私が歩いた方向と一致していた。神社の名前を調べようとしたが、文字が潰れて読めなかった。司書の方に確認したが、修復済みの資料はないとのことだった。

翌朝、私は山梨で撮った写真を一枚一枚確認した。

参道から撮った鳥居の写真があった。木々の間から、鳥居の全体が映っている一枚だ。

鳥居の奥、広場に続く側に、何かが写っていた。

ぼんやりとした、小さなシルエットだった。

子供のような大きさで、こちらを向いていた。

私が石畳を歩いていたとき、広場には誰もいなかった。いたなら気づいたはずだ。それとも、気づいていなかっただけなのか。

今もその写真は消せないでいる。削除ボタンを押す気になれないというよりは、押してしまったら何か別のことが確定してしまうような気がして、そのままにしてある。

あの開口部の中で、あと一歩踏み込んでいたら、私も帰ってこられなかったのかもしれない。そう思うことがある。

今も、あの場所が何だったのかはわからない。

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